06_差し伸べられた救いの手
「ん……」
次にノルティマが目を覚ましたとき、馬車の荷台の上にいた。がたがたと砂利道を走る揺れに気づき、瞼を持ち上げて半身を起こす。
そして、照りつける朝の陽光の眩しさに目を眇めた。
(どうして、馬車に……?)
ゆっくりと視線を落として手のひらを見つめる。かなりの高所から湖に転落し、体中の骨が折れたはずなのにどこにも痛みがない。だが服はびっしょりと濡れており、湖に落ちたのは夢ではなかったと実感する。
不思議に思って首を傾げたそのとき、後ろから声がした。
「あ、気がついたみたいだね」
「!」
爽やかな声を聞き振り返れば、そこには十三歳くらいの少年が立て膝で座っていた。
輝く稲穂を編み込んだような繊細な金色の短い髪に金色の瞳をした、飄々とした雰囲気の子ども。形の良い唇は扇の弧を描いているが、その笑顔はどこか掴みどころがない。
「あなたは……?」
「俺はエルゼ。朝リノール湖を散歩してたら、あなたが岸に倒れているのを見かけてね。そのまま放っておく訳にもいかないから、連れて来たんだよ」
この荷馬車はどうやら、国境に向かっているらしい。岸に運んでくれたのは長髪の成人男性だった。髪と瞳の色、それに声もどことなくエルゼと似ている気がするが、エルゼはまだ子どもだ。
(助けてくれたあの人は、一体どこに行ってしまったのかしら。まだ、お礼も言えていないわ)
エルゼは座ったまま頬杖をつき、澄んだ瞳でこちらを見据えて言った。
「お姉さんの名前は? どうしてあんな場所で倒れてたの?」
「私は……ノルティマ。あの場所にいたのは、えっと……」
どう説明したものか。正直に死のうとして崖から湖に飛び降りたと言う訳にもいかず、あちらこちらに視線をさまよわせ、言い淀んでいると、エルゼはふっと小さく笑った。
「話したくないなら無理をする必要はないよ。人には言えない秘密のひとつやふたつ、あるものだからね」
子どもの割に妙に達観した様子の彼は、頭の後ろで手を組みながら、伏し目がち言った。
「俺にも秘密があるよ。例えば、たった一度親切にしてもらった相手のことを、忘れられずにいるとかね」
その表情は子どもにそぐわないもので、澄んだ瞳の中にほんのりとした大人の甘さと色気が宿っている。
「へえ。初恋の人とか?」
「――内緒」
エルゼはにこっと笑い、人差し指を唇の前に立てた。
「俺はこのまま国を出て、母国に向かうつもりだ。このあとお姉さんはどうするの? この荷馬車は国境に行く前、いくつか街に立ち寄るみたいだけど、行く当てはある?」
「……」
ノルティマはぎゅっとスカートを握り締める。
人通りのある街に行って、ひとたび姿を見られようものなら、すぐに失踪した王太女だと正体を見破られ、王宮に連れ戻されてしまうだろう。
彼は異国人だから、ノルティマの名前を聞いてもぴんと来ていないようだが、ベルナール王国の民は、次期女王の顔を知っている者も多いのだ。
でももう……王宮には帰りたくない。
「行く当ては……ないわ。家出をしてきたの」
年下の少年に助けを求めるように、情けなく眉をひそめ、しおらしげに打ち明けると、彼は笑顔を浮かべて言った。
「――なら、俺と一緒に来る?」
「え……?」
予想外の少年の提案に、目を瞬かせる。
彼は飄々とした様子で続けた。エルゼはこのベルナール王国のふたつ国を越えた先にある大国――シャルディア王国出身だという。シャルディア王国はベルナール王国よりもずっと豊かで、国力が強いという印象がある。
「シャルディア王国は移民の受け入れに寛大で、異国人の働き先も見つかりやすい。治安も安定しているから、お姉さんも安心して生活していけるはずだよ」
どうせ、この国にいることはできない。奴隷のように酷使される日々に戻るくらいならいっそ、あのまま王太女は湖で死んだことにでもして、一からやり直してみたい。
「行きたい……! 私もシャルディア王国へ行くわ……!」
「ふ。分かった、いいよ。あなたがいてくれたら、長い旅でも退屈しなそうだ」
エルゼはこちらに手を差し伸べて、口の端を持ち上げる。
「それじゃあ、よろしくね。お姉さん」
「ええ。こちらこそ」
これまでエスターや女王から、姉として扱われることに辟易してきたが、彼に『お姉さん』と呼ばれるのは不思議と嫌ではなかった。
きっとこれも、何かの縁なのだろう。そしてふたりは、握手を交わし笑い合った。
手紙を残して消えた王女と、謎の少年の不思議な旅が今始まる……。
(生きていたらまたどこかで、助けてくれたあの方にも会えるわよね。きっと)
どこからともなく颯爽と現れて、水底に沈んでいくノルティマを救い上げてくれた男性は、ノルティマを岸辺に運んだきり去ってしまったのだろうか。
ノルティマに息吹を吹き込んでくれた、唇の感触がまだ残っている。肌とも粘膜とも違う、温かな感触が確かにノルティマの唇に降ってきたのだった。
あのときは生きるか死ぬかの瀬戸際で何も考えられなかったけれど、救命措置とはいえ――初めての口付けだった。
(私の……ファーストキス)
耳の先まで熱がのぼっていくのを感じながら、唇に手を伸ばしていると、エルゼが荷台の外に少し身を乗り出しながら、服をぎゅっと絞り始めた。ぽたぽたと水が地面に落ちていくのを眺めながら、小首を傾げる。
(あら……?)
倒れていたノルティマを運んだだけなら、彼までずぶ濡れになることはない。それなのになぜか、湖に落ちた自分だけではなく、エルゼの服も同じくらいに濡れていた。
「どうして濡れているの?」
「うーん、そうだね。……さっき、通り雨が降ったんだよ」
ほんの少し視線を泳がせたあとで、掴みどころのない笑顔を浮かべて答えたエルゼ。けれど、地面が湿っていたような形跡もなく、ノルティマは頭に疑問符を浮かべるのだった。