第36話 拙僧、王都の情勢を知る
王都セレスティア――レファリア教団大聖堂
礼を略して扉が開き、侍従長が片膝をついた。
「ヨコマール枢機卿猊下、至急の報せにございます」
「何事じゃ」
ヨコマールは執筆していた羽ペンを置き、爬虫類めいた細い目で部下を見据えた。50代半ばの端正な顔に、表情はない。
「昨日の夕刻、東の検問所が何者かに突破されました。神殿騎士十名全員が木に縛られた状態で発見されております」
「ほう……」
黒い指輪が、淡く紫の光を放った。
「生きておるか、その者どもは」
「はっ。全員無事ですが、記憶が曖昧で……睡眠魔法をかけられたようです」
「ふむ」
ヨコマールは立ち上がり、小雨に煙る窓から王都セレスティアの街並みを見下ろした。
(昨日の東の検問所……あと八日でセレスティアは壊滅する。その前に、些細な虫けらが紛れ込んだか)
しかし、何かが引っかかる。胸の奥で、小さな棘のように。
(まさか、リリアが……いや、あの娘は死んだはず。ガルドが始末したと)
「ライハルトを呼べ」
「はっ」
しばらくして、歩兵大隊長ライハルトが入室した。煤色の髪を短く刈り、額に古い傷跡が走っている。灰鉄の眼は、常に状況を測るような冷たさを湛えていた。
「お呼びでしょうか、猊下」
「市中の警備を強化せよ。歩兵大隊千名を動員し、不審者を見つけ次第拘束するのじゃ」
「承知いたしました」
ライハルトは淡々と一礼し、踵を返す。その灰鉄の眼が一瞬だけ細められたが、何も言わずに退出した。
ヨコマールは侍従長へと視線を移す。
「神殿騎士三百名は大聖堂の守りにつかせよ。残り百名は引き続き王城を固めるがよい」
「畏まりました」
両名が去ると、ヨコマールは再び椅子に身を沈めた。
(俗物の貴族どもの兵を動員するか……いや、蛇人兵が来た時に邪魔になるだけじゃ)
人は化け物を見れば、刃の向きなどいくらでも変える。
(どうせ、あと八日で終わる。蛇人兵が来た時、人間の兵は少ない方がよい)
ヨコマールは冷たく微笑んだ。
「もうすぐじゃ。バナテールを血の海に沈め、すべてを無に還す時が」
黒い指輪が、不気味に脈動した。
◆ ◆ ◆
王国騎士団長邸・客間――
朝から降り続く小雨が、窓を濡らしていた。
広い客間では、ボンノー一行が久しぶりの安寧な時間を過ごしている。柔らかいソファに身を預け、温かい茶を啜りながら、それぞれが束の間の休息を楽しんでいた。
クレアは窓辺に立ち、雨に煙る王都を見つめていた。その横顔には、王女としての重責と騎士としての決意が交錯している。
「ソフィア様」
クレアが振り返り、騎士団長夫人に尋ねた。
「エルナは――お嬢様は今どちらに?」
ソフィアは穏やかに微笑みながら答えた。
「あの子も十三歳になりましたから、全寮制の聖レファリア女学院で学んでおります」
「聖レファリア女学院……」
クレアの表情が曇る。
「大聖堂の近くですよね。今、あそこはヨコマールの勢力圏では……」
「ええ、少し心配ですが……」
ソフィアの声にも不安が滲んだ。
「女学院は中立を保っているはずですから」
その時、シノが立ち上がった。
「アベルト様の回復治療に行ってまいります」
「お願いします」
ソフィアが頭を下げる中、シノは静かに部屋を出て行った。
アベルトの寝室――
「失礼します」
シノが静かに入室し、ベッドに横たわるアベルトの傍らに膝をついた。
「回復を促進させます」
杖を掲げ、穏やかな詠唱を始める。
『白ノ五式・リジェネレーション』
淡く白い光がアベルトを包み込む。その光は脈動するように、ゆっくりとアベルトの体に浸透していく。
アベルトの表情が少しずつ和らぎ、呼吸も深く安定してきた。一週間以上の昏睡から覚めたばかりの体は、まだ完全には回復していないが、確実に生気を取り戻しつつあった。
治療を終えたシノが客間に戻ると、ボンノーが地図を見ながら皆に尋ねていた。
「王都の地理について教えていただけますか?」
「ああ、それなら――」
クレアが立ち上がり、テーブルに広げられた王都の地図を指差した。
「北側に王城がある。厳重な堀と城壁に囲まれた、まさに王国の心臓部だ」
指先が地図の北端を示す。
「そして南側に大聖堂。レファリア教団の総本山で、今はヨコマールの本拠地となっている」
「中央は?」
ヴィヴィが身を乗り出して尋ねる。
「大広場があります」
ソフィアが優しく説明する。
「平時でしたら市が立ち、祭りが行われる賑やかな場所です。今は戒厳令で人通りもありませんが……」
「道路はどうなっているんですか?」
ボンノーが地図を覗き込む。
「街路は南北と東西にまっすぐ走り、街区は格子状に整っています」
クレアが胸を張って答えた。
(ほう、まるで扶桑皇国の京の都のようじゃな……)
