第12話 拙僧、娼館街にて煩悩の極致を見る
バスタの町、薄汚れた石畳の裏通り――
「ここでよかろう」
ボンノーが錫杖で指し示したのは、城壁に程近い三階建ての宿屋だった。看板には『月牙亭』とかすれた文字が刻まれている。外観こそ古びているが、扉や窓枠は手入れが行き届いており、信頼できそうな雰囲気があった。
「うーん、ちょっと高そうだけど……」
ヴィヴィが財布の中身を確認しながら首をかしげる。
「安全第一じゃ。ガルドの手の者がうろつく町で、宿選びを誤るわけにはいかぬ」
一行は重い木扉を押し開け、薄暗い受付へと足を踏み入れた。カウンターの奥から、白髪混じりの宿主が顔を出す。
「いらっしゃい。四名様かね?」
「うむ。数日ほど世話になりたい」
ボンノーが銀貨を差し出すと、宿主は素早く勘定して頷いた。
「部屋は二階に三つ空いてる。どう振り分けるかね?」
ボンノーは振り返り、仲間たちを見渡した。
「ふむ……拙僧とグレア殿で一部屋、シノ殿とヴィヴィ殿で一部屋というのはどうじゃ? 経費節減にもなる」
瞬間、白銀鎧から冷たい声が放たれた。
「断る」
「え、えっと……」
ボンノーが困惑していると、グレアは腕を組んだまま続けた。
「俺は一人がいい。それに――」
兜の奥から、じっとボンノーを見つめる視線を感じる。
「お前、寝相が悪そうだ」
「そ、そんなことは……」
「じゃあ決まり!」
ヴィヴィが手を叩いた。
「あたしとシノちゃんで一部屋、ボンノーさんとグレアさんはそれぞれ個室ね!」
「いや、しかし宿代が……」
「ケチくさいこと言わないの! 命あっての物種でしょ?」
結局、グレアとヴィヴィの押しに負け、三部屋を確保することになった。
◆ ◆ ◆
夕刻、二階の一室――
「シノ殿、申し訳ないが、今夜は部屋で待機していただけぬか」
ボンノーが神妙な面持ちで切り出した。
「街の様子を探りに行くのですね。私も――」
「いや、危険すぎる」
グレアが首を横に振る。
「ガルドの手下どもが、お前の顔を知っている可能性がある。俺が護衛につく」
シノは少し不満そうな表情を見せたが、やがて小さく頷いた。
「……わかりました。でも、皆さんも気をつけてくださいね」
「うん、任せて! あたしとボンノーさんで、ばっちり情報収集してくるから!」
ヴィヴィが胸を叩いて見せた。
かくして、ボンノーとヴィヴィの二人は、夜のバスタへと繰り出していった。
◆ ◆ ◆
石畳の通りを歩きながら、ボンノーは違和感を覚えていた。
「……妙じゃな」
「ん? 何が?」
「若い女子の姿が、ほとんど見当たらぬ」
確かに、道行く人々は男か老婆ばかり。活気ある町なら当然いるはずの、若い女性の姿がまるでない。
「……不気味だね」
ヴィヴィも顔をしかめた。
やがて二人は、黒羽隊の兵士たちが集う酒場へとたどり着いた。『黒山羊亭』――扉の向こうから、粗野な笑い声と酒臭い空気が漏れてくる。
「行くよ、ボンノーさん」
「うむ」
◆ ◆ ◆
薄暗い酒場の片隅で、黒羽隊の兵士たちが杯を傾けていた。二人は隣のテーブルに着き、ヴィヴィは麦酒、ボンノーは麦茶を注文した。そして、さりげなく黒羽隊の会話に耳を傾ける。
「――で、三日後だとよ」
髭面の兵士が、仲間に向かってぼやいた。
「王都への女輸送任務。めんどくせぇ」
「ヨコマール枢機卿様のご命令だろ? シスター見習いにするんだとか」
「へっ、表向きはな」
兵士たちが下卑た笑いを漏らす。
「ガルド様はいいよなぁ」
別の兵士が羨ましそうにつぶやいた。
「明日の夜、護送される女の中から上物を味見するらしいぜ」
「マジかよ!」
「町はずれの水車小屋でな。いいなぁ、俺も味見してぇなぁ」
ボンノーの拳が、静かに震えた。
(……外道どもめ)
ヴィヴィもまた、大盾を握る手に力を込めていた。
貴重な情報を得た二人は、これ以上の長居は無用と判断し、静かに店を後にした。
◆ ◆ ◆
宿への帰路――
月明かりの下、ボンノーは足を止めた。視線の先には、周囲とは明らかに異質な一角があった。そこだけ石畳が磨き上げられ、建物の窓からは赤い灯りが漏れている。艶やかな笑い声と、甘い香りが風に乗って流れてきた。
「……あそこは何じゃろうな」
「ボンノーさん、ダメだよ!」
ヴィヴィが慌てて袖を引く。
「あそこは……その……男の人が行く場所だから!」
「男が行く場所? 拙僧も男じゃが……」
「違う違う! えーっと、つまり……」
ヴィヴィが顔を真っ赤にしてもごもごしていると、ボンノーは錫杖を握りしめた。
「情報収集は多いに越したことはない。拙僧、ちと見て参る」
「ちょ、ボンノーさん!?」
制止を振り切り、ボンノーは赤い灯りの区画へと足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
――それは、地獄だった。
いや、極楽だった。
いやいや、煩悩の坩堝だった。
薄絹をまとった女たちが、窓から身を乗り出して手招きをしている。
「あらぁ、お坊さま♪」
「堅そうなお顔して、実は――」
「ふふっ、遊んでいかない?」
甘い声が四方八方から降り注ぐ。香の匂いが鼻腔をくすぐり、赤い灯りが視界を染める。
(こ、これは……!)
