第37話 吾輩、港湾区の闇に触れる
王都セレスティア・港湾区――
夜闇が三番通りを包む中、灰銀の牙一行は『錨と樽』と看板を掲げたアジトへと帰還した。古びた商会を装った建物の重い扉を開けると、そこには意外なほど整った屋敷の内装が広がっていた。
「にゃにゃ! 立派な屋敷にゃ!」
ミケケが三毛柄の耳をぴくぴくさせ、スカイブルーの瞳を輝かせて見回す。
「立派……ねぇ」
ユリスが苦笑いを浮かべた。二階建ての堂々たる造り、応接間、書斎、複数の個室、地下倉庫――二十歳のザリオが持つには不相応なほどの屋敷だ。
(過去の悪事で荒稼ぎした結果よね……)
「レディのたしなみに、お風呂は必須にゃ。あるにゃ?」
ミケケの耳がぴこっと動く。
「ああ、一階にちゃんとした浴室がある。個室も八つ、客間も二つだ」
「すごいにゃ〜! まるで貴族の屋敷みたいにゃ!」
尻尾を振るミケケに、ザリオは複雑な表情を浮かべた。かつては手段を選ばず、他の冒険者を蹴落として稼いだ金で手に入れた屋敷。今となっては恥ずかしい過去の象徴だ。
「まあ……昔のことだ」
「ユリス、アジトのことは頼む。俺は情報収集に行ってくる」
灰銀色の鎧を脱ぎ、目立たない格好に着替えたザリオが告げる。
「女性失踪の件、何か掴めるかもしれない」
「わかったわ。気をつけて」
「アア、キヲツケロ」
ドランも短く言葉を添え、ザリオは夜の街へと消えていった。
「本当にすごい家にゃ。浴室には大理石の湯船まであるにゃ!」
二階を探検して戻ってきたミケケが報告する。
「昔のザリオは、本当に荒稼ぎしてたのよね……でも、ボンノー様のおかげで改心できた。今は正しい道を歩んでいるわ」
ユリスがため息をつく。厨房も立派で、調理器具が一通り揃い、食糧庫には保存食や干し肉、ワインまで備蓄されていた。
◆ ◆ ◆
深夜二時頃――
眠れずにいたネルムは、二階の窓から月光に照らされた港を眺めていた。
(こんな時間に起きているなんて……)
カタカタカタ……
遠くから馬車の音が聞こえてきた。
(深夜に馬車? 戒厳令下なのに?)
眼鏡を押し上げ、音のする方向を凝視する。だが――
「何も……見えない?」
車輪が石畳を転がる音、馬の蹄の音は確かに近づいてくる。しかし、視界には何も映らない。
いや、待て――
「!」
一瞬、空間が歪んだ。透明な何かが通り過ぎたように、景色が不自然に屈折する。
(認識阻害……?)
魔力を有するネルムは、空気のわずかなひずみを捉えた。音は港の方へと消えていった。
◆ ◆ ◆
翌朝――
小雨が屋根を叩き、石畳を黒く濡らしていた。窓の隙間から港の塩気を含んだ湿った空気が忍び込み、室内を重くする。
食堂の長卓に温かいスープとパンが並び、全員で静かに朝食をとっていた。
「……変態坊主に抱きつかれてから、たまに変な夢を見るにゃ。『だい…ぼ…』『みょ…こう…いけ?』って言葉だけ残るのにゃ。でも、肝心の中身はもう覚えてないにゃ」
椅子の上で尾をぱたぱたさせながら、ミケケがぽつりとこぼす。
扉がきしみ、雨の匂いとともにザリオが入ってきた。
「……今戻った」
その声は重い。ユリスが立ち上がり、亜麻の布で外套の雫を拭い、温かい椀を手渡した。
「おかえり。……どうだった?」
「王都でも原因不明の若い女性の失踪事件が起きている。だが、それ以上の情報は得られなかった。皆、口を閉ざしている」
ザリオが椅子に座りながら報告する。
「そういえば」
ネルムが眼鏡のブリッジを押さえ、昨夜の出来事を語った。
「音だけする馬車が通った。視界は空白のまま、空間がたわんだ。音の尾は港へ抜けた――歪みの向きからして、行き先は港の廃棄区画だろう」
「認識阻害の馬車にゃ?」
ミケケの耳がぴんと立つ。
「廃棄区画へ向かったって?」
ザリオが身を乗り出す。
「あそこは未開発で廃棄された砂浜エリアだ。遊泳目的で作られる予定だったが、計画が頓挫して放置されている」
「誰も来ない場所ってことね」
ユリスが鋭く分析する。
「調査が必要にゃ。吾輩とネルムで、まず昼間に下見するにゃ」
ミケケが立ち上がった。
◆ ◆ ◆
午後――
霧雨に濡れた石畳が黒く光り、潮の匂いが濃く立ち込める。釣り人に扮したミケケとネルムは、フードを目深に被って港へ向かった。
