08_やっぱりお姉様、帰ってきて!【エスター視点】
その日の夜、エスターはヴィンスとアナスタシアとともに、精霊の慰霊碑の前に来ていた。黒い輪郭が浮かび上がった木々が不気味に唸り、夜空の星が炯々と光を放っている。
アナスタシアに礼拝の手順を教えてもらい、慰霊碑の前に両膝をつく。礼拝の際には黒の装いをすることが決まっているため、エスターは黒いドレスを身にまとってきた。
普段はピンクや黄色など明るくて愛らしい色のドレスを好んで着るので、この地味な黒いドレスは気に入らない。
(どうせなら、もっとかわいいドレスを着たかった)
エスターが眉をひそめていると、ヴィンスとアナスタシアは礼拝のことを不安がっているのだ捉えたらしく、こちらを心配そうに見つめた。そして、ヴィンスが尋ねてくる。
「本当に大丈夫か……?」
「ふふ、ヴィンス様は過保護ね。お姉様がずっとできていたんだから、私も平気よ」
ヴィンスやアナスタシアの心配をよそに、すっかり高をくくっていたエスターは、そっと目を閉じて手を組み、おもむろに呟く。
「……鎮まりたまえ」
それっぽい祈りを捧げ始めた刹那、ずどんっと頭に雷が落ちたような衝撃が走った。辛いとか苦しいとか、そんな言葉で表現できるような生易しいものではない。頭からつま先まで、四方から引き裂かれるような鋭い痛みが、絶え間なく襲ってくる。
エスターは病弱でよく床に臥せることがあったが、これほどの痛みを受けたことはなかった。
「ぁあっ……ぅ……ああっ、痛い痛い痛い……!」
「「エスターッ!」」
エスターは転がるように倒れ、芝生を強く握り締めた。エスターにむしられた芝生がぱらぱらと地面に舞い落ちていく。どうにか苦痛を和らげようと、手に力を込める。綺麗に整えられた爪の間に土が入っても、それに構う余裕などなかった。
「こんなの、耐えられないっ。お母様、止めて……! 助けて!」
「それはできないのよ、エスター……! 一度痛み始めたらしばらくは治まらないの。どうにか辛抱してちょうだい。全ては王家の地位を守るためなのよ……!」
「うそっ……痛い、痛い……っひぐ」
ヴィンスとアナスタシアに背を擦られながら、痛い、痛い、とのたうち回る。
泣いても叫んでも苦しみから誰も救い出してはくれず、ようやく三十分ほどして苦痛が治まったとき、エスターの愛らしい顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、髪や衣装もぼろぼろに乱れてしまっていた。
精霊の呪いの威力を身をもって思い知り、愕然とする。
(こんなものをお姉さまは何年も耐え続けていたの……!? 正気じゃないわ、こんなの気がおかしくなる。私には――とても耐えられない……)
心の中で、死んでいるかもしれない姉を思い浮かべ、切願する。
(やっぱりお姉様、帰ってきて……!)
一度きりの礼拝がすっかりトラウマになったエスターは、この日から体調不良を口実にして――礼拝に一切行かなくなった。
そして、ベルナール王国には雨が全く降らなくなったのである。
◇◇◇
エスターは体調不良を理由に、礼拝に一切行かなくなったが、およそ二週間ぶりに精霊の慰霊碑の元へと赴いた。それは礼拝のためなどではなく、別の目的のため。
「あった……!」
精霊の慰霊碑の隣には、歴代の王名が刻まれた石碑が並んでいる。
その中から、次期女王だったノルティマ・アントンワールの名前を見つけて、ぱっと表情を明るくさせる。
そして、持ってきたタガネの刃先を文字の上に置き、ハンマーで打ち付けた。少しずつ、少しずつ、その名前を削り取っていく。
(もう邪魔なお姉様はどこにもいないのだし、この場所に名前が刻まれるべき存在は――私よ)
ちょうど名前を削り取ったそのとき、上から男の声が降ってきた。
「君……一体、何をやっている?」
その声の主は――ヴィンスだった。王太女の戴冠式後に、婚約を結ぶことになっている。
「何って、見て分からない? 石碑からお姉様の名前を削り取ったのよ。もういない人の名前なんてあっても無意味でしょ?」
「……」
唖然とした様子の彼は、数秒間を置いてから言った。
「…………ありえない」
「え?」
「とても……正気とは思えない。その石碑はただの石碑ではないんだぞ!? アントワール王家の歴史を後世に伝えるための重要な記録。そこから名前を削り取るということは、ノルティマを歴史から抹消するのと同義だ」
「それの何が……だめなの?」
「死者へのこの上ない冒涜だと言っているんだ。君はそんなことも分からないのか!?」
ヴィンスはいつになく怖い顔して、こちらに迫ってくる。威圧感を真正面から受け取ったエスターは、ひゅっと喉の奥を震わせた。