108年間、ひたすら煩悩を断ち切ってきた身には、あまりにも刺激が強すぎた。
「お坊さま、こっちよ~♪」
艶めかしい手が、ボンノーの袖を掴む。
「!?」
振り返れば、豊満な肢体を惜しげもなく晒した女が、妖艶な笑みを浮かべていた。
「初めて? 大丈夫よ、優しくしてあげる♪」
(だ、だめだ……煩悩が……煩悩があああああ!!)
プシュー!
鼻から赤い噴水が吹き出す。
「きゃあ!?」
女が驚いて手を離した瞬間、ボンノーは全力で逃走を開始した。
「な、南無三宝! 煩悩即菩提! 拙僧はまだ108歳の若輩者ゆえ、この程度の誘惑には……ひいいいいい!」
錫杖を振り回しながら、まるで悪霊から逃げるように走り去るボンノー。その後ろ姿を、女たちは呆然と見送った。
「……変わったお坊さまね」
「でも、可愛かったわ」
くすくすと笑い声が、夜の街に響いた。
◆ ◆ ◆
宿屋『月牙亭』――
「はぁ……はぁ……」
息も絶え絶えに戻ってきたボンノーを、先に帰って待っていたヴィヴィが呆れ顔で出迎えた。
「遅いよ、ボンノーさん! あたし、止めたのに勝手に行っちゃうから、先に戻って待ってたんだよ」
「す、すまぬ……拙僧、あのような場所があるとは……」
鼻に詰め物をしたボンノーは、力なく頷いた。
階段を上がると、心配そうな顔をしたシノと、腕を組んだグレアが待っていた。
「ボンノーさま、お怪我は……って、その鼻は?」
「いや、その……」
ヴィヴィが状況を説明すると――
「……まあ、男なら仕方ないか」
グレアが腕を組んだまま言いかけたが、途中で咳払いをした。
「い、いや、そういう場所に行くのは感心しないな。破廉恥だ」
妙に力の入った否定に、ヴィヴィが首をかしげた。
「グレア、なんか反応が変じゃない?」
「う、うるさい! とにかく、坊主のくせに情けない!」
兜の奥で顔を赤くしているとも知らず、ボンノーは首をかしげた。
「……? グレア殿、顔でも赤いのか? 声が上ずっておるが……」
「な、なんでもない! 次の話だ、次!」
(なぜ急に怒ったのじゃろう……男同士なら理解してくれると思ったのじゃが……)
ボンノーは唖然としながら、グレアの不可解な反応に頭を悩ませるのだった。
「ボンノーさま……そういう場所に行かれたんですか……」
シノの視線も、どこか冷ややかだった。
「ち、違う! 拙僧はただ情報収集を――」
「ボンちゃんのばか……」
シノの「ボンちゃん」呼びには、明らかに軽蔑のニュアンスが込められていた。
「誤解じゃ……拙僧は純粋に情報を……」
膝から崩れ落ちるボンノー。
しかし、ヴィヴィが真面目な表情で口を開いた。
「でも、重要な情報も手に入れたんだ」
そして、酒場で聞いた黒羽隊の会話を伝える。三日後の女性輸送、明日の夜の水車小屋――
「……許せない」
シノの瞳に、静かな怒りの炎が宿った。
「明日の夜か」
グレアが剣の柄を叩く。
「必ずガルドを討ち取る――」
「うむ」
ボンノーが立ち上がり、錫杖を床に突いた。
「明日の夜、水車小屋にガルドが現れる。これは千載一遇の好機じゃ。奴を討てば、捕らわれた女性たちも自然と解放されよう」
「そうだね! 元凶を叩けば全部解決!」
ヴィヴィも拳を握りしめる。
「ガルドさえいなくなれば、黒羽隊も烏合の衆。女性たちの輸送も止められます」
シノも静かに頷いた。
「明日の夜、水車小屋で必ず仕留める」
グレアが剣の柄を叩く。
こうして、作戦会議が始まった。娼館街での醜態はひとまず棚上げされ、四人は明日の夜に向けて準備を整え始めた。
だが、ボンノーの脳裏には、あの赤い灯りと甘い声が、まだ鮮明に焼き付いていた。
(煩悩……恐るべし……)
合掌しながら、ボンノーは深く反省するのだった。
しかし――
明日の夜、水車小屋で待ち受けるものが、さらなる煩悩の試練になろうとは、この時はまだ知る由もなかった。




