第35話 拙僧、騎士団長屋敷にて呪いを解く
騎士団長屋敷の中――
裏口から侵入した一行は、薄暗い廊下を静かに進んでいた。
「ソフィア様の部屋は二階です」
グレアが小声で案内する。五か月ぶりに訪れる懐かしい場所だったが、今は緊張感が張り詰めていた。
階段を慎重に上る。使用人の気配はほとんどない。戒厳令の影響か、それとも主人の容態を慮ってか、屋敷全体が静まり返っていた。
「あの部屋です」
グレアが立ち止まった先に、ソフィア夫人の部屋があった。
静かに兜を外し、亜麻色の髪を手で軽く整える。深呼吸をして、控えめに扉を叩いた。
コンコン――
「ソフィア様、クレアです」
数秒の沈黙。扉の向こうで、鍵が外れる音がした。
扉がわずかに開き、一人の女性の顔が覗いた。
暗い蜂蜜色の髪をセミロングにして編み上げ、後頭部で留めている。落ち着いた青い瞳は、アベルトの鋭い青よりも柔らかいトーン。やや華奢な体躯で、手指が長く、物を扱う所作が美しい。青灰のドレスに薄いショールを羽織り、かすかにラベンダーの香りが漂う。
四十代前半とは思えぬ品のある佇まい――ソフィア・フォン・アルセインその人だった。
ソフィアは息を呑んだ。そして、涙が浮かぶのを袖でそっと隠し、深く礼をする。
「……夢では……ございませぬね」
「姫殿下、御生還、何よりに存じます。――続きは内で」
ソフィアは周囲に目配せしてから、小声で促した。
「姫殿下、念のために伺います。そちらの御同道は、いずれの御方々にございましょう?」
背後に立つ僧衣の青年と、少女たちを警戒するような視線で見つめる。
「私の大切な仲間です。身元は私が保証します。詳しくは中で」
クレアの言葉に、ソフィアは廊下へ一度だけ視線を走らせ、すぐに小さく頷いた。
クレアは半歩だけ身をずらし、一行を背に庇う位置を取った。その姿勢が、仲間への絶対の信頼を物語っていた。
ボンノーは静かに合掌して黙礼し、少女たちは旅塵の裾を整えて背筋を伸ばす。
袖の陰で、ソフィアの瞳に細い涙の光が揺れた。
(クレア様が、こんなにも立派に……そして、信頼できる仲間を得られたのですね)
「承知いたしました。ご一同も、どうぞお入りください」
◆ ◆ ◆
部屋に入ると、ソフィアは扉に鍵をかけ直した。
そして振り返ると、クレアを優しく抱きしめた。
「クレア様……本当に、ご無事で……」
「ソフィア様……」
クレアの目からも涙がこぼれる。五か月間の不安と恐怖、そして孤独が、今ようやく癒されていく。
しばしの感動的な再会の後、ソフィアは一行に向き直った。
「皆様、クレア様を守ってくださり、ありがとうございます」
「いえ、拙僧らもクレア殿と背中を預け合う仲。どうぞご安心を」
ボンノーは合掌して一礼した。
「でも、今はそれより――」
クレアが真剣な表情で切り出した。
「アベルト様のことを。倒れたと聞きました」
ソフィアの顔が曇る。
「一週間前から、原因不明の昏睡状態です。医師も手の施しようがないと……」
「今すぐ、アベルト様のところへ」
クレアの声に切迫感があった。
ソフィアは頷き、隣の部屋へと案内した。
◆ ◆ ◆
大きなベッドに、一人の男性が横たわっていた。
四十代半ば、短めの金髪、鍛え抜かれた体格。王国の紋章入りの青銀色のプレートアーマーは脇に置かれ、今は薄い寝間着姿だった。
王国騎士団長アベルト・フォン・アルセイン――クレアの剣術指南役にして、第二の父とも言える存在。
「アベルト様……」
クレアが悲痛な声を漏らす。
顔は苦しげで、額には汗が浮かび、呼吸も浅い。まるで悪夢にうなされているかのようだった。
ボンノーは錫杖を床に立て、じっとアベルトを観察した。
一見すると、ただ苦しみながら眠っているだけに見える。しかし――