ボンノーは心の中で呟き、かつて見た故郷の風景を重ね合わせた。
ナターシャが地図を見ながらつぶやく。
「見通しが良いぶん、追っ手を撒きにくいのさ」
◆ ◆ ◆
夕刻――
ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン……
重厚な鐘の音が、雨音を貫いて響いてきた。
「六つ……」
ナターシャが窓の外を見ながら数える。
「今日で戒厳令から六日目なのさ」
「昨日の夕刻は五つでしたね」
シノが不安そうに呟く。
「本当に十四日で解除されるのでしょうか?」
「されぬじゃろうな」
ボンノーが抑えた声で断じた。
「ヨコマールの罠じゃ。民を安心させながら、何か別の目的がある」
程なくして、侍女が夕食の準備を告げに来た。小食堂へと移動した一行の前に、質素ながらも温かい料理が並べられた。
「申し訳ございません、物資が不足しておりまして……」
ソフィアが恐縮そうに言う。
テーブルには、塩豚と白いんげん豆のハーブ煮と、固めのパンが置かれていた。
「これは……」
クレアが匙でひと口すくい、口に運ぶ。
「ローリエとタイム――香草がよく香ります。塩豚と豆に合う。保存の利く材料だけで回せる、賢い組み合わせです」
「クレア様が、そんなことまでお詳しいとは」
ソフィアが目を見張る。
「市中を逃げていた頃、露店で何度かいただきました」
クレアは懐かしそうに微笑んだ。
「うまい!」
ヴィヴィがパンを煮汁に浸しながら頬張る。
「塩豚の旨味が豆に移ってる。パンですくって食べるといいのさ」
ナターシャも豆をつつきながら微笑む。
静かな夕食が続く中、扉が二度ノックされた。
「失礼します」
侍女が入ってきて、ソフィアに耳打ちする。
「旦那様が普通に会話できるようになられ、皆様をお呼びです」
◆ ◆ ◆
アベルトの部屋――
ベッドで半身を起こした騎士団長が、まだ青白い顔ながらも、しっかりとした眼差しで一行を見つめていた。かなり回復している様子だ。
「皆様、この度は本当にありがとうございました」
「アベルト様、まだ安静になさってください」
クレアが心配そうに言う。
しかし、アベルトは首を横に振った。
「いえ、まずお尋ねしたい。——そのうえで、私の知る限りもお話しします」
その表情が、急に真剣なものに変わる。
「まず、貴殿らの目的をお聞かせ願えますか?」
ボンノーは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「拙僧ら、ヨコマール枢機卿を討ちに参りました」
静かに、しかし力強く告白する。
「奴の悪事を止めねばなりません」
シノがフードを取り、決意を込めて言った。
「私は聖女リリアです。これまで『シノ』という名を借りておりましたが、これからは本名――リリアと名乗ります」
「聖女様……やはり」
アベルトが頷く。
「私も、以後はクレアと呼んでもらいます」
クレアが毅然と宣言した。
「もう『グレア』という偽名は使いません」
アベルトはクレアに向き直り、優しく微笑んだ。
「姫殿下がご無事で、本当に安心いたしました」
ボンノーが一歩前に出た。
「アベルト殿、リヴィエラ王国の現状をお聞かせ願えますか?」
「はい」
アベルトは表情を引き締めた。
「お話しいたしましょう」
深いため息をつき、語り始めた。
「まず、王都セレスティアの戦力についてご説明いたします」
アベルトは指を1本ずつ折り、簡潔に告げた。
「平時の戦力は、王国騎士二百名、神殿騎士四百名、歩兵大隊千名、治安隊二百名」
「ただし、治安隊は市街の警邏が主任務。装備も軽装ですので、戦力には数えられません」
「それだけあれば……」
希望の色を帯びたヴィヴィの声に、アベルトは静かに首を横に振る。
「いえ、問題は指揮権の所在です。――次に、王国全体の兵力について申し上げます」
アベルトの口元が固く結ばれ、表情はさらに険しくなった。
「王家直轄軍、五千。これは私が指揮できます」
ボンノーが小さく頷いた。
「おお、それは心強い」
しかし、アベルトが手を上げ、言葉を継いだ。
「ただし、動員には猶予を要します。即応で動かせる兵は王都詰めの王国騎士団——二百。三日で千、七日で五千まで揃えられます。国王派の貴族軍も、おおむね五千は見込めます。一方、ヨコマール派の貴族軍は——三万です。神殿騎士は大聖堂に三百、王城に百を割いている。王都内で即応できる兵は二百前後でしょう」
「さ、三万!?」
ヴィヴィが青ざめる。
リリアが息を呑む。
「三倍の差……」
「王国騎士団は王家直属ゆえ、ヨコマールの指揮下には入りません」
アベルトは続ける。
「しかし、他の部門――神殿騎士、歩兵大隊、治安組織は、すべてヨコマールの命令系統下にあります」
