第44話 拙僧、『狸の慢心』を以て勝ち際を戒める
王都セレスティア・臨時救護施設――九月六日朝
夜襲の傷跡が生々しく残る中、臨時救護施設では、無数の負傷者が横たわっていた。血の匂いと薬草の香りが混じり合い、うめき声と看護の声が交錯する。
「次の方、こちらへ」
リリアの声は疲労でかすれていたが、その手は休むことなく動き続けていた。淡い金の光が傷口を包み、血が止まり、肉が繋がっていく。
「リリアちゃん、真夜中からぶっ通しじゃないか。ちょいと休むのさ。」
ナターシャが包帯を巻きながら心配そうに声をかける。
「大丈夫です。まだ、治療を待っている方々がいますから」
その横では、ソフィアが水瓶を抱えて負傷者に水を配り、エルナが手際よく包帯を切り分けていた。
「敵味方の区別なんてないにゃ。怪我人は怪我人にゃ」
灰銀の牙からはミケケが駆けつけ、白魔法で軽傷者の治療を行っている。
神殿騎士の負傷者も、王国軍の兵士と同じように手当てを受けていた。白銀の鎧を脱がされ、ただの負傷者として横たわる彼らの姿に、戦争の虚しさが滲んでいた。
◆ ◆ ◆
中央広場司令本部――
「副団長ミュラーより報告!」
伝令が駆け込んできた。
「王城の神殿騎士は全て退去! 王城は我が軍の手に戻りました!」
司令部内にどよめきが起こる。
ライハルトは眉根を寄せ、地図に視線を落とした。
「……王城を捨てたか。戦力を大聖堂に集める気だな」
アベルトは地図の南門に指を置いた。
「敵の援軍が来る前に大聖堂を包囲し、南門を封鎖する必要があるが――」
短い沈黙が場を満たす。時間との闘いだと司令本部の誰もが理解していた。
「陛下のご容態は?」
クレアが立ち上がり、身を乗り出して尋ねる。
「変わらずとのことです。呪詛は深く、依然として意識は戻らぬままと……」
「今なら、会いに行けるよ。クレアさん……いえ、姫殿下!」
とヴィヴィが小声で進言した。
クレアは一瞬、目を閉じた。父の顔を見たい――その思いが胸を締め付ける。今すぐにでも王城へ駆けつけたい。しかし、数秒の葛藤の後、彼女は首を振った。
「わたくしはここに留まります。総指揮を預かる身として、この司令本部を離れるわけにはまいりません」
(父上……どうかお待ちください。必ずヨコマールを討ち、リヴィエラを護ります)
アベルトが頷いた。
「賢明なご判断です、姫殿下」
「アベルト、ちょっといいか」
ライハルトが地図を指差しながら提案する。
「王城には攻城用の投石機があるはずだ。あれを前線に運べば、バリケードを遠距離から破壊できる」
「投石機か……確かに有効だが」
アベルトが顎に手を当てて考え込む。
「問題は、城下で使えば民間の建物にも被害が出ることだ。投石機は制御が難しい」
重い沈黙が流れる。民を守るための戦いで、民の家を破壊するという矛盾――その重さに、誰もが苦悩の表情を浮かべていた。
クレアはしばらく目を閉じて考えた後、決然と顔を上げた。
「王家が必ず全ての被害を補償すると、わたくしの名において約束します。投石機の使用を許可します」
「姫殿下……本当によろしいのですか」
「民の家は再建できます。ですが、ヨコマールを一刻も早く討たねば、失われる命は増えるばかりです。今は命を優先します」
◆ ◆ ◆
その時、西門から新たな報告が入った。
「王家直轄領の代官エルンスト殿が、家旗『緑地に銀の樫枝』を掲げ、千の兵を率いて入城されました!」
「エルンスト卿が……来てくださったのですね」
クレアの顔に安堵の色が浮かぶ。
エルンスト・フォン・グリュンヴァルトは六十を過ぎた老練な代官で、先王の代から王家に仕えてきた忠臣中の忠臣だった。援軍としてこれ以上頼もしい存在はない。
ほどなくして、エルンストが重い足音と共に司令本部に姿を現した。白髪混じりの豊かな髭を蓄えた初老の男は、クレアの前で片膝をついた。
「姫殿下、エルンスト・フォン・グリュンヴァルト、ただいま参上いたしました」
「よくぞ駆けつけてくださいました、エルンスト卿。どうかお立ちください」
クレアが手を差し伸べて立ち上がらせる。
「千の兵、姫殿下の御旗の下にございます。御下命あらば、ただちに動きます」
「中央広場で布陣し、予備兵力として待機してください。戦況に応じ、王国騎士団長アベルト卿の指揮下で適時投入します」
