14_馬鹿げた愛の呪い【エルゼ視点】
元精霊王のエルゼには――呪いがあった。
(四百……いや、五百年になるのか)
リノール湖の岸辺に腰を下ろしながら、精霊の国が滅んでからの年数を指折り数える。
五百年ともなると、両手の指がいくらあっても足りないが、正直、何百年と生きていると、自分が何歳なのか、今が何年なのかということへの関心も薄れていく。
五百年前にアントワール王家によって、水の精霊国は滅ぼされた。それこそ当時は強い恨みと憎しみを燃やしていたが、五百年も経てばそういう気持ちも癒えてしまうものだ。今は恨みも憎しみもすっかり手放して、悪霊となった水の精霊がさまよっていないか、時々リノール湖を訪れて確かめ、見つけたら浄化をしている。
もう随分昔から生活の拠点をシャルディア王国に置いているのだが、その日は久しぶりにリノール湖に赴いていた。シャルディア王国で暮らしているのは、精霊への信仰心が他国よりことさら強く、エルゼが暮らすのには快適だったからだ。
「……多いな」
湖の中の悪霊の気配に目を伏せる。
アントワール家に国を滅ぼされ、住処を失った精霊たちは一斉に離散した。中には、悪霊となってこうして故郷に戻ってくることもしばしば。
「――浄化」
湖面に手をかざして呪文を唱えれば、数分ほどで湖ごと精霊たちは清められた。
しかし、神力を使いすぎたせいで、大人の姿を保てなくなり、みるみるうちに体が縮んでいく。
「クゥーン」
それは、白い幼獣だった。成獣の姿にもなれないとは、よほど力を使いすぎたらしい。シャルディア王国へ戻るための力もなく、木の幹に寄りかかりながらしばらく休むことにした。昔からのことなので慣れてはいるが、同族を浄化しようとするとどうにも神力の消耗が著しい。
微睡みに沈んでいると、ある瞬間身体が宙に浮く感覚がしてはっと目を覚ます。
「なんだー? この変なの」
「きっと生まれ損ないのうさぎか何かよ。バイ菌を持っているに違いないわ。早く捨てた方がいいわよ」
頭上から幼い声が降ってきたので顔を上げると、少年と少女だった。顔がよく似ているので兄弟かもしれない。自分が少年に首根っこを掴まれているのだと理解する。
腕から解放されようとじたばた暴れてみるが、小動物のような姿のままでは、無駄な足掻きにしかならなかず。
「そうだ、面白いこと思いついた! ちょっとこれ持ってろ!」
「何よ。私こんなの触りたくないんだけど。――わっ」
少年が少女にエルゼを預けて、地面に置いた荷物をがさがさと漁り始める。その間も逃げようと暴れるが、少女が抱く力を強めて阻む。
「ちょっと! じっとしてなさい! 言うことを聞かないとこうよっ!」
「ギャンッ」
少女に爪を立てたまま抓られ、思わず悲鳴を漏らす。白い毛に血が滲んだのと、少年が鞄から取り出した蝋燭に火をつけたのは同時だった。
エルゼの瞳に、燃えた火が映る。エルゼはひゅっと喉の奥を鳴らして、少年の手に注目した。その蝋燭で何をするつもりかは容易に想像ができる。
かつて精霊王として崇められてきた自分が、こんな小さな少年少女たちによって脅威に晒されているとは、とんだ失態である。
彼らの表情には、純粋な好奇心しか浮かんでいない。まだ分別のつかない子どもの残虐性は、なんと恐ろしいことか。
「これをこうして――」
無防備なエルゼは、ぎゅっと瞼を閉じて熱を受け止める覚悟をした。けれどそのとき、ふたりとは違う声が降ってきた。
「やめなさい」
おずおずと瞼を持ち上げてみれば、別の少女が左腕を伸ばしてエルゼのことを庇い立っていた。
火のついた蝋燭の先端が少女の柔らかな肌にぐっと押し付けられて、焦げた匂いが鼻を掠めた。
「ひっ……」
少女の手から血が流れたのを見て、意地悪な子どもたちはようやく自分たちがしでかしたことを理解し、青ざめる。
