第28話 余、虚無の中に救済を見出す
――同夜。ボンノー一行がコンゴウ山に登った、その夜。王都セレスティア・レファリア教団大聖堂――
枢機卿執務室。ヨコマール、ただ一人。
重厚な椅子に深く腰を沈め、虚空を見つめていた。五十代半ばの端正な顔には何の感情も浮かばない。雪のように白い髪が松明の揺らめく光を受けて、淡く輝いていた。爬虫類を思わせる細い瞳が、記憶の奥底を探るようにゆっくりと瞬く。
「……二十年か」
独白が、石造りの部屋に吸い込まれていく。
黒い司祭外套の袖から覗く指に、黒曜石のような指輪が嵌められていた。それは淡い紫の光を放ち、まるで生きているかのように脈動している。
◆ ◆ ◆
(あの日、余の人生は変わった)
二十年前——まだ三十代の若き司祭だった頃。
ヨコマールは、レファリア教団史上最も敬虔な信者の一人として知られていた。慈愛、節度、奉仕——三つの教義を魂に刻み、人々の救済に全てを捧げていた。
飢えた者には施しを、病める者には癒しを、迷える者には導きを。
朝の祈りから夜の瞑想まで、ただひたすらに他者のために生きていた。
「愚かじゃった」
自嘲の笑みが、薄い唇に浮かぶ。
(最初の絶望は、王都の貧民街じゃった)
飢えた子供たちにパンを配った。次の瞬間、大人たちがそれを奪い去った。
「施しは弱者のものではない。強者がより強くなるための糧に過ぎぬ」
(次の絶望は、商人街じゃった)
富める者に節度を説いた。彼らは表では頷き、裏では労働者をさらに搾取した。
「富の分配? 笑止千万。人は得られる限り奪い、与えることなど考えぬ」
(そして最後の絶望は、親友の裏切りじゃった)
共に理想を語り合った同期の司祭。しかし出世のために、ヨコマールの慈善活動を「売名行為」と上層部に密告した。信頼していた者に背中から刺される——それが最も深い傷となった。
「他者のために生きる? 皆、自分のためだけに生きておる」
◆ ◆ ◆
絶望の淵で藻掻いていた時、魔島調査の命が下った。
「今にして思えば、あれは体のよい厄介払いじゃったな」
理想に燃える若き司祭は、腐敗した上層部にとって目障りな存在だったのだろう。
魔島——呪われし地と呼ばれる死の島。
上陸した調査団は十名。全員が恐怖に震え、発狂し、或いは謎の死を遂げた。生き残ったのはヨコマールただ一人。
「いや……生き残ったのではない。選ばれたのじゃ」
魔島の最奥で、ヨコマールは"それ"と出会った。
『我は扶桑を滅する者——————』
余は禍々しい異形の存在を"フソウさま"と呼んだ。
『バナテールの血肉を喰らい尽くし、時空の枷を断ち——————』
通常なら恐怖で発狂するはずだった。しかし、絶望の底にいたヨコマールは、むしろその言葉に共鳴した。
「そうじゃ……滅ぼすしかない。この腐りきった世界は、一度無に帰すしかない」
フソウさまは問うた。
『汝、我が眷属となるか』
ヨコマールは迷いなく膝をついた。
「はい。万象を無へ還すため、この身も魂も、御心のままに」
黒い指輪が与えられた。それは呪いであり、祝福であり、契約の証。
「レファリア教の教えなど、すべて偽りじゃった。慈愛も節度も奉仕も、人を縛る鎖に過ぎぬ」
ヨコマールは立ち上がり、執務室のステンドグラスに描かれたレファリア像を見上げた。色とりどりの光が、嘲笑うように揺れている。
「人は救えぬ。ならば、無こそが唯一の救済。すべてを無に帰すことこそ、真の慈悲じゃ」
◆ ◆ ◆
王都に戻ってからの最初の十年、ヨコマールは完璧な仮面を被った。