(ふむ……これは……)
よく観察しても、常人の目には首筋に何も見えない。
だが――高位の魔力を有する者の視界にだけ、極小の呪針が浮かび上がる。
シノとナターシャの目が同時に細まった。
「……やはり」
ボンノーが呟く。
首に、極小の呪術用の針が刺さっていた。そこから禍々しい瘴気が立ち上っている。
「リリア殿――いや、シノ殿の時と同じタイプの呪いですな」
「呪いですって!?」
ソフィアが驚愕の声を上げる。
「誰が、このようなことを……」
「おそらく、ヨコマール枢機卿でしょう」
クレアが拳を握りしめる。
「父上を呪いにかけた手口と同じだ」
「まさか……」
ソフィアは言葉を失った。
「ボンノー、解呪をお願いします」
クレアは枕元へ半歩よけ、道を空けた。
「やってみましょう」
ボンノーは深く息を吸い込んだ。
(零式を使うしかない……まずはこの方を解呪せねばならぬ)
胸の内で、仲間たちへの想いを強く抱く。クレアの涙、シノの優しさ、ヴィヴィの明るさ、ナターシャの包容力。そして、守らねばならない人々の顔。
「皆、下がってください」
ボンノーの全身から、白い光が溢れ始めた。錫杖を高く掲げ、詠唱を始める。
「ミホトケサマの御光をもって、呪いを祓い清める――穢れよ、無へ還れ!」
その言葉が結びとなり、煩悩が魔力へと変換され、白き光がほとばしる。
『白ノ零式・セイクリッドディスペル!』
眩い白光が部屋を包み込んだ。
アベルトの首筋から、黒い針が浮かび上がる。それは激しく震え、抵抗するように瘴気を噴き出した。
しかし、零式の圧倒的な力の前では無力だった。
パリンッ!
ガラスが砕けるような音と共に、呪術用の針は粉々に砕け散った。
光が収まると、アベルトの表情が穏やかになっていた。苦しげだった呼吸も、規則正しいものに変わっている。
「成功……したのですか?」
ソフィアが恐る恐る尋ねる。
「ご安心あれ。呪いは解けております」
ボンノーは額の汗を拭いながら答えた。
「一週間以上眠っていたため、すぐには目覚めないでしょう。今はこのまま寝かせておきましょう」
「シノ殿」
ボンノーがシノに目を向ける。
「白ノ五式・《リジェネレーション》をお願いできますか。穏やかに回復を促しましょう」
「はい、わかりました」
シノが杖を掲げる。
『白ノ五式・リジェネレーション』
温かい光がアベルトを包み込む。顔色が少しずつ良くなっていくのが見て取れた。
「おそらく、翌朝には目覚めるでしょう」
ボンノーが所見を述べた。
「本当に……本当にありがとうございます」
ソフィアが深々と頭を下げた。
「クレア様の恩人は、私どもの恩人です」
◆ ◆ ◆
一行は再びソフィアの部屋に戻った。
「さて」
クレアが真剣な表情で切り出す。
「私たちがここにいる本当の理由をお話しします」
そして、ヨコマール枢機卿の悪行と、彼を討つという決意を語った。
ソフィアは静かに聞いていたが、その目には怒りと決意の炎が宿っていた。
「なるほど……そういうことでしたか」
「ソフィア殿」
ボンノーが頭を下げる。
「今は、拙僧らの存在を秘密にしていただきたいのです」
「承知いたしました」
ソフィアはすぐに頷いた。
「侍女たちには、しばらく外に出ないよう通達いたします」
そして立ち上がると、小さなベルを鳴らした。
「皆様をお部屋にご案内させます。そして……」
優しく微笑む。
「お腹も空いているでしょう。小食堂で食事を用意させます」
◆ ◆ ◆
小食堂――
長いテーブルに、薄切り肉と野菜のサンドとオレンジの搾り汁が並べられた。
「うわぁ、豪華!」
ヴィヴィが目を輝かせる。
「久しぶりのまともな食事なのさ」
ナターシャも嬉しそうだ。
