第31話 拙僧、聖河アレムに突き落とされた盾娘を救命す
朝――
ヴィノリアの宿『樽猫亭』から、よろよろと人影が這い出してきた。
「うぅ……頭がガンガンするよぉ」
ヴィヴィが目をこすりながら、ふらふらと馬車に乗り込む。
「あたいも……ちょっと飲み過ぎたのさ」
ナターシャも頭を押さえながら、よろよろと馬車に寄りかかる。
「お水、飲みますか?」
シノが水筒を差し出すと、二人は肩を寄せ合い、ひと口ずつ飲んだ。
「まったく、調子に乗って飲み過ぎるからだ」
グレアは呆れ顔を浮かべながらも、ナターシャの荷物をひょいと肩に担いでやる。
「百八歳でも二日酔いは二日酔いなのさ……」
ナターシャが苦笑いを浮かべた。
◆ ◆ ◆
街道を北上すること数時間、昼過ぎ――
聖河アレムに沿った道を進む一行。西側には黄金色に輝く川が流れ、東側には深い林が広がっている。
「いい天気だね〜」
ヴィヴィが両手を大きく広げて伸びをした、まさにその瞬間――
ドドドドドドドッ!
地響きのような音が、東の林から響いてきた。
「なにかくる!?」
グレアが素早く剣を抜く。
「全員、警戒態勢!」
ボンノーの号令で、一行は身構えた。
◆ ◆ ◆
茂みが弾け、黒い巨体がせり出した。
ブラッドデア――鹿型の魔物だが、その体は馬よりも大きく、全身が漆黒の毛で覆われている。そして何より特徴的なのは、その角だった。
通常の鹿とは違い、角が前方に向かって「すくい上げる」ような形状をしている。
「来るぞ! 散開しろ!」
グレアが叫ぶ。
ブラッドデアは地獄の底から響くような咆哮を上げ、黒い弾丸と化して突進してきた。
「あたしが受け止める!」
ヴィヴィが大盾を構えて前に出た。
しかし――
(う……まだ頭がクラクラする……)
二日酔いの残滓が、彼女の平衡感覚を狂わせていた。盾の角度が、ほんのわずかにズレた。
ドガァァァッ!
肺の空気が抜け、視界が白く弾ける。
「しまっ――」
ブラッドデアの角が盾の下部に潜り込む。そして次の瞬間、魔物は首を右から左へと豪快に振り抜いた。
「きゃああああああっ!」
ヴィヴィの小さな体が宙を舞った。
大盾は林の方へ弾き飛ばされ、ヴィヴィ本人は弧を描きながら聖河アレムへと飛ばされていく。
◆ ◆ ◆
ドッボォォォン!
凄まじい水柱が立ち上がった。
「ヴィヴィィィィ!」
シノの悲鳴が川面に響く。
しかし、水面に浮かび上がるはずの赤毛は、いつまで経っても姿を現さない。
「まさか……」
ナターシャの顔から血の気が引いた。
「ドワーフ族は体が重くて、泳げない者が多いって聞いたことがあるのさ!」
その時、水中から必死の叫び声が聞こえてきた。
「た、たすけ……ゴボゴボ……ご、ご本尊さまぁぁぁ!」
かなづちだった。
「グレア殿、指揮を頼む!」
ボンノーは一瞬の逡巡もなく、素早く僧衣の紐を解き始めた。
「扶桑海軍式救命術を実行する!」
あっという間に下穿き(したばき)一枚になる。ボンノーの全身が露わになった。
(衣服による水の抵抗を減らし、低体温症を防ぐ――これが基本中の基本じゃ)
「ちょ、ちょっと!」
シノが顔を真っ赤に染めて両手で目を覆う。が、指の隙間からしっかり見ている。
「ボ、ボンノーさま、そんな格好で……!」
「……わ、わたくし以外の前で肌を晒すなんて……じゃなくて!」
グレアも動揺しているが、すぐに気を取り直した。
「わ、分かった! ブラッドデアは俺達で抑える! ヴィヴィを、頼む!」
「あー……げふんげふん」
ナターシャが一瞬詠唱を噛んだ。
「……やり直しなのさ」
小声で呟きながら、すぐに冷静さを取り戻す。
「あたいも援護するのさ!」
◆ ◆ ◆
ザッバァァァン!
