第24話 拙僧、雨音の中で姫君の孤独を知る
リントベルクの宿『銀狼亭』――
夜更けの静寂を、小雨が優しく包んでいた。
ボンノーは部屋で独り、瞑想に耽っていた。戒厳令が発されてから数日。ヨコマール枢機卿の影は日増しに濃くなり、今日届いた王国騎士団長アベルトの昏倒という知らせが、事態の深刻さを物語っていた。
控えめな扉の音が、静寂を破る。
「どなたじゃ?」
「……ボンノー」
グレアの声だった。だが、いつもの低い作り声ではない。どこか力なく、憂いを帯びた響きがそこにあった。
「お入りくだされ」
◆ ◆ ◆
扉が開き、グレアが入ってきた。
驚いたことに、いつもの兜を被っていない。亜麻色の髪が、灯火の光をほのかに宿している。
「グレア殿……いや」
ボンノーは、目の前に立つ人物を改めて見つめた。
凛とした美貌の奥に、深い憂いを湛えた瞳。間違いない――リヴィエラ王国第一王女、クレア・フォン・リヴィエラその人だった。
「話を……聞いてほしい」
クレアは窓辺へと歩み寄り、雨に濡れる夜の街並みを見下ろした。
長い沈黙が流れ、やがてクレアが口を開いた。
「私は、母の顔を知らない」
静かな告白だった。
「母上は私を産んですぐに亡くなった。だから私には、兄様だけが……レオシオン兄様だけが、本当の家族だった」
雨粒が窓を伝う音だけが、部屋に響く。
「兄様は優しかった。剣術は人並みだったけれど、聡明で、誰からも慕われる人だった。私が寂しい思いをしないよう、いつも気にかけてくれた」
声が、かすかに震えた。
「一年前、兄様は殺された。何者かに……いや、今思えばヨコマールの手の者に違いない」
「父上は政務に追われ、私たち兄妹と過ごす時間はほとんどなかった」
クレアは続けた。
「だから騎士団長のアベルト様と、その妻のソフィア様が、私たちにとって第二の両親のような存在だった」
窓に映る自分の姿を、じっと見つめながら。
「アベルト様は厳格だったが、剣術を通じて多くのことを教えてくれた。騎士の誇り、民を守る責任、そして……真の強さとは何かを」
「良き師に恵まれたのですな」
ボンノーの言葉に、クレアは苦い笑みを浮かべた。
「ああ。だが、私はその教えを何一つ実践できなかった」
クレアの拳が、窓枠を強く握りしめた。
「五か月前の、あの夜――」
声が震える。
「私は見てしまった。ヨコマール枢機卿が、父上の寝室で呪術を行うところを」
ボンノーは黙って聞いていた。
「紫の瘴気が父上を包み、苦しむ父上の姿……そして、ヨコマールのあの邪悪な笑み」
クレアの肩が小刻みに震えた。
「私は……私は戦うべきだった。父上を守るべきだった。でも……」
涙が頬を伝い始める。
「恐怖で足がすくんで、ただ逃げることしかできなかった」
「それから私は、グレアという偽りの姿で身を隠してきた」
自嘲的な笑みが浮かぶ。
「姫騎士だなんて……笑わせる。私はただの臆病者だ」
「そして、今日――」
クレアの声がいったん途切れる。
「……アベルト様まで倒れられたと聞きました。病ではなく――父上と同じ呪い」
クレアは両手で顔を覆う。
「兄上を守れず、父上を守れず、そして今度は、アベルト様まで……」
嗚咽が漏れ始める。
「私は……私は何もできない。王女として、騎士として、人として――何の価値もない」
◆ ◆ ◆
その時、思わず本心が口をついた。
「わたくしは……わたくしはどうすればよいのですか……」
姫としての言葉遣いが、涙と共にこぼれ落ちる。
「もう、誰も守れない……誰も……」
膝から崩れ落ちそうになったクレアを、ボンノーがそっと支えた。
「クレア姫」
優しく、しかし力強い声だった。
「貴女は、独りではございませぬ」
ボンノーは、泣きじゃくるクレアを静かに抱き留めた。
「拙僧がおります。シノ殿も、ヴィヴィ殿も、ナターシャ殿も」
クレアの震えが、少しずつ収まっていく。
「皆、貴女と共に戦う仲間です。貴女を支える友です」
温かい腕の中で、クレアは声を殺して泣いた。
幼い頃から溜め込んできた悲しみが、堰を切ったように溢れ出す。
(明日のために、今日は抱き留めねばならぬ。それが男というものじゃ)
ボンノーの魂が、かつて仕えた艦隊の記憶と共に、そう告げていた。
(これが、この方の本当の姿なのじゃな)
ボンノーは、腕の中の華奢な体を、そっと抱きしめた。
しかし――
次の瞬間、ボンノーの全身に電撃が走った。
クレアの髪から漂う花のような香り。
肩の華奢な線。
頬に感じる柔らかな髪。
そして、胸に押し当てられた――
(い、いかん! 煩悩が……煩悩が暴走する!)
百八年間の"煩悩断ち"生活で培った理性が、音を立てて崩れそうになる。
——一息、二息、三息。心よ鎮まれ。
必死に目を閉じ、脳内で光り輝くミホトケサマを思い描く。
(南無三宝南無三宝南無三宝南無三宝――!)
脳内では、金色に輝くミホトケサマが優しく微笑んでいた。
『煩悩もまた人の道……されど今は耐えるのじゃ』
(は、はい! ミホトケサマ!)
必死の脳内対話。
しかし、クレアが小さく身じろぎするたびに、甘い香りが鼻をくすぐる。
(ダメじゃ……理性が……理性の糸が切れる……!)
歯を食いしばり、全身の筋肉を硬直させて耐える。
額には大粒の汗が浮かび、心臓は早鐘のように打っている。
(もう少し……もう少しの辛抱じゃ……!)
永遠とも思える時間が過ぎ、ようやくクレアの涙が止まった。
ゆっくりと顔を上げたクレアは、ボンノーの顔を見て、小さく息を呑んだ。
ボンノーの顔は真っ赤に上気し、額には汗が流れ、目は固く閉じられている。まるで激しい修行の最中のような表情だった。
(この人は……私を抱きしめながら、必死に……)
クレアの頬が、ほんのりと赤く染まった。
静かにボンノーから離れると、クレアは一度だけ、その横顔を見つめた。
言葉はいらなかった。
すべてを理解し、すべてに感謝し、そして少しだけ――心が温かくなった。
無言のまま、クレアは部屋を後にした。
◆ ◆ ◆
扉が閉まった瞬間――
「ふはああああああっ!」
ボンノーは大きく息を吐いて、その場に崩れ落ちた。
「た、耐えた……拙僧、耐えきった……!」
全身から力が抜け、大の字になって天井を見上げる。
「しかし……あの香り……あの柔らかさ……」
慌てて頭を振る。
「いかん、心を澄ませよ——煩悩、退散じゃ!」
急いで正座し、錫杖を握りしめて瞑想に入る。
「煩悩即菩提、煩悩即菩提……」
◆ ◆ ◆
窓の外では、小雨が静かに降り続いていた。
雨は、二人の心に生まれた小さな絆を、優しく包み込むように――




