第34話 玲が守りたかったもの
「寒い……」
「もうすぐ夏なのに、中ってこんなに寒いのね。スケートリンクって」
佐々木さんに連れられて来たのは、スケートリンクだった。
今は初夏を過ぎて、いよいよ夏本番が近づいているという季節だが、氷が主役の世界ではその限りではなく、制服の上着を着ても寒い。
「それで、ヘタレ王子のことを話すって事で、なんでわざわざこんな場所に移動したの?」
寒そうに、制服スカートで生足が露わで、殊更寒そうな凛奈の疑問は、ごもっともだろう。
なお、見学するにも入場料がかかるスケートリンクに来なくてはならなかったのか。
空気を読んで何も言わなかったが、地味に懐に痛かった。
「……玲様を侮辱すると○○するぞ」
「まぁまぁ」
君たち、いいとこのお嬢様同士なんだから、そんな事言うんじゃありません。
平日の夕方頃ということで、スケートリンクにはスケート教室に通っていると思わしき子供たちがたくさんいるんだぞ。
「今日は私がお迎えの日ですから」
「お迎え?」
「氷花~。レッスンが終わったなら、ちょっと、こっちに来て」
佐々木さんが見学席からスケートリンクへ声をかけると、1人の小学生の女の子が氷をスイスイ滑りながらこちらに近づいてきた。
「なに~? お姉ちゃん」
近づいてきた少女の顔は、佐々木さんによく似た、小柄な可愛らしい少女だった。
「紹介します。私の妹の氷花です。ほら、ご挨拶なさい」
「こんにちは。氷花です」
「どうもはじめまして氷花ちゃん」
何で、この人を紹介されて自分は挨拶をしているのだろう?
と、同じ事を考えているであろう、佐々木さんの妹の氷花ちゃんに、俺と凛奈。
その点についてだけは、初対面同士だけれど心が通っていたかもしれない。
「じゃあ、着替えてくるね、お姉ちゃん」
「ええ。ちゃんとスケート靴の手入れもするのよ」
「分かった~」
そう言って、氷花ちゃんは再び氷の上を元気よく滑って行ってしまった。
「氷花はこのスケートリンクをホームリンクにしているフィギュアスケートクラブに通っているんです。今日は私が、親に代わってお迎えをする日という訳ですわ」
「フィギュア……まさか、ここって」
「はい。玲様はかつて、このフィギュアスケートクラブに通っておられました」
以前、フィギュアスケートをやっていたという話は玲から何度か聞いていた。
そうか。
このスケートリンクは、玲にとって……。
「玲様は、有名な天才フィギュアスケーターでした」
「佐々木さんも、ここに通っていたの?」
「いえ、私は玲様や氷花と違って運動は苦手なので、見ているだけでした」
「じゃあ、もしかして、あの子の足のケガって……」
ようやく、なぜ佐々木さんがこの場に自分たちを連れてきたのかに見当がついた凛奈が、佐々木さんに問いかける。
「そもそもフィギュアスケートはケガが多い競技です。ジャンプ失敗の転倒による打撲、骨折、捻挫。そして……」
「スケート靴の刃による切り傷……」
アスレチックフィールドで見た玲の足の大きな傷は、直線の切り傷だった。
本来、全てを拒絶する氷の上を縦横無尽に滑るためには、スケート靴のブレードは極限まで研磨されていると聞く。
そして、それによるケガも多いと……。
「そうです。玲様が氷の上を降りることになった理由。それが、ブレードによる大けがでした。そして、その原因は私の妹の氷花にあります」
「え?」
痛みをこらえるように、佐々木さんが胸の辺りをつかみながら、話を続ける。
「ジュニア時代の玲様は、姉の私が同じ叡桜中学という縁もあってか、まだフィギュアスケートを始めて間もない妹の氷花のことをとても可愛がってくださいました。おかげで氷花もメキメキと上達していたのですが、そうして上り調子の時にこそ事故というものは起こるもので……」
「大丈夫佐々木さん? 顔色が悪いよ。話すのが辛いなら無理しなくても」
「いえ、大丈夫ですわ。心遣いは無用です」
苦しそうに、だが使命感に突き動かされたというように、佐々木さんは話を続ける。
「ある日、氷花と並んで滑りながら指導していた時に、氷花は難しいジャンプ技に挑戦しました。けれど氷花は着地に失敗し、頭を強く打つような危険な態勢で転倒しかけました。それを咄嗟にかばおうとした玲様は、氷花のスケート靴で……」
「あのキズを負ったと」
「はい。当時私は、一部始終をこの見学席から見ておりました。足から血を流しながらも、着地時に足首を酷く捻挫して泣く氷花を腕に抱いて、必死の形相でコーチたちの方へ滑っていくのが、私が見た玲様が氷上にいる最後の御姿でした」
「「…………」」
佐々木さんが言葉を切るが、俺も凛柰も直ぐには言葉が出なかった。
「それからですわ。玲様がズボンタイプの制服をお召しになる、今のスタイルになったのは」
「そうだったの……」
「それで佐々木さんは玲のそばに付くようになったんだね」
「はい。玲様は、氷花に決して自分がケガをしたことを言うなと、私を含めた周りに厳命しました。もし、氷花の耳に入ったら責任を感じて、きっとフィギュアスケートを辞めてしまうからと」
そこまで話すと、更衣室の方から氷花ちゃんが同じフィギュアスケートクラブの子達と、仲良く談笑しながら出てきた。
その屈託のない笑顔こそが、玲が守りたかった物なのだろう。
「はた目にはワガママな人に見えるかと思いますが、優しい人なんですよ。玲様は」
目を細めながら、佐々木さんはつぶやいた。
「何話してたの? お姉ちゃん」
「何でもないですわ氷花。少し昔話をしていただけです」
こちらに駆けてきた氷花ちゃんに、姉である佐々木さんがニッコリと微笑む。
「話してくれて、ありがとう佐々木さん。でも、こんな秘密をよく俺達に話してくれたね」
「私は玲様のために人生を捧げる所存です。最近の、また王子様スタイルに戻ってしまった玲様は、明らかに元気がありません。私は誰よりも玲様の幸せを願っています。例え、玲様の好意が私自身に向かなくとも……ね」
「そこで何で俺を睨むの佐々木さん……」
「理屈と感情は別ですので」
怖いって、顔が。
「ねぇ、お姉ちゃん、早く帰ろ~よ」
隣に居た氷花ちゃんが飽きてグズリだした。
「はいはい。あ、最後にお二人に聞きたかった事があるのですが、よろしいですか?」
「なに? 何でも答えるよ」
これだけ、玲の事について話してくれた佐々木さんなのだ。
その心意気には報いなくてはならない。
「何故か、最近の玲様は真空パックに入れた小汚ない軍手と、安物のショーツを眺めては、時折、思い出し笑いをしたり、切なくため息をついたりしていらっしゃいますが、どういう理由なのか知りませんか?」
「いや、しらないですねー」
君が一生ついていくと誓った王子様は、1組200円の軍手と、コンビニで買った適当なショーツをプレゼントとして喜ぶ子なんだ。
とは言えなかった。
ゴメン佐々木さん。
いつか必ず、お返しするから。