第41話 拙僧、決戦前夜に王国の運命を背負う
九月三日、朝。
アベルト屋敷・玄関前――
朝靄が薄れゆく中、栗毛の馬二頭立ての馬車が玄関先に準備されていた。王国騎士団の紋章が車体に誇らしく掲げられている。
深いローブを羽織ったボンノーが御者台に腰を下ろし、錫杖を手の届く場所に置いた。
クレアが兜を脇に抱え、静かに頷いて車内へと乗り込む。今日から彼女は、ただの冒険者グレアではない――王女クレアとして、騎士団を率いる覚悟を決めていた。
戸口に立つソフィアが深々と頭を下げた。
「どうかご無事で。アベルトは本部でお待ちです。必ずお戻りくださいませ
エルナが母の袖を握りしめたまま、幼いながらも毅然とした表情を見せる。
「わたし、ちゃんと留守番するから……だから、負けないで。ボンノーさん、クレア姉さま――お父さまをお願いします」
その言葉に、クレアの瞳が一瞬揺れた。振り返り、残る仲間たちへ視線を向ける。
「リリア、ヴィヴィ、ナターシャ――ソフィア様とエルナの護衛を頼みます
リリアは頷いた。「任せてください」
ヴィヴィが大盾を軽く持ち上げ、いつもの調子で応える。「任せて〜。誰も通さないから」
ナターシャも優しく微笑んだ。「心配ないのさ。しっかり守るよ」
ボンノーが振り返り、短く頭を下げた。
「留守は頼む。クレア殿は騎士団本部に残るが、拙僧は必ず戻るつもりじゃ
手綱を軽く捌くと、馬が嘶きを上げた。
「参りましょう」
クレアの静かな声と共に、馬車が動き出す。車輪が石畳を噛む音だけが朝の静寂に響き、屋敷の前に残った仲間たちの姿が次第に小さくなっていった。
◆ ◆ ◆
戒厳令下の王都は、不気味なほどに静まり返っていた。
石畳の大通りを進む馬車の車輪の音だけが、朝の静寂を破る。商店の鎧戸は固く閉ざされ、人影はまばら――手押し車の細い轍だけが湿った石畳に細い線を残していた。
御者台で手綱を操りながら、ボンノーは思案する。
(決戦の時が迫っておる。まずは騎士団本部で作戦を詰め、そして……)
車内では、クレアが膝の上の兜に指を添えていた。深く息を吸い、止め、ゆっくりと吐く――この呼吸法を三度繰り返す。
(恐れはある。けれど、それでいい。恐れを知ってなお前に出る――それが王家の血を継ぐ者の務め)
車輪が小さな段差を越え、馬車がわずかに跳ねた。王都が息を潜めるなか、その音だけが不釣り合いに大きく響いた。
◆ ◆ ◆
王国騎士団本部――
青い旗が朝風にはためく石造りの庁舎が見えてきた。重厚な門扉が左右に開かれ、その奥には青銀の胸甲をまとった騎士たちが二列に整列していた。
馬車が門をくぐり、中庭で止まる。
当直隊長の凛とした声が響き渡った。
「姫殿下、ご到着! 全員――最敬礼!」
槍の石突きが石畳を一斉に打った。鳴り止むや、騎士たちは片膝をつき、槍の柄に額を寄せて深く頭を垂れた。
ボンノーは御者台から軽く会釈し、馬を控えに回す。クレアは兜を手に降り立ち、静かに一礼した。
「皆さま、頭をお上げください」
クレアの澄んだ声に、騎士たちが一斉に顔を上げる。その瞬間、多くの者が息を呑んだ。亜麻色の髪が朝日に輝き、凛とした美貌がはっきりと見える――まさに王家の血筋を物語る気品がそこにあった。
当直隊長が一歩前に出て、胸に拳を当てた。
「王国騎士団一同、姫殿下のご帰還を心よりお待ち申し上げておりました。団長アベルトが広間にてお待ちです」
「案内を」
「はっ!」
広間の扉をくぐると、青銀のプレートアーマーに身を固めたアベルトが自ら迎え出た。昨日まで病床にあったとは思えぬほど、その姿は凛々しく力強い。
「姫殿下、お待ちしておりました」
クレアが広間に一歩踏み出すと、その瞬間――
「あ……」
「まさか、本当に……」
息を呑む声があちこちから漏れ、次の瞬間、広間にいた全員が一斉に跪いた
「姫殿下!」
「よくぞご無事で!」
甲冑の擦れる音と、感極まった声が広間に満ちる。
「皆さま、どうか頭をお上げください」
クレアが穏やかに告げると、騎士たちはゆっくり立ち上がった。その瞳は揺るぎない忠誠とわずかな高揚を帯びていた。
その光景を見守っていたボンノーは、心の奥底で深い感動を覚えていた。
