第52話 煩悩耐性
地底湖の静寂を破ったのは、ヤマトヒメの澄んだ声だった。
「兄様、少し試させてください」
巫女装束の袖を整えながら、ヤマトヒメがボンノーの前に立つ。
その瞳は、期待と確認の色を宿していた。
「試す……とは?」
「はい。兄様の魂が本当に、あの頃の兄様に戻られたか――」
ヤマトヒメは小さく微笑む。
「計算をお願いいたします」
「計算……?」
ボンノーが首を傾げた瞬間――
「4294836225÷65535は?」
静寂。
一瞬の間もなく――
「65535」
ボンノーが即答した。
「……ぇ!」
クレアの目が見開かれた。
「今……今、計算したのですか!?」
優雅な所作も忘れて身を乗り出す。
その顔には、驚愕の色が濃い。
「ええ、まあ……」
ボンノーが頭を掻く。
「では、次の問題です」
ヤマトヒメが続ける。
「1048576の平方根は?」
「1024」
次から次へと繰り出される計算問題。
しかし、ボンノーは淀みなく答えていく。
まるで、答えが最初から頭の中にあったかのように。
◆ ◆ ◆
「信じられません……これほどの計算能力を……」
クレアは呆然とボンノーを見つめ、そっと胸に手を当てる。
「わたくしが知っていたボンノーは、優しい僧侶でした」
青い瞳が、複雑な感情を映す。
「でも今、目の前にいるのは……」
頬を僅かに紅潮させながら――
「頭脳明晰で数学の才があり、軍人であった方……」
(カッコいい……これが本当のボンノー……)
心の中で、密かに呟いた。
「ボンノーさま、すごいです……!」
リリアが両手を組み合わせて、目を輝かせる。
「こんな才能をお持ちだったなんて……」
しかし、次の瞬間、少し心配そうな表情になる。
「でも……ボンノーさまは、ボンノーさまですよね?」
優しく微笑みながら、確かめるように見つめる。
「どんなに変わっても、わたしのボンちゃんですから」
◆ ◆ ◆
「えええっ!? なになに!? 何が起きてるの!?」
ヴィヴィがぴょんぴょん跳ねながら騒ぐ。
「数字がいっぱいで、ボンノーさんがすごくて……!」
大きな瞳をさらにまんまるにして、ボンノーを見上げる。
「わかんないけど、とにかくすごい!!」
そして、きらきらした目で叫ぶ。
「ボンノーさん、すごく凛々しい顔してる! かっこいい〜!!」
しかし、ふと不安そうな表情になる。
「でも……ボンノーさん、まだボンノーさんだよね?」
小さな声で問いかける。
「変な人にならないよね?」
ナターシャは細目でボンノーの様子を観察していた。
指をくるくると回しながら、興味深そうに呟く。
「へぇ……これが本来のお坊様なのかい」
プラチナ色の髪を掻き上げる。
「数学者で、軍人で……そしてお坊様」
少し皮肉めいた口調になる。
「随分と複雑な経歴じゃないか」
でも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「まぁ、悪くないのさ」
そして、真剣な目でボンノーを見つめる。
◆ ◆ ◆
「ボンノーさん、数学者なの!?」
ヴィヴィが驚きの声を上げる。
「それも、相当な……」
クレアが感嘆の息を漏らす。
「バナテールにこれだけの算術能力をもっている人はいないのさ」
ナターシャが的確に分析する。
「でも、優しいボンちゃんは変わりませんよね?」
リリアが心配そうに確認する。
ヤマトヒメが、にっこりと微笑んだ。
「はい。兄様はいつもやさしい兄様でございます」
ヤマトヒメが満足そうに頷いた。
ボンノーは深く息を吐いた。
「久しぶりの数学に夢中になってしまいました。中央射撃指揮所で毎日のように計算していた頃を思い出します」
そして、パーティーメンバーを見回し、穏やかに微笑んだ。
「皆さん、改めて自己紹介させてください」
扶桑皇国海軍式の姿勢を崩さず、しかし優しい声で――
「自分は新村煩乃。京皇大学で数学博士号を取得し、この大和で射撃統制武官として勤めていました」
一瞬、遠い目をして――
「多くの仲間を失い、多くの命を奪いました。その重みを背負って、自分は百八年を生きてきました」
そして、パーティーメンバーを見回し、穏やかに微笑んだ。
「でも――皆さんには、これからも『ボンノー』と呼んでもらえると嬉しいです」
◆ ◆ ◆
「ねえボンノーさん、今って何歳なの?」
ヴィヴィが無邪気に質問する。
ボンノーは少し考えるような仕草をした。
「そうですね……精神年齢は、二十代の頃に戻ったような気がします」
「二十代!? じゃあクレアさんたちと同じくらいだよね!」
ヴィヴィの一言に、クレアとリリアがドキッとする。
(二十代……!)
