111-120
111
それから三日の間は何も起こらなかった。
四日目の朝に、何だか怪しい人影を見かけた。
その日の午後にも、人影があった。
その日の夜にも……。
112
けれども翌日の早朝、その人影は消えていた。少し遅い朝にもいなかった。安堵と落胆が同時にぼくを襲った。早い昼にもいなかった。空がもっとも青くなる時間帯にもいなかった。
でも……。
113
それは不意にやってきた。
114
頬にふっと冷たい風を感じ、そしてみるみるうちに辺りが暗くなっていった。……と思う間もなく、生暖かく冷たいものがぼくの上に落ち、ザーッという音が聞こえ、叩きつけるように激しく雨が落下してきた。頭の上の鉛色の低い空がピカリと光り、ついでゴロゴロゴロという轟音が聞こえ、周囲にいたわずかな人たちがあわてて駆け逃げ、洗濯物が仕舞い込まれ……。何時の間にそこにいたのか、あの少女が現れ、前日見かけた怪しい人影も出現し、『影』が重なるようにぴったりとあの瞬間の映像が再現されようとし、目も眩むような稲光が地面に強烈な空の『影』を落とし、ナイフを手にした怪しい人影に追い詰められ、少女が叫び声を上げ……。
115
すでに駆け出しはじめていたぼくは、顔の見えないその人影に飛びかかった。大会記録が作れそうな速さだった。男が瞬間怯み、でもすぐに体勢を立て直し、ナイフをぼくに向けた。ぼくはまわり込んだ足でそれを蹴り、でも一度目は失敗してジーンズの下に痛みが走り、そのとき傾けた視界の端に少女の顔が映り、二度目の蹴りで確実にナイフを男の手から弾き飛ばし、飛んだナイフがチャリンと音を立て地面に落ちる前に男とぼくが面と向かい、男と目が合った瞬間ぼくが男を睨み、男が急に自信をなくし、逃げ腰になり、
そして――
男はくるりと方向を変え、駆け去ろうとしたのだけれども、少女の叫び声を聞きつけてやってきた、ちょうどパトロール中でしかも公園内で雨宿りをしていた巡邏二人に取り押さえられた。
その前に、ぼくが「そいつを捕まえて!」と叫んだことは、言うまでもない。
ぼくはぜいぜいと息を荒らげながら警官たちのところに近づいていった。少女も同じ場所に近づいた。叫んでいない少女の顔は前に伯父さんの事務所に行く途中に見かけた、あの女生徒のものとは違っていた。まるで別人だったのだ。
何故だかぼくは、その少女の顔が死んだ叔母さんに似ていると思った。
116
あとで聞いたところによると、捕まった怪しい男は、かなり年配のストーカーだったらしい。
数日前から少女を追いかけて、最初少女は気づかなかったけれども、気づいた瞬間から、怖くて仕方がなかったという。
その少女は、父親の転勤で最近地方からこの街にやってきたらしく、制服は発註中でまだ昔のものを着ていて、だからこの辺りで見かけたことがなかったのだろうと、ぼくにはわかった。しかも少女は少女ではなくは高校生で、あのときは部活からの帰りで、家に向かう途中だったという。
117
ぼくの脚の怪我は全然大したことがなくて、傷跡さえ残さずに消えてしまった。
118
不思議な思いは残ったのだけれども、それでその年のぼくの夏は終了した。
119
そのときはたぶん、そうだと思った。
でも……。
120
警察に捕まった男は、これまで捕まらなかったのが不思議といえばいえたのだけれども、過去に人を階段から突き落としていたことを自白した。調べが進むと、どうやらそれが、ぼくの叔母さんらしいとわかった。確証はないという話だったけれども、叔母さんを付けまわし、急に気づかれ、叫ばれたので突き落としてしまったのだという。
死んでしまった人は生き返らない。それに無用な恨みは別の恨みを拡大再生産するだけだとわかっていたので、ぼくはそれ以上そのことを考えるのを止めた。