一方、助けに入った銀髪の少女は、火傷を負っても全く痛がる様子はなく、エルゼを取り上げながら、きわめて冷静にふたりに言う。
「私の腕の火傷、この子に負わせるつもりだったの?」
「それは……」
「動物も私たちと同じ生き物なの。傷つけられれば、私たちと同じように痛いのよ。だから、ひどいことをしてはだめ」
「「ごめんなさい……!」」
咎められた少年たちは、転がるように逃げていった。
少女はエルゼを地面にそっとおき、申し訳なさそうにこちらを見下ろした。
「ひどいことをしてごめんね。どこも怪我はしていない?」
「クゥーン……」
言葉を話すことができないので、鳴き声で無事をどうにか表現することしかできなかった。あまりにもエルゼが必死に鳴くので、彼女は、「分かった、分かった」と苦笑しながらこちらの頭を撫でた。
先ほどの少年少女と同じくらいの年頃なのに、彼女は妙に大人びていて落ち着きがあり、優しかった。
長く伸びた銀髪を後ろで束ねて、長ズボンを履き、シャツを着ている。また、手には短い鞭が握られていおり、その格好から、乗馬の最中なのだと予想した。
少女の腕にひどい火傷ができているのが目に留まって、すぐに治してやりたいところだが、あいにくただの幼獣である自分に治癒能力はない。
(それにしても、彼女はどうして痛がらないんだ?)
普通、彼女くらいの年頃なら、擦り傷ひとつで大泣きしていてもおかしくはない。火傷した部分をちろちろと舌で舐めると、彼女は目をわずかに見開く。
「平気よ。私は痛みには人一倍強いの」
「……?」
「あなたは私のこと、心配してくれるのね。家の人たちはみんな、エスターのことばかりで、誰も私のことを心にかけてはくれないのに」
そう言って寂しそうに笑う表情に、年不相応の憂いが乗った。彼女はゆっくりと顔をこちらに近づけて顎をすくい、ちゅ、と額に口づけを落とした。そして、長いまつげに縁取られた双眸に抜かれたとき、どきんと激しく心臓が波打つ。
「――ありがとう」
「…………!」
彼女に口づけされた瞬間、体中に雷電が駆け巡るような衝撃を感じた。少女の微笑みはどんな花が咲くよりも可憐で、あまりの愛らしさに口から心臓が飛び出してしまいそうだった。心臓は全く言うことを聞いてくれずに加速し続け、のぼせ上がるくらいに顔が熱くなる。こういう気持ちは、初めてだった。
そして――。
(呪いが……消失した)
エルゼは目を大きくさせて硬直する。
水の精霊国が滅んでからというもの、エルゼは多くの悪霊化した精霊たちを浄化してきた。その中には一筋縄ではいかない者もおり、国を守れなかった精霊王を憎んで、攻撃してきたことも。
そしてあるとき、非常に厄介な呪いをかけられた。それは――時が止まってしまう呪い。大抵、精霊の寿命は三百年ほどと言われており、エルゼは百年以上生きていた。しかしその呪いによって、エルゼは寿命を取り上げられたのである。
呪いをかけた精霊たちはエルゼに告げた。呪いを解く条件は――エルゼが誰かに恋をすること。そしてもう一つ。相手が、精霊術師であるか、その素質を持つ者であること。
精霊たちはエルゼにそんな――馬鹿げた呪いを与えたのだった。
それが今、少女の口づけによって解かれたのである。
(そうか、彼女には水の精霊術師の素質があるのか。そして俺は……)
エルゼの驚愕につゆも気づかない彼女は、こちらに頭を撫でながらふわりと微笑んでいた。だが、その笑顔は次の瞬間に曇る。
「ノルティマ様! どこにいらっしゃるのですか!?」
「ノルティマ様!」
複数の声が茂みの向こうから聞こえてきて、少女は大袈裟なくらいにびくりと肩を跳ねさせる。ついさっきまでこちらに見せてくれた、花が綻ぶような笑顔の面影はすっかりなく、冷めた表情で立ち上がる。
「それじゃ、元気でね。さよなら」
「キャン、キャンッ!」