二人の頬が、同時に赤く染まった。
ナターシャがニヤリと笑う。
「あらあら、これは面白くなってきたのさ」
深緑の瞳が、悪戯っぽく輝く。
「若返ったってことは、煩悩耐性も二十代に戻ったのかい?」
ボンノーの顔が強張る。
「!」
「つまり、百八年分のしがらみが消えて……」
ナターシャが指でボンノーを指す。
「純粋な二十代男子に戻ったってことさ」
クレアとリリアが、ハッとして顔を見合わせる。
(つまり……!)
(それって……!)
◆ ◆ ◆
「ねぇ、お坊様――いえ少尉様」
ナターシャが悪戯っぽく笑う。
「若返ったってことは、煩悩耐性も変わったんじゃないかい?」
ボンノーが警戒の色を見せる。
「な、何を言い出すんですか……」
「ちょっと実験させてほしいのさ」
ナターシャは指を鳴らす。
「クレアちゃん、リリアちゃん。ちょっと協力してくれないかい」
「え? わ、わたくしがですか?」
クレアが戸惑う。
「わ、わたしも……?」
リリアが不安そうに見る。
「大丈夫さ。ちょっと少尉様の両隣に立つだけ」
ナターシャがニヤリと笑う。
気がつけば――
ボンノーの両隣に、クレアとリリアが立たされていた。
「な、ナターシャさん……これは……」
リリアが恥ずかしそうに呟く。
「何をすれば……」
クレアも顔を赤らめている。
「もっと密着するのさ」
ナターシャが指示を出す。
「腕、組んじゃいなよ」
「ええ!?」
二人が声を揃える。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
ボンノーが慌てるが、時すでに遅し。
クレアが右腕に、リリアが左腕に――
そっと身を寄せてくる。
柔らかい感触。
甘い香り。
二人の体温が伝わってくる。
「……っ!」
ボンノーの顔が、真っ赤になる。
「ボンノーさん? 大丈夫?」
ヴィヴィが心配そうに覗き込む。
ボンノーは必死に平静を保とうとしているが――
顔は茹でダコのように赤い。
でも。
鼻血は、出ない。
「やっぱり……」
ナターシャが興味深そうに観察する。
「顔は真っ赤だけど、倒れないのさ」
「鼻血も出ない」
「つまり――」
指でボンノーを指す。
「煩悩耐性ゼロは克服できている。そして――」
「二十代の健全な男子としての羞恥心は、ちゃんとあるってことさ」
クレアとリリアは、まだボンノーの腕に寄り添ったまま。
二人とも頬を真っ赤に染めている。
◆ ◆ ◆
「兄様をいじめるのはここまでにしてくださいませ、皆様」
ヤマトヒメが、救いの手を差し伸べる。
クレアとリリアが、慌てて離れた。
二人とも、まだ少し頬を染めている。
ボンノーは、まだ赤い顔で深呼吸している。
ヴィヴィはワクワクした表情で、ナターシャはニヤニヤしている。
「では、そろそろ皆様を大和へご案内します」
ヤマトヒメが微笑む。
「わたくしの近くに来てください」
一同がヤマトヒメの周りに集まる。
クレアとリリアは、まだ頬に熱を感じながら、そっと距離を取って立つ。
ボンノーは深呼吸をして、ようやく平静を取り戻しつつあった。
ヴィヴィは期待に目を輝かせ、ナターシャは相変わらず口元に笑みを浮かべている。
「皆様、準備はよろしいですか?」
ヤマトヒメが優しく問いかける。
「はい」
全員が頷いた瞬間――
光が、一同を包み込んだ。
温かく、優しい光。
桜の花びらが、光の粒子となって舞い上がる。
次の瞬間、彼らの姿は地底湖から消え――
大和の艦内へと転移していった。
◆ ◆ ◆
地底湖に、静寂が戻る。
ただ、大和だけが静かに浮かんでいた。




