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ボンノーさまがいく ~異世界で46cm三連砲を撃つ物語~  作者: wok
第2章 煩悩坊主、姫と聖女と姐と妹と共に

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第16話 拙僧、月下の湯にて八十年前の酒と涙を思い出す

激しい雨が馬車の幌を叩く音が、まるで太鼓のように絶え間なく響いていた。

バスタの町を後にしてから、すでに半日が過ぎようとしている。ボンノーは水たまりを慎重に避けながら手綱を操るが、その速度は遅く、誰もが早くリントベルクへ辿り着きたいと願っていた。

雨は本降りになり、視界さえも白く霞ませ始めた頃――

「おい、引き返すぞ!」

前方から、数台の荷馬車が泥を跳ね上げながら慌ただしく戻ってきた。

「どうしたの? なんで戻ってくるの?」

ヴィヴィが身を乗り出して、商隊の御者に声をかける。

「朝からの雨で街道が土砂崩れだ! とても通れやしねぇ!」

御者は雨に濡れた顔を拭いながら、苦々しく答えた。

「……困ったのう」

ボンノーが錫杖を握りしめ、眉間に皺を寄せる。

「リントベルクへは東側の迂回路を通るしかない」

グレアが濡れないように注意しながら地図を広げ、冷静に状況を分析した。

「でも、ナターシャさんの体調が……」

シノが心配そうに振り返る。馬車の奥で、ナターシャはボンノーの予備の僧衣を借りて身を包んでいたが、その顔色は土気色で、明らかに衰弱していた。

「大丈夫さ。あたいはタフだからね」

ナターシャは強がりを見せたが、その声には力がなく、誰もが彼女の状態を案じていた。

◆ ◆ ◆

迂回路は想像以上に険しい山道だった。

馬車がやっと通れる程度の細い道を、慎重に、時には馬を降りて手綱を引きながら進んでいく。雨は相変わらず激しく降り続き、ざあざあと地面を叩いては、小さな川のような水の流れを作り出していた。