どうにか彼女をここに留めておきたいと、必死に吠えて呼び止めようとするが、とうとう彼女が振り返る事はなかった。
(ノルティマ……という名前なのか。可憐な名だ)
ノルティマを迎えに来たのは、複数の騎士や侍女たちだった。その手厚い迎えの様子から、彼女がやんごとなき身分などだということは容易に想像できた。
「ノルティマ様、どこに行っていらっしゃったのです!? あなた様には重要なお立場があるのです。このベルナール王国の――次期女王という重要なお立場が。一分一秒も無駄にはできないのですよ!」
「分かっているわ」
「早く乗馬の訓練の再開を。先生がお待ちですよ。乗馬を終わったあとは、歴史、刺繍、バイオリンの授業。そのあとは――」
どうやら彼女は、精霊の国を滅ぼしたアントワール王家の子孫らしい。もし昔の自分だったら彼女を憎んでいたかもしれないが、出自を知ったところで、ノルティマ自身への恨みが湧いてくることはなかった。
(彼女が笑顔で過ごせるよう――精霊王エルゼの祝福を)
小さな少女の優しい青の眼差しに抜かれたとき、六百年以上生きてきた精霊王は初めて――恋に落ちたのである。
エルゼは自分の想いも乗せて、あどけない少女に加護をひっそりと送った。
◇◇◇
授けた加護は、ノルティマがなんらかの助けを必要としたときに、エルゼを呼び出せるというもの。
だが、エルゼは一向にノルティマに呼ばれることはなかった。助けを求められたらすぐに駆けつけるための加護だったのに、彼女は誰も頼ろうともしなかったのだ。
彼女への恋心は、八年で色褪せることもなく、エルゼの心に深く根付いていた。ほんのひとときの邂逅だったのにもかかわらず、元精霊王は幼い少女に囚われたままだったのである。
加護は八年後、突然に反応し、エルゼをノルティマの元へと導いた。光の玉のような精霊本来の姿で瞬間移動した先は――まさかの湖の中。
(……!? あれは――)
そして、暗い湖の底に、恋い焦がれていたはずの彼女が沈んでいくではないか。慌てて彼女の元へ泳いでいく。
あどけなかった少女は会わないうちに、美しい娘へと成長していた。
彼女のことを思い浮かべない日などなかったが、想像していたよりもずっと、美しくて、儚さをまとっていた。
(まだ意識はある。が、どうしてこんな……)
腕を掴んで引き寄せたが、彼女の腕はあまりにもか細く、頬はやつれ、目の下にクマができている。エルゼはぎゅうと胸が締め付けられるような思いで彼女の頬に手を添え、その小さな唇に息吹を吹き込んだ。
酸素と一緒に神力も注ぎ込み、彼女の怪我を癒していく。
「もう苦しまなくていい。俺の元へおいで。――ノルティマ」
ノルティマのことを掻き抱き、耳元でそう囁く。エルゼに身を委ねた彼女は、安心したように意識を手放していた。
水面に浮上したあと、崖の上から数名がこちらを見下ろしていることに気づいた。人間程度の視力ではこちらの姿が見えないだろうが、精霊であるエルゼには、はっきりとその姿を捉えることができた。
鋭い聴力で耳をそばだてれば、人間たちが『ノルティマが飛び降りた』と話しているのが聞こえてきた。そしてそこには、ノルティマの婚約者や妹がおり、ノルティマの心配よりも、自分たちの責任を問われることにおののいていた。
ノルティマを取り巻く環境や、彼女が飛び降りた経緯をなんとなく察し、腸が煮えくり返りそうになる。
同時に、彼女の苦労を知らず、何もしてやれなかった自分があまりにも情けなく、悔しくなった。
(――決して彼女は渡さない。アントワール王家にも、他の誰にも。そして、国を滅ぼし、大切な人を傷つけ……二度も俺を怒らせた王家を――許しはしない)
腕の中で眠るノルティマには――おびただしい数の悪霊化した精霊たちがまとわりついていた。
その浄化を行ったために、エルゼは大人の姿を維持できなくなったのである。