表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ボンノーさまがいく〜異世界転生した108歳坊主の煩悩戦記〜  作者: wok
第1章 108歳童貞煩悩坊主が異世界へ
3/41

第3話 拙僧、冒険者となり異世界の現実に目覚める

翌朝――

澄んだ空気と、鳥のさえずり。

小さな民家の窓から差し込む柔らかな朝日が、床に置かれた寝具をやさしく照らしていた。朝露に濡れた草の匂いが、微かに開いた窓から流れ込んでくる。

「おはようございます、ボンノーさま……」

先に目覚めていた少女が、頭にフードをかぶりながら、静かに微笑んでいた。

その顔には、昨日までの怯えも、戸惑いも、もうない。代わりに、新しい人生への静かな決意が宿っていた。淡い金色の髪がフードからわずかにのぞき、朝日を受けてきらめいている。

「……おはようございます、シノ殿」

「……えへへ、まだ慣れないけど、この名前で呼ばれるの、ちょっと気に入ってきました」

シノは、恥ずかしそうに頬を染めながら、フードの端を指でいじった。

昨夜、老夫婦が眠りについた後の出来事を思い返す――

「リリア殿、お名前を変える必要がございますな」

ランプの灯りがゆらめく中、ボンノーは静かに切り出していた。

「うん……神殿騎士に狙われている以上、本名は危険ですね」

少女は淡い金色の髪を指先で弄びながら、しばし考え込んだ。

「それなら……"シノ"って呼んでください。昔、お世話になった修道女さまの名前なの。その人はね、いつも『どんなに辛くても、明日はきっと今日より良い日になる』って言ってくれたんです」

「シノ殿……よい名前ですな。では拙僧も、この世界では"ボンノー"と名乗らせていただきましょう。煩悩の"煩"に、願いの"乃"――修行の道を歩む者として、ふさわしい名かと……」

昨日の話し合いで、リリアは"シノ"と名乗ることになった。

神殿騎士に襲撃された事実を考えれば、名を隠し、姿を偽ることは必然だった。

フード付きのローブも、老夫婦が貸してくれたもの。

淡い金色の髪を影に隠し、彼女の雰囲気はどこか幻想的で、同時に旅人らしい気配を帯びていた。

「これで少しは目立たぬでございましょう。……とはいえ、拙僧らには今、旅の路銀もございませぬな」

煩乃――いや、異世界で"ボンノー"と名乗る青年僧は、ふぅと小さく息を吐いた。

そのとき、ちょうど扉が開き、昨日の老夫婦が朝の食事を手に現れた。

「おはようさん。……昨日より調子は良いかね?」

「はい、昨日よりかなり体調はよくなりました。ありがとうございます」

ボンノーも深く頭を下げると、カイ翁は「おお、真面目なボンちゃんだのう」と笑い、ルダ婆は湯気を立てたスープと固焼きパンをテーブルに並べてくれた。

「ただ……お恥ずかしながら、拙僧らには今、所持金が一枚もございませぬ。このままお世話になるわけにもまいらぬゆえ、働き口を探したいと……」

「なら、冒険者ギルドじゃな。ちょうど東門の先にある街、リントベルクに支部があるよ」

ルダ婆が湯気越しに言うと、ボンノーは「ほう……」と眉をひそめた。

「……拙僧のような者でも、受け入れていただけるものでしょうか?」

「腕があるなら大歓迎さ。書類もいらんし、金がない若者にはぴったりじゃ。荒事もあるが、若けりゃなんとでもなるもんじゃて、このナイフを持っていくとよい。冒険者には必要なものじゃてな。」