「うわっ、冷たい!」

ヴィヴィが大盾を傘代わりにしながら、雨粒が首筋を伝うたびに悲鳴を上げる。

その時、山道の先に続く木々の向こうに、ぼんやりと建物の影が見えた。

「あれは……?」

シノが目を凝らす。

「宿じゃな」

ボンノーが錫杖で指し示す先に、木造二階建ての建物が雨に煙っていた。その屋根からは、白い湯煙が立ち上り、雨雲と混じり合っている。

古びた看板には『山霧の湯』という文字が、かすれながらも読み取れた。

「温泉宿だ!」

ヴィヴィが両手を挙げて歓声を上げた。その声は山々にこだまし、まるで山全体が彼女の喜びを祝福しているかのようだった。

◆ ◆ ◆

「いらっしゃいませ。こんな雨の中、大変でしたでしょう」

宿の主人が、温かな笑みを浮かべながら一行を出迎えた。白髪の老人だが、その背筋はしゃんと伸び、長年この宿を守ってきた誇りが感じられる。

「今日は他にお客様もいらっしゃいませんので、ゆっくりしていってください」

「貸し切りかぁ! ラッキー!」

ヴィヴィが水たまりを避けながら飛び跳ねる。

「温泉の効能は?」

グレアが実務的に、しかし期待を込めて尋ねた。

「美肌、疲労回復、傷の治癒……なんにでも効きますよ。この山の恵みですからな」

老主人が穏やかに微笑みながら、誇らしげに胸を張る。

ナターシャの顔に、ようやく血の気が戻ったように見えた。

「それは……ありがたいのさ」

彼女の声にも、わずかだが力が戻ってきていた。

◆ ◆ ◆

夕食の膳には、温泉宿ならではの山の幸が所狭しと並んでいた。

山菜の天ぷらは黄金色にカラリと揚がり、川魚の塩焼きからは香ばしい匂いが立ち上る。きのこと麦の雑炊は、湯気と共に優しい香りを放っていた。

「うまい!」

ヴィヴィが両頬を膨らませながら、次々と箸を進める。

「この天ぷら、さくさくで最高! 山菜の苦味がまたいいアクセントになってる!」

「本当ですね。街では味わえない新鮮さです」

シノも嬉しそうに微笑みながら、丁寧に一口ずつ味わっている。

「ふむ、川魚も臭みがなく、塩加減も絶妙じゃ」

ボンノーが満足げに頷きながら、骨を器用に外していく。

「……うむ、悪くない」

グレアも木のフォークを器用に操りながら、いつもより多く手を伸ばしている。

「あたいもこんなに美味しいもの、久しぶりなのさ」

ナターシャも少しずつ顔色が良くなり、雑炊をゆっくりと、しかし確実に口に運んでいた。

「お気に召して何よりです」

老主人が嬉しそうに、追加の料理を運んでくる。

「こちらは山葡萄の甘煮です。デザートにどうぞ。自慢の一品ですよ」

「わぁ! 甘いの大好き!」

ヴィヴィの目が星のように輝く。

久しぶりに、一行の間に心からの笑い声が響いた。バスタでの緊張から解放され、皆の表情も自然と和らいでいく。窓の外では雨が降り続いているが、この部屋の中だけは別世界のような温かさに包まれていた。

「……ありがたくいただきます」

ボンノーは静かに手を合わせ、仲間たちの笑顔を見守っていた。

◆ ◆ ◆

「温泉は通常、男女時間制ですが……」

老主人が恐縮そうに説明する。

「今日は貸し切りですから、お好きにお使いください」

「やったー! じゃあ先に女子で入ろう!」

ヴィヴィが勢いよく立ち上がる。

「そうですね。久しぶりにゆっくりできそうです」

シノも微笑みながら頷いた。

「……俺も行く」

グレアが腰を上げた瞬間――振り返って鋭い視線をボンノーに向けた。

「ボンノー、覗くなよ」

強い言葉に反して、その声にはかすかな揺れが混じっていた。

「な、何を仰る! 拙僧はそのような破戒僧では――」

ボンノーが慌てふためく。

「ボンノーさまはそんなことしません!」

シノが頬を膨らませながら、グレアに向かって反論した。

「私は信じてますから」

そう言って、ボンノーに向けて優しく微笑む。その笑顔は、まるで春の陽だまりのようだった。

ナターシャは大きな欠伸をしながら立ち上がった。

「あたいは先に休むのさ。みんな、楽しんできな」

彼女の足取りは、夕食前よりもしっかりしていた。

◆ ◆ ◆

夜も更け、宿は深い静寂に包まれていた。

ボンノーは眠れずに、一人廊下を歩いていた。古い木の床が、歩くたびにかすかに軋む。

「皆、もう寝たかのう……」

ふと立ち止まったのは、帳場にまだ灯りをともしている老主人の前だった。

「まだ起きておられましたか」

老主人が優しく声をかける。

「実は……お坊様にお勧めしたいものがありまして」

老主人は奥の棚から、古びた一本の酒瓶を大切そうに取り出した。

「これは花霧酒ブロッサムミストといいまして、この地の名酒です。もう何十年も寝かせた逸品ですよ」

透明な液体が、ろうそくの光を受けて琥珀色に輝いている。

「よろしければ、一杯いかがですか?」

ボンノーは一瞬、躊躇した。

酒は八十年前に断ったはず――仏門に入る時、二度と口にしないと誓ったはず。

だが、老主人の温かな眼差しと、今日一日の疲れが、その決意を揺らがせた。

「……一杯だけ、いただこうかのう」

老主人は嬉しそうに、漆塗りの盆と小さな杯を差し出した。

「温泉で月見酒など、風流ですよ。今夜は雨も上がりそうですから」

◆ ◆ ◆

深夜の露天風呂――

いつの間にか雨は上がっていた。

雲が流れ去り、満月が顔を覗かせる。まるで天が、この静寂な時を祝福するかのように、銀色の光を地上に降り注いでいた。

湯面は鏡のように静まり返り、月光を完璧に映し出している。時折、湯の花が浮かんでは、小さな波紋を作り出していた。

ボンノーは岩に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。温泉の熱が、百八年生きてきた体の芯まで染み渡っていく。