「つまり……」
「残念ながら、王家の政治権力はほとんど残っておりません」
アベルトの声に、諦念がにじむ。
クレアの睫がわずかに伏せられ、指先がこわばった――が、すぐに背筋を正し、視線を上げる。
「仮に陛下の呪いを解いたとしても、ヨコマールから実権を奪うのは不可能でしょう」
「王城の状況は?」
クレアが身を乗り出して尋ねる。
「神殿騎士百名が配置され、完全に封鎖状態です。正面から奪還するのは不可能です」
沈黙が部屋を支配した。誰もが、状況の絶望的な困難さを理解していた。
「しかし……」
アベルトがわずかに声を上げた。
「一つだけ、可能性があります」
全員の視線が集まる。
「ヨコマール派貴族の増援が到着する前に、王国騎士団と歩兵大隊で大聖堂のヨコマールを捕縛できれば……」
「歩兵大隊が動きますか?」
ボンノーが疑問を呈する。
「大隊長のライハルトは、私の友人です」
アベルトの声に、かすかな希望が宿る。
「しかし、彼は命令に忠実な男だ。彼に命令違反をさせるのは、並大抵ではありません」
「……ライハルト殿はお堅いだけではありません。二年前、疫病で王都近郊の孤児院に糧食が届かぬと知るや、自ら輸送隊を編成し、護衛を付けて、糧食を送り届けたとか。のちに叱責は受けたそうですが——」
ソフィアは目を伏せる。
「『規則のために人を飢えさせるな』と」
「どうすれば、ライハルト殿を説得できましょうか?」
ボンノーが錫杖を握りしめる。
アベルトは少し考え込んだ後、重い口を開いた。
「最近、若い女性が次々と行方不明になっているという噂があります」
「それは……」
「おそらくヨコマールの仕業でしょう。その証拠があれば、ライハルトも動くかもしれません」
「証拠か……」
ナターシャが腕を組む。
「港湾区あたりを探れば、何か見つかるかもしれないのさ」
「危険です」
アベルトが警告する。
「今の王都は、ヨコマールの監視下にあります」
「灰銀の牙は、女人失踪の件で情報を集めておるはずじゃ。明日、拙僧が彼らの拠点へ赴き、連絡を取って参ろう」
ボンノーは錫杖の環を小さく鳴らした。
クレアとナターシャがうなずいた。
「……至らぬ身ながら、本日は静養に努め、明日より職務に復帰いたします」
アベルトは短く、しかし確かに言い切った。
「無理はなさらないでください」
ソフィアが夫を心配そうに見つめる。
「でも、あなたの決意はわかりました」
話し合いが一段落した頃、外はすっかり夜の帳が下りていた。
ソフィアが立ち上がり、静かに告げる。
「皆様、今夜はお部屋でお休みください。明日は長くなるかもしれません」
一行がそれぞれの部屋へ向かう中、ボンノーは一人、窓辺に立っていた。
(三万対一万……三倍の戦力差)
雨は止み、雲間から月が顔を覗かせている。
(しかも、残り八日……)
時間との勝負でもあった。
廊下で、リリアがボンノーに声をかけた。
「……ボンノーさま。大丈夫でしょうか」
「何がですかな?」
リリアは袖口をぎゅっとつまみ、目を伏せた。
「この戦い……わたし、こわいのです。もし誰かが傷ついたら……」
ボンノーはやわらかく目を細める。
「怖うてよい。恐れは軽率から身を守る盾にもなる。ゆえに段取りを整え、活路も思案しておる」
錫杖の環が小さく鳴った。
「それに、拙僧らには仲間がいる」
リリアは顔を上げたが、まつげの影に不安の色がまだ薄く残っていた。
拙僧はそっと肩に手を置き、言葉をたぐるように続ける。
「クレア殿も、ヴィヴィ殿も、ナターシャ殿も。——そして、アベルト殿も」
「頼もしき者たちじゃ。互いに庇い合えば、道は開ける」
しばし、二人だけの静けさが流れた。リリアは小さく息を整え、微笑みをつくる。
「ありがとうございます。……少し、落ち着きました」
「よい夜を。体を休めるのじゃ」
二人は静かに、それぞれの自室へ向かった。
明日からが、本当の戦いの始まりだった。けれど、リリアの胸に残った微かなざわめきは、まだ夜の底へ落ちきらずにいた。
◆ ◆ ◆
ボンノーらが退出後――
アベルトは、ベッドの上で考え込んでいた。
(ライハルトか……)
歩兵大隊長の顔を思い浮かべる。
(奴は確かに命令に忠実だ。だが、正義感も強い男だ)
(若い女性が行方不明になっている件……証拠さえあれば、必ず動く)
希望と不安が交錯する中、アベルトは静かに目を閉じた。
明日のために、今は体力を回復させなければならない。
王都セレスティアの夜は、不気味なほど静かだった。
戒厳令下の街に、人影はない。
ただ大聖堂の鐘楼だけが、月光を受けて冷たく輝いている。
明日、その鐘は七つ鳴るだろう。
終焉への時を刻みながら――
――セレスティア滅亡まで、あと八日――




