第3話 拙僧、冒険者となり異世界の現実に目覚める
翌朝――
澄んだ空気と、鳥のさえずり。
小さな民家の窓から差し込む柔らかな朝日が、床に置かれた寝具をやさしく照らしていた。朝露に濡れた草の匂いが、微かに開いた窓から流れ込んでくる。
「おはようございます、ボンノーさま……」
先に目覚めていた少女が、頭にフードをかぶりながら、静かに微笑んでいた。
その顔には、昨日までの怯えも、戸惑いも、もうない。代わりに、新しい人生への静かな決意が宿っていた。淡い金色の髪がフードからわずかにのぞき、朝日を受けてきらめいている。
「……おはようございます、シノ殿」
「……えへへ、まだ慣れないけど、この名前で呼ばれるの、ちょっと気に入ってきました」
シノは、恥ずかしそうに頬を染めながら、フードの端を指でいじった。
昨夜、老夫婦が眠りについた後の出来事を思い返す――
「リリア殿、お名前を変える必要がございますな」
ランプの灯りがゆらめく中、ボンノーは静かに切り出していた。
「うん……神殿騎士に狙われている以上、本名は危険ですね」
少女は淡い金色の髪を指先で弄びながら、しばし考え込んだ。
「それなら……"シノ"って呼んでください。昔、お世話になった修道女さまの名前なの。その人はね、いつも『どんなに辛くても、明日はきっと今日より良い日になる』って言ってくれたんです」
「シノ殿……よい名前ですな。では拙僧も、この世界では"ボンノー"と名乗らせていただきましょう。煩悩の"煩"に、願いの"乃"――修行の道を歩む者として、ふさわしい名かと……」
昨日の話し合いで、リリアは"シノ"と名乗ることになった。
神殿騎士に襲撃された事実を考えれば、名を隠し、姿を偽ることは必然だった。
フード付きのローブも、老夫婦が貸してくれたもの。
淡い金色の髪を影に隠し、彼女の雰囲気はどこか幻想的で、同時に旅人らしい気配を帯びていた。
「これで少しは目立たぬでございましょう。……とはいえ、拙僧らには今、旅の路銀もございませぬな」
煩乃――いや、異世界で"ボンノー"と名乗る青年僧は、ふぅと小さく息を吐いた。
そのとき、ちょうど扉が開き、昨日の老夫婦が朝の食事を手に現れた。
「おはようさん。……昨日より調子は良いかね?」
「はい、昨日よりかなり体調はよくなりました。ありがとうございます」
ボンノーも深く頭を下げると、カイ翁は「おお、真面目なボンちゃんだのう」と笑い、ルダ婆は湯気を立てたスープと固焼きパンをテーブルに並べてくれた。
「ただ……お恥ずかしながら、拙僧らには今、所持金が一枚もございませぬ。このままお世話になるわけにもまいらぬゆえ、働き口を探したいと……」
「なら、冒険者ギルドじゃな。ちょうど東門の先にある街、リントベルクに支部があるよ」
ルダ婆が湯気越しに言うと、ボンノーは「ほう……」と眉をひそめた。
「……拙僧のような者でも、受け入れていただけるものでしょうか?」
「腕があるなら大歓迎さ。書類もいらんし、金がない若者にはぴったりじゃ。荒事もあるが、若けりゃなんとでもなるもんじゃて、このナイフを持っていくとよい。冒険者には必要なものじゃてな。」
「ありがたいご助言、胸に刻ませていただきます」
隣でシノも、目を輝かせながら頷いた。
「私も……ちゃんと、自分の足で生きていけるようになりたい。だから、私も一緒に登録して……頑張ってみます」
「うむ、それがよろしい。されば、まずは腹を満たし、身支度を整えたうえで――」
108歳の元僧侶と、名を偽った少女の、異世界生活が本格的に動き出そうとしていた。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ、"ボンノー"と"シノ"は、予定通りリントベルクの街へと辿り着いた。