ボンノーは迷いなく聖河アレムに飛び込んだ。
夏の陽射しで温められた川水が全身を包む。しかし聖河の流れは見た目以上に速く、水流が容赦なく体を押し流そうとする。
(どこじゃ……どこにおる、ヴィヴィ殿!)
水中を見回すと、川底近くでもがくヴィヴィの姿が見えた。
必死に手足をばたつかせる。だが浮き上がれない。泡がちぎれて上へ逃げる。
ボンノーは素早く潜り、脇に腕を差し入れて背から抱え上げ、川底を蹴る。
◆ ◆ ◆
ヴィヴィは、かなりの量の水を飲んでしまったようだ。
岸に引き上げ、すぐに「扶桑海軍式救命術(水出)」を実施。
うつ伏せにして、腹部を下から強く押し上げる。
「ゲボォッ! ゴボボボッ!」
飲んだ川水が吐き出される。
「脈拍……あり」
手首の動脈に指を当てて確認。
「呼吸……」
顎先を軽く上げ、口元に耳を寄せる。頬に温かさはない。胸も動かない。
「……ない!」
ヴィヴィの呼吸が止まっていた。
その瞬間、記憶の奥底から声が響く。
『ためらうな、新村。一秒が生と死を分ける――』
兵学校の救命訓練、竹中教官。
拙僧の手順は、あの人に叩き込まれた。
(竹中さん……見ておってくだされ)
のちに大佐となり、戦艦〈武蔵〉艦長。
空を払う手は足りなんだ。それでも退かぬ背だった。
ソブヤン海で、艦と運命を共にされたお方。
ボンノーは迷わず、顎先を保持して気道を開いた。
「扶桑海軍式救命術(呼吸)を実施する!」
顎を上げ、気道を確保。
鼻をつまみ、深く息を吸い込んで――
唇を重ねた。
ふぅーっと、空気を送り込む。
胸が膨らむのを確認して、一度離れる。
「まだじゃ……もう一度!」
その時――
ヴィヴィの体が、薄っすらと光り始めた。
白い光が、全身を包み込んでいく。
しかし、意識のないヴィヴィには、その変化が分からない。
ボンノーは構わず、人工呼吸を続ける。
三度目、四度目――
◆ ◆ ◆
その頃、ブラッドデアとの戦いは終わりを迎えていた。
「やったのさ!」
ナターシャの黒魔法が決め手となり、魔物は倒れていた。
三人が駆け寄ってくる。
「ボンノーさま! ヴィヴィちゃんは!?」
シノが心配そうに尋ねる。
「今、蘇生中じゃ……」
五度目の人工呼吸――
「ゴホォッ! ゲホゲホゲホッ!」
ついに、ヴィヴィが激しく咳き込み始めた。
「う……うぅん……あたし、死んじゃった……?」
朦朧とした意識の中、ゆっくりと瞼を開ける。
最初に見えたのは、自分の顔のすぐ近くにあるボンノーの顔。
そして、唇に残る感触で気づいた。
(え……今、キス……してた!?)
「きゃああああああああああ!」
ヴィヴィの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「ボ、ボ、ボンノーさん! い、今、あたしにな、何してたの!? 何してたのぉぉぉ!?」
慌てふためいて体を起こし、ズザザザッと後ずさる。
「いや、これは救命行為で……」
ボンノーが冷静に説明しようとするが――
「あたしの! あたしの大切な! 十六年間守り抜いてきたファーストキスがぁぁぁ!」
ヴィヴィが地面をゴロゴロと転がり回る。
「ほう……興味深いな」
グレアが複雑な表情で二人を見つめ、無意識に剣帯の位置を直していた。
「おれの時は事故で、ヴィヴィは救命か……」
「グレアさん、何か言った?」
シノが小首を傾げて尋ねる。
「い、いや! 何でもない!」
シノは深いフードをさらに深く引き下ろした。影に隠れた顔から、か細い呟きが漏れる。
「私だけ……私だけまだ……」
その声は、川のせせらぎに紛れて消えた。
「シノ、何か言った?」
振り返ったシノは、フードの縁をぎゅっと掴んだまま顔だけを上げた。
「な、何でもないです!」
「ちょっと待つのさ! 冷静になるのさ!」
ナターシャが淡々と告げた。
「それはキスじゃなくて人工呼吸でしょ? 救命行為なのさ。ヴィヴィちゃん、死にかけてたんだよ?」
「そ、そうだけど……分かるけど……でも、でもぉ……」
ヴィヴィはまだ顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。
その時、ボンノーの中で何かが決壊した。
(また……またしても女人と唇を……! 拙僧は、拙僧はなんということを!)
