第62話 転生者
武蔵が魔島への攻撃を開始した頃——
大和は、武蔵からやや後方に位置して航行していた。
◆ ◆ ◆
大和第一艦橋——
ヤツマタノオロチ討伐の作戦会議が行われていた。
水晶球には、魔島の全景が映し出されている。
ボンノーは腕を組み、その映像を見つめていた。
その時だった。
「兄様!」
ヤマトヒメの声が、鋭くなった。
「艦首甲板に転移する者あり!」
全員の視線が、艦橋の窓へ向けられた。
艦首甲板に、一人の男が立っていた。
禍々しい瘴気を纏っている。
黒い軍服。丸眼鏡。短く刈り上げた髪。
ボンノーは水晶球に映像を映した。
男の顔が、はっきりと映し出される。
「——っ」
ボンノーの呼吸が、止まった。
その顔を、知っていた。
忘れるはずがない。
八十年前——いや、ボンノーにとっては前世の記憶。
サマン島で、命を救ってくれた人。
「藤堂……参謀長……」
声が、震えた。
なぜ。
なぜ、あの人がここにいる。
なぜ、あの瘴気を纏っている。
「ボンノー、知り合いですか?」
クレアが警戒の構えを取りながら問う。
ボンノーは静かにうなずく。
「罠かもしれません!」
クレアが叫んだ。
「一人では危険です!」
「ボンノーさん、あたしも行く!」
ヴィヴィが大盾を構える。
「守るのがあたしの仕事だからね!」
「ボンノーさま」
リリアが祈りの手を組んだまま告げる。
「あの方の瘴気は厄災そのものです。私も同行します」
「兄様」
ヤマトヒメが真剣な表情で言った。
「あの者はオロチの瘴気を纏っています。一人で行ってはいけません」
艦橋に緊張が走った。
全員が、ボンノーを見つめている。
沈黙。
「……でもさ」
ナターシャが、静かに口を開いた。
深緑の瞳が、水晶球の映像を見つめている。
「あの幽霊には、戦う意思は感じられないのさ」
その言葉に、全員がもう一度映像を見た。
藤堂は——両手を上げていた。
降伏の意思を示すように。
こちらに敵意がないことを、示すように。
ボンノーは、ヤマトヒメの方を向いた。
そして——
そっと、その頭に手を置いた。
「……兄様?」
優しく、撫でる。
「大丈夫です」
ボンノーが、静かに告げた。
「あの方は……恩人なのです」
◆ ◆ ◆
艦首甲板——
海風が、ボンノーの軍帽を揺らした。
菊花紋章の後ろに、藤堂が立っている。
纏った瘴気が、風に揺らめいていた。
ボンノーは、ゆっくりと歩み寄った。
数メートルの距離で、立ち止まる。
藤堂が、口を開いた。
「扶桑からの転生者は、お前だったか」
低い声。
だが、どこか懐かしい響きがあった。
「新村」
その名を呼ばれて——ボンノーの胸が、締め付けられた。
「最後に会った時より、少し若いな」
藤堂の目が、ボンノーを見つめていた。
かつての鋭さは消え、代わりに疲労と——何かの諦めが滲んでいた。
「お久しぶりです。藤堂さん」
ボンノーは、敬礼した。
かつての上官に対する礼。
体が、自然と動いていた。
「自分は……転生の際に、新たな体を授かりました」
そして、藤堂の姿を見つめる。
「そのお体は……?」
藤堂は、自分の手を見下ろした。
半透明。
光を透かす、実体のない手。
「俺の体は、七十年前に死んでいるのでね」
淡々と告げる。
「まあ、思念体のようなものだ」
七十年前。
大和が明光池から忽然と消えた日だ。
「先ほどの艦隊戦、見事だった」
藤堂が言った。
「いえ」
ボンノーは首を振った。
「扶桑から武蔵が来なかったら、敗れていたのは自分でした」
「漆黒の艦隊を指揮していたのは、俺だ」
——静寂。
ボンノーの目が、見開かれた。
「藤堂さんが……?」
「戦いは過程ではなく、結果がすべてだ」
藤堂は、表情を変えずに告げた。
「お前が勝ち、俺は負けた」
「扶桑からの援軍を読めなかった。俺の完敗だ」
風が、二人の間を吹き抜けた。
瘴気が揺らめく。
「藤堂さんも……転生者なのですか」
「そうだ」
藤堂が頷いた。
「七十年前、"オロチ"に召喚された」
その言葉に、ボンノーは息を呑んだ。
「オロチはこう言った」
藤堂の声が、低くなる。
「『汝、扶桑を滅したいか?』と」
「俺は答えた」
「『扶桑を破滅させたい』と」
——沈黙が、落ちた。
ボンノーは、言葉を失っていた。
目の前にいるのは、かつての恩人。
サマン島で、多くの命を救った人。
上層部の命令に反して、撤退を進言した人。
その人が——扶桑を滅ぼしたいと願っている。
「サマン島で……」
ボンノーは、絞り出すように言った。
「自分や、多くの扶桑の若者を救ってくれたあなたが……なぜ?」
「なぜ?」
藤堂の瞳に、暗い光が宿った。
「お前は知っているはずだ、新村」
「江田島少将が、どうなったか」
ボンノーの表情が、強張った。
知っている。
もちろん、知っている。
「少将は死んだ」
藤堂の声が、低く震えた。