堅牢な石壁に囲まれた中規模の都市。石畳の通りを行き交う馬車と露店、賑やかな声と香ばしいパンの匂い。異世界の息づかいが、否応なく二人の肌に迫ってきていた。
「ボンノーさま、あの、さっきの話の続きを……」
道すがら、フードをかぶったシノが小声で語る。
「わたし、一応……白魔法が使えるんです。たぶん、レファリア教の聖教会での祈祷訓練のせいだと思いますけど……"二式"までならなんとか……」
「……二式。つまり、その"式"というのは……術の"格"のようなものかの?」
「はい。この世界では、"一式"が最高位、五式が初歩とされてます。奇数の式――一式、三式、五式は単体に効果がある魔法で、偶数の式――二式、四式は複数の対象に効果を及ぼす全体魔法なんです」
シノは指を折りながら説明を続ける。
「例えば、私が使える"白ノ五式・ヒール"は単体回復の初歩魔法で、"白ノ四式・サークルヒール"なら周囲の人を同時に癒せます。私は二式までなら何とか使えるんですけど、それより上位の魔法は魔力強度が足りなくて……」
少し恥ずかしそうに頬を染めてから、再び顔を上げた。
「白魔法だけじゃなくて、黒魔法もあるらしいですけど……私は使えません。」
ボンノーが零式について尋ねると――
「"零式"っていうのは、聞いたことがありません。一式よりも上位の、伝説級の魔法なのかも……それとも、この世界の常識を超えた力なのかも……」
「なるほど……」
(では、拙僧が使った"白ノ零式・アルティメットリザレクション"とは……)
あの謎の声。白光に包まれて蘇生した少女。そして"零式"と名乗る魔法。何もかもが、この世界の常識から外れているように思えた。
――この世界は、魔法が存在する世界なのだ。
そう思ったとき、ボンノーはようやく、転生という現実を腹に落とすことができた気がした。
◆ ◆ ◆
冒険者ギルドは、街の中央通りに面した石造りの建物だった。中に入ると、活気に満ちた広間に、粗野な傭兵風の者たちが多く集まり、依頼の張り紙に目を走らせていた。
「ようこそ、リントベルク支部へ。新人さんですか?」
受付にいた若い女性がにこやかに声をかけてくる。
「はっ。拙僧――ボンノーと申します。こちらは連れの……シノです。冒険者登録をお願いしたく、参りました」
「あらまあ、丁寧なお坊さまね。ちょうど人手が足りてないの。おふたりとも身元も確認もいらないから、すぐ登録しちゃいましょ!」
「……いささか無用心な気もいたしますが……」
「そんなこと言ってる余裕ないのよ、この国ではいま、魔物が増えててね」
登録はあっという間だった。名前と種族、得意なことを軽く書くだけ……
「はい、これが冒険者プレートね。銅製だけど、いつか金や銀に昇格してね!」
◆ ◆ ◆
初依頼は"黒兎の狩猟"。近郊の森に現れる野生の黒い兎型魔獣を、十体ほど狩る簡易な討伐任務だという。
「……拙僧、殺生は……八十年ぶりでございますな……」
「えっ……八十年ぶりって……?」
その場の空気が一瞬、止まる。
シノは戸惑いながらも、じっとボンノーの顔を見つめた。
「ボンノーさまって……私と同い年くらいにしか見えませんけど……」
「見た目の話であれば、そうかもしれませぬな」
ボンノーは苦笑しながら、首をすくめた。
「仏門に入ってからというもの、命を奪うことなきよう、ただ祈りと精進に日々を費やしてまいりました。されど、これは……食らうための、命の恵み。戒めを破るにあたり、ただ一つ――」
ボンノーは静かに合掌し、目を閉じる。
「……いただく命よ、拙僧の煩悩と共に、輪廻の糧となられよ」
「だ、大丈夫ですか……?」
「心得はあります。……合掌」
森の奥――
ぴょん、と跳ねた小さな影に、ボンノーの目が細められる。錫杖が風を切り、鈴の音とともに一閃。その柄の部分が、見事に兎の首元を打ち据えた。