「こうすれば怪しまれないにゃ」
釣り竿を持ち、のんびりと港を歩く。しばらく釣りをしていると――
浮きが一気に消え、竿がぐいと弓なりに曲がる。糸が鋭く鳴った。
「お、引いてる!」
水面を裂く銀青の背――ネルムが合わせる。
「カツオだ!」
「にゃにゃにゃ! カツオにゃ!」
ミケケの尻尾がメトロノームのように忙しく揺れ、よだれがぽたぽたと垂れる。レディのたしなみ、ここに崩壊。
釣りを装いながら、二人は人影の絶えた砂浜の廃棄区画へと距離を詰めていった。
「ネルム、あっちにゃ」
ミケケが鼻をひくひくさせる。
「かすかな瘴気を感じるにゃ」
廃棄エリアの最奥に近づくと、確かに違和感があった。砂浜には、海へ続くかすかな足跡。
「これは……」
ネルムが砂の中から何かを拾い上げる。
「赤魔石の粒だ」
「赤魔石にゃ?」
ネルムは指先で砂を払い、短く頷いた。
「普段は無害だが、魔力を加えると爆発する」
「……なんでこんな場所に?」
一通り調査を終え、二人は屋敷へ戻った。
◆ ◆ ◆
夕方――
ネルムが釣り上げたカツオは、煉瓦積みの暖炉で皮目だけを素早く炙られ、香ばしい半生に仕立てられた。切り分けた身に刻んだパセリとタイム、砕いた黒胡椒を混ぜた粗塩を薄く振り、葡萄酢を一滴。香ばしさと冷たい身の落差が舌でほどけ、脂の甘みは香草と酸でふっと軽くなる。
「うまいにゃ〜!」
ミケケは我を忘れて食べまくる。
「ミケケ、レディのたしなみを忘れないの。ほら、ゆっくり、上品に」
ユリスはハンカチでミケケの口元をそっと拭い、微笑んだ。
食事をしながら、調査結果が報告された。
「廃棄エリアで瘴気と赤魔石を発見したにゃ」
「そして海へ続く足跡も」
「これは怪しいな」
ザリオが腕を組む。
「今夜、張り込みをするにゃ!」
ミケケがフォークを置き、尾を一度だけ振った。
「理由は三つにゃ。一つ、昨夜ネルムが聞いた異音と視線が滑るような歪みは港の廃棄区画の最奥まで伸びてたにゃ。二つ、砂地に荷下ろしの跡、赤魔石の粒、瘴気の残り香にゃ。三つ、夜間だけ動く認識阻害がかかった馬車。誘拐か密輸――きっと何か分かるはずにゃ!」
ネルムは眼鏡のブリッジを押さえ、短く頷いた。
「賛成です。観測は僕がやる。歪みを見る目はある」
ザリオは卓上の簡易地図に目を落とし、ひと呼吸置いて結論を出した。
「……分かった。ミケケの読みを信じる。今夜、動く」
◆ ◆ ◆
夜――港の廃棄された砂浜エリア
灰銀の牙一行は、瓦礫の陰に身を潜めていた。月は雲に隠れ、暗闇が辺りを包む。波の音だけが静かに響いていた。
「静かにゃ……」
ミケケが緊張した様子で耳を澄ませる。
一時間、二時間と時間が過ぎていく。
そして、深夜――
カタカタカタ……
「来た……!」
ネルムが小声で警告する。視界の端で景色がわずかに折れた。空間の歪み――認識阻害だ。
馬車の音は近づき、彼らが隠れている場所のすぐ近くで止まった。しかし、やはり姿は見えない。
「出るか!」
ザリオが剣の柄に手をかける。
「まだにゃ」
ミケケがザリオの腕を掴んで制止する。
次の瞬間――
空間が歪み、何もない空中から異形の存在が現れた。
「な、なんなの、あれ……!」
ユリスが息を呑む。
現れたのは、蛇の頭をした人間のような怪物だった。鱗に覆われた身体、縦に割れた瞳孔、舌をちろちろと出しながら動く異様な姿。
蛇頭の怪物は、空間から何かを引きずり出し始めた。
それは――女性だった。
若い女性が、意識を失った状態で一人ずつ砂浜に降ろされていく。
一人、二人、三人……十人。
次々と女性たちが運び出される。全員が深い眠りについているようだった。
「これが……失踪事件の真相か」
ザリオが怒りを込めて呟く。
「ユルサナイ……」
ドランも低い声で唸る。
蛇頭の怪物は、女性たちを砂浜に並べ終えると、赤魔石の入った袋を置いた。そして、何事もなかったかのように空間に消えていく。
馬車の音が、闇の中へと遠ざかっていった。
静寂が戻る。
波の音だけが、不気味な光景を包んでいる。砂浜には、眠らされた女性たちと、赤魔石の袋だけが残されていた。
ミケケの耳が、不安そうに伏せられた。
何か恐ろしいことが、この王都で進行している――




