第19話 拙僧、褐色魔女の無詠唱にて肉への煩悩を再燃させる
二日目の朝――
リントベルクの城門が、ようやく視界に入ってきた。
朝露を纏った石畳が朝日を反射し、街全体が金色に輝いて見える。
「ああ、懐かしいリントベルクの街並み!」
ヴィヴィが両手を高く伸ばして背筋を反らせた。
「やっと戻ってこれましたね」
シノが胸を撫で下ろす。
「まずは冒険者ギルドに顔を出すか」
グレアが兜の隙間から低く呟いた。
ボンノーは腰に下げた革袋を軽く叩き、重いため息を吐いた。
「……路銀が、もはや底をついておりますな」
バスタでの賄賂、温泉宿での宿泊費。想定外の出費が積み重なり、懐の金貨は既に消え失せていた。
「また稼げばいいのさ」
ナターシャが軽い調子で肩を竦める。
◆ ◆ ◆
冒険者ギルド――
変わらぬ喧騒が広間を満たしていた。
掲示板の前には冒険者たちがひしめき合い、めぼしい依頼を物色している。
「おかえりなさい! ボンノー様たち!」
受付嬢が満面の笑みで迎えてくれた。
「バスタ方面へ行かれていたんですね。最近あちらは物騒だと聞きますが、ご無事で何よりです」
「ええ、まあ……色々ございましたが」
ボンノーは言葉を濁しながら、掲示板へと足を向けた。
そこで、一枚の羊皮紙が目に留まった。
**【依頼:ジューシーボアの食材調達】**
**依頼主:レストラン・サヴァラン マルテン**
**報酬:銀貨10枚**
**備考:新鮮な肉を求む**
「マルテン殿の依頼か……」
三か月前の恩が脳裏をよぎる。
見事に捌いた兎肉を褒められ、豪華な食事を振る舞われたあの日を。
「ジューシーボアって、あの白くて太った豚でしょ?」
ヴィヴィが横から覗き込んできた。
「美味しいって評判だよね!」
「楽な依頼ですし、これにしましょう」
シノも即座に賛同する。
◆ ◆ ◆
「あ、そうだ」
思い出したようにナターシャが受付へと歩き出した。
「あたい、冒険者登録したいのさ」
「はい、お名前と等級証をお願いします」
「名前はナターシャ。等級証は……ガルドの野郎に全部奪われちゃってね」
受付嬢の表情に同情の色が浮かんだ。
「それは災難でしたね。では、銅等級からの再スタートということで」
「金等級だったのに、銅からやり直しか……」
苦い笑みを浮かべながら、ナターシャは新品の銅プレートを受け取った。
「ま、しょうがないさ。またコツコツ上げていくよ」
◆ ◆ ◆
馬車が揺れること一時間――
タロラル高原の雄大な景色が広がってきた。
緩やかな起伏を持つ丘陵地帯に、青々とした短い草が絨毯のように敷き詰められている。
「ジューシーボアは草食で大人しいけど、怒らせると突進してくるから気をつけてね」
ヴィヴィが警告を発する。
その瞬間――
ドドドドドッ!
大地が震え、土煙が舞い上がった。
「な、なんだ!?」
振り返れば、白く肥えた豚――ジューシーボアが二頭、凄まじい勢いで突っ込んできていた。
「こっちに向かってくる!」
シノが慌てふためいて祈りの杖を構える。
「これは僥倖じゃな」
ボンノーが錫杖を握り締める。
「二頭も向こうから来るとは」
◆ ◆ ◆
「あたいの出番さ」
ナターシャが余裕綽々と前に出た。
プラチナの髪が風に舞い上がる。
「まかせるのさ」
両腕を優雅に広げ、詠唱を紡ぎ始める。
「月の女神ルナテミスよ、銀光を下せ!」
そして小声で付け加えた。
「……まあ、昼だから月は出てないけどね。てへっ」
全員が脱力しかけた瞬間、ナターシャは涼しげに魔法を解き放った。
『黒ノ五式・ストーン!』
掌から射出された石礫が、先頭のジューシーボアの額を正確に撃ち抜く。
巨体がドサリと崩れ落ちた。
次の刹那――
詠唱なしで、もう一発の石礫が飛んだ。
二頭目も頭部への直撃を受け、地面に沈んだ。
◆ ◆ ◆
「す、すげぇ……」
ヴィヴィが顎を外しそうなほど口を開けた。
「二発目、詠唱してなかったよね!?」
「無詠唱……!」
グレアも驚愕を隠しきれない。
「それも五式とはいえ、瞬時に……」
「さすが金等級だった方ですね」
シノも感嘆の息を漏らしていた。
