17_あの人のことがもっと知りたい
(まさかエルゼが、シャルディア王国の王様だったなんて)
シャルディア王国の王都。
大宮殿の賓客室で目を覚ましたノルティマは、重厚なカーテンを開けた。窓ガラスにそっと片手を添えて景色を眺めつつ、小さく息を吐く。
リュシアン・エルゼ・レイナード。それが現在の彼の名前だ。
エルゼというのは、水の精霊国の精霊王としての名で、ミドルネームとして今は使っているのだという。
シャルディア王国は精霊の血を引くレイナード家が、初代から何代にも渡って治めているとされていたが、実はたったひとりの精霊が名前を変えながら、王として君臨し続けていたというのだ。
身分を打ち明けられて恐縮してしまったが、彼に今まで通りに接してほしいと切願されたので、変わらず『エルゼ』と呼び、慣れた話し方をしている。彼をそう呼ぶのはたぶん、ノルティマだけ。
『どうして国を作ろうと思ったの?』
『別に、国を作ろうとして作った訳でもないし、王になろうとしてなった訳でもないよ。自然と誰かが俺のことを王として崇めるようになり、自然と国ができていただけさ』
『し、自然と……?』
『そう。自然と』
エルゼはまるでよくあることかのように軽い感じで言っていたが、生きている間にふたつの国の王になる人なんて他にはいないだろう。
エルゼを王座に据えた廷臣たちはとうの昔に死に絶えており、彼は自分の正体が精霊であることを、ごく一部を除いて隠しながら、精霊の子孫という肩書きで生きているそうだ。
そして、ノルティマにはふたつの選択肢が与えられた。
『食客になるかここで働くか……あなたはどっちがいい?』
『働きたいわ。助けてもらった上にこれ以上世話を焼いてもらうのは心苦しいの』
『俺としては、隠居したお年寄りみたいに、のんびり過ごしてほしいところだけどね。あなたならそう言うと思ったよ』
『それで、私は何をすればいいの? あなたのあ、あ、愛人……とか?』
まさかエルゼに限って、ノルティマの奉仕を望むことはないだろうと思いつつも、一応確認しておかなくては。
思わぬ問いに、エルゼは面食らう。そして、困ったように眉尻を下げた。
『俺がそんなことをあなたにさせると思った?』
『ち、違うの……っ。王様は大勢の妾を抱えるものだと聞くから……。エルゼが身体目当てだとか、そういうことが言いたいんじゃなくて……っ』
エルゼが悲しそうにするので、疑うようなことをしたと、いたたまれなくなり、必死に弁明の言葉を探す。
『まぁ、お姉さんがそう望むなら、俺は応えられるように頑張るけど』
『……!? あ、あの……その……っ』
ノルティマは思考がままならなくなってしまい、あわあわと目をさまよわせ、意味をなさない言葉を羅列する。そのうちに、どこかに隠れるための穴はないかと探し出す始末。
耳まで真っ赤になり、湯気が出るほどのぼせ上がっているノルティマを見て、彼は吹き出しそうになるのを堪えた。
『ふ。冗談だよ。――精霊術師。ノルティマには、精霊術師になるための勉強をしてもらう』
『精霊術師……?』
二週間前の回想から意識を引き戻したノルティマは、窓ガラスに重ねた自身の手の甲に視線を向ける。
(私が精霊術師になんて……なれるのかしら)
精霊にすっかり見放されたベルナール王国と違い、精霊たちと共存するシャルディア王国には――精霊術師と呼ばれる者が数多くいる。
彼らは体内の神力を精霊たちに与えることで不思議な力を借り、人々に恩恵をもたらすという。
精霊術師に必要な素質である神力がノルティマにあること。
八年ほど前、エルゼが一度ノルティマに会ったときに気づいたそうだ。
ノルティマは賓客室で精霊術師にまつわる本を読んで勉強したり、時々部屋を訪れてくれる教師に教わったりしながら毎日を過ごしている。
精霊術の勉強というのはあくまで建前で、実質的にはほとんど休暇のようなものだ。
(休むことに罪悪感を抱かないように、きっとエルゼが気を遣ってくれたのね。……優しい人。いや、優しい精霊?)
