25_口付けと精霊王
地下に繋がる階段を下りながら、ノルティマはレディスに言った。
「エルゼを大人の姿に戻す方法はないのですか? 少年の姿のまま外に連れ出せば、脱走したとしてまた捕まるかもしれません」
「枯渇した神力が回復しなければ、元に戻ることはできません。恐らく必要な神力はあと少しだと思うのですが……。ノルティマ様は、神力の供給の方法を、ご存知ですか?」
彼に問いかけられて、ノルティマはぴくりと眉を上げ、その場に立ち止まる。ほのかに頬を染めながら、小さく頷いた。
「……はい」
「神力の供給を行えば、大人の姿に戻れるかもしれません。方法が方法ですので陛下はなかなかその手段を取ろうとなさいませんでしたが、ノルティマ様であれば……可能かと」
「……分かりました」
エルゼがノルティマの精霊術師の才能を見抜いたということは、ノルティマは多少なりとも神力を有しているということ。だが、その譲渡の方法は少々……問題がある。
(粘膜同士の接触……)
シャルディア王国の子どもたちに絵本を読み聞かせてやったときにも、神力の供給がロマンチックに描かれていた。ノルティマが湖に落ちたとき、エルゼはこちらに息吹を吹き込むのと同時に神力も注いでくれた。
ノルティマはおもむろに指を伸ばして、ふっくらとした血色の良い唇に触れる。
そうこうしているうちに地下に着き、衛兵が牢に続く分厚い扉を見張っているのが見えた。
「お前たちは誰だっ!」
衛兵ふたりが剣を引き抜いてこちらに向けた瞬間、レディスが「下がっていてください」と指示した。ノルティマが彼の背に隠れると、彼は窓を割ったときと同じように手をかざす。
「――っがは」
「ぐふ……っ」
レディスが精霊術によって起こした風によりふたりは吹き飛び、壁に打ち付けられて昏倒する。レディスは衛兵の懐をまさぐって鍵を見つけ、こちらに渡した。
「恐らくこの扉の鍵でしょう。私が外を見張っておりますので――陛下の元へ」
「分かりました」
鍵を受け取り、頷く。そして重厚な扉の鍵穴に鍵を差した。
地下牢の中は薄暗く、湿気があった。
石造りの床と壁が広がる、無機質で寂しげな空間。わずかな蝋燭の明かりだけが頼りだ。
扉の外には衛兵がいたが、幸運にもこの中には人の気配がない。
地下は牢屋として使用されるだけではなく、貯水池としての役割も果たしている。床に大きな穴が四角に掘ってあり、水が溜まっている。生活のために使われるものだが、そこにひとりの少年が浸かっていた。
深い金色の髪を見て、すぐにエルゼだと理解する。
彼は両腕を上げた状態で、手首を鎖で繋がれたまま俯いていた。
ノルティマが石の床を踏み歩く音に気づき、彼は顔を上げる。絹のような髪は乱れてべったりと肌にくっつき、肌には切り傷や痣ができている。
拷問を受けて全身傷だらけなのに、彼はあっけらかんと微笑む。
「――ノルティマ」
「エルゼ……!」
ノルティマは一切のためらいもなく貯水池に入っていき、エルゼの元へと駆け寄っていく。
水の深さはノルティマの腰くらいあった。
(すごく冷たい……。こんなところに何日も浸かっていたなんて……)
身体の芯まで凍えさせるような冷たさに、身をわずかに震わせる。
貯水池の中央に浸かったエルゼは、ノルティマの姿を見て身じろいだ。鎖が擦れるカチリ……という音が辺りに響く。
血で汚れた頬に手を伸ばして眉をひそめる。健康的だった顔色は青みを帯びており、唇は紫になっているし、端には血が滲んでいて。それに、冷たい水に半身を長く浸けていたため、随分と肌が冷たい。
「ああ、かわいそうなエルゼ……。なんてことなの……」
「心配しないで。俺は平気だ。それよりノルティマ、少しやつれているな。ちゃんと食事を摂ってる?」
「私のことはいいの。ヴィンス様ったら、ひどい人ね。私が言う通りにしたら、エルゼには手を出さないと言ったくせに……」
ヴィンスが約束を守るような律儀な人だとは思っていなかったが、思わず抗議の言葉を口にする。
ノルティマは、エルゼの頬に手を添えたままゆっくりと顔を近づける。ノルティマの顔が間近に迫り、彼は目を見開く。
「うまくできるかは分からないないけれど、今から私の神力を――あなたに譲渡するわ。私の神力では、なんの足しにもならないかもしれないけれど」
「ノルティマ、何を――」
エルゼの言葉を遮るように、自身の唇を彼の唇に重ねる。――湖の中で、彼がそうしてくれたように。
呼吸ごと飲み込むように唇を押し当て、神力を送ることを強く念じる。エルゼの方からは、困惑とともに鼻からくぐもった吐息が漏れた。
(お願い、どうか元の姿に戻って……)
神力の供給方法は、粘膜同士の接触。
絵本でそれを見たときは、恥ずかしくて自分にはとてもできないと思ったものだが、それで彼を本来の姿に戻せるというのならやぶさかではない。
唇に触れる肌とは違う感触に、心臓が早鐘を打つように加速していき、頭の先までのぼせ上がるような心地になる。次第にくらくらと目眩がしてきて、立っているのがやっとだった。
すると、辺りが光り始め、ノルティマはその眩しさに思わず目をぎゅっと閉じた。
