いちのに
「どうなんです、どうやらあなたはコイツより上の役職についているようだ。正社員なんだろう。アルバイトにどんな教育を施しているのかぜひとも伺いたいところだ」
「あ、う、えっと、その、」
「はっきりおっしゃってください」
っあー駄目だ、これは駄目だ。この人メンタル弱いから。ちび●こちゃんの山根君の胃腸並みには弱いから。昔いれたっていう肩の刺青だって、課長のヅラを告白するぐらいには決死の覚悟だったって言ってたから。駄目だから。この人に言葉攻めとかホント、見てよ、ちょっと目尻に見慣れない水滴が溜まってるじゃん。
つーかこのままだといらんこと言いそうだしな、主に俺の勤務態度とか勤務態度とか勤務態度とか。
しゃーねえ、面倒だけど適当にだまくらかすか。
「とうさま」
重い腰をやっとこさ上げて、開いた千之助の口はそのまま口笛の形をかたどった。ピュウッと固まった空気にそれは場違いなほど軽快に響く。
「何? あんたまさかのガキ持ち? いやー人は見た目に寄らないねぇ」
か細い声の音源は、管理室の敷居の前で立ち踏みする黒目がちな目の可愛い少女。いや、五、六歳に見えるから幼女のほうが正しいのか、と腐ったことを考える千之助を尻目に、先ほどまで悠々と内田を追い詰めていた男の顔が見る間に渋いものになった。
「俺の子供じゃねえ」
ぞんざいな言葉遣いは男の素なのか、不機嫌そうな呟きに、すかさず千之助は飛びつく。
「え? あんたが孕ませたんじゃねーの? つーことは何? おたく人様の子供に父さま呼び強要してんの? え、まさかの変態? 変態来店? スミマッセーン当店、変態変質者の来店はご遠慮願っておりまーす」
「んなわけあるかァァァ! 俺だって知らねえよこんなガキ! いきなりついてきやがって、おかげで事務所にも行けねえよ!」
「あのー、あんま大声出さないでくんない? 他のお客様のご迷惑になるんでぇー」
突如吼えた男にダルそうにストップをかけるため、顔を覗き込んで、そこで千之助は気付いた。
男の目が爛々と危うげに輝いていることに。
ヤベ、と思ったときには既に胸倉を掴まれていた。
「……あいにく客は俺とこのガキしかいねえよ。よかったじゃねえか閑古鳥が鳴いててよ。そりゃサボりがいもあるってもんだ、なあ?」
「オーイ内田さーん、これ撮って写メでいいから撮ってー」
「黙れ」
無気力に過ぎる救援は低い声でもって一刀両断される。男はほとんど同じ身長の千之助の襟首をことさら強く締め上げた。男同士ということを差し引いても遠慮の欠片もない力加減。
「クビにされたくなかったら黙って面ァ貸せ」
恐喝に近い、というか完全なる恐喝に、千之助の眉がピクリと跳ねた。自分の胸倉を鷲掴む男の手首に力を入れる。そうするとわずかに締め付けが緩んで、その隙に千之助は男の膝裏に足をかけた。
「うおっ!?」
男の状態が傾くのを無感動に見遣って、未だに外れない男の右腕を捩じ上げた。ぐ、と男の口から苦悶の声が漏れる。
「なあ」
ダン、とコンビニの冷たく固い床に叩きつけられた身体の上に馬乗りになって、千之助は笑う。男は一度、ひどく険しい色をその端正なつくりの顔に浮かべたが、すぐに唇を引き結んで目を逸らした。
「ちょ、矢部くん!? 別にそこまですることでも……」
「なあ、お客さん」
千之助はいっそ優しいような声色で言う。
「コンビニってのはな、レジに並んで所定の料金払えばなんでも買えるんだよ。誰でもな。キャピキャピのJKでも、ピチピチの女子大生のネーチャンでも、ウツウツの育児疲れの三十代でも、ガタガタのバーサンでもな」
「いや、矢部くん、それ女の人限定じゃん」
「ほれ、こんな水虫だらけのオッサンでも副店長張れるコンビニだ。何をそんなに焦って買うよ? 下痢止めか? 悪いがソイツは薬局だからな、探してんなら地図でも書いてやろうか?」
「ちょっと矢部くん、いい加減おじさん怒っちゃうよプッツンしちゃうよ? 水虫移しちゃうよ? いいの? ねえいいの?」
「……のくせに」