朝の身支度を済ませ、本を読んでいると、一時間ほどして部屋がノックされた。
コンコン。
「どうぞ」
中へと促し、部屋へと入ってきたのは――レディス。彼はこの大宮殿に来たとき初めて会った文官の男で、精霊術師をしている。年齢は三十過ぎらしいが、もっと若く見えた。
彼が身にまとっている白を基調とし緑が差し色に入ったローブは、精霊術師の制服らしい。
生真面目で冷静沈着、いつも仏頂面を浮かべているが、根は優しい人。
彼はノルティマの家庭教師として時々、シャルディア王国の文化や歴史、精霊術のことを教えに来てくれる。
彼もノルティマのことを、失踪したベルナール王国の王太女だと知らないし、気づいていない。
「レディス先生、今日もわざわざお越しいただいてありがとうございます。こちらの席へ。すぐに飲み物を用意しますね。コーヒーでよろしいですか?」
「はい。砂糖は――」
「多め、ですよね」
この国に来てから二週間ほど彼に世話になる中で、大の甘党だということが分かった。
レディスは気恥ずかしそうに「はい」と答えた。本人は男が甘党なのは恥ずかしいという意識があるらしい。
ノルティマはふっと小さく笑い、自らコーヒーを淹れた。こぽこぽとカップに注がれ、湯気がのぼるのを見ながら目を細める。
(誰かのために飲み物を用意するのは……新鮮な気持ち。王宮にいたころはずっと、身の回りの世話は全部使用人たちに任せていたから)
レディスは、テーブルの上に置かれた本の山を見て言う。
「もうこんなに沢山読まれたのですか?」
「読みかけのものもありますが、はい。ほぼ読み終えています」
「勉強熱心ですね」
「勉強するのは昔から嫌いではないんです」
ただ、母国にいたころは許容量以上を強要され、学ぶことが楽しくなくなっていた。
王太女としての務めを果たせと周りから言い聞かされ、自分を追い込んでばかりだったことを思い出す。
「勉強熱心なのは結構ですが、くれぐれも無理はなさらず。私が国王陛下に叱られてしまいますので」
レディスはエルゼから、ノルティマがしっかり休めるようにしてやれと指示されているらしい。
「ご心配なく。もう前みたいに無理はしないと決めたので」
「前……ですか?」
「……なんでもありません。とにかく、精霊のことを勉強するのが楽しいんです」
精霊のことを学べば――エルゼのことを知れる気がして。
彼は甘いコーヒーをひと口飲み、カップを置いてから言う。
「本日は何を勉強しましょうか。シャルディア王国のこと、精霊のこと、気になることがあれば何でもお尋ねください」
ノルティマは少し間をを置いてから、おずおずと答えた。
「エルゼのことが……知りたいです。彼がどんな人で、どんな風にこの国で生きてきたのか」
「私はあの方の全てを知っている訳ではありませんが、いいですよ」
シャルディア王国が誕生してから、唯一の王として君臨し続けてきたエルゼ。
彼は精霊術師たちとともに、精霊の力でこの国を平和に統治してきた。精霊の力によって土壌は肥え、何もしなくてもすくすくと作物は育っていく。
異国の軍が攻め入ろうとすれば、偉大な元精霊王が大河を氾濫させ、土砂を崩して侵攻から守った。
時代が移ろいでも、シャルディア王国民は精霊と偉大な王を崇め続け、国はますます繁栄していったのである。
精霊の直系である王に、反逆しようとする者は現れず、四百年間豊かな時代は続いた。
そしてエルゼは建国から今もなお、賢明で強大な王として、人々に崇敬されている。
その話を聞いて、ノルティマは顔色を曇らせた。
「……恐ろしい話です」
「どうして、そう思われるのですか?」
「だって…… 四百年も生きてきたということは、その分だけ多く、大切な人を看取ってきたということでしょう。周りの人たちが死んでいっても自分は生きなければならず、おまけに国を運営していく責任まで背負わなければならないなんて……私なら耐えられません。すごく……孤独で」
「ノルティマ様は……お優しいのですね」
精霊と人間では感覚がそもそも違うのかもしれないが、エルゼの人生に孤独感や寂しさがあったのではないかと想像して、胸が痛くなった。
ノルティマはベルナール王国にいたころ、周りに家族やそれ以外の誰かが常にいたにもかかわらず、常に孤独を抱えていた。
「精霊にも寿命はあるんですよね?」
「一般的には三百年程度とされていますが、陛下のように強い力をお持ちの精霊の場合は、違うのかもしれません」
「それでも、平均寿命の倍も生きているなんて、さすがに長すぎませんか?」
「倍……? この国は建国して四百年ですが……」
「え、もしかしてエルゼがシャルディアを建国する以前のことはご存じないのですか?」
「はい。ご本人は何も言っておりませんし、文献にもそのようなことは特に記されておりません」
水の精霊国の歴史は千年近くあると言われている。エルゼは水の精霊国最後の王だった訳だが、一体何年生きてきたというのだろう。
途方もない年数で、想像しただけでずきずきと頭が痛くなってくる。
エルゼは、なりたくて王になったのではなく、いつの間にか人に崇められて王と呼ばれるようになったと言っていた。
望んでもいないのに、生まれたときから次期女王だった自分の境遇と重なる。
(勝手に王にさせられて……彼の本当の望みや、心の拠り所はどこにあるの?)
