13_謎めいた少年の正体
エルゼは青年のひとりだけではなく、他の三人も全員遠くへ吹き飛ばした。指一本触れずに、手をかざしただけで。
彼がかざした手からは勢いよく水が放たれ、その水流で飛ばされたのだ。
水飛沫が辺りに離散し、エルゼの周りに小さな水の粒子が神秘的にくるくると旋回している。
彼からは尋常ではない殺気がまざまざと伝わってきて、近くにいるだけで身の毛がよだつ。
犬をいじめていた青年たちはエルゼの不意打ちになすすべなく、地面に転がる。そして彼らはずぶ濡れになった状態で昏睡していた。
天上人対人間のような、圧倒的な力の差を見せつけられて、ノルティマは戸惑う。
(今、何が起きたの……?)
一瞬の出来事に理解が追いつかず、頭の中に疑問ばかりを浮かべていると、エルゼがこちらの両肩に手を置いて切羽詰まったような表情で言った。
「ノルティマ! 怪我は!? どこも痛くない!?」
「へ、平気よ。あなたが助けに来てくれたから」
「ああ……本当にすまない。愚かな俺が目を離したばかりに、あなたを危険な目に遭わせてしまった」
「謝らないでちょうだい。エルゼは何も悪くないわ」
「あれ……その犬はどうしたの?」
彼に尋ねられ、ノルティマは事の仔細を説明する。この犬が不良青年たちに、おもちゃのようにいたずらされているのを見兼ねて、つい首を突っ込んだのだと。
事情を知ったエルゼは、目を見開いている。
「――とにかく、エルゼにはなんの落ち度もないわ。厄介事に首を突っ込んだ私が悪いのだから」
とはいえ、この犬を助けたことに後悔はない。腕の中で傷ついた犬がくぅんと頼りなく鳴く。ノルティマは微笑みながら犬の顎を撫でてやった。
「……あなたは昔から変わらないんだね」
ふいに零れたエルゼの小さな呟きは、犬との戯れに夢中になっているノルティマの耳には入らなかった。
エルゼは先ほどまでの尋常ではない殺気はすっかりと抜け落ち、いつもの優しげな彼に戻っている。
ノルティマは、倒れている青年たちを見ながら言った。
「あの人たちは……死んだの? それに、あの水は……」
「死んではいない。そのうち目を覚ますさ。そしてあれは、水を操る力を使ったんだ」
「力……」
こてんと首を傾げると、エルゼは小さく微笑み、「少し歩こうか」と言った。
エルゼが負傷した犬を抱えたまま歩いた先には、林があった。風にさざめく木々に囲まれていて人目につかない場所で、犬を地面に下ろした。
「見ていて、ノルティマ。――治癒」
犬の上に手をかざして彼が呟くと、水の塊が犬を囲い、あっという間に傷が消えていき、欠けていた耳さえ元に戻っていた。
傷が癒えた犬は、今度は元気に吠えて何かを訴えてきた。
「喉が渇いているのか? ほら、飲め」
指をかざした先に、どこからともなく水の塊が現れて、彼が両手の平で皿を作ると、そこに水が生き物のように入り込んでいく。犬はエルゼの手ずから、水をごくごくと飲んだ。
(こんな力……見たことがないわ。まさか、精霊の力……?)
かつて、ベルナール王国の湖リノール湖の下には、水の精霊国が広がっていた。精霊たちは不思議な力を使い、気まぐれに人に力を貸して、乾いた土地を潤してくれることがあったとか。
そして、不思議な力を享受できたのは、精霊術師たちの存在があったからだ。
だが、アントワール王家が五百年前に精霊国を滅ぼして以来、失望した精霊はベルナール王国から消えてしまった。
精霊を信仰している国は世界中に多く存在するが、かつて水の精霊を信仰していたベルナール王国の人々にとって、精霊はもはや伝説の存在に過ぎない。
「あなたは……精霊術師なの?」
「惜しいけど違うな。俺は……」
エルゼは視線をさまよわせ、何度か口を開閉し、逡巡を重ねる。そして、寂しそうに言った。
「俺は――人間じゃない」
衝撃を受けたノルティマが目を皿にすると、エルゼはいたたまれなさそうに犬に視線を落とす。
そうして犬に水を与え終わったあと、覚悟したかのようにエルゼはこちらを見つめた。
かざした手のひら上に水の塊を浮遊させながら、今にも消え入りそうな弱々しい声で言う。
「俺のことが……怖くなった?」
「そんなことないわ!」
ノルティマは一も二もなく答え、ぶんぶんと大げさに首を横に振って否定する。すると彼は、命拾いでもしたかのように安堵の色を浮かべ、眉尻を下げた。
「そっか、よかった。俺の正体は、五百年前に滅んだ水の精霊国の精霊王。そして、あなたに八年前に救われた者だ」
「……!」
美しい双眸に射抜かれ、ノルティマの心臓が音を立てる。
「精霊王……? それに八年前って……何のこと?」
「その腕の火傷跡、覚えてる? あなたは子どもたちにいじめられていた幼獣を助けたことがあるはずだ」
「!」
彼に言われて、懐かしい記憶の蓋が開かれる。
おもむろに、左腕の袖の上から抑えた。普段は服で隠れているが、ここには蝋燭の火を押し当てられた火傷の跡が残っているのだ。
これは、いじめられている幼獣を庇って負った火傷だ。昔からリノール湖の近くを馬術の稽古場として使用していたのだが、そこでいじめられている獣を助けたことがある。
「覚えているわ。でも、それとあなたに何の関係が……」
「あの幼獣は、俺の姿のひとつだ」
「……!」
精霊は本来、光の玉のような姿をしている。だが、精霊の中でもとりわけ強い力を持つ上位精霊は、人の姿を取ったり、獣の姿を取ったりすることができるそうだ。