「……雨も止み、月も綺麗じゃのう」

澄んだ夜空には、星々までもが宝石のように瞬いている。山の静寂が、まるで時を止めたかのような錯覚を覚えさせた。

「……八十年ぶりの酒か」

木の杯に注がれた花霧酒が、ほのかな花の香を立たせて月光に輝いている。

一口、唇に触れさせる。

甘く、それでいてさっぱりとした味が口中に広がった。舌の上で転がすと、花の香りがふわりと鼻腔を抜けていく。

「……うまい」

思わず呟いた。その一言と共に、封印していた記憶の扉が、ゆっくりと開き始めた。

◆ ◆ ◆

酒の味が、時を巻き戻していく。

(最後に酒を飲んだのは……そうじゃ、あの時じゃった)

扶桑皇国海軍での三年の艦隊勤務を終え、海軍陸戦隊に配属されてからのこと――サマン島出撃前夜の光景が、鮮明に蘇ってきた。

『諸君! 明日はいよいよ上陸だ!』

江田島少将の声が、今でも耳に残っている。威厳に満ちた、しかしどこか優しさを含んだ声だった。

『今夜は無礼講! 存分に飲め! 明日は皇国のために戦うのだ!』

白稲酒はくとうしゅが振る舞われ、艦内は歓声に包まれた。若い兵士たちは故郷の歌を歌い、ベテランの下士官たちは昔話に花を咲かせていた。

参謀長の藤堂中佐も、いつもの厳しい表情を緩め、珍しく笑顔を見せていた。

『新村少尉、お前も飲め』

『は、はい!』

あの時の自分は、まだ二十八歳の若造だった。戦争の本当の恐ろしさを、まだ知らなかった。

◆ ◆ ◆

(松岡……お前のことは、一日たりとも忘れたことはない)

ふと、一人の兵士の顔が鮮明に浮かんだ。

松岡二等兵。まだ二十歳の、故郷に恋人を残してきた若者だった。

『新村少尉殿! 見てください!』

出撃前夜、彼は恥ずかしそうに、大切そうに一枚の写真を懐から取り出した。セピア色の写真には、着物姿の可愛らしい女性が写っていた。

『この戦いが終わったら、結婚するんです! もう親同士の話もついてまして』

満面の笑みだった。その笑顔は、希望に満ち溢れていた。

『必ず生きて帰るんだ! 少尉殿も、絶対に生きて帰ってくださいね!』

だが――

(拙僧の判断ミスで……いや、言い訳はすまい)

サマン島での激戦。補給は途絶え、弾薬も食料も尽きた地獄の戦場。

『少尉殿! 右から敵が!』

松岡が叫んだ時には、もう遅かった。

砲弾が炸裂し、爆風が吹き荒れ、松岡の体は――

彼は最期まで、恋人の写真を胸に抱いていた。血に染まったその写真を、今でも覚えている。

「……すまなかった、松岡」

ボンノーの頬を、熱い涙が伝った。

月光に照らされた雫が、ぽつりぽつりと湯面に落ちる。八十年余りの時を経ても、あの時の悔恨は少しも薄れていなかった。

◆ ◆ ◆

(あの撤退は……)

司令部からの死守命令。

だが、このままでは全滅は必至だった。もはや戦える兵士は半数以下、負傷者は増える一方。

『閣下! 撤退を!』

藤堂参謀長が、命を賭けて進言した。

『これ以上の犠牲は無意味です! 生きて帰れる者は、生きて帰すべきです!』

江田島少将は、長い沈黙の後、苦渋の決断を下した。

『……撤退する。責任は私が取る』

その一言が、多くの命を救った。しかし同時に、多くの運命も変えてしまった。

撤退は成功した。しかし――

江田島少将は軍規違反で銃殺刑。最期まで部下を庇い続けた。

藤堂中佐は左遷され、二度と出世の道は閉ざされた。

生き残った者たちも、「敵前逃亡」の汚名を着せられ、心に深い傷を負った。

「皆……すまなかった……」

ボンノーは杯を傾けながら、静かに涙を流した。

八十年前の戦友たちへの、遅すぎる弔いの酒だった。月は変わらず優しく照らしているが、その光は、まるで死んでいった者たちの魂のようにも見えた。

◆ ◆ ◆

その時――

「お坊様、いるかい?」

湯煙の向こうから、声がした。

ナターシャだった。

「!」

ボンノーは慌てて涙を拭った。

過去の記憶から、現実へと引き戻される。

月光は変わらず湯面を照らし、戦友たちへの想いは、静かに胸の奥へと沈んでいった。

温泉宿の夜は、まだ深い――。

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