(本当に姫だったのですな……)
冒険者「グレア」として出会った時の彼女とは、まるで別人のようだった。いや、違う――これこそが彼女の本来の姿なのだ。
騎士たちの眼差しに宿る敬愛の光、クレアの一挙手一投足に備わる自然な威厳――それは決して演技などではない、生まれながらの王族としての風格だった。
(この方こそが、真のリヴィエラの姫君……)
◆ ◆ ◆
「会議室へ移りましょう」
アベルトの案内で一同は会議室へと向かった。
大きな円卓を囲むように椅子が配置され、壁には王旗と騎士団旗が並んで掲げられている。
「ライハルト殿も、まもなく到着されるはずです」
アベルトが懐中時計を確認した瞬間、扉をノックする音が響く。
「失礼いたします」
現れたのは煤色の髪の軍人――歩兵大隊長ライハルトだった。その視線がクレアを捉えると、即座に背筋を伸ばし敬礼の姿勢を取る。
「このライハルト、姫殿下のご意志に従います。王国のため、命を賭して戦う所存です」
「心強いお言葉です、ライハルト様」
クレアは静かに頷く。
「では、作戦会議を始めましょう」
アベルトが大きな地図を円卓に広げた。大聖堂を中心とした王都の詳細な市街図が、そこには描かれていた。
姫と二人の軍人、そして一人の僧侶が円卓を囲んだ。
会議の詳細な内容は後日の行動で明らかになるが――夕刻まで続いた長い話し合いの末、ついに重大な決定が下された。
「明日の朝、八時に決起する」
アベルトの重い声が会議室に響いた。
「いよいよ、ヨコマール枢機卿との決戦です」
ライハルトは拳を強く握りしめた。
「長い戦いになるでしょうが、必ず勝利を掴みます」
クレアは息を整え、視線を巡らせた。
「力を合わせましょう。王都は必ず取り戻します――わたくしたちの手で」
ボンノーも静かに、しかし力強く頷いた。
「拙僧も、微力ながらお力添えいたします」
◆ ◆ ◆
夕刻――
大聖堂の鐘楼から、重い鐘の音が八回響き渡った。
ゴォォォン――ゴォォォン――
八度目の鐘の音が王都に染み渡り、やがて静寂が戻る。
◆ ◆ ◆
同刻――大聖堂ヨコマール枢機卿室
石造りの重厚な部屋で、枢機卿ヨコマールが椅子から立ち上がった。
「何じゃと……アベルトが復活しただと?」
密偵からの報告を受け、爬虫類じみた瞳孔が針のように収縮する。
「フソウ様の呪詛は、一式ごときでは解呪できぬ……いったい誰が?」
黒い指輪をはめた指が、杖頭を強く握りしめる。
「ライハルトを呼べ。直ちに召集せよ」
「はっ、猊下」
侍従が深く一礼し、廊下へ合図を送る。伝令が慌ただしく駆け出していった
しかし一時間後――
「申し訳ございません、猊下」
伝令が青ざめた顔で戻ってきた。その表情には明らかな動揺が見て取れる。
「ライハルト司令官は体調不良とのことで……召集には応じられないと申しております」
「何じゃと……?」
ヨコマールの眉根が険しく寄る。命令に忠実なライハルトが、召集を拒むなど前代未聞だった。
「これは……まさか」
黒い指輪が淡く紫に脈動する。
「……よい。むしろ好機だ。人の兵を減らせる」
唇の端が、わずかに吊り上がった。
「じゃが、手は打たねばならぬ」
ヨコマールが杖で床を打つ。
「神殿騎士団長ヘイゲルを呼べ」
「はっ、猊下」
ほどなくして、白銀の甲冑に身を包んだヘイゲルが静かな足取りで入室した。レファリアの聖杯印が胸甲に刻まれ、鉄灰色の短髪が整然と揃い、灰緑の瞳に静かな光が宿る。
「神殿騎士団長ヘイゲル、猊下の御前に参上いたしました」
ヨコマールは杖頭で床石を一打し、命令を下し始めた。
「広場から大聖堂へ通じる大通りに、直ちにバリケードを築け。資材は民間から徴発してよい」
「大聖堂へ続く側道はすべて障害物を設け、完全に封鎖せよ」
「市門や関所で検問中の隊は、即刻王都へ復帰させよ」
「王城守備隊へは、余の命令状を届けよ」
「そして貴族どもの援軍も、まもなく到着するはずじゃ」
内心でヨコマールは冷笑する。
(……実際には、しておらぬがな)
「レファリア教がこの国を支配するのもあと少しぞ、今が正念場じゃ」
「はっ、猊下。直ちに手配いたします!」
ヘイゲルが深く一礼する。
「それだけではない」
ヨコマールの目が妖しく光った。