エルゼは名残惜しそうにゆっくりと唇を離して、甘ったるい声音で囁く。
「ノルティマ。もう眩しくないよ、目を開けてごらん」
瞼をそっと持ち上げ、はっと息を飲む。
「……!」
ノルティマの目の前には、これまでの人生で見たことがないほどとりわけ美しい――成人した男の姿があった。
彫刻のような輪郭に、完璧なまでに整ったパーツがバランスよく配置されている。凛とした眉、切れ長の瞳、筋の通った鼻梁、薄い唇……。
まるで、絵画の中から飛び出してきたような、精巧で妖艶な男はエルゼの本来の姿である。
瞳の色と、長い髪の色は、エルゼと同じだ。そして、不敵に口角を持ち上げた掴みどころのない表情も、少年だったころと何も変わらない。
「エルゼ……なの?」
「ああ、そうだよ。――水」
彼が詠唱すると、貯水池の水がひとりでに宙に浮き、エルゼの両腕を拘束する鎖にまとわりついていく。そして、鎖はばきばきと鈍い音を立てながらちぎれて、エルゼのたくましい腕を自由にした。
「あなたをひどい目に遭わせてごめんなさい。もはや、謝罪のしようもないわ。他国の王族を拷問にかけるなんて……国際問題ね」
「別に俺は、ベルナール王国の支配に興味はない。だがこれで、あなたを自由にするための口実ができた」
「それはどういう――きゃあっ」
その言葉の意図を聞くよりも先に、彼の腕に軽々と横抱きにされるノルティマ。びっくりして彼の腕の中でじたばたと暴れる。
「お、下ろしてエルゼ。私、重いから……っ」
「羽みたいに軽いよ。これ以上身体を冷やしてほしくないんだ。だから俺に身を委ねていて」
「でも……」
「助けてもらうばかりでは忍びないんだ。あなたを運ぶことを俺に許して?」
あどけない少年のようにお強請りをしてくる彼。ノルティマは彼の懇願にめっぽう弱い。少年のときはただかわいいだけだったが、大人の姿になるとそこに色気が同居する。
頑なな意思を感じ取って、ノルティマは大人しくすることにした。
大人の姿のエルゼは筋肉がしっかりあって、ノルティマを抱え上げるのも余裕だ。彼はそのまま歩いて貯水池から上がり、ゆっくりと床にノルティマを下ろした。
水に浸かっていたために彼の肌に白のシャツがべったりと張り付いており、透けた生地が鍛え抜かれた筋肉をありありと浮かび上がらせている。
(どうしよう。目のやり場に困るわ……)
ノルティマの目にはあまりにも刺激的な肉体美だった。どこに視線を置いたらいいか分からなくなり、いたたまれなさから目をあちこちに泳がせる。
「すまない。俺のせいで濡れてしまった」
エルゼは自分の濡れた長い髪を絞り、こちらを見下ろしながら、申し訳なさそうに詫びる。
これまでは見下ろす側だったのに、今ではすっかり視点が逆転して、ノルティマが彼のことを見上げる側となった。
見慣れない美しい男を前に、ノルティマはどぎまぎして目が合わせられなくなる。
「気にしなくていいわ、そんなこと」
「どうして目を逸らすの?」
「それは……」
「もしかして、この見た目が気に入らなかった?」
違う、むしろその逆だ。こちらの顔を覗き込むようにして、意地悪に口の端を持ち上げる彼。きっとノルティマが照れていることなど分かり切って聞いているのだろう。
少年だったころと同じで、ノルティマをからかうのが楽しいらしい。
「気に入るとか気に入らないとか、そういう問題ではないでしょう。それよりこれからどうするの? このまま国を出る?」
「いいや、例のパーティーにこのまま参加し、アントワール王家を――断罪する」
「……!」
「長らく続いた精霊の敵である王朝に、この手で終止符を打つ」
「……精霊たちにひどい仕打ちをした王家に責任があるわ。あなたがそうしたいのなら私は止めない。やりたいようにやればいいと思う」
「ああ、そうさせてもらう。それから、ノルティマ」
名を呼ばれた顔を上げると、真剣な顔したエルゼが視線を絡めてくる。
「物事は表裏一体だ。全てのことに良い面悪い面、同じくらいの大きさで存在するんだ。……呪いもまた、裏を返せば祝福になる」
「祝福……?」
エルゼはにこりと微笑んで言った。
「アントワール王家の呪いは、新たな王朝の幕開けへの祝福になるということだ。そして、あなたは――自由の身となる。ノルティマ、アントワール家の問題にここで、けりをつけよう」
「……?」
「あなたを追い詰めた王家に――決して容赦はしない。俺を拷問にかけた事実、都合よく利用させてもらうとしよう」
もしアントワール王家が終焉を迎えれば、新しい王が生まれる。精霊が恨む一族が失脚したなら、女だけではなく、男が王に即位できる国になるはず。この国に再び父権制の王権が誕生するかもしれない。
(自由の身……)
そしてノルティマは、次期女王というしがらみから解放される――。
「もしかして、王家への交渉材料にするためにわざと捕まったの……?」
「――さぁ、内緒」
人間離れした美貌を持つ元精霊王は、不敵な笑みを浮かべる。
アントワール王家の治世が終われば、精霊たちが住まう国になっていくのかもしれない。