「ありがたいご助言、胸に刻ませていただきます」

隣でシノも、目を輝かせながら頷いた。

「私も……ちゃんと、自分の足で生きていけるようになりたい。だから、私も一緒に登録して……頑張ってみます」

「うむ、それがよろしい。されば、まずは腹を満たし、身支度を整えたうえで――」

108歳の元僧侶と、名を偽った少女の、異世界生活が本格的に動き出そうとしていた。

◆ ◆ ◆

昼過ぎ、"ボンノー"と"シノ"は、予定通りリントベルクの街へと辿り着いた。

堅牢な石壁に囲まれた中規模の都市。石畳の通りを行き交う馬車と露店、賑やかな声と香ばしいパンの匂い。異世界の息づかいが、否応なく二人の肌に迫ってきていた。

「ボンノーさま、あの、さっきの話の続きを……」

道すがら、フードをかぶったシノが小声で語る。

「わたし、一応……白魔法が使えるんです。たぶん、レファリア教の聖教会での祈祷訓練のせいだと思いますけど……"二式"までならなんとか……」

「……二式。つまり、その"式"というのは……術の"格"のようなものかの?」

「はい。この世界では、"一式"が最高位、五式が初歩とされてます。奇数の式――一式、三式、五式は単体に効果がある魔法で、偶数の式――二式、四式は複数の対象に効果を及ぼす全体魔法なんです」

シノは指を折りながら説明を続ける。

「例えば、私が使える"白ノ五式・ヒール"は単体回復の初歩魔法で、"白ノ四式・サークルヒール"なら周囲の人を同時に癒せます。私は二式までなら何とか使えるんですけど、それより上位の魔法は魔力強度が足りなくて……」

少し恥ずかしそうに頬を染めてから、再び顔を上げた。

「白魔法だけじゃなくて、黒魔法もあるらしいですけど……私は使えません。」

ボンノーが零式について尋ねると――

「"零式"っていうのは、聞いたことがありません。一式よりも上位の、伝説級の魔法なのかも……それとも、この世界の常識を超えた力なのかも……」

「なるほど……」

(では、拙僧が使った"白ノ零式・アルティメットリザレクション"とは……)

あの謎の声。白光に包まれて蘇生した少女。そして"零式"と名乗る魔法。何もかもが、この世界の常識から外れているように思えた。

――この世界は、魔法が存在する世界なのだ。

そう思ったとき、ボンノーはようやく、転生という現実を腹に落とすことができた気がした。

◆ ◆ ◆

冒険者ギルドは、街の中央通りに面した石造りの建物だった。中に入ると、活気に満ちた広間に、粗野な傭兵風の者たちが多く集まり、依頼の張り紙に目を走らせていた。

「ようこそ、リントベルク支部へ。新人さんですか?」

受付にいた若い女性がにこやかに声をかけてくる。

「はっ。拙僧――ボンノーと申します。こちらは連れの……シノです。冒険者登録をお願いしたく、参りました」

「あらまあ、丁寧なお坊さまね。ちょうど人手が足りてないの。おふたりとも身元も確認もいらないから、すぐ登録しちゃいましょ!」

「……いささか無用心な気もいたしますが……」

「そんなこと言ってる余裕ないのよ、この国ではいま、魔物が増えててね」

登録はあっという間だった。名前と種族、得意なことを軽く書くだけ……

「はい、これが冒険者プレートね。銅製だけど、いつか金や銀に昇格してね!」

◆ ◆ ◆

初依頼は"黒兎の狩猟"。近郊の森に現れる野生の黒い兎型魔獣を、十体ほど狩る簡易な討伐任務だという。

「……拙僧、殺生は……八十年ぶりでございますな……」

「えっ……八十年ぶりって……?」

その場の空気が一瞬、止まる。

シノは戸惑いながらも、じっとボンノーの顔を見つめた。

「ボンノーさまって……私と同い年くらいにしか見えませんけど……」

「見た目の話であれば、そうかもしれませぬな」

ボンノーは苦笑しながら、首をすくめた。

「仏門に入ってからというもの、命を奪うことなきよう、ただ祈りと精進に日々を費やしてまいりました。されど、これは……食らうための、命の恵み。戒めを破るにあたり、ただ一つ――」

