30_そして王女は選ばれる(最終話)
数日後。エルゼはノルティマを残して、シャルディア王国へ一度帰ることになった。
王宮のパーティーという公の場で、水の精霊国の元王が現在のシャルディア王国の王であることを多くの人に打ち明けてしまった以上、シャルディア王国民にも事の経緯を説明しなければならないだろう。情報を耳にした民衆の混乱は、想像にかたくない。
ノルティマは、アントワール王家の後の指導者をどうするのか、廷臣たちと一緒にこれから頭を悩ますことになる。
エルゼが女王と交わした条件により、ノルティマはすぐにでも王宮を発つことが可能だ。けれどノルティマには、混乱した王宮をほったらかしにすることができなかった。
だから、次の王が決まり、仕事の引き継ぎを終えたら――本当の自由の身となる。
そして、エルゼはノルティマの元を離れたがらなかったが、レディスによってほぼ強制的に一時的な帰国となった。
船の梯子の前で、彼と別れを交わす。
「どうかお気をつけて。しばらくのお別れだけど、私もいずれシャルディアへ向かうわ」
「…………」
「エルゼ? どうして黙っているの?」
「やはり帰国はやめる。あなたの傍にいる」
「もう。これ以上レディス様を困らせてはだめよ」
子どものように拗ねるエルゼがいじらしいが、ここはぐっと堪えなければならない。
ノルティマに甘く懇願してくるところは、大人の姿に戻ったのに少年のときと変わらないままだ。
ノルティマが諭すと、彼は小さく息を吐いて言った。
「分かってるよ。最低限、国家への誠意は果たすつもりだ。あなたも頑張っているからね」
本当はすぐにでもこの国を出たかったが、最後まで王家の者の責任を果たすつもりだ。
「……本当に良かったの? あなたの正体が精霊であることを人々に打ち明けて……」
「別に構わないさ。隠す気は元々俺にはなかった」
「……そう、ならいいわ」
かもめが飛び、さざ波を打つ海面をぼんやりと眺めながらノルティマは呟く。
「この国はこれから……どうなってしまうのかしら」
アントワール王家が治める時代は、決して豊かとはいえなかった。精霊の恩恵を受けられないため、他国より作物の育ちが悪く、人々の平均寿命も短かった。とはいえ、それなりに平和に運営されていたのも事実。
新しい者が王になりベルナール王国はどうなるのか、という一抹の不安があった。するとエルゼは、ぽんとこちらの肩に手を置いた。
「終わりがあれば始まりがある。それが世の中の摂理というものだ。新王朝の治世もまた、悪一遍等になることもなければ、良いことばかりでもないだろう。そういうものであるだけだ」
「物事は表裏一体だと……以前あなたが教えてくれたわね」
「そうだよ。俺の呪いもまた祝福だった」
「祝福……?」
水の精霊国が滅んだあと、精霊たちに呪いをかけられて時が止まってしまったエルゼ。
死ぬことができずに長い長い人生を生きていた彼だが、ノルティマという幼い少女に出会ったことで、呪いは消失した。
そして、呪いを解く条件は、相手が神力を有していることと、エルゼがその相手に恋をしていることだった。エルゼは、ほんの数分程度の邂逅で、ノルティマに恋をしたのだ。
「理不尽で馬鹿げた呪いだと思っていた。仲間だったはずの精霊たちを憎んだこともあった。だが、そのおかげで、たったひとつの恋を見逃さずに済んだんだ」
ノルティマも、婚約者や女王、廷臣たちに仕事を押し付けらて心身をすり減らしていた。ずっと苦しくて、疲れきっていて、消えてしまいたいと思っていた。
けれどその苦しみの果てに、あの湖の中でのエルゼとの出会いがあったのだ。ノルティマがずっと幸福であったなら、エルゼを呼び出すこともなかったかもしれない。
「あなたに出会える人生か出会えない人生を選べるのなら、たとえもう一度数百年生きることになったとしても――前者を選ぶ」
そしてエルゼはその場に跪く。彼はノルティマの細くしなやかな手をそっと取った。手を握りながら、彼は殊勝に語る。
「ひと目惚れしてから八年が経ち……成長したあなたと過ごして、清く崇高なあなたにより恋い焦がれるようになった。俺はただ、あなたが笑顔でいてくれたらそれでいい」
「私には……恋心が何かもまだよく分かっていないけれど、あなたのことが好きよ。エルゼ」