「そんなに怖い顔をしないで……? 私たちはいずれ婚約者同士になるのよ? もっと仲良くしましょう?」
ヴィンスは生まれたときから彼の実家の意向により、王配になることが決まっている。どの道、エスターと結婚することは決定事項なのだから、喧嘩していても仕方ないではないか。
ノルティマがいたころはエスターのことを、目に入れても痛くないというほどにかわいがってくれていたのに、ここのところどうも様子がおかしい。
「正直俺は……少し揺らぎ始めている」
「……!」
突然打ち明けられた言葉に衝撃を受け、目を見開いた。つまり、彼は今になってエスターと結婚することに躊躇しているということだ。
「侍女からエスターが慰霊碑に向かったと聞いて、ようやく礼拝を捧げるようになったかと思って来てみればこの有り様だ。……今、雨が降らなくなったこの状況がどれほど深刻か分かっているのか!?」
まくし立てられたエスターは、あちらこちらに視線をさまよわせながら思案し、どうにか反論を捻り出す。
「雨なんて降らなくても、川や湖の水を汲めばいいじゃない」
「君は分からないのかもしれないが、川や湖の水は、土に染み込んだ雨が流れついてできているんだ。降雨が止まれば、川や湖は干上がり、作物は枯れ果て、飲み水を得ることもできなくなる」
「そんな……。私たちはどうやって生きていけば……いいの?」
恐ろしい事態を聞かされ、最後の方は尻すぼみになっていく。
「このまま雨が降らなければ、それこそ甚大な被害が出るだろうな。ふた月雨が降らないと、各地の渇水が深刻になる。そうなれば民は王家に不満を向けるかもしれない。そして万が一、精霊の呪いの真実に気づかれれば、全民がアントワール王家へ反旗を翻すだろう。つまり、タイムリミットが刻一刻と迫っているということだ」
エスターは慰霊碑を見下ろしながら、ごくんと喉を鳴らした。
けれど、どうしてこの国に雨を降らせるために、エスターたったひとりが犠牲にならなくてはならないのか。
(そんなの……御免よ)
手を口元に添え、瞳をしっとりと潤ませ、上目がちに彼のことを見つめる。こうしてかわいらしく甘えるエスターにヴィンスは滅法弱くて、なんでも言うことを聞いてくれる。
「でも……私にはとても無理よ。だって私は健康的なお姉様と違って、身体が弱いから……」
「それは嘘だろう?」
「えっ……?」
ぎくり、と顔をしかめるエスターにヴィンスはやはりなと冷笑混じりに言った。
礼拝に行かない口実に体調不良を使ってきたが、不審に思ったヴィンスは主治医にエスターの具合を確かめたという。
そして、エスターの体調不良が嘘であることを知ったそうだ。
なるほど、彼の様子がおかしかったのはそういう経緯があったという訳かと納得する。
「君は子どものときのように虚弱体質ではなくなっているそうだな」
「違っ」
「それなのに、主治医を脅して嘘の診断を書かせていた。俺や、女王陛下、王配殿下の気を引くために」
「違う、違う……」
「違わない、全て真実だ。俺たちは病弱なふりをする君の猿芝居に、ずっとずっと――騙されていたんだ」
「――だから違うって言ってるでしょ!!」
エスターの叫び声が辺りに響き渡る。その声に、鳥たちが一斉に飛び立つ。
(ああもう、どうして思い通りに動いてくれないのよ。……イライラする)
ヴィンスのことを睨みつけながらずいと迫る。そして、底冷えするような、低く冷たい声で言い放った。
「もう後戻りなんてできないのよ。今更自分だけ逃げようとしたって無駄。お姉様は――私たちが殺したの」
「…………っ」
「もし自分だけ逃げたら、ヴィンス様がお姉様にしたことも言いふらすから。『お前が死んでくれればいい』って言ったこととかね」
自殺教唆をしたと世間に知られたら、ヴィンスの立場がなくなるだろう。もしかしたら大逆罪を問われて、その首とお別れしなくてはならないかもしれない。
普段の純真無垢であどけないエスターにそぐわない、恐ろしい表情と声にヴィンスは萎縮し、背筋が粟立つのを感じた。
エスターはにこっと恍惚とした笑みを浮かべて言う。
「私はね、いつも一番でいないと気が済まないの。ようやくお姉様が消えたから、ヴィンス様も、女王の座も手に入る……。ふふっ、私はみんなに愛されて誰より幸せな存在になるの!」
ノルティマの捜索はとうとう中断され、死亡したことになった。きっともう生きてはいないだろう。
何もかも自分のものになったと思うと、必死に堪えていなければ頬がつい緩んでしまいそうになる。
エスターの愛らしい皮の奥に隠された、尋常ではない野心をありありと感じたヴィンスは、言葉を失っていた。
愉悦に浸ってくつくつと肩を揺らすエスターだったが、その夢は――戴冠式で打ち砕かれることになる。