第9話 拙僧、〈アユ〉を釣りし静寂の中に戦の決意を噛みしめる
バスタ辺境・ガルド館――
赤茶けた煉瓦の外壁に、黒い逆さ十字の旗がゆらめく。
ここは〈ガルド館〉――王都から遠く離れた乾いた土地に立つ、小ぶりな領主館だ。
錆びた鉄扉の向こうには、荒い吐息と革の匂いが漂う訓練場。漆黒の鎧に羽飾りを付けた黒羽隊が無言で槍を振るう。その光景を、館の主が薄い笑みで見下ろしていた。
名はガルド。
背の高い体には、余計な肉のない筋肉がきっちりと乗っており、まるで戦いのために削ぎ落とされたかのようだった。腕や首筋に刻まれた古い刀傷が、裏稼業を生き抜いてきた証しとなっている。
丸太のような腕を組めば、革鎧がきしみ、張り詰めた血管が浮かび上がった。
金色の眼を鋭く光らせ、岩のような体躯で圧倒的な迫力を放ちながら、彼は自らヨコマール枢機卿へ近づき、下卑た笑みでこう告げたのだ。
「汚れ仕事なら何でも請け負いましょう。報酬と地位さえ頂ければ」
暗殺、密輸、脅迫――日の当たらぬ仕事ほどガルドは冴えた。
成果を献上するたび枢機卿の懐刀としての評価は高まり、ついにはこう言い渡される。
「好きにしてよい辺境を与えてやろう」
かくしてガルドはバスタの辺境領主となり、館と領民、そして黒羽隊という小規模だが精鋭の牙を手に入れた。
領内では重い税と勝手な取り立てが続き、若い娘たちは王都へ連れて行かれた。村に響いた悲鳴は、誰に届くこともなく、乾いた地面に沈んでいく。
それでも館の中は静かで、領主はろうそくの灯りの下、ひとりワインを楽しんでいた。
ガルドは杯を傾け、微かに笑った。
――荒事の匂いが消えない男。鉄と血の夜風こそが、彼の自尊心を満たす酒だった。
◆ ◆ ◆
リントベルク郊外の宿屋にて――
「というわけで、次の目的地はバスタね!」
リントベルクから南へ延びる街道を指差しながら、ヴィヴィが鼻息を荒くする。
「その前に、旅の準備をせねばならぬな」
ボンノーが錫杖を軽く地面に突きながら言った。
「そうですね。バスタまでは三日はかかりますから、保存の利く食糧を調達しましょう」
シノが旅装を整えながら提案する。
「よし、それじゃあ市場に行こう!」
朝のリントベルク市場は、いつもの活気に満ちていた。
「乾燥肉、固焼きパン、塩漬け野菜……」
ヴィヴィが指を折りながら必要なものを数え上げる。
「水筒の補充も忘れずにな」
グレアが兜越しに確認する。
その時、ボンノーの足が、ある店の前で止まった。
「……これは」
干し果物を扱う商人の籠の中に、黄色く乾燥した輪切りが並んでいる。
「おや、お坊さん。それは"乾燥レモン"ですよ。船乗りには人気の品でして」
商人が愛想よく説明した。
ボンノーは静かにその"乾燥レモン"を手に取る。
(……海での日々を思い出すのう。あの頃、これがなければ皆……)
かつて扶桑皇国海軍にいた頃の記憶が、一瞬脳裏をよぎった。
「これを少し分けていただけるか?」
「もちろんですとも!」
ボンノーが"乾燥レモン"を購入する様子を、ヴィヴィが興味深そうに眺めていた。
「あ、ドライフルーツの店だ! ねえねえ、甘いのもあるでしょ?」
ヴィヴィが商人に駆け寄る。
「ありますとも! こちらは乾燥リンゴ、こっちは乾燥イチジク。特にこの蜂蜜漬けの乾燥桃は絶品ですよ!」
「うわー! どれも美味しそう! これ、旅の途中で食べたら最高だよね!」
ヴィヴィが目を輝かせながら、甘そうなドライフルーツを物色する。