表では誰よりも敬虔な司祭を演じ、裏では教団内の権力を一つずつ掌握していった。邪魔者は呪いで密かに排除し、味方は恐怖で完全に支配した。
「人は恐怖でしか統制できぬ。希望など幻想に過ぎぬ」
さらに十年をかけて、若い女を魔島へ送り続けた。娘たちは蛇人兵を産む贄となる。一人、また一人と、決して悟られぬよう慎重に、確実に。
「そして今、ついにバナテールを無へ還すときが来た」
◆ ◆ ◆
ヨコマールは回想する————
一年前、王位継承者レオシオン王子を暗殺。毒と呪いの二重の罠で確実に仕留めた。
六か月前、ヴィタリス教皇を自らの手で殺害。老いた教皇は最期まで余を信じていた——哀れな男じゃった。
五か月前、国王ルークスに呪いをかけて無力化。その折、クレア姫を取り逃がしたが——女一人で何ができる、と鼻で笑った。
四か月前、聖女リリアの抹殺を命じた。千年に一度の聖女とやらも、所詮は人にすぎぬ。
そして王国騎士団長アベルトを、呪いで屈服させた。最強と謳われた騎士も、いまや余の手駒にすぎぬ。
「駒は盤上にあるうちが美しい。
ルークスもアベルトも、今は生かして縛るがよい。
次の一手を封じ、時が満ちるまで膝を折らせておけるのじゃ」
――そこで、ふと違和感が脳裏をよぎった。
(だが待て……千年に一度、レファリアが地上に遣わすという聖女が、なぜ今この時に? ……まさか、フソウさまの存在を嗅ぎ取ったのか?)
聖女はフソウさまの贄にはならぬ。むしろ害となる。
ゆえにヨコマールはガルドに命じた——命脈を断ち、呪で縫い止め、二重に処置せよ、と。
だが先日、ガルドが何者かに討たれたとの報が入った。
「……くだらぬ。贄はすでに足りておる。無能が一匹倒れようが——」
声に出しても、舌の奥に小さな棘が残った。何かが引っかかる。だが、何が?
外は静寂に包まれていた。樋を伝う水音だけが時を刻んだ。
蝋燭の炎は微動だにせず、まるで時が止まったかのようだった。
「魔島からの蛇人兵の襲来を悟られぬように戒厳令も敷いた。あとは……」
ヨコマールは窓の外を見た。王都の灯りが、まばらに瞬いている。
「二週間後、万を超える蛇人兵が上陸する。まずは王都セレスティアを無へと還す」
独白が、冷たい石壁に反響する。
「じゃが、それまで民には甘い夢を見せねばならぬ」
ヨコマールは口元を歪めた。
民を安心させながら、終いの時打ちを街に仕込む手立て——
「そうじゃ……鐘じゃ」
大聖堂の大鐘を、毎夕一打ずつ増やして打つ。十四日目に戒厳令を解くという偽りの布告を出す。
「民は安心して鐘を数え、解放の日を待つ。――実のところ、数えているのは終いの時打ちだがな」
ヨコマールは目を細める。
「希望は牙を抜く最良の毒じゃからな」
◆ ◆ ◆
ヨコマールは羽ペンを取り、羊皮紙に布告文を書き始めた。
『余は慈悲深きレファリアの名において布告する』
『本日より十四日間、毎夕、日没と共に大聖堂の鐘を打たせる』
『一日目は一打、二日目は二打と、日を追うごとに打ち増していく』
『そして十四度目の鐘が鳴ったとき戒厳令は解除される————』
「これで民は、安心して日々を過ごす。鐘の数を数えながら、自由の日を夢見て。まさか、それが終いの時打ちだとも知らずにな」
黒い指輪が、心臓の鼓動のように不気味に脈動した。
「フソウさま、すべては御心のままに」
深夜の執務室に、ヨコマールの低い笑い声が響いた。
明日から始まる十四の晩鐘——それは、この男の歪んだ人生の救済への序曲だった。