「百八年も生きてれば、このくらいできるのさ」
ナターシャは何でもないように髪をかき上げた。
その瞬間――
ガルルルル……
低い獣の唸りが響いてきた。
茂みを割って姿を現したのは、額に鋭い一本角を生やした巨大な虎。
一角タイガーだった。
「なるほど、ジューシーボアが逃げてきた理由はこれか」
ボンノーが合点がいったように頷く。
◆ ◆ ◆
「一角タイガーの角と毛皮は高く売れるよ!」
ヴィヴィの瞳が金貨の輝きを宿した。
「金貨2枚はいくかも!」
グレアが剣を滑らかに抜き放ち、ボンノーも錫杖を構え直す。
シノは防御魔法の詠唱に入った。
一角タイガーが地を蹴り、宙を舞った。
鋭利な爪が陽光のごとく煌めく。
ヴィヴィが大盾を掲げて前に飛び出した瞬間――
『黒ノ三式・パラライズ・ツヴァイ!』
ナターシャの魔法が炸裂した。
紫の霧が一角タイガーを包み込む。
空中で硬直した巨体が、ドサリと地面に叩きつけられた。
痙攣するばかりで、身動き一つ取れない。
「あとは前衛の仕事さ」
ナターシャが涼やかに告げた。
◆ ◆ ◆
「では、拙僧が」
ボンノーが錫杖を振り上げかけたが――
シュッ!
グレアの剣閃が弧を描いた。
一角タイガーの首筋を寸分違わず切り裂く。
瞬殺だった。
「……早いな」
ボンノーが苦笑を漏らす。
「当然だ」
グレアは剣を鞘に収めながら、誇らしげに胸を反らした。
「さて、血抜きと内臓処理をせねばのぉ」
ボンノーは手慣れた動作で、ジューシーボアの血抜きに取り掛かった。
首筋に刃を滑らせ、内臓を手際よく取り出していく。
その一連の動きは、まさに熟練の技だった。
「ボンノーさん、ほんと手慣れてるね」
ヴィヴィが感心の声を上げる。
◆ ◆ ◆
リントベルクの冒険者ギルド――
「ジューシーボア二頭と、一角タイガー一頭!?」
受付嬢が目を見開いた。
「すごい収穫ですね!」
査定の結果、一角タイガーの角と毛皮は金貨2枚で買い取られた。
「おお、これはこれは!」
奥から姿を現したのは、恰幅の良い料理人・マルテンだった。
「ボンノー殿! お久しぶりですな!」
「マルテン殿、ご無沙汰しております」
ボンノーが深々と頭を下げる。
マルテンはジューシーボアの肉を検分し、感嘆の声を上げた。
「素晴らしい! 血抜きも内臓処理も完璧だ!」
そして、革の財布を取り出した。
「依頼は一頭でしたが、二頭も捕獲してくださったとは……もう一頭も買い取らせていただきます。銀貨10枚でいかがかな?」
「ありがたき幸せ、マルテン殿」
ボンノーが感謝を述べ、ヴィヴィは飛び跳ねて喜びを表現した。
◆ ◆ ◆
最終的に、依頼報酬と買い取り代で銀貨20枚。
一角タイガーの金貨2枚と合わせて、予想以上の収入となった。
「一人あたり銀貨8枚ずつだね!」
ヴィヴィが素早く計算する。
「これで一銅無しじゃなくなったよ!」
ナターシャも嬉しげに銀貨を確かめた。
「食材の調達は、やはりボンノー殿が一番ですな」
マルテンが満足げに頷く。
その時、ボンノーが申し出た。
「マルテン殿、二頭の解体処理は大変でしょう。拙僧も手伝いましょうか?」
「おお! それは助かります!」
マルテンの顔が明るく輝いた。
「では、お礼と言ってはなんですが……今夜、皆さんでジューシーボアのステーキはいかがですか? もちろん、お代はいただきません」
◆ ◆ ◆
「肉……ジューシーボアのステーキ……」
ボンノーの瞳が妖しく輝いた。
口元から、今にも涎が零れ落ちそうになる。
「ボンノーさま、涎が……」
シノが慌ててハンカチを差し出す。
「では、拙僧は今からマルテン殿を手伝いますので、皆さんは後ほど店にお越しください」
「了解!」
ヴィヴィが元気よく応じた。
「じゃあ、あたいたちは買い物でもしてくるさ」
ナターシャが提案する。
「私、新しいポーチが欲しいですし」
シノも同意した。
◆ ◆ ◆
レストラン・サヴァラン――
厨房の中央で、ボンノーが包丁を握っていた。
シュッ、シュッ、シュッ――
リズミカルな刃音と共に、ジューシーボアが部位ごとに切り分けられていく。