「ボンノーさん、それ何?」
「昔、馴染みのあった食べ物でな。長旅には体に良いものじゃ」
ボンノーは小さく微笑みながら、"乾燥レモン"を旅袋にしまった。
「へー、体に良いのか……でもすっぱそうだなあ」
ヴィヴィが乾燥レモンをちらりと見て、少し顔をしかめた。
「あたし、すっぱいのはちょっと苦手なんだよね。やっぱり甘い方がいいなあ! この蜂蜜漬けの桃、ちょーだい!」
結局、ヴィヴィは両手いっぱいにドライフルーツを抱えることになった。
◆ ◆ ◆
買い出しを終え、宿へ戻った一行。
ボンノーは静かにうなずき、錫杖を握り直した。
「ガルドの手下は村々を荒らし、民を苦しめている。シノ殿を殺そうとした悪党の元締め……見過ごしてはならぬ」
フードを深くかぶったシノ――聖女リリアは拳を強く握りしめる。
「あの男を許すわけにはいきません。私に刻んだ傷も、村の人たちの涙も、必ず取り返します」
白銀鎧のグレアが兜越しに低くつぶやく。
「民が泣くのは見過ごせない。潜り込んでガルドの首を落とす。それだけだ」
ボンノーは合掌し、柔らかい声で続けた。
「欲や恐れを抱く身だからこそ、苦しむ者の痛みがわかる。だから我らが行く。ガルドは拙僧らが討つ――必ず」
窓の外で夜風が木々を揺らした。四人は目を合わせ、黙って荷をまとめる。
翌朝、四人の決意を乗せた馬車が、朝日を背に南へと走り出した。
◆ ◆ ◆
昼下がりの午後、ボンノーたちは緩やかな山道を進み、渓谷の入口へと差しかかっていた。
澄んだ風が吹き抜け、頭上には切り立った岩肌と青空が広がる。鳥の鳴き声がこだまし、遠くから水の流れる音が響いてくる。
「おっ、こりゃあ当たりだね!」
馬車の先頭を歩いていたヴィヴィがぴたりと足を止め、嬉しそうに指をさした。
その先には、谷間を縫うようにして流れる川が、岩と岩のあいだをきらきらと走っていた。
「ほら見てよ、あの水の透明度! 絶対ここ、〈アユ〉がいるって!」
「〈アユ〉、ですか?」
シノが目を丸くする。
「うんうん、天然モノ! 塩で焼いたら、頭からしっぽまで丸ごと食べられるやつ!」
ヴィヴィは腰の袋から、誇らしげに伸縮式の釣り竿を取り出した。
「へえ、これは本格的な竿じゃな」
ボンノーが感心して目を細める。
「ドワーフ工房特製、七段継ぎ! ちょっと高かったけど、旅には必需品でしょ?」
ヴィヴィは得意げに竿をシャキンと伸ばしてみせた。
グレアが川の流れをじっと見つめて言う。
「流れも深さも申し分ない。ここで一休みしていくのも悪くないな」
ボンノーは錫杖を地面に立てて微笑んだ。
「ふむ、釣りはよき修行のひとつ。川の恵みに感謝しつつ、命をいただこうかのう」
「よし、それじゃあ釣りタイムといこうか!」
ヴィヴィのかけ声とともに、四人は川辺へと向かった。
◆ ◆ ◆
「ここで〈アユ〉が釣れるのですか?」
シノが興味津々にのぞき込むと、ヴィヴィは胸を張った。
「もちろん! あたしの目にくるいはないさ!」
「頼もしいな。ヴィヴィ殿に任せるとしよう」
ボンノーが静かにうなずき、シノも黙って竿を組み立て始める。
ヴィヴィは慣れた手つきで七段継ぎの自慢の竿を伸ばし、川岸へ飛び出した。
「ほら、シノも! こっちこっち!」
「は、はいっ!」
シノも少し慌てながら、ヴィヴィに並んで糸を垂らす。
すると、間もなくヴィヴィの竿が勢いよくしなった。
「ほらきたっ!」
シュパッ!
