第46話 拙僧、白蛇の猛威に対峙す
大聖堂の扉が、まるで地獄の釜蓋が開くかのように、内側から激しく軋みを上げた。
ギィィィ……ガガガッ!
不吉な音と共に、瘴気が噴き出してくる。
そして――
「な、なんだあれは……!」
兵士の喉から、恐怖の声が絞り出された。
骨の杖を持ち、灰色のローブを纏った異形たちが、ぞろぞろと這い出してきた。
蛇人兵――それは、もはや人と呼べる存在ではなかった。
鱗に覆われた肌が、陽光を不気味に反射する。縦に裂けた瞳孔が、獲物を品定めするように動く。そして、口元から覗く鋭い牙が、唾液でぬめっていた。
「ひっ……化物だ……化物が出てきた!」
若い兵士が槍を取り落とす。
カラン、という金属音が、静寂を破った。
蛇人兵たちは、まるで訓練された軍隊のように、右翼と左翼に五十名ずつ展開していく
そして――
「クロノゴシキィィィ……」
複数の喉から、蛇の鳴き声のような不気味な詠唱が漏れる。
ざらついた音が重なり、不協和音を奏でる。
『ブリザードォォォ!』
パキパキパキッ!
空気が凍りつく音がした。
百本の氷の小槍が、死の雨の前触れのように宙へ整列する。
青白い氷槍が、無音のまま浮かんだ。
そして――
「楯を上げろ! 楯列死守ィィ!」
小隊長の絶叫も虚しく――
シュババババババッ!
氷の槍が、弾幕となって襲いかかった。
ガガガガガッ! ドスッ! グサッ!
楯を貫通する音。鎧を貫く音。そして――肉を裂く湿った音。
「ぐあああああっ!」
「た、助けてくれえええ!」
「腕が! 俺の腕があああ!」
右翼の第二歩兵小隊、左翼の第三歩兵小隊――
前列がまとめて崩れた。
血が石畳にじわりと広がり、落ちた装備が無惨に転がる。
氷の槍に貫かれた兵が、浅い息を震わせている。
「第二波が来るぞ!」
小隊長の警告が響くが――
既に、皮鎧に三日月刀を持った蛇人兵の群れが、崩壊した楯列に殺到していた。
三日月刀が銀光を放ちながら閃く。
一閃、また一閃――兵士たちの命が刈り取られていく。
赤い飛沫が宙を舞い、石畳を濡らした。
「た、隊列を……隊列を立て直せええ!」
「無理だ! 化け物が……化け物が多すぎる!」
大聖堂の扉からは、まだ次々と蛇人兵が湧き出てくる。
まるで、無限に続く悪夢のように。
右翼と左翼は、たちまち阿鼻叫喚の修羅場と化した。
◆ ◆ ◆
中央――
巨大な白蛇と化したヨコマールが、三十メートルの巨体を波打たせながら鎌首をもたげた。
その赤い瞳が、ボンノーを射抜く。
「余の宿願を阻害する扶桑から来た異物は……滅するべし!!!」
大地を震わせる咆哮と共に、白蛇が動いた。
シュゴォォォ!
風を切り裂く音と共に、人間を丸呑みにできるほどの巨大な顎が迫る。
牙の一本一本が、まるで研ぎ澄まされた刀剣のように鋭い。
ボンノーは錫杖を構えて防御しようとするが――
(間に合わぬ! いや、そもそも錫杖で防げる相手ではない!)
死を覚悟したその瞬間――
「牙の先すら、ボンノーさまに触れさせません!」
リリアが祝杖を天に掲げ、全身全霊を込めて詠唱を紡ぐ。
「生命の女神レファリアの御名において、聖女リリアが祈ります」
金色の光が、彼女の全身から溢れ出す。
「我が祈りを受け、聖なる壁を顕現したまえ!」
『白ノ一式・聖・ホーリーウォール!』
ドカァァァァン!