そして、精霊の中でも別格の存在である精霊王は、様々な姿に変身することができる。
「俺は通常、成人した男の姿をして過ごしているが、神力が枯渇すると、その姿を維持できなくなる」
「成人した、男性……」
そのとき脳裏に、湖の中までノルティマを救いに来てくれた男性の存在が過ぎった。
「そして、神力の消耗度合いによっては、人の形すら成せないことがある」
八年前、エルゼがリノール湖でノルティマに助けられたときも、彼は力を使いすぎてしまい、最も自身にとって負担が少ない小さな獣の姿になるしかなかった。
「水の精霊国が滅びてから、怨念によって悪霊となった精霊がベルナール王国をさまようようになった。俺はかつての統治者の責任を果たすべく、奴らを浄化して回っていたんだ。そして力を使いすぎてしまった」
「……そう、なのね」
精霊にとって最も神力を消耗する行為は、同族を浄化することだという。
その日はさまよえる悪霊を大量に浄化したために、成年男性の姿を保てなくなった。そして、子どもたちにいじめられているところを、たまたま立ち寄ったノルティマに助けられたという訳である。
「精霊は一度受けた恩は忘れない。だから俺は、あなたを助けに来た」
「もしかして……リノール湖の中から岸へ運んでくれたのは――エルゼ?」
おずおずと尋ねれば、彼はゆっくりと頷く。それを見たノルティマはぐっと息を飲んだ。
「――うん、そうだよ。……あなたは瀕死の状態だったから、そう……治癒するのに膨大な神力を使って、あの姿を維持できなくなったんだ」
「あなたがあの恩人だったなんて……。それならそうと早く言ってくれたらよかったのに」
「……人間ではないと知られたら、嫌われるかと思って」
「そんなこと絶対にありえないわ。驚きはしたけれど、人だろうと精霊だろうと関係ない。エルゼはエルゼよ」
「……!」
そう伝えると、彼は瞳の奥を揺らした。
エルゼは、砂漠を身ひとつでさまよい歩く人生の末に、ようやくたどり着いたオアシスのような――心の拠り所だ。
どんな生まれで、どんな過去があろうとも、ノルティマが彼に救われ、励まされていた事実は変わりない。
「それじゃあ、あの湖の中にどこからともなく現れたのは、精霊の力のせい?」
「そう。八年前、あなたに精霊の加護を送ったんだ。あなたが困ったとき、俺に知らせが届くように。だがあなたは、なかなか助けを求めなかった。……本当はもっと早く、救ってあげたかったよ」
「……………」
ノルティマは誰かに頼る方法を知らなかったのだ。湖に落ちてようやく初めて、誰かに救いを求めた。そしてエルゼはその声に気づき、駆けつけてくれたのだ。
(私には八年も前から……心にかけてくれる味方がいたのね)
精霊王は、場所を自由に移動することができるらしく、ノルティマの助けを求める声にすぐに応えてくれた。その気持ちだけで、嬉しい。
「ありがとう。……助けに来てくれて。ずっとあなたにお礼を言いたいと思っていたの」
「俺はただ、恩を返したくてしているだけだ」
エルゼは、礼なんて言う必要がないと爽やかに笑い、こちらに片手を差し伸べた。
「シャルディア王国にあなたを苦しめるようなものはない。たとえそんなものがあったとしても、俺が守る。さ、行こう」
「ありがとう。ええ、行きましょ……う」
しかし、エルゼがかつてリノール湖の水の精霊国を治めていた王なら、どうして今はシャルディア王国に拠点を置いているのだろう。
そんな疑問を抱きつつ彼の手を取ったそのとき、ノルティマは更なる重大事項を失念していたことに気づく。
(待って……エルゼが元精霊王なら私は……エルゼの故郷を滅ぼした――仇のようなもの)
水の精霊国は、五百年前にノルティマの先祖が――滅ぼした国だ。彼は、ノルティマの姓がアントワールだということはまだ知らない。もしもノルティマが憎い敵の子孫だと知ったら……。
(絶対に……嫌われる)
さあっと全身から血の気が引いていく感覚がして、その場に縫い付けられたように立ち尽くす。
「ノルティマ? どうしたの?」
エルゼの声も頭には入ってこない。
本当のことを打ち明けなくては。
ここまで親切にしてくれたエルゼを裏切ることになってしまったとしても、真実を伏せている方がよっぽど不誠実だ。
言わなければならないのに、エルゼに軽蔑され、見放されるのが怖くて、喉に何かが詰まったようにつっかえたように声が出なかった。
(嫌だ……エルゼにだけは、嫌われたくない……。幸せな日々を知ってしまった私はもう、以前のような孤独には耐えられないわ。この人を失いたくない……っ)
きゅうと唇を切なげに引き結ぶ。
王宮を飛び出してきてから、およそひと月が経とうとしている。王宮の中で政務にばかり追われて疲弊していた日々と打って変わり、エルゼと過ごす毎日は夢のように穏やかで幸せだった。
彼がどこかにいなくなってしまうと考えただけで、くらくらと目眩がしてきて、立っている感覚すら分からなくなってくる。
そして、自分がどれだけこの少年のことを頼りにしていたか実感させられた。
「い、いいえ、何でもないわ。行きましょう」
エルゼを失ってしまうのは怖くて、ノルティマは何も言うことができず、努めて平静を装い、犬を抱えたままエルゼの隣を歩いた。
彼は勇気を振り絞って人間ではないことを打ち明けてくれたのに、自分は嫌われるのが怖くて隠し事をする――薄情者だ。
そうして、ノルティマの心に罪悪感が広がっていく。