そして、レディスは言った。エルゼは人を寄せつけず、基本的にひとりでいる。政務はほとんど部下たちに任せきりで、自身は精霊術師の育成ばかりに尽力してきたのだと。
時々ひとりで勝手に出かけて、精霊術師の素質がある者を探していたほど。
レディスいわく、何に対しても無関心のエルゼがどうして、精霊術師の育成に情熱を注いでいたのか分からないらしい。
そして。
「陛下は多くのことに関心を示しませんが――あなたは違うようです。それこそ、精霊術師の育成以外のことに興味を持たれたのは、私の記憶では初めてです」
「……」
「実は、国王陛下は在位の四百年間、一度も妃様をお迎えになりませんでした」
「ど、どうしてですか?」
一般的に知られているシャルディア王国の歴史では、何度も王位継承が行われており、妃も迎えたことになっている。けれどそれは廷臣たちによって巧みに捏造されたものだった。
「本当のことはご本人にしか分かりません。精霊と人では感性が違いますし、あの方は女性に興味がないのではないかと……個人的に思っておりました」
人の姿をなすほどの上位精霊は、子を作ることも可能だという。だが、エルゼはそうしようとしなかった。
「ですから、陛下があなたを連れて大宮殿にお戻りになったときには大変驚きました。私からすると、女性に親切になさるような方にはとても見えませんでしたので」
「そうなんですか? 旅の途中、ずっと優しくて甘やかしていただいたんですけど……」
「信じられません! 全く別の人の話ではないかと思うほどですよ。女性どころか国のことにも関心を示さず、長くお仕えしていてもいまだに何を考えていらっしゃるのか分からない、掴みどころのないお方ですので」
「……?」
それを聞いて、頭に疑問ばかりを浮かべる。
レディスが思うエルゼと、ノルティマは思うエルゼでは、大きな乖離があるようだ。
「――ちなみに、十年ほどお仕えしておりますが、陛下は私の名前をまだ覚えてくださっておりません」
「ええっ!? 親密なご関係のように見えましたが……。エルゼにも意外と薄情な一面があるんですね。名前くらい、覚えて差し上げたらいいのに」
「もう諦めております」
レディスは開き直ったように目を細めた。
ノルティマが知る彼は、爽やかで気さくないとけない少年という感じ。よく話し、よく笑い、いつでもノルティマのことを気遣ってくれて。
てっきり、誰に対してもそのようなそうなのだろうと思っていたが、違うみたいだ。
「そもそも人間と精霊では感性が異なります。精霊は人間よりも感情が豊かではないそうです。ですが恐らくノルティマ様は特別な存在なのでしょう。あなたが先ほどおっしゃったように、王が心に孤独を抱えていらっしゃるのだとしたら、あなたはそれを癒すことができるのかもしれません」
「…………」
孤独な国王の心を癒すと言われ、ノルティマの表情に影が差す。
(違う。むしろ私は、エルゼの傍にいてはならない存在)
なぜなら自分は、エルゼがかつて治めていた水の精霊国を滅ぼしたアントワール王家の――末裔なのだから。