轟音が戦場を揺るがした。
金光色の透明な壁が、半円球状にヨコマールを包み込む。
巨大な白蛇が、全速力でその壁に激突した瞬間――
衝撃波が広場を駆け抜け、石畳が蜘蛛の巣状に砕け散った。
土煙が舞い上がり、建物の窓ガラスが震える。
「ぐぬぬぬぬ……!」
ヨコマールの巨体が、聖なる壁に阻まれて停止した。
ボンノーへの牙は、わずか数十センチ手前で止まっていた。
「聖だと!?」
ヨコマールの瞳が、怒りで真紅に染まる。
「聖女め、覚醒しておったか!! レファリアの力を行使できるとはのぉ――」
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
白蛇が頭を壁に叩きつける。
その度に、ホーリーウォールに亀裂が走っていく。
ピシッ……ピシッ……メキメキッ……
「あ……っ!」
リリアの額に冷たい汗が滲む。
膝が震え、杖を握る手が白くなるほど力を込めている。
「長くはもちません……!」
ボンノーはリリアの手にそっと自分の手を重ねた。
「リリア殿、ありがとう」
ボンノーの暖かい手がリリアに勇気を注ぎ込む。
◆ ◆ ◆
「ヨコマールは我らで請け負います」
ボンノーが錫杖を鳴らしながら、凛とした声で宣言した。
「アベルト殿は蛇人兵の対処を頼みます」
「承知した!」
アベルトは即座に判断し、雷鳴のような号令を放つ。
「全軍、一時後退! 戦列を再構成せよ!」
「弓兵隊、魔法兵隊――援護射撃開始せよ! 蛇人兵を一匹も通すな!」
「予備兵力――エルンスト隊を前線へ投入せよ! 崩れた楯列を立て直せ!」
「騎士団は機動力を活かして遊撃せよ! 側面から蛇人兵を叩け!」
矢継ぎ早に飛ぶ指示が、混乱した戦場に秩序を取り戻していく。
「私は歩兵小隊の現場指揮を執る!」
ライハルトは闘志を燃やしながら、第一歩兵小隊へと駆けていく。
「持ち堪えろ! ここが正念場だ! セレスティア歩兵大隊の意地を見せつけろ!」
その時――
リリアが新たな祝詞を紡ぎ始めた。
「レファリアよ、我らの誓いを聴き給え」
静かに、しかし力強く祝杖を掲げる。
「命は連なり、孤は群となり、群は輪となる。いま、この地に守護の円環を――」
杖頭に宿った金の光が、まるで朝日のように優しく、そして力強く輝き始める。
その光は波紋のように広がり、戦場全体を包み込んでいく。
『聖女権能――レファリア・プロテクション!』
金色の光が、千を超える兵士たちに降り注ぐ。
彼らの体に、薄い金光のオーラが宿った。
それは、聖女の慈愛が形となった守護の力。
「女神レファリアの加護にて、皆さまをお護りします!」
リリアの声に、兵士たちが勇気を取り戻していく。
パリィィィン!
ガラスが砕けるような音と共に、ついにホーリーウォールが完全に破壊された。
金光の破片が、まるで星屑のように宙に舞い散る。
「ククク……余に小細工など無意味よ!」
解放されたヨコマールが、不気味な笑い声を響かせる。
「あたいのとっておきを食らうのさ、ヨコマール!」
ナターシャが颯爽と前に出た。
藍色の浴衣がひらめき、褐色の肌が陽光に輝く。
両手を天に掲げ、魔力を凝縮させる。
「月の女神ルナテミスよ――」
ナターシャの深緑の瞳が細く光る。
「銀光を下し、我が敵を切り裂け!」
『黒ノ一式・エア・ドレイ!』
シュゥゥゥゥゥン!
空気が悲鳴を上げるような音と共に、巨大な真空の刃が生成された。
不可視の刃が、音速を超えてヨコマールの胴体を狙う。
しかし――
ガキィィィン!
金属がぶつかり合うような轟音が響いた。
真空の刃は、白蛇の鱗に触れた瞬間、刃は弾けて霧になった。
鱗は被膜のように衝撃を散らす。傷は、まったく付いていない。
(硬いだけじゃない――力を散らす鱗だ)
「愚か者め」
ヨコマールが嘲笑う。
「バナテールの術式魔法ごときで余に傷をつけられるわけがなかろう」
「ヨコマールゥゥゥゥゥ!!!」
怒りの咆哮が、戦場を貫いた。
クレアが、全身から赤いオーラを噴出させながら前に躍り出る。
その瞳には、兄レオシオンを殺された憎しみが燃え盛っていた。
「兄上の仇! レオシオン兄様の仇を取る!」
涙が頬を伝う。しかし、その涙は怒りの涙だった。
「お前だけは許さないぃぃぃぃ!!!」
『姫騎士権能・ブレイブハート!』
三倍加速――
クレアの姿が、まるで瞬間移動のように消える。
次の瞬間、彼女は既に白蛇の首元にいた。
「くらええええ!」
王剣セレスティアが、九度閃いた。
一閃――首の付け根!