「余みずから出向き、側道という側道に〈ホーリーウォール・ドレイ〉を張り巡らせる」
杖先に淡い紫の光が灯る。室内の空気、わずかに冷える。
その規模の結界など、もはや人を超えた存在となった彼には造作もないことだった。
◆ ◆ ◆
王国騎士団本部――夜
「報告! 猊下が大聖堂周辺にバリケードを築き始めたとのことです」
斥候からの急報を受け、アベルトが険しい表情を見せた。
「予想以上に向こうの動きが早い……」
ライハルトが地図に目を落とし、素早く思考を巡らせる。
「ならば、こちらも先手を打つべきです。南門経由の侵入を封じるため、要所を今のうちに押さえましょう――ヨコマールが気づく前に」
アベルトが即座に決断を下し、副団長のミュラーに向き直った。三十代後半、刈り上げた青髪の男が一歩前に出る。
「副団長、王国騎士団百騎を二隊に編成せよ。各隊に隊長を立て、西門と東門の管理権を治安隊から委譲してもらえ」
クレアが立ち上がり、羊皮紙に署名する。
「姫殿下臨時令(王権代行の臨時命令書)をお渡しします。これで門の管理権を移譲できるはずです」
「承知いたしました! 直ちに実行します」
ミュラー副団長が敬礼をして、部下と共に駆け出していく。
一時間後――
「報告します!」
ミュラー副団長が息を切らせて戻ってきた。
「治安隊隊長が姫殿下臨時令を確認し、西門と東門は我が王国騎士団の支配下に入りました。神殿側の妨害はありませんでした」
「よし! うまくいった」
アベルトが拳を握る。姫殿下臨時令は神殿の布告に形式上優先する――治安隊は法的に従わざるを得なかったのだ。
「これで、南門からの奇襲は防げる」
◆ ◆ ◆
アベルト屋敷――深夜
ボンノーが一人で馬車を走らせて屋敷に戻ると、玄関には温かい明かりが灯っていた。
クレアは王都奪還軍の総大将として、アベルト、ライハルトと共に騎士団本部に残り、明日の決戦に向けた最終準備を続けている。
「お帰りなさいませ、ボンノー様」
ソフィアが玄関で深く頭を下げて出迎える。
リリアが不安そうな表情で近づいてきた。
「明日……いよいよ決戦ですね」
「うむ。明日からが、セレスティアを取り戻す戦いの本番じゃ」
ボンノーが錫杖を床に立て、仲間たちを見回した。
「みんな、今夜はしっかり休むのじゃ。明日に備えて体力を蓄えておく必要がある。戦いは長期戦になるやもしれぬ」
ナターシャが頷く。
「そうだね。今できることは、しっかり休んで明日に備えることだけさ」
ヴィヴィも大盾を壁に立てかけながら言った。
「そうね〜。お腹いっぱい食べて、ぐっすり寝て、明日は全力で戦うよ〜」
◆ ◆ ◆
同じ頃、王国騎士団本部では――
アベルトとライハルトが、蝋燭の灯りの下で最後の作戦確認を行っていた。
「我が方の戦力――騎士団二百、歩兵大隊一千。合計千二百」
「対する敵は、神殿騎士四百に高位神官十名……数では我々が優勢です」
ライハルトが険しい表情で続ける。
「現状は数も有利、士気でも圧倒的に上回っています。兵士たちは皆、姫殿下のために命を賭ける覚悟です」
「問題は――」
アベルトが窓の外、暗闇に包まれた王都を見つめた。
「ヨコマール派貴族軍の襲来です。もし彼らが到着すれば、戦況は一変する。時間との勝負になるでしょう」
ライハルトが地図の西門を指で叩いた。
「西門は既に確保済みです。王国派貴族への援軍要請は西門から密使を送りました。王家直轄領にも既に派兵を求めてあります。うまくいけば、三日後には援軍が到着するはずです」
二人の軍人の瞳に、揺るぎない決意が宿っていた。この戦いに、王国の未来がかかっている。
◆ ◆ ◆
王都セレスティアの夜は更けていく。
戒厳令下の街に人影はなく、ただ風だけが石畳の上を吹き抜けていく。
しかし、見えない場所で、それぞれの陣営が明日への準備を着々と進めていた。
大聖堂では結界の構築が進み、騎士団本部では武器の手入れと作戦の最終確認が行われ、アベルト屋敷では仲間たちが束の間の休息を取っている。
王都の運命を決する最終決戦が、ついに幕を開けようとしていた。
明日の朝八時――すべてが動き出す。
――セレスティア滅亡まで、あと六日――




