第45話 拙僧、枢機卿との対峙にて真なる救済を問う
九月六日――日没
大聖堂を包囲する王国奪還軍の松明が、次々と灯されていく。
オレンジ色の光が石畳を照らし、長い影が灯に合わせて揺れた。
重苦しい沈黙が、広場全体を支配している。
兵士たちは誰も口を開かない。ただ、鎧の擦れる音だけが時折聞こえる。
空気が重い。まるで、嵐の前の静けさのように
その時――
ギィィィ……
大聖堂の巨大な扉が、ゆっくりと開いた。
その音に、千を超える兵士たちが一斉に身構える。槍の穂先がかすかに震えた。
中から一人の侍従が現れる。黒い法衣に身を包み、背筋を伸ばして歩み出てきた。
その顔は青白く、まるで死人のようだ。
「ヨコマール猊下より、王国騎士団ならびに同盟諸隊の司令本部に対する御言葉を預かり、参上いたしました」
侍従の声は機械的で、感情が感じられない。
彼は司令本部へと向かい、アベルトの前で深く一礼した。
「猊下は申されます。『明日正午、大聖堂前にて対話の機会を設けたい』と」
アベルトは鋭い視線で侍従を見つめた。数秒の沈黙の後、短く頷く。
「お伝えください。こちらも正午に伺うと」
侍従は再び深く礼をして、まるで糸で操られているかのような足取りで大聖堂へと戻っていった。
扉が閉まる音が、夜の静寂に不吉に響く。
「あの侍従……なんか変だったよね」
ヴィヴィが小声で呟いた。
「目が死んでたよ……」
◆ ◆ ◆
司令本部の天幕内――
「罠かもしれませぬ」
ボンノーが静かに言った。錫杖を握る手に、かすかに力が込められている。
「分かっている。だが、このまま大聖堂を攻め入れば、中にいる司祭や修道女にも被害が及ぶ」
アベルトは苦い表情を浮かべる。青銀の鎧に映る灯火が、揺らめいていた。
「対話の機会があるなら、それに賭けるべきでしょう」
クレアが剣の柄に手を添えた。
一瞬、兄の無念が胸を灼いた。クレアはそれを呑み込み、顎をわずかに引いた。
「わたくしも同行します」
「姫殿下は――」
「いいえ、アベルト。王女として、この目で確かめる義務があります」
その瞳に、揺るぎない決意が宿っていた。
だが、その奥には――わずかな不安が、確かに残っていた。
「私も行きます。ヨコマール枢機卿と直接お話をしなければなりません」
リリアは毅然と告げた。
「あたいも行くのさ。クレアちゃんとリリアちゃんが心配だからね」
ナターシャは腰の短剣の留め具をカチリと確かめ、視線だけを鋭く上げた。
「なんだか嫌な予感がするのさ……あの枢機卿、普通じゃない」
ヴィヴィは大盾をコツンと叩き、胸を張った。
「あたしもいくよ。姫殿下とリリアさんは、あたしが護る!」
◆ ◆ ◆
夜は不気味なほど静かに過ぎた。
見張りの兵士たちが、松明の明かりで大聖堂を監視し続ける。
時折聞こえる風の音と、遠くで吠える犬の声。
そして――
「おい、聞こえるか?」
見張りの一人が囁いた。
「大聖堂の中から……何か音が……」
ズルズル……という、何かを引きずるような音。
それは一晩中、断続的に聞こえ続けた。
司令本部では、翌正午の対面に備え、最後の打ち合わせが行われていた。
「万一に備え、即時に戦闘へ移行できる布陣とする」
アベルトが作戦図を見ながら指示を出す。声は低く、わずかな硬さが宿っていた。
「弓兵及び魔法兵は建物の影に配置、合図があれば即座に援護射撃せよ」
「第一歩兵小隊は広場の中央、第二歩兵小隊は西側、第三歩兵小隊は東側に配置せよ」
「ミュラー副団長の隊及び親衛中隊は騎乗待機せよ」
……
矢継ぎ早にアベルトの指示が飛んだ。
誰もが、明日何かが起こることを予感していた。
◆ ◆ ◆
九月七日――正午
太陽が真上から照りつける。
しかし、その光すら、大聖堂から漏れ出る瘴気に霞んで見えた。
大聖堂の広場前に整列した王国奪還軍の兵士たち。
その誰もが、固唾を呑んで大聖堂の扉を見つめている。
ゴォォォン……
正午を告げる鐘の音が響く。
その音が鳴り止むと同時に――
ギィィィ……
大聖堂の扉が、静かに開いた。
瘴気が内から洩れ出す。
そして――
たった一人の男が、ゆっくりと歩み出てきた。
黒の法衣を纏い、金の装飾が施された杖を持っている。
五十代の端正な顔立ちに、雪白の髪。どこか爬虫類めいた目元が、不気味な印象を与える。
顔には慈愛に満ちた微笑みを浮かべているが、その目の奥には底知れぬ闇が潜んでいた。
