第39話 拙僧、聖女の夜這いを受ける
王都セレスティア・王国騎士団長邸――
深夜。月明かりさえ雲に隠れ、屋敷は静寂に包まれていた。
廊下の片隅で、一つの影がそっと動いた。
リリアだった。
薄い寝間着姿のまま、裸足で廊下を進む。冷たい床が足裏を刺すが、それすら今の彼女には感じられない。
心臓が早鐘のように打っている。
(私は一体、何をしようとしているのでしょう……)
理性が警鐘を鳴らし続けている。聖女として、これは許されない行為だ。けれど足は、意志を宿した別の生き物のように、ぬくもりの在処へと向かっていく。
ボンノーの部屋の前。
扉の木目を見つめたまま、永遠とも思える数秒が過ぎた。
(でも……)
脳裏に焼き付いて離れない光景がある。
クレアとの事故のキス――偶然とはいえ、確かに唇が触れ合った瞬間。
ヴィヴィへの人工呼吸――命を救うためとはいえ、また誰かと口づけを交わす彼。
その度に、胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。嫉妬という名の黒い炎が、聖女の仮面を内側から焼き尽くそうとしている。
(私だけ……私だけ何もないなんて……)
震える手がドアノブを掴む。冷たい真鍮の感触が、最後の理性を凍らせた。
静かに、扉が開く。
◆ ◆ ◆
部屋の中は暗かった。
わずかに差し込む月光が、ベッドの輪郭だけを朧げに浮かび上がらせている。
「ぼんのうがぁ……ぼんの……むにゃむにゃ……」
寝言が聞こえる。完全に深い眠りの底にいる証拠だった。
リリアは呼吸を殺して近づく。一歩、また一歩。
ベッドの横に立ち、月明かりに照らされた寝顔を見下ろした。
普段の凛とした表情は消え、まるで無垢な子供のような顔がそこにあった。眉間の皺もなく、口元は微かに緩んで、時折小さく寝息を立てている。
(こんな顔もするのですね、ボンちゃん……)
思わず頬が緩む。同時に、胸の奥で何かが疼いた。
震える手で上掛けの端を持ち上げる。そして、その温もりの中へと身を滑り込ませた。
ボンノーの隣に横たわり、その寝顔をじっと見つめる。
手を伸ばせば届く距離。
体温が伝わってくるような錯覚。
(いつから……いつから好きになったのでしょう)
記憶の扉が次々と開いていく。
死の淵から引き戻してくれた、あの手。
ゴブリン・シャーマンの業火から身を挺して庇ってくれた、あの背。
川釣りで足を滑らせた私を抱きとめてくれた、あの腕。
――クレアさんとの"事故"。
その時、胸に湧いたかすかな感情を、私は見ないふりをした。
二人きりで歩いた石畳の道――あの時間は、私の宝物。
――ヴィヴィちゃんへの"救命行為"。
また誰かと唇を重ねる彼を見て、それが――嫉妬だと自覚した。
(ずるいです、ボンちゃん)
リリアの瞳に熱いものが込み上げる。涙が月光を反射して、小さな真珠のように輝いた。
(クレアさんとも、ヴィヴィちゃんとも……)
薄い寝間着の胸元を掴む。絹の感触が、今にも千切れそうなほど強く握りしめられる。
(私だけ……私だけ何もないなんて)
聖女として生きてきた十六年間。清らかであることを求められ、恋愛など考える余地もなかった。神に仕え、人々を導く――それが私の使命だと信じて疑わなかった。
でも今は――
(こんなに胸が苦しくなるなんて……こんなに誰かを求めてしまうなんて……知らなかった
涙が頬を伝い、枕を濡らす。視界がぼやけ、ボンノーの顔が水の向こうに揺れる。
そして、リリアは覚悟を決めた。
上体を起こし、ボンノーの顔を見下ろす。
淡い金髪が月光を受けて、天使のような美しさを放つ。
「好きです」
囁くような、けれど確かな声。
「好きです、ボンちゃん」
もう一度、今度ははっきりと。
言葉にすることで、想いが形を持った。もう後戻りはできない。
ゆっくりと、まるで時間が引き延ばされたかのように、顔を近づけていく。
彼の吐息が頬をくすぐる。
睫毛の一本一本まで見える距離。
唇まで、あと数ミリ――
そして――
唇が、触れ合った。
一秒。
柔らかい感触に、リリアの全身が震える。
二秒。
ただ、その温もりを確かめる。
三秒。
突然、リリアの身体がほのかに光り始めた。
淡い金色の光が、薄闇の中で静かに輝く。
(え……? 何、これ……?)