銀色の〈アユ〉が空を舞い、岸辺の草の上で元気よく跳ねた。
「すごいです、ヴィヴィさん!」
「まあね~、あたしにかかればこんなもんさ!」
得意満面のヴィヴィが次の一匹に狙いをつけるその時――
「あ、あれっ? なにか、引っ張られて……!」
シノの竿が激しく引き込まれ、小柄な身体ごと川に引き込まれそうになった。
「わ、わわっ――!」
ぐらりとシノの身体が傾いたその瞬間、ボンノーが俊敏に動いた。
「危ない、シノ殿!」
すばやく伸ばしたボンノーの腕がシノの肩を抱きとめ、そのまま引き戻す。
「あ……ありがとうございます、ボンノーさま」
シノが驚いたように頬を赤くすると、ボンノーは穏やかに微笑んだ。
「怪我がなくて何よりだ。だが大物だったようだな」
ふと見ると、シノの竿には大きな〈アユ〉がしっかりと掛かっている。
「わあ……こんなに大きいのが釣れちゃいました」
シノが嬉しそうに〈アユ〉を掲げると、ヴィヴィが驚いたように目を丸くした。
「なにそれーっ! あたしより大きいじゃん!」
シノは照れくさそうに首を振りながら、「ふふっ、偶然ですよ」と応じた。
そんな二人のやり取りに、ボンノーは微笑ましく二人を見守り、グレアもかすかに頷いた。
◆ ◆ ◆
夕暮れの焚火のそばには、きれいに串を打った〈アユ〉が並んだ。
「みんなで釣った〈アユ〉だ、きっと美味かろう」
〈アユ〉が焼ける香ばしい匂いが辺り一面に広がる。
「よしっ、焼きあがったぞ!」
ヴィヴィが自信満々に串を掲げると、黄金色に輝く〈アユ〉の塩焼きが焚火の明かりで鮮やかに照らされた。
「いい香りですね……!」
シノは期待に胸を膨らませ、目を輝かせている。
ボンノーは静かに頷いた。
「うむ、岩塩のみで焼いた〈アユ〉は格別だな」
「これぞ、天然ものの贅沢だね!」
ヴィヴィが嬉しそうに〈アユ〉を差し出すと、四人は一斉にそれぞれの〈アユ〉にかぶりついた。
――パリッ。
軽くて香ばしい皮がはじける音が響き、じゅわっとした脂の甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しいっ……!」
シノが思わず目を閉じて感激の声を漏らした。
「だろー? あたしの見つけた川で釣れた〈アユ〉だよ、当然!」
ヴィヴィが得意げに笑う。
「骨まで柔らかいのですね。頭からしっぽまで丸ごと食べられるなんて、すごいです!」
「それが天然〈アユ〉の力だよ。たっぷり栄養取れるから、旅人には最高さ!」
ボンノーも満足げにうなずき、〈アユ〉をひと口かじった。
「うむ、まことに素晴らしい。自然の恵みに勝るご馳走はないな」
普段は黙々と食べるグレアも、このときばかりは〈アユ〉をじっくり味わっている様子だった。
「……確かに、これは格別だ」
グレアが静かな声でつぶやくと、ヴィヴィが嬉しそうに跳ねる。
「ね、あたしの目に間違いなかったでしょ?」
「ああ、認めよう」
四人は楽しげに顔を見合わせて笑い合った。
焚火がパチパチと音を立て、夜の静かな空気の中、岩塩をまぶした〈アユ〉の味は一層深く心に染み込んでいった。
戦いの前の、束の間の平和。
だがそれゆえに、この穏やかな時間は何よりも尊く感じられた。
明日からは、また危険な旅が続く。
それでも今は、ただこの瞬間を大切にしようと、四人は無言のうちに思いを共有していた。