第42話 拙僧、千の心と共に決戦の朝を迎える
王都セレスティア・アベルト屋敷――九月四日
決戦の朝。薄暗い空に朝露が光る時刻、ボンノー一行は素早く朝食を済ませていた。
「今日が、いよいよ……」
リリアが緊張した面持ちでパンを口に運ぶ。微かに震える手を、ヴィヴィがそっと握った。
「大丈夫だよ、リリアちゃん。あたしたちがついてる」
「ありがとう、ヴィヴィちゃん」
窓の外を見つめながら、ナターシャが呟く。
「雲ひとつない快晴なのさ。戦には良い日和だね」
ボンノーは錫杖を手に立ち上がった。
「では、参りましょう。歩兵大隊本部へ」
玄関まで見送りに出たソフィアの瞳に、深い憂慮の色が宿っていた。
「どうか、ご無事で。そして……アベルトをよろしくお願いします」
隣に立つエルナも深々と頭を下げた。
「皆様のご武運を祈っています」
「ソフィア様、エルナ嬢。必ず勝利の報告を持ち帰ります」
ボンノーが静かに答え、一行は屋敷を後にした。
◆ ◆ ◆
歩兵大隊本部への道のりは、徒歩で十分ほどだった。
朝日が次第に高くなり、石畳の道を黄金色に染めていく。戒厳令下の街に人通りはほとんどなく、時折、窓から窺う市民の視線を感じるばかりだった。
「静かすぎるね……」
ヴィヴィが不安そうに呟く。
「嵐の前の静けさ、というやつなのさ」
ナターシャが腕を組みながら答えた。
◆ ◆ ◆
歩兵大隊本部――
門をくぐると、練兵場には千名の兵士たちがすでに整列していた。朝日を受けて輝く鎧と槍が、壮観な光景を作り出している。
「すごい……」
リリアが息を呑む。
(楯列三重、後列に弓、そして工兵……)
ボンノーは布陣を見定めた。
進み出たライハルトが、右拳を胸板に当て、深く礼した。
「聖女リリア様、ボンノー殿。お越しをお待ち申し上げておりました」
厳粛な表情で告げる。
「聖女様、兵士たちにお言葉をいただきたい」
リリアは一瞬息を呑み、胸に掌を当てた。
「私が……千名もの方々に……?」
「リリアちゃんなら大丈夫さ」
ナターシャが優しく肩に手を置く。
ヴィヴィはからりと笑って親指を立てた。
「リリアさんの言葉なら、きっと皆の心に届くよ」
ボンノーも頷いた。
「リリア殿なら、必ずできます」
深呼吸を三度繰り返し、リリアは壇上へと歩みを進めた。
千の視線が一斉に注がれる。その重圧に押し潰されそうになりながらも、顔を上げた。朝日が淡い金髪を輝かせる。
「兵士の皆さま」
澄んだ声が練兵場に響き渡った。
「わたしは聖女リリア――皆さまと同じく、王都セレスティアを、そしてこの国を愛する一人です」
本物の聖女が目の前にいるという事実に、兵士たちの間にかすかなざわめきが起こる。
「まず、枢機卿ヨコマールの罪を告げます」
リリアの声が次第に力を帯びていく。
「枢機卿はレファリアの御名を旗に掲げ、その言葉をねじ曲げ――多くの女性を欺き、拉致し、魔島へと送り続けました。家族を裂き、名を奪い、尊厳を踏みにじりました」
列のあちこちで押し殺した声が漏れた。
「……姉は、シスター見習いとして大聖堂へ出向き帰ってこなかった……」
「妹も"巡礼の列"に混じって消えた……」
「セレスティアの女たちの失踪は……あれのせいだったのか」
槍の石突が土をコツ、と打つ音。握りしめた拳が白くなる。怒りと悔しさが静かな波紋となって隊列を走った。
小隊長の短い制止の笛が鳴る。「静粛!」
列は崩れない。目だけが前を向いて燃えた。
笛の余韻が消えるのを待ち、リリアは言葉を継いだ。
「それはレファリアの教えに明確に背く行いです。歪められた教えと恐怖の鎖で民を縛る――それこそが罪です」
「だからこそ、責めるべきは騙された人々ではない。欺いた者ただ一人――ヨコマールです」