ボンノーは静かに合掌し、目を閉じる。

「……いただく命よ、拙僧の煩悩と共に、輪廻の糧となられよ」

「だ、大丈夫ですか……?」

「心得はあります。……合掌」

森の奥――

ぴょん、と跳ねた小さな影に、ボンノーの目が細められる。錫杖しゃくじょうが風を切り、鈴の音とともに一閃。その柄の部分が、見事に兎の首元を打ち据えた。

動かなくなった兎に近づくと、ボンノーは袂から一振りの小さなナイフを取り出す。

「ふむ……カイ殿より賜った刃、早くも役立ち申したな」

それは、ジミナ村の老夫婦に贈られた手作りの狩猟用ナイフ。錆びてはいるが、刃はしっかりと研がれていた。

喉元に迷いなく刃を入れ、素早く血抜きを施す。そのまま手際よく解体を始め、皮を剥ぎ、肉と骨を分けていく。

「……拙僧、これを"食材"として扱っていた時期がございますが……まさか、この世界でまた役立つとは……」

隣で見ていたシノが思わず声を漏らす。

「は、はやい……処理がすごく綺麗……」

一方、数匹に囲まれたときに転倒し、腕を擦りむいてしまった。

「ボンノーさま、大丈夫っ!?」

「うむ……少々の傷です、が……やはり歳では……いや、歳ではない……今は若い……」

『白ノ五式・ヒール!』

シノの手のひらから、白くあたたかな光がふわりと舞い、ボンノーの傷に触れた。

「……これは……ありがたき癒し……。煩悩の痛みも、癒されるようですな……」

「……それはちょっと違う気がします」

討伐を終え、ギルドに戻った二人は報酬を受け取った。今の彼らにとって、初めての"収入"だった。

硬貨の重みが、ようやく"生きている"という実感を与えてくれる。

「……まずは、これで今日の食費はなんとかなりますな」

「うん……。よかった、ボンノーさま……!」

二人の手のひらには、小さな銅貨の束。だがそれは、異世界での確かな第一歩だった。

◆ ◆ ◆

と、そのとき――

「おお、もしや、これが今回の兎肉ですかな?」

背後からかかったのは、朗らかでよく通る声だった。

振り返ると、小太りで丸眼鏡の男が、手に大きな包みを抱えて立っていた。胸元の刺繍には"レストラン・サヴァラン"の文字。

「これはこれは、依頼主のマルテン様……」

受付の女性が慌てて立ち上がり、荷を指差す。

「ちょうど納品されたところですわ。ご確認を」

「ふむふむ……ほう、これは……!」

マルテンと呼ばれた料理人は包みを開け、兎肉に目を走らせた途端、その動きを止めた。

「……な、なんという美しい下処理。腱も膜もきれいに除かれ、骨の切断面も見事だ……これは"野で鍛えた技"と見たが、いかがかな?」

驚嘆のまなざしが、ゆっくりとボンノーに向けられる。

「お恥ずかしながら、拙僧、かつて軍におりましてな。野戦の折に多少の心得が……」

「ふむ、軍人……納得ですぞ。僧とは思えぬ手際。いや、見事見事!」

マルテンは感心しきりで頷きながら、ふと何かを思い出したように笑った。

「……そうだ、もしよろしければ、本日の夕餉ゆうげは、ぜひ我が店にて召し上がっていただけませんかな?」

唐突な申し出に、シノがぱちくりと目を瞬かせ、ボンノーも目を丸くした。

「お代は、けっしていただきません。これほど見事な兎肉に出会ったのは、十年ぶり……いえ、二十年ぶりかもしれませぬ。食材に心打たれた料理人としての、ただの"お礼"でございます」

マルテンの眼差しは、冗談ではなく真剣だった。

「いま厨房では、ちょうど"森の赤ワイン煮"を仕込んでおりましてな。この兎を主役にすれば、きっと……今夜は忘れがたい一皿となりましょう」

「……そこまで仰られるのであれば、ありがたく……」

ボンノーが合掌し、静かに頭を下げる。

「煩悩を断つ道にありながらも、食の恵みに感謝する心、忘れるべからず――それが拙僧の信ずるところにございます」

「うむうむ、ありがたいお言葉……! では夕刻、店にてお待ちしておりますぞ!」

マルテンは笑顔のまま深々と一礼し、兎肉の包みを大切に抱えながらギルドを後にした。

残されたボンノーとシノは、どこか不思議な気配を感じつつも、小さく笑みを交わした。

「……なんだか、今日は良いことが重なってますね」

「うむ。命をいただき、生かされ、生かす道もまた、輪廻のひとつかもしれませぬ」

錫杖が小さく鳴った。その音は、夕餉へと向かう一歩のように、軽やかであたたかかった。

◆ ◆ ◆

日も傾き始めた頃、二人は〈レストラン・サヴァラン〉の木扉をくぐった。

石造りの建物の一階部分を改装した店内は、思ったよりも洗練されていた。

橙色のランタンが吊るされた天井、磨き上げられた木のテーブル、そして香ばしく煮込まれた料理の香りが漂う中で、目にもあざやかな前菜が並ぶカウンターが静かに輝いていた。