四秒、五秒。
光はさらに強くなっていく。まるで身体の奥底に眠っていた何かが、目覚めようとしているかのように。
六秒。
輝きが増し、神聖な光が空間を満たしていく。
(これは……私の中の、何かが……)
七秒、八秒。
もっと深く、もっと強く。唇を押し当て、彼の存在を確かめるように。
九秒。
眩い光がリリアの全身を包み込んだ。
神聖な力が血管を駆け巡り、細胞の一つ一つが歓喜に震えているような――そんな感覚。
十秒――
「ぁ……」
小さな吐息が漏れた。
全身から力が抜け、満たされた感覚だけが残る。
そのまま、ボンノーの隣に崩れるように横たわった。
光は徐々に収束し、部屋は再び静寂に包まれる。
(温かいものが、私の全てを満たしていく……これは、きっと)
思考が溶けていく。満ち足りた心に、意識がゆっくりと沈んでいく。
やがて、深い眠りの海へと――
◆ ◆ ◆
早朝――
東の空が白み始め、朝日の最初の光が窓から差し込み始めた頃。
ボンノーの意識が、ゆっくりと覚醒していく。
(むぅ……なんじゃ、この妙な感覚は……)
甘い香りが鼻腔をくすぐる。花のような、蜜のような、不思議と心地よい香り。
そして、隣に感じる温もり。柔らかく、温かい何かが密着している――
瞼が開く。
視界に飛び込んできたのは、朝日に輝く淡い金髪。
そして、薄絹の寝間着に包まれた、女性の身体。
しかも、かなり密着した状態で。
寝間着の肩紐がずれ、白い肩が露わになっている。
一瞬、時間が止まり、思考が停止した。
そして――
「なむさんぽーーーーーーぉぉおおぉぉううぅう!」
ボンノーの絶叫が、朝の静寂を引き裂いた。
錫杖が床に転がり、カランカランと甲高い音を立てる。
「な、な、な、なんでリリア殿が拙僧の寝床に!?」
慌てて跳ね起きようとして、足が絡まり盛大にベッドから転げ落ちる。
「いたたた……こ、これは夢か――いや、夢じゃない――いやいや煩悩じゃ!」
混乱の極みに達したボンノーは――
「ぶはっ!、ぼんのうが……ぼんのうがぁ……」
鼻先に熱が集まり、赤い一筋がつ、と落ちる。
そのまま、ぱたりと気絶。
廊下に足音が響く。
ドンドンドン!
激しくドアを叩く音。
「ボンノー! どうした!? 大丈夫か!?」
クレアの切迫した声。
「ボンノーさん! 何があったの!?」
ヴィヴィも駆けつけてきた。
「朝から騒がしいのさ〜! いったい何事〜!?」
ナターシャまで現れる。
扉が勢いよく開け放たれ、三人がなだれ込んできた。
そして――
全員が、息を呑んだ。
ベッドの上には、寝間着の肩紐がずれ落ちた状態のリリア。
床には、鼻血を流して気絶しているボンノー。
状況証拠が、ある一つの結論を強烈に示唆している。
「これは……まさか……」
クレアの声が震える。
「え、ええっ!? ま、まさか二人は……その……」
ヴィヴィも顔を真っ赤にする。
「おやおや〜、朝から大胆なのさ〜」
ナターシャだけが、にやにやと笑っている。
騒ぎで、リリアも目を覚ました。
「んっ……あら?」
寝ぼけ眼で周りを見回す。
状況を把握するのに数秒。
そして――
顔が、耳まで真っ赤に染まった。
「ち、違います! これは……その……あの……」
必死に言い訳を探す。しかし頭は真っ白で、何も思いつかない。
そして苦し紛れに――
「ね、寝ぼけて! 寝ぼけて間違えてボンノーさまのお部屋で寝てしまっただけです!」
苦し紛れの嘘。
(レファリア様、嘘をついてごめんなさい……でも、本当のことなんて言えません……)
心の中で必死に謝罪する。
「本当に? 本当にそれだけ?」
クレアが疑いの眼差しを向ける。鋭い視線が突き刺さる。
「ほ、本当ですってば……ただ、間違えただけで……」
袖口をぎゅっと握りしめ、視線が泳ぐ。
声が上ずり、明らかに動揺している。
◆ ◆ ◆
その時――
廊下から、ソフィアの切迫した声が響いた。
「エルナが――エルナが――」
血相を変えた様子に、四人が一斉に廊下へ飛び出す。
ソフィアは聖レファリア女学院の紋章入り急信封を震える手で握りしめ、顔面蒼白になっていた。
「ど、どうしたんですか、ソフィア様!?」
クレアが駆け寄り、肩を支える。
「エルナが……私の娘が……」
震える唇から、途切れ途切れに言葉が漏れる。
「昨日の夕方から……行方不明なんです」
その一言に、空気が凍りついた。
「エルナちゃんが!?」
クレアの顔から血の気が引く。
アルセイン夫妻の一人娘、エルナ・フォン・アルセイン、十三歳。
聖レファリア女学院の優等生で、誰からも愛される少女。
「学院から緊急の連絡が……昨日、外出許可を取って出かけたまま……門限になっても戻らず……」
ソフィアの膝が崩れ、床に崩れ落ちる。
「私の……私の大切な娘が……どこに……」
涙が堰を切ったように溢れ出す。
クレアはそっとソフィアの震える手を両手で包み込んだ。
その手の冷たさに、事態の深刻さを改めて実感する。
王都セレスティアは、戒厳令発布から七日目の朝を迎えていた――