兵士たちの表情が引き締まる。
「レファリアの教えはこうです――『命は連なり』」
リリアは片手を胸に当てた。
「断たれた連なりは癒やし、偽りの鎖は解く。わたしたちは真実を掲げて進みます。騙された人々は、わたしたちが迎え入れ、連なりへ還します」
「正直に申します」
瞳がわずかに潤む。
「わたしも怖い。皆さまも怖いはずです」
共感の波が広がった。
「けれど、恐れは恥ではありません。恐れを抱いたまま一歩を進めること――それが勇気。隣に仲間がいるかぎり、わたしたちは歩けます。手を伸ばせば、必ず誰かの手がある。わたしたちは、連なっています」
壇上から一歩前に出た。
「約束します」
その声に決意が宿る。
「あなたが傷つけば、わたしは駆け寄り、何度でも癒やします。血が止まらねば止まるまで。立てぬ者がいれば、立てるまで。わたしの魔力が尽きるその瞬間まで、決して見捨てません。どうか前を向いてください」
「レファリアの御名において――」
リリアは右手を胸に当て、左の掌を兵たちへ向けた。
「手を取り、輪となれ。わたしが癒やします。わたしたちが支えます。女神レファリアの祝福が皆さまに与えられますように――わたしは祈ります」
朝日が彼女を後光のように包み込む。
「ここに集う千の心よ――」
力強く響き渡る声。
「わたしたちは真実で欺きを祓い、連なりで絶望を退けます。ヨコマールを排し、この国に安寧を取り戻しましょう!」
一瞬の静寂。
そして――
「うおおおおお!」
千名の兵士たちから地響きのような歓声が上がった。槍の石突きが地面を打ち鳴らし、その音が練兵場を震わせる。
ライハルトが前に出て号令を放つ。
「第一小隊から第八小隊は我に続き中央広場へ向かえ!」
八百名の兵士が一斉に動き出す。
「第九小隊は東門、第十小隊は西門に就け。神殿騎士の侵入を阻止せよ!」
「はっ!」
整然とした動きで兵士たちが配置についていく。
「聖女様」
ライハルトがリリアに向き直った。
「見事な戦口上でした。兵の士気は最高潮です」
「あ、ありがとうございます……」
リリアは頬を赤らめながら壇上を降りた。
◆ ◆ ◆
王国騎士団本部――
「姫殿下」
アベルトが口を開く。
「騎士団にも、御言葉を賜りたく存じます」
動ける王族は今は彼女ただ一人。主君の声はひとつ――姫殿下の声のみ。
「承知しました」
クレアは姫騎士専用の紅銀の甲冑に身を包んでいた。胸甲の王家の紋章が、朝日に照らされ、微かに光る。
クレアの表情に覚悟が宿った。
騎士団本部の練兵場には二百名の王国騎士が整列していた。青銀の鎧が朝日を反射し、誇り高い騎士たちの姿がそこにあった。
壇上に立ったクレアは兜を脇に抱え、顔を上げた。
「王国騎士団の皆さま。クレアでございます」
一拍遅れて槍の石突がコツ、と土を打ち、最敬礼が連鎖した。声はない。だが、その沈黙こそが主君に捧げる歓喜だった。
「頭をお上げください。……顔を見て、申し上げます」
騎士たちは一斉に立ち上がり、姿勢を正した。沈黙が場を満たす。
「まず、謝らねばなりません」
クレアの声がわずかに震える。
「あの夜、わたくしは恐れに囚われ、王と都を捨てて逃げてしまいました。姫騎士として恥ずべき振る舞いでございました」
騎士たちは無言で聞いている。
「本日、皆さまの前に立ったのは、許しを乞うためではございません。この身、この剣で贖うために参りました」
剣を高く掲げ、柄に額を一瞬当てて誓いを結ぶ。朝日が剣身を黄金に染める。
やがて刃を下ろし、鞘口に刃を添え、静かに納めた。
「逃げたわたくしの言葉ではございますが――どうか、お力をお貸しください」
真摯な光が瞳に宿る。