「見事だ……!」
マルテンが息を呑む。
「筋の走り方を完璧に把握している……まさに匠の技!」
ロース、ヒレ、バラ、モモ――
それぞれが美しく整形され、調理台に配置されていく。
「この部位はステーキに、こちらは煮込みに最適ですな」
ボンノーが解説しながら、手を休めることなく作業を続ける。
◆ ◆ ◆
夕刻――
『レストラン・サヴァラン』の扉が開き、仲間たちが到着した。
「いらっしゃいませ!」
マルテンが満面の笑みで出迎える。
「特等席をご用意しました!」
厨房が見渡せる特別席に案内される一行。
そして――
ジュウウウウ……
鉄板の上で、分厚いステーキが焼かれる音。
香ばしい匂いが店内に充満する。
「う、うまそう……」
ボンノーの理性が崩壊寸前だった。
涎が、もはや制御不能になっている。
◆ ◆ ◆
「お待たせしました! ジューシーボアの特選ステーキです!」
運ばれてきた皿の上には、見事に焼き上げられた肉の塊。
表面は香ばしくカリッと、内側はジューシーに。
岩塩と黒胡椒、そしてハーブバターが添えられている。
「いただきます!」
全員で手を合わせ、そして――
ボンノーが真っ先に肉を口に運んだ。
「……っ!」
肉汁が口腔内で爆発する。
脂の甘み、赤身の旨味、そして焦げ目の香ばしい苦味が絶妙に調和している。
「う、うまい……うますぎる……!」
涙すら流しながら、ボンノーは肉を貪り食った。
「ボンノーさん、ペース早すぎ!」
ヴィヴィが笑いながら突っ込む。
「こんなに美味しいステーキ、初めてです」
シノも幸せそうに頬を緩める。
「ふむ、悪くない」
グレアも兜の下で舌鼓を打っていた。
「いい肉だね、これ」
ナターシャも満足げに頷く。
「やっぱり美味いものを食うのが一番さ」
◆ ◆ ◆
「どうです、ボンノー殿の捌いた肉は!」
マルテンが誇らしげに言う。
「ボンノーさん、最高だよ!」
ヴィヴィが親指を立てた。
その横で、ボンノーは既に二皿目に突入していた。
「煩悩即菩提……肉は尊き戒律……」
ぶつぶつと呟きながら、ひたすら肉を口に運ぶ。
「ボンノーさま……もう少しゆっくり……」
シノが心配そうに声をかけるが、ボンノーの耳には届かない。
完全に肉の虜と化していた。
「百八歳にもなって、まるで子供のようなのさ」
ナターシャが呆れながらも、優しい眼差しを向けた。
「でも、美味しそうに食べる人を見るのは、いいもんさ」
こうして、久方ぶりの肉祭りは深夜まで続いた。
ボンノーが正気に戻ったのは、五皿目を平らげた後だったという――。
「拙僧……また煩悩に負けてしまった……」
深く反省するボンノーだったが、口元にはまだ肉汁が光っていた。
◆ ◆ ◆
夜も更けた宿屋の一室で、シノとグレアは向かい合って座っていた。
「グレアさん……あの、ちょっと気になって」
シノが遠慮がちに切り出す。
「なんだ?」
兜を外したグレアが、亜麻色の髪をかき上げながら応じた。
「ボンノーさまって……どういう人だと思われますか?」
「ボンノー?」
グレアが片眉を上げる。
「あの煩悩坊主のことか」
「煩悩坊主って……」
シノが頬を膨らませる。
「そんな方じゃありません」
「そうか? 娼館街で鼻血を出して倒れたり、温泉でナターシャと――」
「あ、あれは事故です!」
思わず声を張り上げたシノに、グレアは小さく笑った。
「……まあ、悪い奴じゃないな。あいつは本物だ」
「本物?」
「嘘をつかない。変に飾らない。だから損もするが……それでも人を救おうとする」
「……そうですね」
シノは静かに頷いた。
「おまえは?」
グレアが軽く問う。
「私は……命を救っていただいた恩があります」
「ふうん」
グレアはそれ以上深くは聞かず、窓の外へ視線を向けた。
「……坊主は鈍い。言いたいことがあれば、はっきり伝えろ」
シノはきょとんとしたまま、「おやすみなさい」と部屋を出ていく。
残されたグレアは、月光を浴びながら短く息をついた。
「……まあ、わたくしも、似たようなものですわ」
窓明かりが石畳に四角く落ちる。リントベルクの夜は静かに、眠りの色へ――