二閃――急所の喉元!
三閃、四閃、五閃――連続して同じ箇所!
六閃、七閃、八閃――渾身の力を込めて!
九閃――全身全霊を込めた一撃!
ガガガガガガガガッ!
火花が散り、剣戟の音が戦場に響き渡る。
しかし――
「な……何故だ!?」
クレアが愕然とする。
外皮には、掠り傷一つ付いていない。
まるで、鋼鉄の壁を素手で殴ったかのような無力感が、彼女を襲う。
「王剣セレスティアごときで、フソウさまから頂いた神体が傷つくわけがなかろう」
ヨコマールの声が、氷のように冷たい。
「愚かなる姫騎士よ――レオシオンと同じく、無に帰るとよい」
ブゥン!
巨大な尻尾が、鞭のようにしなった。
空気を切り裂く音と共に、白い凶器が迫る。
「くっ――!」
クレアは咄嗟に剣で防御するが――
ドゴォォォォン!
凄まじい衝撃が、彼女の全身を貫いた。
彼女の体が人形のように宙を舞う。
「がはぁっ!」
血反吐が、赤い軌跡を描きながら飛び散った。
そして――
ガシャァァァン!
建物の壁に激突し、石材が砕け散る。
瓦礫の中に、クレアが埋もれた。
レファリアプロテクションの金光のオーラが、衝突の瞬間に発動した。
それがなければ、体が原型を留めないほどに砕け散っていただろう。
全身打撲で済んだが――
「う……ぐ……」
立ち上がることすら、できない。
◆ ◆ ◆
「姫殿下ァァ!」
ヨコマールが鎌首をもたげ、倒れたクレアに狙いを定める。
巨大な顎が開き、牙が陽光を反射して輝く。
彼女を丸呑みにしようと、死の顎が迫る。
「姫殿下を……お守りするのだ!」
震える声で誰かが叫んだ。
しかし、誰も動けない。恐怖が、彼らの足を縛り付けていた。
その刹那――
「姫殿下ァァァァァ!」
南門方向から、雄叫びが響いた。
馬蹄の轟きが、波濤のごとく押し寄せる。
ドドドドドドドッ!
石畳が震え、土煙が上がる。
ミュラー副団長率いる王国騎士団二十騎が、全速力で突撃してきた。
青銀の鎧が陽光を反射し、まるで蒼き流星群のように輝く。
二十本の槍が、一点に集中する。
「命に代えても姫殿下をお守りしろ――!」
ミュラーの叫びが戦場を貫いた。
彼の瞳に、一瞬、過去の光景がよみがえる。
◆ ◆ ◆
――王国騎士団練兵場。
青銀の鎧をまとった男、アベルトが少女の手を取り、型を示す。
騎士見習いだった若きミュラーは、その横で木剣の受け手となり、打ち込みを受け止め続けた。
『姫殿下、はい――ここまで。よくできました』
アベルトの低い声。
『ねえミュラー、今の……当たった?』
幼いクレアは、汗に濡れた頬がきらりと光り、無邪気に笑みをこぼした。
「当たりましたとも、姫殿下。姫殿下が振れば、私は必ず受け止めます」
あの日、彼は誓った。――姫が振る剣はこの手で受け、姫に向かう刃はこの身で塞ぐ、と。
◆ ◆ ◆
「王国騎士団の誇りに懸けて――突撃ッ!」
二十騎が、まるで一つの槍となって白蛇の横腹に激突した。
ガキンガキンガキンガキン!
槍は全て弾かれ、砕け散る。
しかし、その衝撃でヨコマールの軌道がわずかに逸れた。
ガブッ!
石畳を噛み砕く轟音。
クレアがいた場所から、わずか数十センチ横。
間一髪で、彼女は命を取り留めた。
「小癪な真似を……」
ヨコマールが激怒する。
縦に裂けた瞳孔が、さらに細くなる。
「騎士風情が、余の救済を邪魔するとは――」
巨大な口が開く。
喉の奥が、まるで深淵のように黒い。
「逃げろ! ミュラー!」
誰かが叫ぶが――
「リヴィエラの騎士に退却の二文字はない!」
ミュラーが剣を抜き、最後の楯となって前に出た。
「アベルト団長、リヴィエラと姫殿下をお願いします」
他の騎士たちも、死を覚悟して剣を抜く。
しかし――
ガブッ!