ヨコマール枢機卿。
悠然とした足取りで、大聖堂前の広場へと進む。
その歩みに合わせて、地面にうっすらと黒い影が広がっていく。それは彼自身の影ではない。まるで、何か別の巨大な存在の影のように見えた。
「気をつけるのさ……」
ナターシャが小さく呟いた。魔法士の直感が、危険を告げている。
王国奪還軍側からも、クレア、リリア、アベルト、ライハルト、ボンノーが前に出た。
ヴィヴィとナターシャは、少し後ろで警戒態勢を取っている。
両者が、広場の中央で対峙した。
距離、約十歩。
しかし、その間の空気は、まるで深い谷のように感じられた。
◆ ◆ ◆
最初に口を開いたのは、クレアだった。
「ヨコマール枢機卿」
声に怒りが滲む。握りしめた剣の柄が、かすかに震えている。
それは怒りか、恐怖か――あるいは、その両方か。
「……猊下は王太子レオシオン殿下を殺め、国王陛下に呪詛を為した。その罪、いかに申し開きをなさいますか」
ヨコマールは穏やかな笑みを崩さない。
その笑顔が、かえって不気味だった。
「これはこれは、クレア姫殿下でございましたか。お久しゅうございます」
冷ややかな眼差しが、値踏みするように姫をなぞった。
「あの夜、逃げ出されたと見ておりましたが……わざわざお戻りとは。では、話を進めましょう」
クレアの頬が、屈辱で紅潮した。
「レオシオン殿下の件は……まことに遺憾でございました」
ヨコマールはわずかに肩をすくめた。
「しかし、それも民の救済のために必要なことでございました」
「救済の名の下に、王太子レオシオン殿下を殺めたと仰るのですか、猊下」
クレアが剣を抜きかける。
アベルトが手首を押さえ、無言で首を振った。
「国王陛下への呪詛も、民の救済だと言うのですか」
「左様。些事にすぎませぬ」
あまりにもあっけらかんとした返答に、クレアは言葉を失った。
周囲の兵士たちからも、怒りのざわめきが起こる。
次にリリアが前に出た。
淡い金色の髪が、陽光に輝いている。しかし、その表情は悲しみに満ちていた。
「ヨコマール猊下」
清らかな声が響く。
「あなたはレファリア教の教義を歪めています」
「ほう?」
ヨコマールの眉が、ごく薄く持ち上がった。初めて、関心の色が瞳に走る。
「レファリア教の三誓――慈愛・節度・奉仕。これこそが、わたしたちの信仰の根幹です」
リリアは胸に手を当てた。
「しかし、あなたは偽りの教えで民を欺いている。リヴィエラの女性たちを誘拐し、魔島へ送っているではありませんか」
兵士たちがざわめく。魔島への女性送り――あらためて、聖女の口から直接聞くと、その恐ろしさが身に迫る。
「魔島では聖務に励んでいただいておるだけでございます。
祈りは形となり、彼女らから『民を導く使徒』が生まれております――聖女リリア様」
ヨコマールの声に、嘲笑が混じる。
「では、三誓ついてお話しましょう」
雪白の髪の男は杖を一打した。
その音が、不気味に響く。
「慈愛?弱者を助ける?」
ヨコマールの声が、急に冷たくなった。
「施しは弱者のものではない。強者がより強くなるための糧に過ぎぬ」
リリアが反論しようとすると、ヨコマールは手を上げて制した。
その手の黒い指輪が、かすかに紫光を帯びている。
「節度? 富の分配? 笑止千万」
哄笑が響く。
「人は得られる限り奪い、与えることなど考えぬ。見よ、この王都の貧富の差を」
「そんなことは―――」
「奉仕? 他者のために生きる?」
ヨコマールの瞳が、蛇のように細められた。
「皆、自分のためだけに生きておる。綺麗事で塗り固めても、本性は変わらぬ」
杖を再び地に突く。
「レファリア教の教えでは民は救えぬ。絵空事じゃ」
リリアの瞳に涙が浮かぶ。
信仰を否定された悲しみ――しかし、その瞳に諦めはなかった。
「猊下の御真意を、お聞かせください」
リリアは声の震えを呑み込み、静かに言葉を継いだ。
「猊下は一度でも、誰かを救って喜びを感じたことはございませんか。誰かに救われて感謝したことはございませんか」
ヨコマールの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
「教義が戯言なら、なぜ猊下はレファリア教の頂点に立たれたのですか」
「…………」
重い沈黙が場を締め付ける。
ヨコマールの瞳に、かすかに人間らしい光がよぎった――だが、次の瞬間。
「愚問じゃな」
冷たい声が響く。