「王家の名に甘えるのではなく、責務と覚悟をもって、わたくしが先に立ちます」
「ここでヨコマール枢機卿について申し上げます」
声が熱を帯びる。
「枢機卿は、わたくしの兄・王太子レオシオン殿下を殺害し、わたくしの父・国王ルークス陛下に呪詛を施しました。さらに国の簒奪を目論んでおります」
騎士たちの表情が険しくなる。
「また、目的はいまだ判然としておりませんが、蛇の異形を用いて、国中の女性たちを魔島へ送り続けております」
「これらが示すものはただひとつ」
クレアは一閃の音とともに抜刀し、切先を大聖堂へ真っ直ぐ指した――
「今、枢機卿を討たねば、この国は滅びるでしょう」
静寂が練兵場を支配する。
「万一、わたくしが倒れましたなら、名に構わず旗を掲げ、前へお進みください。ですが、倒れません。最後まで、皆さまと共に立ちます」
声がさらに力強くなる。
「王国騎士団の皆さま、この国のために――この剣、この盾、この心を、民と未来に捧げましょう」
騎士たちの顔が一斉に上がる。
「リヴィエラが誇る勇敢なる騎士たちよ――」
剣を天へと掲げた。その声が練兵場を貫く。
「今こそヨコマール枢機卿を討ち、この国に平和を取り戻しましょう!」
「王のために!」――「応!」
「民のために!」――「応!」
「リヴィエラのために!」――「応!」
規整の取れた三唱が練兵場の石畳を震わせた。
二百名の騎士たちは剣を抜き、天に掲げる。その光景は、まさに王国の誇りそのものだった。
アベルトが指示を飛ばす。
「副団長は半数を率い、王城の神殿騎士を牽制せよ」
「はっ!」
副団長ミュラーが百名の騎士を率いて出撃する。
「残りは我に続き中央広場へ向かえ!」
「はっ!」
◆ ◆ ◆
中央広場――
王都の中心に位置する広大な広場に、王国騎士百名と歩兵大隊八百名が集結した。合わせて九百名の連合軍。
対する神殿騎士は、大聖堂への大通りにバリケードを築き、守りを固めている。
「消魔石が……」
ナターシャが眉をひそめる。
大聖堂に伸びる大通りには複数の消魔石が設置されていた。魔法を無効化する石――これでは魔法戦は不可能だ。
「試してみるのさ」
ナターシャが黒魔法を詠唱する。
『黒ノ五式・ブリザード!』
氷の塊ができる――はずだった。しかし魔法は発動した瞬間に霧散し、跡形もなく消えてしまった。
「やっぱり……完全に魔法を封じられてるのさ」
ナターシャが舌打ちする。
広場中央に張られた大天幕が司令本部となった。
伝令が絶え間なく出入りしている。
「皆さま、こちらへ」
アベルトがボンノーらを司令本部へと案内する。帷をめくると、地図卓――王都の大判地図を貼った作戦用の長机――の向こうでクレアとライハルトが立っていた。クレアは兜を脇に抱え、すぐに歩み出る。
「聖女リリア」
クレアが礼を取った。
「ライハルトより報告を受けました。聖女様のお言葉で歩兵の目が変わりました。心より感謝いたします」
リリアは小さく首を振る。
「クレアさん……いえ、姫殿下。わたしは、皆さまと同じ『連なり』の一つにすぎません」
ライハルトが頷く。
「事実、士気は十分以上です。聖女様の声ひとつで隊の温度が上がった。ありがたい」
クレアは柔らかく微笑む。
「救護と鼓舞の継続を、どうかお願いできますか。リヴィエラのために」
「承知しました」
リリアは掌を胸に当てた。
「倒れた者がいれば、すぐ癒やします」
「では、リリア殿とナターシャ殿は、臨時救護施設へ」
ライハルトが説明する。
「王族派貴族の屋敷を救護所として提供していただきました。大通りでは魔法が使えませんので、そちらで救護活動をお願いします」
「わかりました。怪我人が出たら、すぐに運んでください」
リリアが頷く。