「俺たちを守るために、責任を取って」
沈黙。
「だが——あの腐った連中は生き延びた」
藤堂の声に、憎悪が滲んだ。
「俺たちの功績を奪い、出世し、戦後ものうのうと天寿を全うした」
「少将だけが死に、奴らは笑って生きた」
拳を握る。
半透明の手が、震えていた。
「……それが扶桑だ」
ボンノーは、反論できなかった。
藤堂の言葉が——真実だと、知っていたから。
戦後。
ボンノーは仏門に入った。
だが、扶桑がどうなったかは知っていた。
多くの犠牲を払った者が報われず、卑怯な者が栄えた。
それが——戦後の扶桑だった。
「……俺にも、守りたい人がいた」
藤堂の声が、少しだけ柔らかくなった。
「身分が違う。ただそれだけで、引き裂かれた」
「俺が戦場で何をしようと、あいつを守ることはできなかった」
半透明の手が、虚空を掴もうとして——
すり抜けた。
「俺が守りたかったのは、国じゃない」
「……千代さんだけだった」
波の音だけが、響いている。
「藤堂さん……」
ボンノーが、静かに口を開いた。
「自分も、扶桑の腐敗は知っています」
「江田島少将の死も、あの戦争の不条理も」
まっすぐに、藤堂を見つめる。
「でも——」
言葉を、選ぶ。
慎重に。
だが、確かな思いを込めて。
「藤堂さんが撤退させた兵士たちは、生き延びました」
「戦後を生き、家族を作り、命を繋いだ」
「藤堂さんが守ったものは、確かにあったんです」
藤堂の表情が、わずかに揺らいだ。
「……お前は」
低く呟く。
「お前は、報われた側の人間だ」
ボンノーを見つめる。
「大和に乗り、扶桑を救い、英雄になった」
「百八まで生き、大往生を遂げた」
言葉が、途切れた。
「俺とお前は——」
再び、沈黙。
「……違う道を歩いた。それだけのことだ」
◆ ◆ ◆
藤堂は、ゆっくりと息を吐いた。
実体のない体には、呼吸など必要ない。
だが——癖のようなものだった。
「俺はこのバナテールで、数々の罪を重ねてきた」
告白するように、言葉を紡ぐ。
「この世界の民を、数えきれないほど殺した」
「扶桑を滅するという——ただそれだけのために」
ボンノーは、黙って聞いていた。
「そして、その思いは今も変わらない」
藤堂の目が、まっすぐにボンノーを見た。
「俺はヤツマタノオロチに、俺自身を吸収させて復活させる」
「——っ」
ボンノーが、息を呑んだ。
「新村よ」
藤堂が告げる。
「扶桑を護りたければ、ここでヤツマタノオロチを倒せ」
命令ではない。
忠告——いや、遺言のようなものだった。
「俺の勘だが」
藤堂が付け加えた。
「ヤツマタノオロチは、極大攻撃の際に隙があるかもしれんな」
情報。
敵の弱点に関する、貴重な情報。
なぜ、それを教えるのか。
答えは——分からない。
だが、藤堂は確かに教えてくれた。
しばしの沈黙。
藤堂は、周囲を見渡した。
艦橋から、仲間たちが心配そうに見守っている。
クレア。リリア。ヴィヴィ。ナターシャ。
そして、ヤマトヒメ。
「お前は、この世界でもいい仲間に巡り合えたのだな」
その言葉には、皮肉はなかった。
ただ——どこか羨ましそうな響きがあった。
「では、さらばだ」
藤堂が、最後の笑みを浮かべた。
穏やかな笑み。
かつて、サマン島で見た笑みと——同じだった。
そして——
瘴気が、風に舞った。
黒い霧が、渦を巻く。
藤堂の姿が——薄れていく。
跡形もなく。
風に溶けるように。
消えていった。
◆ ◆ ◆
ボンノーは、静かに目を閉じた。
瞼の裏に、記憶が蘇る。
サマン島。
地獄のような戦場。
上層部の無謀な命令。
そして——撤退を進言した、藤堂参謀長の姿。
『無謀な命令で扶桑の若者を犬死させるわけにはいかない』
『俺が責任を取る。お前たちは生きろ』
あの言葉が、どれだけ多くの命を救ったか。
ボンノー自身も、その一人だった。
江田島陸戦隊の日々。
厳しい訓練。
だが、仲間と共に過ごした、かけがえのない時間。
そして——作戦の前夜。
藤堂参謀長と、酒を酌み交わした。
あの夜の月は、綺麗だった。
星が、瞬いていた。
——一筋の涙が、こぼれ落ちた。
「兄様……」
ヤマトヒメの声が聞こえた。
いつの間にか、そばに来ていたのだろう。
小さな手が、ボンノーの手を握った。
「兄様……」
ボンノーは、目を開けた。
涙を拭う。
「……すみません」
声が、少し掠れていた。
「あの方は……自分にとって、命の恩人でした」
ヤマトヒメは、何も言わなかった。
ただ、手を握り続けていた。
クレアが、静かに歩み寄ってきた。
リリアも。ヴィヴィも。ナターシャも。
誰も、何も言わない。
ただ、そばにいた。
波の音だけが、響いている。
やがて——ボンノーは、顔を上げた。
「すでに武蔵は交戦中です」
「……作戦会議を、続けましょう」
その声には、新たな決意が宿っていた。
続く