「いただきます」
全員で手を合わせて、食事を始めた。
食事をしながら、ソフィアが最近の王都の様子を語ってくれた。
「まず、戒厳令のことから申し上げます。大聖堂の鐘は毎夕、日没後に鳴ります。数は一日ごとに一打ずつ増やし、十四度目で解除――と布告が出ております。今夕は五度でした」
「ふうむ……あと九日で解ける算段か。――すなわち、九月九日に戒厳を解くというわけじゃな」
言いながら、ボンノーの眉間にうっすら皺が寄った。
(――しかし、引っかかるのぉ)
(わざわざ日ごとに打数を増やし、民に数を数えさせる必要があるか……落ち着かせるため――いや、油断を育てるためではないか)
(――十四度目は、権力の簒奪の仕上げを告げる合図……か。あるいは、もっと別の意味があるのか)
「戒厳令が出てから、街は日に日に暗くなっています。商人も冒険者も入れず、物資が不足し始めています」
「そして何より……」
ソフィアの声が沈む。
「若い女性が次々と行方不明になっているという噂があります」
「やはり……」
ボンノーが険しい表情になる。
「ヨコマールの仕業でしょうな」
食事を終えると、ソフィアが風呂の準備を告げた。
「お風呂!?」
ヴィヴィとナターシャが同時に声を上げる。
「やったぁ!」
「ありがたいのさ」
屋敷には立派な浴場があり、旅の疲れを癒すには最適だった。
女性陣が先に風呂に入り、その後ボンノーがひとりで湯に浸かった。久しぶりの温かい湯に身を沈め、こわばった体をほぐした。
(ヨコマール枢機卿……必ず討つ)
風呂から上がると、それぞれに個室が用意されていた。
「こんな立派な部屋……」
シノが恐縮している。
「遠慮することはありません」
ソフィアが優しく言う。
「クレア様の大切な仲間なのですから」
夜が更けて――
皆がそれぞれの部屋で休んでいた。ボンノーは瞑想をしながら、明日のことを思案していた。
(アベルト殿が目覚めれば、王国騎士団も動かせるかもしれない)
窓の外を見ると、王都の灯りがまばらに瞬いている。静かな夜だった。
◆ ◆ ◆
翌朝――
朝日が窓から差し込む頃、廊下がざわめいた。
「……あなた……!」
ソフィアの歓喜の声だった。
「アベルト様が目覚めました!」
ソフィアは目元を押さえ、顔を上げる。
ボンノーたちは急いで部屋を出た。
アベルトの部屋に入ると、ベッドの上で騎士団長が上体を起こしていた。
「ソフィア……」
まだ声は弱々しいが、確かに意識は戻っている。
「喉を詰まらせてはなりませんわ。まずは半身にいたしましょう」
ソフィアは肩と背を支え、枕を重ねて半身だけ起こす。顎をわずかに引かせ、呼吸が整うのを待つ。
それから匙で蜂蜜水を一口ずつ含ませ、喉仏が一度だけ上下するのを確かめた。
「これ以上の無理は禁物ですわ」
こわばった指先を手のひらで包み、軽くさすって血を巡らせる。
「アベルト様!」
クレアが駆け寄った。
「クレア――姫殿下……!?」
アベルトが驚きの声を上げる。
「まさか、生きておられたとは……」
「アベルト様、詳しい話は後です」
クレアが真剣な表情で言う。
「今は体を休めてください」
「しかし……」
「大丈夫です」
クレアは力強く微笑んだ。
「私には、頼もしい仲間がいます」
そして振り返り、ボンノーたちを見た。
「この方々と共に、必ずこの国を救います」
アベルトは一行を見回し、小さく頷いた。
「姫殿下が、そこまで信頼される方々なら……」
そして、ボンノーに視線を向ける。
「貴殿が、私を救ってくださったのですな」
「拙僧は、ただ為すべきことをしただけです」
ボンノーは謙虚に答えた。
王都セレスティアでは、戒厳令発布から六日目の朝を迎えていた――