「承知いたしました。この老骨、必ずや姫殿下のご期待に応えてみせましょう」
エルンストは一礼し、天幕を後にした。やがて緑地に銀の樫枝の旗が広場へと連なって進み、千の兵が中央広場の後方に着陣した。
◆ ◆ ◆
伝令が天幕に飛び込んだ。
「南門より神殿騎士二百騎が入城中です!」
「ヨコマール派の貴族軍は?」
「まだ到着していないようです」
ライハルトが首をかしげる。
「妙だな。枢機卿が援軍を要請したなら、もう先発隊が到着していてもおかしくないはずだが」
「……まさか」
ボンノーが錫杖を一打、乾いた音が響いた。
「援軍要請そのものが、なかったのかもしれぬ」
「軍略上の自滅だぞ。なぜそんな手を?」
ライハルトが強く問う。
「ヨコマールが自滅へ通ずる手を選ぶはずがない。必ず意図がある。兵を重ねれば目も重なる――秘すべき事あらば、兵は絞るものじゃ」
天幕の中に一拍の沈黙が落ちた。ライハルトの背に冷たいものが走る。
◆ ◆ ◆
東門の防備も強化された。
「第八歩兵小隊を東門に追加派遣!神殿騎士の侵入を完全に阻止せよ!」
「第七工兵小隊は、投石機五機を前線に配置せよ!」
アベルトの命令が矢継ぎ早に飛ぶ。
正午――
第七工兵小隊が、苦労の末に投石機五機を前線まで運び込んだ。
巨大な木製の構造物が、大通りの入り口に威圧的に並ぶ。投擲腕は天を向き、いつでも発射可能な状態だ。
「準備完了しました! いつでも撃てます!」
工兵隊長が報告する。
アベルトが前に出て、全軍に向けて号令を放つ。
「第一、第二、第三歩兵小隊は前方を攻勢せよ! 敵を大聖堂まで追い詰めろ!」
「第四、第五歩兵小隊は投石機を防御せよ! 盾衾で投石機の周りを囲め!」
兵士たちが素早く配置につく。
「ミュラー副団長の部隊は前衛後方の側道で騎乗待機せよ! 好機と見たら即座に突撃せよ!」
「カティア中隊は王城を防衛せよ! 一兵たりとも通すな!」
「親衛中隊及び第六歩兵小隊は司令本部を防衛せよ!」
「はっ!」
千を超える声が、一斉に空に響いた。
◆ ◆ ◆
「攻撃、開始!」
アベルトの号令と共に、投石機が唸りを上げた。
ギィィィ……という軋み音の後――ドゴォン!
巨大な石塊が放物線を描いて飛んでいく。
第二層のバリケードに直撃。積み上げられた木材が砕け散り、土嚢が吹き飛ぶ。
「効いてるぞ! 第二射急げ!」
歩兵たちから歓声が上がる。
二発目、三発目と続けて発射される。バリケードだけでなく、バリスタも破壊されていく。
「消魔石も狙え!」
工兵たちが照準を調整する。青白く光る消魔石が、一つまた一つと粉砕されていった。
しかし――
「あっ……!」
六発目の石塊がわずかに軌道を逸れ、通りに面した民家の屋根を直撃した。瓦が波のように剥がれ飛び、太い梁が悲鳴のように折れる。窓枠が軋み、硝子が粉々に砕け、子どもの木馬が軒先へ転がり出た。その光景に、誰もが息を呑む。
「申し訳ございません! 照準を誤りました!」
工兵隊長が真っ青になって膝をつく。
クレアは唇を噛みしめ、拳を握りしめた。しかし、すぐに顔を上げ、通りに響く声で命じた。
「ただちに救護の者を向かわせてください!」
そして痛みを胸の奥に押し込め、左手を鋭く振り下ろす。前線へ攻勢続行の合図だ。
「構いません、攻撃を続けてください。全ての責任はわたくしが取ります」
◆ ◆ ◆
神殿騎士たちも黙ってはいなかった。
「突撃だ! 死んでも投石機を破壊しろ!」
二百名の神殿騎士が、死を覚悟した決死の突撃を敢行する。白銀の鎧が陽光を反射し、まるで光の波のように押し寄せてくる。
しかし――
「矢を放て! 一歩も近づけるな!」
弓兵たちの一斉射撃が、神殿騎士たちに降り注ぐ。
「盾衾を組め!」
重装歩兵たちが大盾を隙間なく並べ、鉄壁の防御陣形を作る。神殿騎士の突撃は、この壁に阻まれて勢いを失う。
そして――
「今だ! 突撃!」
副団長ミュラー率いる王国騎士たちが、側道から神殿騎士に襲いかかった。
騎士と騎士の激突。槍と槍が激しく火花を散らし、怒号と金属音が入り乱れる。馬の嘶きと兵士たちの叫び声が、戦場の空気を裂いた。
半時の交戦の末、神殿騎士は隊列を保てず後退に転じた。
王国奪還軍は前線を押し上げ、投石機隊は射程標を一つ前へ進めた。
「第三層のバリケードを狙え! 最後の防衛線を粉砕しろ!」
ドゴォン! ドゴォン!