「あたいも救護所で待機するのさ。魔法が使えない場所じゃ、あたいも役に立たないからね」
ナターシャも同意する。
◆ ◆ ◆
午前九時――
ついに口火が切られた。
「放てぇ!」
両軍から一斉に矢が放たれる。空が一瞬、黒く染まる。矢の雨がバリケードを叩きつけた。
双方はバリケードに身を潜め、決定打は出ない。盾の縁に矢が噛み、鉄の唸りが腕に痺れを残す。担架が行き、戻る。誰も前へ出られない。
聖堂前へ続く大通りには三層のバリケード。荷車と長椅子、祭壇板を噛み合わせた急造の胸壁――その狭間から矢が走る。
「このままでは埒が明かない」
アベルトが苦い表情を浮かべる。
「しかし、大通りと接する側道には伏兵の配置が予想されます」
ライハルトが地図を見ながら言う。
「うかつに攻め込めば、挟撃される恐れがある」
一日中、弓矢の打ち合いが続いた。時折、勇敢な兵士が前に出ようとするが、集中砲火を浴びてすぐに後退を余儀なくされる。
「持久戦か……」
ボンノーが錫杖を握りしめながら呟く。
「時間が経てば経つほど、ヨコマール派の増援が来る可能性が高まります」
クレアが焦燥感を募らせる。
アベルトが地図卓の縁を指で叩き、低く問う。
「何か、打開策はないのか」
◆ ◆ ◆
救護所では、リリアとナターシャが負傷兵の手当てに追われていた。
「この傷、深いわ……」
リリアが兵士の腕の矢傷を見つめる。
『白ノ五式・聖ヒール!』
淡い光が傷口を包み、徐々に塞がっていく。
「ありがとうございます、聖女様……」
兵士が感謝の言葉を述べる。
◆ ◆ ◆
夕刻――
長い一日が終わろうとしていた。両軍とも決定的な戦果を上げることなく、睨み合いが続いている。
「日が暮れる……」
ヴィヴィが西の空を見上げる。夕日が王都を赤く染めていく。
そして――
ゴォォォン……
大聖堂の鐘楼から重い鐘の音が響き始めた。
一つ、二つ、三つ……
「九回……」
ボンノーが数える。
九度目の鐘が鳴り終わると、再び静寂が訪れた。
◆ ◆ ◆
「撃ち方止め。全隊、陣形を維持し対峙せよ。突出を禁ず」
アベルトが決断を下す。
「夜襲の危険もある。交代で警戒に当たりながら、明日に備える」
「承知しました」
ライハルトが頷く。
兵士たちは順次、持ち場を交代した。楯列は据え置かれ、やがて弦の唸りが遠のく。矢の応酬は止んだ。
◆ ◆ ◆
司令本部にて――
「明日こそ、手を打たねば」
アベルトは拳を固く握った。焦りは隠せない。
「ヨコマール派の貴族軍が到着する前に、決着をつけねばなりません」
ライハルトが低く言う。
「うむ」
ボンノーは短く頷いた。
「消魔石さえなければ、もっと戦いようがあるのですが」
「あの石を破壊する方法はないのかなぁ?」
ヴィヴィが尋ねる。
「難しいでしょう」
アベルトが首を振る。
「敵の制圧下にある以上、近づくことすら困難です」
◆ ◆ ◆
同時刻、大聖堂・枢機卿執務室――
扉が叩かれ、侍従長が膝をつく。
「報告。歩兵大隊の練兵場にて"聖女"を名乗る女が口上を。敵兵らは加護を受けたと騒いでおります」
ヨコマールの爬虫類めいた瞳孔が細く収縮した。黒い指輪がかすかに紫を宿す。
「触れを出せ。『現れた聖女は偽り』と。真贋を口にする者は異端として処す。よいな」
「はっ」
侍従長が退くと、室内に第九の晩鐘の余韻が震えた。
(……なぜ生きておる。無能がしくじったか。それとも――)
(アベルトの呪詛が解けた時点で兆しはあった。"一式ごとき"で解けぬ縛めが破られた。ならば、同じ手が聖女にも及んだと見るべきよ)
指の黒い指輪が紫光を一瞬、鋭く脈打つ。
(フソウ様に仇なす脅威だ。――余が自ら始末せねばなるまい)
――セレスティア滅亡まで、あと五日――