一瞬だった。
巨大な顎が閉じる音。
そして――
ゴクン、ゴクン……
喉が蠢く音が、不気味に響く。
ミュラー以下、王国騎士団二十名が、生きたまま胃袋へと落ちていく。
ギシギシ……
鎧が胃酸で溶ける音。
最後の悲鳴が、くぐもって聞こえる。
そして――静寂。
口元から、血に染まった青銀の鎧の欠片が零れ落ちる。
「邪魔をしおって、このゴミ虫どもが!!!」
ヨコマールは血に濡れた口元を歪め、怒声を吐き捨てた。
「ミュラー……! ミュラーーーッ!」
アベルトが慟哭する。
二十年来の戦友が、一瞬にして消えた。
共に戦い、共に笑い、共に涙した友が――
「ミュラー副団長……」
騎士たちも涙を流す。
彼らの尊敬する副団長が、姫を守って散った。
「次は邪魔な歩兵どもを無に帰すか・・・」
◆ ◆ ◆
「クレアさん!」
リリアがクレアの元へ駆け寄る。
瓦礫を掻き分け、血まみれのクレアを抱き起こす。
「生命の女神レファリアの御名において、聖女リリアが祈ります」
涙を堪えながら、必死に詠唱を紡ぐ。
「我が祈りを受け、かの者に生命の息吹を!」
『白ノ一式・聖・ヒール・ドレイ!』
金光がクレアを優しく包み込む。
傷が癒え、呼吸が徐々に安定していく。
しかし――
「ミュラーが……ミュラーたちが……私のために……」
クレアは涙を止められなかった。
血で汚れた手で、地面を叩く。
「私のせいだ……私が感情に任せて突撃したから……!」
『姫様、お見事です』——いつもそう言って微笑んでくれたミュラー。
『必ずや、立派な姫騎士になられますよ』
あの優しい眼差しは、もう二度と戻らない——。
「ミュラー……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
血で汚れた拳を、何度も石畳に打ち付ける。
皮が破れ、新たな血が流れる。
姫騎士の誇りなど、仲間の命の前では無力だった。
ボンノーは、石畳を打つその拳をそっと掴み、持ち上げた。
「ミュラー殿の思いは――クレア殿が立つことで報われます」
ボンノーの暖かい手がクレアに勇気を注ぎ込む。
顔を上げ、リリアへ視線を送る。
「リリア殿、クレア殿の拳の手当てをお願いできますか」
リリアは小さくうなずき、祝杖を掲げた。
金の光がほどけ、裂けた皮膚が結ばれていく。
「命は連なっています……クレアさん、あなたは一人ではありません」
そして、リリアはクレアを優しく抱擁する。
「もう誰も死なせない!」
ヴィヴィがクレアの前に立ち、大盾を構えた。
小さな体に似合わない巨大な盾が、まるで城壁のように聳える《そびえる》。
ボンノーが右後ろに立ち、錫杖を構える。
「今は、クレア殿が立ち上がるまでのときを稼がねばならぬ!」
ナターシャが左後ろで、短剣を構える。
「絶対に、守り抜くのさ」
三人で、クレアとリリアを守る鉄壁の陣形を取った、まさにその瞬間。
「うわああああ!」
第一歩兵小隊から、悲鳴が上がる。
ブゥゥゥン!
ヨコマールが巨大な尻尾を振り回した。
まるで大木が薙ぎ払われるように、兵士たちが宙を舞う。
ドガガガガッ!
何十人もの兵士が同時に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
骨が折れる音。
内臓が潰れる音。
そして、呻き声の合唱。
「ライハルト大隊長!」
最前線で指揮を執っていたライハルトが、直撃を受けていた。
「ぐはっ……!」
血を吐きながら、膝をつく。
レファリアプロテクションの金光のオーラが打撃直前に発動したため、辛うじて命は繋ぎ止めたが――
肋骨が数本折れ、内臓も損傷している。
「大隊長が……大隊長がやられた!」
「退け! 退却だ!」
歩兵小隊が、パニックに陥り始める。
◆ ◆ ◆
ヨコマールがゆっくりと向きを変え、ボンノーたちを睨みつける。
その瞳には、明らかな殺意が宿っていた。
「扶桑の異物も聖女も姫騎士も――」
白蛇が大きく息を吸い込む。
胸部が風船のように膨らみ、何か禍々しいものが内部で渦巻いているのが分かる。
「一息で屠ってやろう」
シュウウウウ……
黒紫色の瘴気が、口元から漏れ始めた。
それは触れただけで肉を腐らせ、骨を溶かす死の霧。
ヨコマールの口から、死の瘴気が噴出しようとしていた――




