第1話 拙僧、108歳で大往生し異世界で美少女を蘇生してしまう
「草」の愛好家です。よろしくお願いいたします。
明光池のほとり——
四季を映す静寂の水面に、古びた山寺がひっそりと佇んでいた。
その名は「大煩寺」
その本堂にて、今朝、ひとりの大僧正が静かに息を引き取った。
四月七日、午後。春霞が境内を包み込むなか、僧侶たちの読経の声だけが山にこだました。
その名は新村煩乃。元・扶桑皇国海軍陸戦隊少尉。
あの大東亜大戦を生き抜き、戦後、戦友の鎮魂と平和の祈りを胸に仏門に入った男である。
ただひたすらに祈り、ただひとすじに生きる——そんな人生だった。
享年、百八歳。
長き修行と静寂の日々の果てに、彼は静かに微笑みを浮かべ、最後の息を吐いたという。
誰に惜しまれるでもなく。誰に嘆かれるでもなく。
それでも、ひとつの魂は確かに終わり、そして……始まったのだ。
——彼が目を覚ます、あの"異世界"で。
◆ ◆ ◆
——転生、発動。
意識の底で、何かがひっくり返る音がした。
煩悩の海の底から浮かび上がるような、あるいは極楽浄土から蹴り出されるような……いや、これはもはや輪廻ですらない。
静寂——その奥から、虫の音がした。
鼻をくすぐるのは、土と草と命の匂い。
まぶたの裏に滲んでくるのは、やわらかな月の光。
「……う……む……?」
新村煩乃が目を覚ます。
そこは森の中だった。
月明かりが枝葉の隙間から差し込み、木々が静かに揺れざわめいていた。
彼はゆっくりと体を起こし、己の姿に気づく。
粗末な僧服。修行僧時代に身につけていた、あの薄手の法衣。
そして、手に握られていたのは錫杖。歩むたびにシャリン……と涼やかな音を鳴らす、祈りの杖。
だが、そこには——108歳の老僧の姿はなかった。
「……?」
伸ばした手は、しなやかで、しわひとつない。
呼吸も軽やかで、胸にあったはずの重い年月の気配が、すっかり消えている。
「……若い……これは……?」
小さな泉に映った自らの顔を見て、彼は言葉を失った。
それは、まさしく——
十八歳くらいの青年の顔だった。
穏やかな目元。凛とした眉。年若き修行僧のような面差し。
かつての自分の青春をそのまま切り取ったような、若返った肉体。
——そう、彼は転生したのだ。
かつての記憶と魂をそのままに。新たな肉体を得て。
「……これが、極楽浄土……ではなさそうだな」
そう呟いた彼の耳に、風の中から異音が混じる。
◆ ◆ ◆
静かな森に、突如として悲鳴が響き渡った。
甲高く、かすれた声。
夜の静寂を裂くような、断末魔の絶叫だった。
(……女の声?)
反射的に錫杖を握りしめ、新村煩乃は駆け出した。
修行で鍛えた足取りは、若返った肉体の力によって恐ろしいほど軽い。
枝をかき分け、草を踏みしだいて、音のした方へと突き進む。
やがて——
月明かりが差す小さな開けた場所に、彼女は倒れていた。
ひとりの少女。
年のころは十五、六。淡く輝く金糸のような髪が、頬を伝った血に染まり、森の緑の中に儚く散っていた。
その姿はまるで、傷つき倒れた天使のようで――
(……間に合わなかった……!)
彼女の喉元には鋭利な刃物で斬られた傷。
赤黒い血が地面に広がり、既に鼓動の気配はなかった。
さらにその胸には、黒ずんだ金属製の呪具が深く突き刺さっている。
禍々しい意匠のそれは、まるで魂そのものを穿つように——残酷なまでに無造作に。
「……誰が、何のために……」
まだ転生したばかりのこの世界で、初めて出会った人間。
そしてそれが、命を落とした少女——という現実。
煩乃は、思わず拳を強く握りしめた。
この森に、ただならぬ気配が渦巻いている。
呪い、あるいは異能——
それは、かつて彼が生きた世界では決して存在し得なかった"力"の匂いだった。
少女の胸に残された呪具が、うっすらと紫光を帯びていた。
◆ ◆ ◆
突如、森の静寂を破った悲鳴——
それはすでに終わった命の最期だった。
倒れた少女のもとに駆けつけた煩乃は、ただ言葉を失った。
まだ幼さの残るその顔。
淡く輝く金色の髪が月明かりに照らされ、濡れた血に張りついている。
(……若い命を、こんな形で……)
胸を貫く禍々しい呪具と、喉元から溢れた鮮血が、すでに手遅れであることを示していた。
煩乃はただ祈るように、目を閉じた——その瞬間だった。
「……助けた…と思うのな………信じて。あ………の中に、力はある………」
どこか遠くから聞こえる、柔らかく澄んだ少女の声。耳ではなく、心に語りかけてくるようなその声は、不思議と懐かしくさえ感じられた。
「……おぬしは……誰だ……?」
煩乃は辺りを見回したが、声の主は見当たらない。
月明かりに照らされているのは、倒れた少女と自分だけ。
「わたしは……七十年前に、この地に来た者……あに……を待っていたの……ずっと……」
七十年前? 煩乃は眉をひそめた。七十年も、なぜ自分を待っていたというのか。
七十年前といえば、仏門に入って十年ほどの頃だ。今なお生きている自分にとって、それは"つい昨日のこと"のようでもあった。
「さあ、イメージして。救……いと願って。その……いこそが、零式の力を呼び覚ます……」
零式——その言葉が脳裏に響いた瞬間、煩乃の意識の奥で何かが覚醒した。
まるで封印されていた記憶が蘇るように、呪文の詠唱が自然と口をついて出る。
『——白ノ零式・アルティメットリザレクション!!』
錫杖が眩く輝き、少女の身体を柔らかな光が包む。
それは、ただの蘇生ではない。死をも覆す、《究極の命の回帰》だった。
生と死の境界が、静かに、しかし確かに塗り替えられていく。
彼女の胸の呪具がわずかに震えた。
——魔力半分ほど消費。
しかし、完全な蘇生ではなかった。呪具に残された呪いが、まだ少女の命を蝕んでいた。
再び声が聞こえる。ささやくように、そして祈るように。
「次は……"白ノ零式・セイクリッドディスペル"………ど…か、もう一度……」
「……ああ、やってみる」
両の手で錫杖を構え、心を込めて唱える。
『——白ノ零式・セイクリッドディスペルッ!!』
まばゆい白光が、今度は呪具そのものを打ち砕いた。
黒ずんだ金属が音もなく崩れ落ち、瘴気が風に消える。
そして少女の身体が、ふるりと震えた。
その唇が、かすかに息を吸い込む。
……生き返った。
奇跡だった。
「よかった……な……」
安堵とともに、煩乃はその場に崩れ落ちる。
——魔力完全消耗。
そして意識も、闇の底へ。
夜は深く、風は止み、月だけが静かにふたりを照らしていた。