「若き日の余は愚かじゃった。理想に燃え、人を救えると信じておった」
指の黒い指輪が、激しく紫光を放つ。
「だが現実は違った。施せば奪われ、導けば裏切られ、信じれば踏みにじられる。――それが人の性よ」
リリアが震え声で言った。
「それでも...わたしは信じます」
涙を拭いながら、しかし顔を上げる。
「猊下がかつて抱いた理想は、偽りではなかったはずです。民を救いたいと願った心は、本物だったはずです」
「黙れ」
ヨコマールの声に、明確な怒気が宿った。
「過去の愚かさを蒸し返すな。今の余には、真なる救いの道が見えておるのじゃ」
アベルトがリリアを庇うように前に出た。青銀の鎧の稜線に陽光が走る。
「もはや議論の余地はない」
剣を構える。
「王国への反逆、殺人、拉致誘拐の罪により、貴公を逮捕する」
実務的な口調で降伏を勧告する。
後方の兵士たちも、槍を構えて前進の準備を整えた。
ヨコマールは首を横に振った。
「民の救済まであと少しというのに、いまさら法の裁きとな。まことに愚かなことじゃ」
そして――
爬虫類じみた瞳が、アベルトを射抜いた。
「で、アベルト卿」
声が急に低くなる。
まるで毒蛇が獲物を睨むように、瞳孔が細く尖った。
「そなたを解呪したのは誰じゃ?」
(フソウ様の呪詛は、術式ごときでは解けぬはずじゃ。それを解いた者は――誰じゃ?)
アベルトの喉がひとつ鳴り、表情が固まった。
◆ ◆ ◆
アベルトが逡巡する。
その沈黙を破って、ボンノーが前に出た。
「拙僧でございます」
錫杖の音が、静かに響く。
清らかな音色が、瘴気に満ちた空気を震わせた。
ヨコマールの視線が、初めてボンノーに向けられた。
その瞬間、黒い指輪が激しく紫光を放つ。
「ほう……そなたか」
ヨコマールが一歩、ボンノーに近づく。
「そなたは扶桑の者か?」
ボンノーは驚きを隠せなかった。
なぜヨコマールが扶桑のことを知っているのか。扶桑はこの世界には存在しないはずだ。
「……いかにも。拙僧は扶桑より来た者でございます」
兵士たちがざわめく。扶桑――聞いたことのない国の名だ。
ヨコマールの瞳が細められた。
そして、口元に不気味な笑みが浮かぶ。
「そうか、おぬしが扶桑より遣わされし者か――」
「ヨコマール殿」
ボンノーが錫杖を地に突き、静かに語りかける。
「貴公の言う『民の救済』――それは大いなる迷妄でございます」
「ミホトケサマの教えに『一切皆苦』という言葉がございます。確かに、この世は苦に満ちている。しかし――」
ボンノーの声が、広場に響き渡る。
その声には、深い慈悲が込められていた。
「貴公は民を救うと言いながら、新たな苦しみを生み出している。命を奪われた者の家族の涙、魔島へ送られた女性たちの絶望……それが救済でございましょうか」
兵士たちが静かに聞き入る。
ボンノーの言葉には、不思議な説得力があった。
「『因果応報』という言葉がございます。憎しみは憎しみを生み、暴力は暴力を呼ぶ。播かれた種は、いずれ己へ返りましょう」
ボンノーは錫杖で静かに一度、地を打つ。澄んだ音が石畳に落ちた。
「そして——人は独りでは生きられぬ。皆、誰かに支えられ、誰かを支えて生きている。貴公が摘み捨てた命にも、大切な人がいたはずです」
ボンノーは一歩前に進んだ。
ヨコマールとの距離が、さらに縮まる。
「力で民を従わせることは、支配であって救済ではございませぬ」
そして、静かに問いかける。
「——お尋ねしたい。貴公の言う『民の救済』とは、一体何でございますか」
長い沈黙が流れた。
ヨコマールは目を閉じ、何かを考えているようだった。
風が吹き、黒い法衣がはためく。
その影が、不自然に大きく揺らめいた。
空気が、急に冷たくなる。
まるで、死の気配が漂い始めたかのように。
「……」
兵士たちが、息を呑む。
何かが、起こりかけている。
やがて――
ヨコマールがゆっくりと目を開いた。
その瞳は、もはや人間のものではなかった。
縦に裂けた瞳孔。まさに、蛇の眼。
「そうか、うぬか」
声が変わった。中年男性の声ではない。何か別の、底知れぬ闇から響くような声。
地の底から響くような、不気味な反響を伴っている。
「うぬだけは、フソウ様にとって仇となる故に――」
黒い指輪が激しく紫光を放つ。
その光が、周囲の影を歪ませていく。
「屠っておかねばならぬな……」
◆ ◆ ◆
次の瞬間――
ゴキッ!