「あ?」
喧騒(主にフクテン)の中、男の唇がかすかに綻んだ。千之助は身をかがめて声に耳を澄ます。が、
「だいたいさあ、君の接客態度はいい加減目に余るというか、俺のやる気までそぐというか、いや別に俺にやる気があんのかと訊かれればなんていうか、事務所を通してくださいとしかいえな」
「ちょお、黙って」
「ぐおっ!?」
内田さんの心の鬱屈の発露があんまりうるさくて、千之助はついに男の左手に収められていたボイスレコーダーを投げつけた。黒い放物線を描いた物体は、吸い込まれるようにして内田の口にはめ込まれた。
「フガモゴ、フガガゴ」
「よし」
不鮮明な唸り声をあげる己の上司に、千之助は満足そうな溜息を漏らすと、「さて」と男に向き直った。相変わらず視線は合わない。
「で? なんだって?」
改めて問いかけると、男は再び唇を噛み締め、やがて双眸に挑発を載せて千之助を睨み上げた。
「べらべらうるっせーんだよ、てめえ。レジでおとなしくもできない野郎が、まあ口だけは達者だな」
クビになりたくなきゃ、とっととどけ。面倒くさそうに顎をしゃくった男に千之助も負けず劣らず面倒くさそうに答える。
「さっきから聞いてたらクビクビってよォ、何それ脅してるつもり?」
「ああ」
「できると思ってんの?」
「できるさ」
千之助はこのとき、初めて男の笑みを見た。
「本職舐めるなや、小僧」
もう一度言う。どけ。男はやはり面倒くさそうに軽く頭を振りながら千之助を押しやろうとする。
「アンタ、いったい……」
「俺は、おまえらが散々相手してきたクレーマーとは違うぜ。やるっつったらやる。この職場が好きなら即刻どくんだな」
千之助は無表情に目を眇めた。空いた手で軽く拳をつくる。
慌てたのはいわずもがなフクテンの内田だ。
「フガッ、フガガ、フガグゴ」
塞がらない口に四苦八苦しながらも仲裁に入ろうとする。当然だ。勤務時間内に暴力沙汰なんか起こされたら自分のクビも間違いなしだ。一応これでも衣食住が何とか保証されている明日は惜しい。
つーかこれ、矢部くんの未来ある明日だってかかってんだからね! と自らを奮い立たせながら諭すものの。
「いや、俺フガフガ語とか習得してないから。履歴書になかったでしょ?」
すげなく払われた。
「フガッ、フガガガガガ! (いや俺だって習ったことねーよふざけんな!)」
「……やるってのか?」
「おうよ。やるっつったらやるのがテメーの専売特許だと思うなよ」
「おもしれえ」
「フガッガ、ゲゴ、ゲエエエエエ! (ちょっと聞いてる!? う、げげ、なんか入った!)」
「とりあえず一発な」
「後悔すんなよ」
「そいつは食らってから言えよ」
「ガフ、フガアアアアアアアアア! (だから駄目だっつってんでしょオオオオオ!)」
千之助の腕が持ち上がった。千之助と男、どちらにも躊躇いがない。千之助が本気で殴って、男は本気で自分たちをクビにさせるだろう。
あ、終わったコレ。内田の頭は自然と公的扶助の申請手続きの流れに入る。自分でも分かってる、完璧なる現実逃避だ。内田は投げやりに後ろの防犯カメラのモニターを凝視することにした。
だから、気付かなかったのだ。男も千之助も内田も。誰一人として、気付かなかった。
扉の段差をまたぐ、小さな影を。
「はい、いち、にのさー」
「だめ」
「ん?」
服の裾が引っ張られる感触に、千之助は思わず目を斜め後ろに落とした。かち合った黒目がちの瞳。
「おま、」
千之助は絶句する。
「とうさま、きずつけたら、だめ」
「……オイ、」
男もようやく事態が飲み込めたようだ。目がこれ以上ないほど見開かれる。
「だめ、ゆいこ、ゆるさない」
「えっと、」
「とうさま」
「……ッ」
言葉に詰まった男に、少女は嬉しそうに破顔する。男の口が酸素を求める金魚のようにはく、と動いた。
そして少女は呼ぶ。とろけるように甘く、甘く。
「とうさま」
「フゴオオオオオ!」
呆然とした空気の中で、少女の疑いを知らない声と、内田の歓喜のむせび泣きだけが虚しく響いた。