05_王女は崖から湖に落ちていく
ヴィンスの命令により、王宮の騎士や使用人たちが総出で失踪したノルティマの行方を探していたそのころ。
ノルティマはひとり、馬に乗ってある場所に来ていた。
そこは、王宮から馬を走らせて、一時間ほどの場所にある――リノール湖。うす気味悪く鬱蒼とした森の中にひっそりと存在している。
かつてこの湖の下には、精霊の神力によって作られた空間があった。それが、アントワール王家がかつて滅ぼした――水の精霊国だ。
昔は王都の水源となる巨大な湖だったが、侵攻の際に埋め立てられて、ほとんどが陸地になってしまった。
「走り続けて疲れたでしょう? さ、お食べ」
馬から降りたノルティマは、馬にりんごを与え、肩や首筋を優しく撫でてやった。
「いい子ね」
それから、崖の上からリノール湖を見下ろす。
せせらぐ水面はさながら鏡のように月の光を反射して、繊細な光を放つ。
夜の冷たい風がノルティマの白い肌を撫で、銀色の髪をなびかせる。
多忙な毎日の中でノルティマは心身をすり減らしてきた。毎晩よく眠れないし、呼吸は浅くなり、ずっとストレスで胃のあたりに違和感があった。
(ああ、やっと終わる。もう苦しまなくていいのね)
ノルティマは湖面をぼうっと見つめ、まるで吸い寄せられるかのように、崖の淵へと歩いていく。その後ろ姿を、馬が不思議そうに見つめていた。
今夜この場所に来たのは――この崖から飛び降りるため。
崖から湖面まではかなりの高さがあり、飛び降りたらもちろん無事では済まない。湖面に打ち付けられた衝撃で即死かもしれないし、湖の中でじわじわと溺死していくかもしれない。ノルティマは湖の中で少しずつ水に溶けて、消えていくのだ。
(身も心も、痛い思いばかりしてきたわ。毎日の礼拝はもちろん肉体的に痛かったけれど、誰にも見向きもされなかったことも同じくらいに……痛かった。私も誰かに――選ばれたかった)
大勢の人々が居住する王宮にいても、ノルティマはひとりぼっちで、寂しかった。
あと少し進めば落ちる、ぎりぎりのところに一歩踏み出したそのとき、後ろの茂みから声がした。
「――見つけたぞ!」
それは、聞き覚えのあるヴィンスの声だった。はっとして振り返れば、複数の足音が近づいてきて、王宮の騎士や使用人たちもノルティマを囲うように集まっていた。
「ノルティ、」
「来ないで! 一歩でも近づいたら、すぐにここから飛び降りるわよ」
「……!」
こちらに近づいて来ようとしたヴィンスは、その忠告によってやむをえず踏み留まった。まさかこんなところまで追いかけてくるとは思わなくて、きゅっと下唇を噛む。
これまであらゆる不自由を強いてきただけでは飽き足らず、死ぬ自由までノルティマから奪おうというのだろうか。
「お、おいノルティマ。早まるな、考え直せ。俺が軽い気持ちで言ったことで傷つけたなら謝る。あれはその……ちょっとしたからかいみたいなものだ。だから、な?」
今更こちらの顔色を窺ってきたところでもう遅い。それに、ヴィンスがわざわざノルティマを探しに来た魂胆など、見え透いているのだから。
もちろん、ノルティマのことを心配して駆けつけた訳ではない。
新たな王太女になるエスターに、精霊の呪いで苦しんでほしくないのだろう。彼はアントワール家に降りかかっている呪いについて知らされており、毎日苦しんでいるノルティマを傍で見ていた。
そんなノルティマに対して慰めや励ましの言葉のひとつもなかったのだけれど。
「あなたに死んでくれと言われたことだけが、原因ではないわ。積もり積もった結果なのよ。ヴィンス様は……婚約者の私に一度として向き合おうとしてくださらなかった」
「それは当然だろう!」
「当然……? 何が当然なの?」
「エスターがお前と違って身体が弱いからだ。それなのによく頑張っていて……大切にするのは当たり前だ」
「なら……私の頑張りはなんになるの? あなたに政務を押し付けられて……どれほど苦労していたか分かっているの?」
すると彼は言いよどみ、決まり悪そうに目を逸らす。数拍置いてから、咳払いをして続ける。
「と、とにかくだ。君がいなくなれば、王家は立ち行かなくなり、エスターは苦痛を味わうことになる。随分と被害者ヅラをしているが、君ひとりのせいで、俺たちがどれだけ苦労させられるか分かっているのか!? 君のせいで――」
「うるさい!!」
張り上げた声が森中に響き渡り、夜鳥がびっくりしたように木々を飛び立っていく。