骨が軋む音が響いた。
「ひっ……!」
兵士の一人が、恐怖の声を上げる。
ヨコマールの体が、異常な方向に曲がり始めた。
肩が後ろに反り返り、背骨が蛇のようにうねる。
ビリビリッ!
黒い法衣が裂け始める。
その下から現れたのは――白い鱗。
「うわっ……!」
ヴィヴィが思わず後ずさりする。
大盾を構えるが、その手が微かに震えている。
「ヨコマールは……すでに人ではなかったのか!」
クレアが唇を噛む。
「最初から人外だったのかい…… 来るよ、皆、いったん退くのさ!」
ナターシャは親指で肩越しに後方を示した。
メキメキメキッ!
肉が裂け、骨が伸びる音。
人間の形が、急速に失われていく。
腕が体に吸収され、足が融合していく。
体が膨張し、伸び、うねり始める。
「退け! 全軍後退せよ!」
アベルトが叫ぶ。
しかし、もう遅かった。
ドンッ!
地面が激しく揺れた。
巨大な何かが、地面に叩きつけられた音。
そこにいたのは――
三十メートル級の巨大な白蛇。
鎌首をもたげ、赤い瞳が一同を見下ろす。
鱗の一枚一枚が、陽光を反射して不気味に輝く。
口を開けば、人間を丸呑みにできそうな大きさ。
「し、白い悪魔だぁ!」
兵士たちが恐怖に駆られて後退する。
槍を取り落とす者、腰を抜かす者、祈りの言葉を漏らす者——楯列が崩れ始める。
「その問いに答えよう、扶桑より遣わされし者よ」
『無に帰すことこそが、民を救う唯一の道よ!!!』
蛇の口から、ヨコマールの声が響く。
その声は、大地を震わせるほどの音量だった。
◆ ◆ ◆
その時――
ズルズル……ガサガサ……
大聖堂の中から、何か不気味な音が聞こえてきた。
まるで、何かが蠢いているような。
無数の足と鱗が擦れる音が内側から壁をくすぶり、ステンドグラスが悲鳴を上げた。
「なんだ、あの音は……」
ライハルトが剣を抜く。
その手が、かすかに震えていた。
パリン!
大聖堂の窓が、内側から破られた。
そこから、瘴気が噴き出してくる。
瘴気は生き物のようにうねり、広場へと流れ出してきた。
「まさか……」
ボンノーが息を詰める。
リリアが一歩進み、声を張った。
「大聖堂の中に、悪しき気配を感じます……!」
別の窓も、次々と破られていく。
パリン! パリン! パリン!
そして、その隙間から――
赤く光る、無数の眼が覗いていた。
白蛇ヨコマールが哄笑した。
「恐れるでない。これは絶望ではなく救済の始まりよ。フソウさまの復活は、もうすぐじゃ」
「フソウさま!?」
ボンノーが驚愕する。
扶桑と同じ名を持つ存在。それが、この世界にいるというのか。
クレアが剣を抜き、構えた。
「皆、武器を構えてください!」
しかし、兵士たちの士気は既に半ば崩れかけていた。
三十メートルの白蛇と、大聖堂から溢れ出る瘴気。
そして、無数の赤い眼。
絶望的な状況だった。
その瞬間――
ゴォォォン……ゴォォォン……
大聖堂の鐘楼から、不吉な鐘の音が響き始めた。
それは通常の時を告げる鐘ではない。
不協和音を含んだ、禍々しい音色。
十二回。
「十二回目の鐘……!」
リリアが息を呑む。
それは、終わりの始まりを告げる音だった。
大聖堂の正面扉が、ゆっくりと内側から押し開かれる。
――セレスティア滅亡まで、あと二日――