動かなくなった兎に近づくと、ボンノーは袂から一振りの小さなナイフを取り出す。
「ふむ……カイ殿より賜った刃、早くも役立ち申したな」
それは、ジミナ村の老夫婦に贈られた手作りの狩猟用ナイフ。錆びてはいるが、刃はしっかりと研がれていた。
喉元に迷いなく刃を入れ、素早く血抜きを施す。そのまま手際よく解体を始め、皮を剥ぎ、肉と骨を分けていく。
「……拙僧、これを"食材"として扱っていた時期がございますが……まさか、この世界でまた役立つとは……」
隣で見ていたシノが思わず声を漏らす。
「は、はやい……処理がすごく綺麗……」
一方、数匹に囲まれたときに転倒し、腕を擦りむいてしまった。
「ボンノーさま、大丈夫っ!?」
「うむ……少々の傷です、が……やはり歳では……いや、歳ではない……今は若い……」
『白ノ五式・ヒール!』
シノの手のひらから、白くあたたかな光がふわりと舞い、ボンノーの傷に触れた。
「……これは……ありがたき癒し……。煩悩の痛みも、癒されるようですな……」
「……それはちょっと違う気がします」
討伐を終え、ギルドに戻った二人は報酬を受け取った。今の彼らにとって、初めての"収入"だった。
硬貨の重みが、ようやく"生きている"という実感を与えてくれる。
「……まずは、これで今日の食費はなんとかなりますな」
「うん……。よかった、ボンノーさま……!」
二人の手のひらには、小さな銅貨の束。だがそれは、異世界での確かな第一歩だった。
◆ ◆ ◆
と、そのとき――
「おお、もしや、これが今回の兎肉ですかな?」
背後からかかったのは、朗らかでよく通る声だった。
振り返ると、小太りで丸眼鏡の男が、手に大きな包みを抱えて立っていた。胸元の刺繍には"レストラン・サヴァラン"の文字。
「これはこれは、依頼主のマルテン様……」
受付の女性が慌てて立ち上がり、荷を指差す。
「ちょうど納品されたところですわ。ご確認を」
「ふむふむ……ほう、これは……!」
マルテンと呼ばれた料理人は包みを開け、兎肉に目を走らせた途端、その動きを止めた。
「……な、なんという美しい下処理。腱も膜もきれいに除かれ、骨の切断面も見事だ……これは"野で鍛えた技"と見たが、いかがかな?」
驚嘆のまなざしが、ゆっくりとボンノーに向けられる。
「お恥ずかしながら、拙僧、かつて軍におりましてな。野戦の折に多少の心得が……」
「ふむ、軍人……納得ですぞ。僧とは思えぬ手際。いや、見事見事!」
マルテンは感心しきりで頷きながら、ふと何かを思い出したように笑った。
「……そうだ、もしよろしければ、本日の夕餉は、ぜひ我が店にて召し上がっていただけませんかな?」
唐突な申し出に、シノがぱちくりと目を瞬かせ、ボンノーも目を丸くした。
「お代は、けっしていただきません。これほど見事な兎肉に出会ったのは、十年ぶり……いえ、二十年ぶりかもしれませぬ。食材に心打たれた料理人としての、ただの"お礼"でございます」
マルテンの眼差しは、冗談ではなく真剣だった。
「いま厨房では、ちょうど"森の赤ワイン煮"を仕込んでおりましてな。この兎を主役にすれば、きっと……今夜は忘れがたい一皿となりましょう」
「……そこまで仰られるのであれば、ありがたく……」
ボンノーが合掌し、静かに頭を下げる。
「煩悩を断つ道にありながらも、食の恵みに感謝する心、忘れるべからず――それが拙僧の信ずるところにございます」
「うむうむ、ありがたいお言葉……! では夕刻、店にてお待ちしておりますぞ!」
マルテンは笑顔のまま深々と一礼し、兎肉の包みを大切に抱えながらギルドを後にした。
残されたボンノーとシノは、どこか不思議な気配を感じつつも、小さく笑みを交わした。
「……なんだか、今日は良いことが重なってますね」