記憶が蘇る。
グレアとの偶発的な接触。あの時の柔らかさ。
そして今、ヴィヴィへの人工呼吸。小さく、桜色の唇。
感触が、温度が、湿度が、すべてが鮮明に脳裏に焼き付いている。
「う……うぅ……煩悩が……煩悩が……」
ボンノーの全身が小刻みに震え始めた。額から脂汗が噴き出す。
「煩悩がぁぁぁ!」
(いかん! このままでは……!)
ボンノーは必死に目を固く閉じる。
脳内に、光り輝くミホトケサマを思い描く。
『煩悩もまた人の道……しかし今は耐えるのじゃ』
(は、はい! ミホトケサマ! しかし、しかし拙僧は!)
必死の脳内対話。
『南無三宝南無三宝南無三宝南無三宝南無三宝南無三宝――!』
脳内で必死に念仏を唱える。
「ボ、ボンノーさん!? 大丈夫!?」
シノが心配そうに肩に手を置く。
ボンノーは全身を硬直させ、額に汗を浮かべながら、ひたすら念仏を唱え続けている。
「拙僧は……大丈夫……煩悩即菩提……煩悩退散……南無三宝……」
「なんか、すごい汗かいてるけど……」
ヴィヴィも心配になって、おずおずと覗き込む。
「……前回もこうだった」
グレアが静かに、しかし優しく呟いた。
(百八年分の煩悩と必死に戦っている……大変だな、本当に)
その声には、理解と同情が滲んでいた。
「まあ、お坊様だから仕方ないのさ」
ナターシャが肩をすくめる。
「百八歳も女人を避けてきた反動は、そう簡単には収まらないのさ」
十分ほど経って、ようやくボンノーは落ち着きを取り戻した。
「ふぅ……なんとか、耐えきりました……」
深く息を吐きながら、額の汗を拭う。
「大丈夫?」
ヴィヴィが心配そうに顔を覗き込む。
「まあ、その……人工呼吸だったんだし……命を助けてもらったんだし……気にしないでおくね」
「かたじけない……本当に、かたじけない……」
◆ ◆ ◆
夕方――
ミナール村に到着した一行は、川沿いの宿屋『河神の寝床亭』に投宿した。
「今日は本当に散々な一日だったね」
ヴィヴィが夕食の焼き魚を見て、少し顔をしかめる。
「でも、ボンノーさんがいなかったら、あたし今頃魚のエサになってたんだよね……本当にありがとう」
「いえ、仲間として当然のことをしたまでです」
ボンノーは穏やかに答えたが、箸を持つ手が微妙に震えていることを、誰も指摘しなかった。
夕食後、それぞれの部屋に戻った一行。
窓の外では、聖河アレムに星明りが反射して、まるで天の川が地上に降りてきたかのような幻想的な光景が広がっていた。
「今日は本当に大変だった……死ぬかと思ったよ」
ヴィヴィが布団に潜り込みながら呟く。
「でも、みんな無事でよかったです」
シノが優しく微笑みながら、ランプの灯りを小さくした。
◆ ◆ ◆
その夜――
ボンノーは一人、瞑想していた。
(煩悩に弱いのは、百八年、女人修行をさぼったせいかのぉ……)
しかし不思議なことに、煩悩が高まるたびに、仲間との絆もまた深まっているような気がした。
(これもまた、ミホトケサマの導きなのだろうか……それとも試練なのか……)
月明かりが静かに聖河の水面を照らし、きらきらと輝いている。
明日もまた、旅は続く。
煩悩と戦いながら、それでも前へ。仲間と共に――
◆ ◆ ◆
夕刻、王都セレスティア――
大聖堂の鐘楼から、重厚な鐘の音が三度響いていた。
ゴーン……ゴーン……ゴーン……
街の人々は、その音を聞いて小さく息をついた。
「戒厳令解除まで、あと十一日か」
しかし、誰も気づいていない。
それが、王都滅亡への秒読みであることを――
――セレスティア滅亡まで、あと十一日――
※戦艦武蔵の艦長名は史実とは異なります。戦域も架空のものです。




