22_王家への駆け引き
ノルティマは自分がベルナール王国の失踪した王太女であることを全てエルゼに打ち明けた。
帰国にあたって、レディスにも協力してもらうことになり、彼にもこれまでの事情を話すことにした。
そして、シャルディア王国の短い滞在期間を終え、出国の日。ノルティマが向かったのは――港だった。
大きな船が止まっていて、船首にシャルディア王国を象徴するかのような精霊の像がついていた。
波止場から船に乗るとき、梯子の先からエルゼがこちらに手を差し伸べて言う。
「足元に気をつけて? 転んだりしないようにね」
「ありがとう――きゃっ」
注意されたにもかかわらず、一歩を踏み出して彼の手を取ろうとしかけたとき、段差につまずいてよろめく。
咄嗟にエルゼがノルティマの腕を引いて抱き寄せるが、ふたりしてバランスを崩してその場に倒れ込む。
彼の体の上にもたれかかるように倒れ、はっとして顔を上げると、あと少し動いたら唇と唇が触れてしまいそうな距離に彼の顔があった。
「ごめんなさい……っ!」
「いや、謝らないで」
ノルティマが赤くなった頬を隠すように顔を逸らせば、エルゼは愛おしそうにくすと微笑んだ。
「初心なあなたも愛らしい」
「へっ?」
「いいや、なんでもない。ただの独り言だ」
「…………」
彼にとってはただの独り言かもしれないが、ノルティマは翻弄され、また熱が上がっていくのを感じた。
(きっとまた私のことをからかっているんだわ)
船内に用意された部屋は豪華で、品の良い調度品が揃えられている。ノルティマにエルゼ、レディスにそれぞれの個室が用意されているだけではなく、三人の共有スペースとして居間も用意されていた。
ノルティマたちは居間に集まり、今後の流れについて確認するなどした。ノルティマとエルゼはソファに向かい合って座り、レディスはエルゼの後方に立っている。
ローテーブルにはメイドが入れた紅茶が湯気を立てており、軽食が所狭しと並んでいる。
そして、エルゼの指示でスターゲイジーパイも用意された。
「本当に魚の頭が飛び出てる……」
「ね? 嘘ではなかっただろう?」
驚くノルティマの反応を見て、エルゼは満足気に目を細めた。
「それにしても、驚きましたよ。ノルティマ様がまさか、アントワール王家の王太女殿下だったとは。何か特別な事情を抱えていらっしゃるのだろうとは予想しておりましたが」
「隠していて申し訳ありません」
「いいえ、責めている訳ではございませんよ」
レディスはこちらに一度微笑みかけてから、次は顎に手を添えて深刻な表情を浮かべる。
「そして精霊の呪いについても、大変驚愕いたしました。アントワール王家が代々、慰霊碑に祈りを捧げることと引き換えに、雨を降らせていたとは……。世に知られたらどれだけの混乱が生じるか、もはや予測もできません」
アントワール王家に王子が生まれないというのは、目に見える事実として周辺各国にもよく知られている。しかしそれは、近親婚を重ねた結果そうなったのであり、呪いの類いではない。
そして、ベルナール王国の雨が、王家の若い娘の祈りに委ねられているという事実は、特殊な母権制というベールによって、覆い隠されてきたのである。――呪いにつけ込んだ反乱分子が現れないようにするため。
この呪いは、アントワール家が国家を着実に運営していくにあたって、大きな弱点であるといえよう。
すると、それまで沈黙していたエルゼが口を開いた。
「リノール湖でノルティマを助けたとき……実は、単なる怪我ではなかったんだ。あなたは怪我をしているだけではなく、おびただしい数の悪霊化した精霊たちがまとわりついていた」
「……」
「あなたを怖がらせないように黙っていた。だが、俺がこの姿になったのは無理な浄化をしたからだった」
エルゼは、瀕死の人間を回復させることも、欠損した肉体を修復することも容易くできる。だが偉大な元精霊王をもってしても、同族の除霊、浄化だけは、あらゆる精霊術の中で最も神力を消耗する。
エルゼ自身が精霊であるため、同族を清めたり排除しようとする行為には、それだけ大きな力の跳ね返りがあるということだ。だから、精霊の浄化を行うと、本来の大人の姿を維持できなくなる。
(やっぱり私は、ただ瀕死なだけではなかったのね。ずっと慰霊碑に通っていたから、悪いものに取り憑かれていたとしても納得はできる……)
聖堂で大勢の怪我人や病人をあっという間に癒す彼を見て、どうしてノルティマの治癒には力を消耗したのか疑問に思っていたが、そこでようやく納得した。
「慰霊碑には恐らく、悪霊化した精霊たちが宿っている」
「本当に、交渉するだけで彼らの怒りを鎮めることができるの?」
「さぁね。最悪、俺の力で、一体一体浄化していくしかない」
だが、浄化には膨大な神力を消耗し、力を使いすぎたらエルゼはまた、本来の姿に戻れなくなってしまうのだ。
あるいはさらに段階が下がり、獣のような姿になってしまうかもしれないという。それこそ、ノルティマが彼と出会ったときのように。
「でも、力を使ったらまた元の姿に戻れなくなってしまうのでは? 昔みたいに獣の姿になってしまうかも……」
「おっしゃる通りです。そこで、私が参った次第ですよ」
レディスがため息混じりに言う。
「国王陛下が幼獣に変身しては大混乱になります。できればそのような事態は避けたいですが、万が一の尻拭いのために。――陛下、まさか異国のために本気で力を行使なさるおつもりではありませんよね?」
「ベルナール王国に力を尽くしてやる義理はないが、ノルティマのためなら話は変わる」
「はぁ……。陛下の気まぐれで数ヶ月も獣などに変身されては、シャルディア王国側としては大迷惑なのですがね。もう少し国王としての自覚を持っていただきたいものです」
眉間のあたりをぐっと押す彼の仕草には、憂鬱さが漂っており、彼が主人にこれまで何度も苦労させられてきたのだろうと想像させる。
一方のエルゼは、何食わぬ様子で笑顔を浮かべている。
「俺は別に、王に向いている訳でも望んでなった訳でもない。お前たちが勝手に崇め出しただけだ。シャルディア王国を俺の庇護下に置き、有事の際に力を貸す代わりに――あとは好きにさせてもらう。王になるとき人間たちとそういう約束を交わした」
「それでも、私の苦労を少しは考えていただきたいということですよ」
また大きなため息を吐くレディスに、ノルティマは心の中で同情するのであった。心配そうにふたりのやり取りを見ていると、エルゼがこちらを宥める。
「心配しないで俺に任せて。きっといい形に収まるようにしてみせるから。この呪いには何か意味があると思うんだ」
「意味……?」
「物事は表裏一体。必ずしも悪い面だけではなく必ず良い面も持っている。呪いの問題をうまく利用すれば、あなたを王家というしがらみから本当の意味で救い出すこともできるかもしれない」
エルゼはゆっくりと、薄い唇で扇の弧を描いた。
「この帰国があなたにとって試練ではなく、祝福になるようにしてみせよう」
スターゲイジーパイは、祝い事のときに食べられる伝統料理だ。エルゼは何を考えて、この特別な料理を用意させたのだろうか。
彼が丁寧な所作でパイをひと口口に運ぶのを眺めながら、ノルティマは頭に疑問符を浮かべた。