「ああ、今はそれで充分だ。――今はね」
今は、という言葉を強調する彼。長い睫毛に縁取られた金の双眸に射抜かれ、心臓がどきんと跳ねる。
「あなたは俺の――希望そのものだ」
その刹那、ノルティマの胸がきゅうと甘やかに締めつけられた。その切なさが恋であることが、恋愛に疎いノルティマにはまだ分からない。
「私は……精霊のことが怖かったわ。けれど、精霊が痛みだけではなく良いものを授けてくれる存在でもあるのだと……あなたに出会った今なら信じられる。精霊も人と同じで、思いやりをもって接すればきっと心を通わせられるはず……」
精霊たちによってノルティマは長らく苦しんできたが、それはもう過去のことだ。精霊がただ怖い存在でないということは、エルゼと過ごして分かるようになった。
ノルティマはおもむろに、エルゼと繋いでいない方の手をかざし、唱えた。
「――水」
するとそのとき、手のひらに小石くらいの水の玉を浮かぶ。
これまで一度として精霊術を使うことができなかったため、ノルティマはびっくりして大きく目を見開き、エルゼの方を見る。
「できたわ……! 見ていた!?」
「うん。見ていたよ。ようやく精霊への恐れを手放せたみたいだな。やったね、ノルティマ。これであなたも精霊術師だ」
「ええ。嬉しいわ」
「これからは精霊たちがこの国をより豊かにしてくれるだろう」
彼は握ったままのノルティマの手にそっと顔を近づけていき、その甲に口付けした。
甘やかな痺れと熱が、唇の触れた場所から全身へと広がっていく。
「きゃっ、エルゼ……!?」
「――元精霊王の加護をあなたに。あなたが呼べば、いつどこにいても精霊の姿となってすぐに駆けつける。もう二度と、誰にもあなたを傷つけさせはしない」
「……ありがとう。心強いわ」
「まあ、呼ばれなくても毎日様子をうかがいに来るけどね」
また、シャルディア王国の騎士たちが数名、ノルティマが蔑ろにされていないか監視するためにベルナール王国に残ることになっている。これで以前のようにノルティマにぞんざいな扱いをする者はいないだろう。
「ふふ、毎日?」
「毎日」
「それなら少しも寂しくないわね」
ふたりがにこりと互いに微笑んだとき、船の上からレディスが「急いでください」とエルゼのことを急かした。
「――それじゃあ、またね。ノルティマ」
「ええ、また」
エルゼを乗せた船が出港したのを見送り、ノルティマは踵を返す。
王宮に帰ったら早速、廷臣たちと次の一手を考え始めなくてはならない。
元女王アナスタシアはというと、地位を手放したあとは権力と程遠いところで生きていくことになる。
ヴィンスは実家に、ノルティマを不当に扱っていたこと、異国の王族を拷問にかけたことを知られ、一族の恥だと絶縁を言い渡されて途方に暮れているとか。拷問の件はまもなく裁判が行われるが、恐らくは極刑になるだろう。
他方、エスターは今も私室で、アナスタシアの看病のもと、精霊の呪いに苦しみ続けている。
大国シャルディア王国国王の庇護下にあるノルティマはともかくとして、新王朝が始まれば、旧王家は確実に敵視される。王朝が変わるとき、旧王家の血を引く者たちが次々と不審な死を遂げるのは、よくあることだ。アナスタシアたちが粛清の憂き目に遭うかは……まだ誰にも分からないけれど。
そして、国の水源のために身を犠牲にして礼拝を捧げていた健気な王太女を追い詰めた身勝手な者たちのことを、国の人々は非難している。
アントワール王家の治世はこれで終焉を迎える。精霊の呪いも消えた。
ノルティマは最後の仕事を終えたら、シャルディア王国に渡る。次期女王ではない、ただのノルティマとして、自分の心に寄り添いながら生きていくのだ。
(何があっても大丈夫。私はもうひとりぼっちではないのだから)
ノルティマはそっと手の甲を撫でる。
どんなことがあっても、もう諦めたりしない。奇跡を信じて、しなやかに未来を切り開いていこう。
これまで王宮が大嫌いだったのに、希望を新たにしたノルティマの足取りはとても、軽かった。
〈終〉
本作はここでひと区切りとさせていただきます。
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