「おお、ようこそ、ようこそ! ご来店、心より感謝いたしますぞ!」

満面の笑みで迎えたマルテンは、すでに真っ白な料理人の衣装に身を包んでいた。

「こちらのお席へどうぞ」

案内されたテーブル席は、厨房を見渡せる特等席だった。厨房から立ちのぼる芳醇な香りが、ボンノーの鼻腔を直撃する。

――肉の匂いだった。

それは、八十年以上も口にしてこなかった禁断の香り。かつて野戦で口にした干し肉とは比べ物にならない、ふくよかで、豊かで、罪深い香り。

(これは……まずい……煩悩が……)

ボンノーの理性と本能が、静かに戦いを始めていた。

「本日ご用意したのは、"森兎の赤ワイン煮込み"と"山の恵みのソテー"、それから"野菜のクリームスープ"です。いずれも、貴殿が捌いてくださった兎を主役に据えております」

マルテンの説明もそこそこに、ボンノーはふらふらと皿へと視線を落とす。

とろけるような艶の肉、澄んだ赤みがかったソース。添えられた根菜もまた、肉の煮汁を吸い、見るからに瑞々しい。きのこやハーブが彩りを添え、まさに芸術品のような仕上がりだった。

「……いただきまする。」

合掌。

そして、八十年ぶりの肉を、口に運んだ――

――とろり。

柔らかく煮込まれた兎肉が、舌の上でほどけた。

「……っ!?」

一瞬で、世界が変わった。

肉の旨味。香草の香り。赤ワインの深み。野菜の甘み。すべてが渾然一体となって、口の中で踊っている。

八十年、断ち続けた"味"が、喉を駆け、五臓六腑に響き渡る。

「う、うま……っ……いや、これは……っ……」

ボンノーは震える手でフォークを持ち直し、次のひと口を運ぶ。止まらない。止められない。理性が、ゆっくりと、崩れていく――

「……たっとしき戒律よ、いましばし眠るがよい…… 煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい!」

気づけば、口の端から涎がこぼれそうになっていた。

「ボ、ボンノーさま……!?」

シノが慌ててナプキンを差し出す。

ボンノーはそれを受け取り、恥じらいもそこそこに顔を拭いながら、笑った。

「……煩悩、ここに極まれり……」

合掌。

しかし次の瞬間、またしても肉に手を伸ばす。

「いや、これは……これはもう供養である! この命に報いるためにも、残してはならぬ!」

「ボンちゃん、供養じゃないですっ!!」

シノの鋭いツッコミが、店中に響いた。

厨房の奥で、マルテンが嬉しそうに頷いていたのは、言うまでもない。他の客たちも、微笑ましそうにこの光景を見守っていた。

◆ ◆ ◆

こうして――ボンノーは、煩悩の封印をひとつ破った。

その夜、月明かりの下で彼はぽつりと呟く。

「……肉という煩悩、侮れぬのう……」

シノが隣を歩きながら言う。

「今日のボンノーさまは、とても楽しそうでした」

ボンノーは立ち止まり、夜空を見上げた。

「そうやもしれませぬな。煩悩とは、必ずしも悪しきものではない……生きる歓びもまた、煩悩のひとつ。大切なのは、それに溺れることなく、感謝の心を忘れぬことか……」

「はい……私も、今日一日で色々なことを学びました」

二人は静かに歩き続ける。

新しい生活、新しい味覚――すべてが新鮮で、すべてが貴重な体験だった。

そして、次なる旅路ではまたひとつ――新たな煩悩との戦いが待っているのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