「うむ。命をいただき、生かされ、生かす道もまた、輪廻のひとつかもしれませぬ」
錫杖が小さく鳴った。その音は、夕餉へと向かう一歩のように、軽やかであたたかかった。
◆ ◆ ◆
日も傾き始めた頃、二人は〈レストラン・サヴァラン〉の木扉をくぐった。
石造りの建物の一階部分を改装した店内は、思ったよりも洗練されていた。
橙色のランタンが吊るされた天井、磨き上げられた木のテーブル、そして香ばしく煮込まれた料理の香りが漂う中で、目にもあざやかな前菜が並ぶカウンターが静かに輝いていた。
「おお、ようこそ、ようこそ! ご来店、心より感謝いたしますぞ!」
満面の笑みで迎えたマルテンは、すでに真っ白な料理人の衣装に身を包んでいた。
「こちらのお席へどうぞ」
案内されたテーブル席は、厨房を見渡せる特等席だった。厨房から立ちのぼる芳醇な香りが、ボンノーの鼻腔を直撃する。
――肉の匂いだった。
それは、八十年以上も口にしてこなかった禁断の香り。かつて野戦で口にした干し肉とは比べ物にならない、ふくよかで、豊かで、罪深い香り。
(これは……まずい……煩悩が……)
ボンノーの理性と本能が、静かに戦いを始めていた。
「本日ご用意したのは、"森兎の赤ワイン煮込み"と"山の恵みのソテー"、それから"野菜のクリームスープ"です。いずれも、貴殿が捌いてくださった兎を主役に据えております」
マルテンの説明もそこそこに、ボンノーはふらふらと皿へと視線を落とす。
とろけるような艶の肉、澄んだ赤みがかったソース。添えられた根菜もまた、肉の煮汁を吸い、見るからに瑞々しい。きのこやハーブが彩りを添え、まさに芸術品のような仕上がりだった。
「……いただきまする。」
合掌。
そして、八十年ぶりの肉を、口に運んだ――
――とろり。
柔らかく煮込まれた兎肉が、舌の上でほどけた。
「……っ!?」
一瞬で、世界が変わった。
肉の旨味。香草の香り。赤ワインの深み。野菜の甘み。すべてが渾然一体となって、口の中で踊っている。
八十年、断ち続けた"味"が、喉を駆け、五臓六腑に響き渡る。
「う、うま……っ……いや、これは……っ……」
ボンノーは震える手でフォークを持ち直し、次のひと口を運ぶ。止まらない。止められない。理性が、ゆっくりと、崩れていく――
「……尊しき戒律よ、いましばし眠るがよい…… 煩悩即菩提!」
気づけば、口の端から涎がこぼれそうになっていた。
「ボ、ボンノーさま……!?」
シノが慌ててナプキンを差し出す。
ボンノーはそれを受け取り、恥じらいもそこそこに顔を拭いながら、笑った。
「……煩悩、ここに極まれり……」
合掌。
しかし次の瞬間、またしても肉に手を伸ばす。
「いや、これは……これはもう供養である! この命に報いるためにも、残してはならぬ!」
「ボンちゃん、供養じゃないですっ!!」
シノの鋭いツッコミが、店中に響いた。
厨房の奥で、マルテンが嬉しそうに頷いていたのは、言うまでもない。他の客たちも、微笑ましそうにこの光景を見守っていた。
◆ ◆ ◆
こうして――ボンノーは、煩悩の封印をひとつ破った。
その夜、月明かりの下で彼はぽつりと呟く。
「……肉という煩悩、侮れぬのう……」
シノが隣を歩きながら言う。
「今日のボンノーさまは、とても楽しそうでした」
ボンノーは立ち止まり、夜空を見上げた。
「そうやもしれませぬな。煩悩とは、必ずしも悪しきものではない……生きる歓びもまた、煩悩のひとつ。大切なのは、それに溺れることなく、感謝の心を忘れぬことか……」
「はい……私も、今日一日で色々なことを学びました」
二人は静かに歩き続ける。
新しい生活、新しい味覚――すべてが新鮮で、すべてが貴重な体験だった。
そして、次なる旅路ではまたひとつ――新たな煩悩との戦いが待っているのだった。