ここまで追い詰められているのだと訴えても、彼の心には少しも響いていない。なんて惨めで、情けないのだろうか。
「もう、やめて……っ。私は楽になりたいのよ……。お願いだから、最後くらい静かに眠らせて……っ」
両手で耳を塞ぎ、駄々をこねる子どものように、いやいやと頭を横に振る。
もうこれ以上、誰かに奴隷のように酷使されるのはうんざりだ。誰の言いなりにもならない。――逆らってやる。
ノルティマが拳を握り締めた直後。
「ヴィンス様!」
茂みの多くから鈴が鳴るような声がしたあと、エスターがヴィンスのもとに駆け寄ってきた。彼女はヴィンスの腰にくっつきながらこちらを見据える。
ヴィンスの意識が一瞬逸れたのと、ノルティマが崖から飛び降りたのは同時だった。
「きゃああっ、お姉様が……っ」
「ノルティマッ!!」
ノルティマが最後に視界に捉えたのは、切羽詰まった様子でこちらに手を伸ばすヴィンスと、悲鳴を上げつつも、口角だけはにやりと上がっている妹の意地の悪い顔だった。
――バシャンッ。
激しい音とともに、ノルティマは湖の中へと落ちた。かなりの高さから水面に叩きつけられた衝撃で、身体中の骨が折れ、激痛が駆け巡る。
ノルティマは大量の泡が水上へと昇っていくのをぼんやりと見つめながら、下へ下へと沈んでいった。
身体中が痛くて、もう泳ぐことができない。
指一本を動かす気力もない。
(これで終わる。やっと楽になれる……)
元婚約者に妹のこと、自分の立場のことも、何もかも忘れて、眠ろう。この冷たい湖にそっと溶け込んでしまおう。
そう思って目を閉じたとき、瞼の裏に先ほどのエスターの勝ち誇ったような笑顔が思い浮かぶ。
(本当に……これでいいの?)
このまま消えて、いいのか。これまで頑張ってきたことはまだ何ひとつ報われていないのに、不幸なまま人生を終了させてしまって良いのだろうか。
そんなの……嫌だ。ノルティマだって、誰かに褒めてもらいたかった。誰かに必要とされ、愛されていることを実感したかった。幸せになりたかった。
ひたむきに生きてきたのに、どうして報われないまま消えなくてはいけないのか。
こんな真っ暗な湖の中で、全てを諦めてたまるものか。
こんな惨めな最後では、死んでも死にきれない。生きたい、何もかも全部やり直して、頑張ってきた自分をめいっぱい甘やかし、幸せにしてあげたい。
(嫌だ、やっぱりまだ死にたくない……!)
じわりと目に涙が滲み、水に溶けていく。
湖に落ちてようやく、自分の本当の気持ちに気づいた。
心の奥底に封じ込んでいた、これまでずっと無視してきた自分の本当の気持ちが、沸騰するように溢れ出してくる。
水面にわずかに星の光が見えていて、まるで暗闇に差し込む希望のように思えた。
張り裂けそうなくらいに痛む手を必死に伸ばしてみたが、何に届く訳でもなく。
息がどんどん苦しくなっていく中で、どうにか喉を鼓舞し、弱々しい声を絞り出した。
「誰か……っ、助け、て…………」
必死な思いで絞り出した声は泡になり、こぽこぽと意味のない音を立てて水の中に溶けるだけで誰の耳にも届かない。
(ああ、だめ……。私の声は、誰の耳にも届かない。私は最期まで……ひとりぼっちなんだわ)
しかし――意識が朦朧としてきたその直後、誰かがノルティマの手を掴んだ。暗い水中でよく分からないが、ノルティマの手をすっぽりと覆ってしまう節ばった男の人の手。
閉じかけていた目を開くと、そこに金色の長い髪に金の瞳の成人男性のぼんやりとした姿が見えた。
彼はノルティマのことを引き寄せたあと、頬に手を添え、自分の唇をノルティマの唇に隙間なく押し当て――ふっと息を吹き込む。
(……! この人は、誰……?)
口移しで送り込まれた酸素を吸い込む。男はノルティマの耳元で優しく囁いた。
「もう苦しまなくていい。俺の元へおいで。――ノルティマ」
とても、優しい声。水の中だが、鼓膜に直接注がれたその言葉ははっきりと聞き取れた。どうしてノルティマの名前を知っているのだろうか。
男はノルティマのことを抱き抱えたまま泳ぎ、みるみるうちに水面へと上昇していく。誰かに抱き締めてもらったことなど今までになかったノルティマは、またじわりと瞳に涙を浮かべる。
(ずっとずっと、誰かに……こうしてほしかった。なんて温かくて、心地が良い……。これが夢ならどうか――覚めないで)
彼に身を預けたノルティマは、張り詰めていた糸がぷつりと切れるかのように――意識を手放していた。