容赦ない砲撃が、最後の防衛線を粉砕していく。
「最後の消魔石を狙え! 魔法封じを解除せよ!」
工兵たちが照準を調整する。
ドゴォン!
石塊が青白く光る消魔石に直撃した。蜘蛛の巣状にひびが走り、内部から漏れ出た魔力が青い火花となって散る。
「もう一発!」
二撃目で消魔石は完全に砕け散った。青白い光の破片が、硝子の雨のように降り注ぐ。空気中に充満していた重苦しい魔力の澱みが、風に流されるように消えていく。
「消魔石が全部破壊されたぞ!」
その報告に、待機していた魔法兵たちが色めき立つ。
「ナターシャ姐さん、魔法がつかえるよ」
ヴィヴィはナターシャの前に立って大盾を構える。
ナターシャが素早く詠唱する。
『黒ノ五式・ストーン!』
岩の塊が虚空から生成され、逃げ遅れた神殿騎士めがけて飛んでいく。
「まだまだいくのさ!」
無詠唱で二発目、三発目を連続で放つ。神殿騎士たちが次々と吹き飛ばされ、戦線は完全に崩壊した。
◆ ◆ ◆
神殿騎士たちは、ついに大聖堂前の広場まで追い詰められた。もはや退く場所はない。
最前線で最後まで戦い続けていた神殿騎士団長ヘイゲルは、残存兵力を見渡し、もはや勝敗が決したことを理解していた。部下たちは次々と倒れ、退路は完全に断たれている。
しかし、血と泥にまみれた白銀の鎧に身を包んだヘイゲルは、槍を天高く掲げると、朗々とした声を戦場に響かせた。
「アベルト・フォン・アルセイン!」
その声は、戦場の喧騒を切り裂いて響き渡る。
「騎士の誇りにかけて、一騎打ちを申し込む!」
戦場が、一瞬静まり返った。
アベルトがゆっくりと前に出る。
「ヘイゲル……久しいな」
「槍を合わせるのは十年ぶりだな、アベルト」
ヘイゲルは兜を外し、汗にまみれた顔を晒した。その目尻には、わずかに懐かしさが滲んでいる。
「考え直せ、ヘイゲル。お前はヨコマールに欺かれている。まだ間に合う」
短い沈黙が流れる。風が二人の間を吹き抜けていく。
「………。今は、ただ騎士として、お前と槍を交えたい」
ボンノーが気づく。よく見ると、倒れている王国側の歩兵たちは皆、穂先ではなく柄で殴打され気絶しているだけだった。致命傷を負った者は一人もいない。
(この男……最初から、殺すつもりはなかったのか)
その時、ボンノーの隣にいたリリアが前に出た。
「待ってください!」
息を切らせながら、リリアはクレアの前に膝をつく。
「姫殿下、お願いがあります」
「どうしたのです、リリア?」
「ヘイゲル様の命を……どうか、どうか助けてください」
意外な願いに、皆が驚きの表情を浮かべる。
「なぜだ? 彼は敵軍の将だぞ」
ライハルトが当然の反論をする。
リリアの瞳に涙が溢れ、頬を伝って落ちる。
「ヘイゲル様は……本来お優しいお方なのです。大聖堂でも市内でも、いつも貧しい方々に施しをなさっていました。孤児院への寄付も欠かさず、わたしも奉仕活動で何度もお力添えをいただきました。どうか……どうか……」
「しかし……」
「お願いします!」
リリアが地面に額をつけんばかりに深く頭を下げる。
クレアは目を閉じてしばらく考えた。やがて、静かに頷いた。
「分かりました。アベルト、命だけはとらぬように」
アベルトは振り返り、静かに答えた。
「……了解しました。ですが姫殿下、騎士同士の一騎打ちゆえ、必ずとは保証できません」
「それでも、最善を尽くしてください」
「承知しました」
アベルトは兜を被り直し、愛馬に跨った。
◆ ◆ ◆
戦闘はぴたりと止み、戦場は静まり返った。両軍の兵士たちは固唾をのんで、これから始まる一騎打ちを見守っている。
騎乗した二人の騎士が、ゆっくりと間合いを詰めていく。
アベルトの重騎槍――質量で砕く。
対するはヘイゲルの白騎槍――穂先で一点を穿つ。
馬の足音だけが、静寂の中に響く。
「行くぞ、アベルト」
「来い、ヘイゲル」
一合――
槍と槍がぶつかり、激しい火花が散る。
二合、三合、四合――
穂先が噛み合い、金属音が響き渡る。
五合、六合、七合――
無駄はない。踏み込みと引き、穂先と穂先の削り合いだ。
八合――
ヘイゲルの槍がアベルトの兜を掠める。金属が削れる音が響く。
九合――
アベルトの槍がヘイゲルの肩当てを弾く。白銀の破片が宙を舞う。
十合――
時が止まったような一瞬の後、二人の槍が同時に相手を貫いた。
アベルトの槍は、ヘイゲルの右肩を貫通。鮮血が噴き出す。
ヘイゲルの槍は、アベルトの左脇腹を浅くえぐる。鎧の隙間から血が滲む。
ヘイゲルの白馬が嘶く。
ヘイゲルは鞍上で大きく身を折り、片手で手綱を引いて落馬を堪えた。
アベルトは片肘を鞍頭に掛け、体勢を整えながら息を整えた。
「……見事だ、アベルト」
「お前も……強くなったな、ヘイゲル」
二人の騎士は、互いを認め合うように頷いた。
◆ ◆ ◆
「ヘイゲル様!」
リリアが駆け寄り、すぐさま治療を開始する。
『白ノ三式・聖ヒール・ツヴァイ!』
眩いばかりの金光が傷口を包み込み、流れ出る血が見る間に止まっていく。
「なぜ……敵の私を……」
ヘイゲルが苦痛に顔を歪めながら問う。
「命に敵も味方もありません。全ての命は等しく尊いのです」
リリアの手は震えることなく、治療を続ける。
ヘイゲルの容態が安定すると、彼女は息つく間もなくアベルトの治療に移った。
「全神殿騎士に告ぐ!」
ヘイゲルが、苦痛に顔を歪めながらも声を張り上げる。
「武器を捨て、降伏せよ! これ以上の抵抗は無意味だ!」
その言葉を聞いた神殿騎士たちは、次々と剣を地面に突き立て、槍を捨てた。敗北を受け入れた騎士たちの顔には、安堵さえ浮かんでいた。
「ミュラー副団長、南門を封鎖せよ」
アベルトが指示を飛ばす。
「ヨコマール派貴族軍の侵入を阻止せよ」
「はっ! 直ちに!」
大聖堂は完全に包囲された。
「ヨコマール枢機卿!」
クレアが大聖堂に向かって、凛とした声で叫ぶ。
「降伏しなさい! もはや逃げ場はありません!」
しかし、大聖堂からは何の反応もなかった。
扉は固く閉ざされ、窓からも人影一つ見えない。
不気味な静寂が、戦場を包む。
◆ ◆ ◆
「確かに我らの勝ちじゃが……」
ボンノーが錫杖を握りしめながら呟く。
「何か、嫌な予感がするのじゃ」
(簒奪が目的なら、王城も大聖堂も守りを固めて援軍を待てばよかったはず――)
ナターシャも頷く。
「あたいも同感。枢機卿に援軍が来ないなんて、不自然すぎるのさ」
その時、ボンノーの脳裏に、古い戦の理がよぎった。
「クレア殿、皆さま」
ボンノーが錫杖を鳴らし、静かに――しかし重々しく語り始めた。
「ひとつ扶桑の話を聞いてもらえぬか」
皆が注目する中、ボンノーは続ける。
「扶桑暦一六〇〇年――扶桑の歴史を変えた大戦、関ヶ原の戦いがあった。士気も練度も統率も東軍が優っておった。されど『もう勝った』と慢心した東軍の徳川家康が敗れ、西軍の石田三成が勝った。後世、これを『狸の慢心』と呼ぶ」
アベルトが尋ねた。「……なぜ、西軍が勝ったのですか?」
「西軍は決戦の前夜、敵の主力を夜襲で削った。さらに裏切りを予見し、備えを怠らなんだ。裏切り者が出ても崩れぬよう手を打ち、味方の士気を高め、ついには山に座す大軍を動かした――周到な準備と、人を動かす采配。それが勝利を呼んだのじゃ」
クレアが瞬く。「つまり……勝ち際こそ最も危うい、ということでしょうか?」
「うむ。勝利を確信した瞬間こそ、最も隙が生まれる。勝ちは最後の最後の一歩まで決まらぬ。ゆえに慢心こそが真の敵なのじゃ」
ボンノーは錫杖を鳴らした。
「ヨコマール枢機卿は、まだ何かを隠しておる」
息を呑む音だけが残り――ちり、と錫杖の鈴が震え――言葉にならない違和感が、ふたたび場を覆った。
◆ ◆ ◆
夕刻――
大聖堂の鐘楼から、十一回目の鐘が鳴り響いた。
ゴォォォン……ゴォォォン……ゴォォォン……
重い音が、十一度。
セレスティア滅亡まで、あと三日――




