11_お腹も心も満たされていく
よほどの空腹状態だったらしく、かなりの量を注文したのに、とうとうふたりで完食しきった。空になった皿を見下ろしながら、飲み物を飲むノルティマ。
「ふたりで全部食べ切れたわね。お店の人もきっとびっくりするわ」
「もう満腹だ。美味しかったな」
「ええ」
店の赤い屋根で小鳥たちがさえずり、昼の爽やかな風が頬を撫でる。
遠くに聞こえる街の人々の声や靴の音。何気ない日常が、ゆったりとした時間とともに流れていく。
王宮にいたころは常に政務や王太女教育に追われていて、こんな風にゆっくり食事をすることなどできなかった。一緒に食卓を囲うような親しい相手もおらず、ひとりで作業的に食べていた。
(いつも誰かに囲まれて食事をしていたエスターが羨ましかった。本当は……私もこんな風に誰かと楽しくご飯が食べてみたかった)
ふいに、ノルティマの瞳からつぅと涙が零れた。人前で泣き顔を晒すなどみっともないと分かっていても、込み上げてくる感情を抑えることができない。
次から次へと熱いものが頬に伝うのを見たエルゼは、がたんっと音を立てて椅子から立ち上がり、身を乗り出した。
まるでこの世の終わりかのような血の気が引いた様子だ。
「どうした!? どこか痛い? 気分が悪くなった!?」
「違……うの」
ふるふると首を横に振る。
「こうして誰かと楽しくご飯が食べられたのが、嬉しくて……。今まではずっと一人ぼっちで、こういう幸せに縁なんてないと思って生きてきたから。私……こんなに幸せな思いをしていいのかしら」
「…………」
妹や元婚約者からひどい仕打ちを受けてきたとはいえ、ノルティマは王太女としてのあらゆる義務を放棄してここに来た。
言ってみれば――逃げたようなものだ。
ノルティマが消えた今、王宮はきっと混乱に陥っていることだろう。これまでノルティマがこなしてきた政務や礼拝は、他の誰かがやらなくてはならなくなる。
自分の仕事を押し付けてしまうことへの、罪悪感と自責の念に項垂れる。
ノルティマが抱えてきた仕事の中でも特に、精霊の慰霊碑への礼拝は辛く苦しい仕事だった。あの忍耐力がないエスターが続けられるはずがない。女王は国の象徴としての務めがあるし、なんだかんだと言い訳を並べて慰霊碑には赴かないような気がする。
しかし、礼拝の条件である王家の純粋な血を引く者に該当するのは、アントワール家のふたりの王女とアナスタシアしかいないのだ。
もしエスターが早々に音を上げて礼拝を放棄したのなら、ベルナール王国には雨が降らなくなって、大地は涸れて作物は育たなくなり、国民は飢えに苦しむことになる。
だが、いざ自分があの国に戻ることを想像すると、背筋がぞわぞわと粟立ち、動悸や吐き気がしてくるのだ。
今は何も考えたくない。周りのことなど考えず、自分のことだけ考えていたい。でないとまた……心が壊れてしまいそうで。
「私は……逃げてきてしまったの。自分に与えられた務めを何もかも、放棄して……。私はとても愚かだわ」
「それは違うよ、ノルティマ」
エルゼはゆっくりとこちらに歩いてきて、土で服が汚れることもいとわずに、ノルティマの椅子の横に膝をついた。
彼はこちらを見上げながら、慈愛に満ちた声で言う。
「あなたは愚かじゃないよ。俺はむしろ、もっと早く逃げてほしかったって思ってる。心が壊れるまで頑張らなくちゃいけないことなんて何ひとつないんだ。あなたは誰よりもよく頑張ってきたと、俺は誇りに思うよ」
「……っ! ぅ……うぅっ……ふ……」
そんな優しい言葉、今まで誰ひとりとしてかけてはくれなかった。頑張って当然、やって当然。だってノルティマは、エスターと違って健康に生まれ、恵まれているのだから。周囲に何度も言われ続け、ノルティマにも刷り込まれていたのだ。
「ごめんなさい、突然泣いたりして……っ。すぐに泣き止む、から」
「気にしないで。感情を我慢する必要はない。あなたの涙は誰にも見られないようにするから」
エルゼは人に見えないように、ノルティマの前に庇い立ち、囁きかける。
エルゼの優しさが凍りついた心に染み込み、そっと解かされていく。
ぐすぐすと鼻を鳴らし、声を漏らしながら泣くノルティマの背中を彼が擦りながら慰める。
「あなたはしばらく、心を休めたほうがいい。自分のことを責めないで。時には勇気を出して、辛い環境から離れることも大切なんだよ。沢山美味しいものを食べて、沢山眠って、心身を回復させることが、今のノルティマにとって一番の仕事だ」
「……そうね」
ノルティマの心はとっくに壊れていた。にもかかわらず、傷つき、ぼろぼろになったまま、折れた心を強引に引きずられるかのように生きてきた。
その結果、元婚約者の『死んでくれたらいいのに』という言葉が引き金になり、湖に飛び降りるという凶行に至ったのである。
(きっとエルゼはあえて口に出さないだけで、私が湖の傍で倒れていた理由にうすうす気づいているのでしょう)
ノルティマが追い詰められて、冷たい湖に身を投げたのだと。
湖の中であの長髪の男性が助けに来てくれなかったら、きっと溺れて死んでいたに違いないし、こうして少年との楽しいひと時を実現することもできなかった。
自分の唇に触れた男性の唇の感触がまだ鮮明に残っているような気がする。
頬に触れた大きな手の温かさも、抱かれたときの安らぎも――。
もっとも、彼が一体何者なのかは分からないままだが……。
(会えたらきっと、お礼を言いたい)
唇に手を伸ばすと、エルゼがその仕草をじっと見つめていた。
しかし、助けてくれたのはあの長髪の男性だけではない。エルゼが荷馬車まで運んでくれたから、王宮の人に見つからずに国を離れることができたのだ。
「あなたには感謝しているわ、エルゼ。色々……親切にしてくれてありがとう」
「礼を言うのは俺の方だよ」
「え……?」
エルゼはすっと立ち上がり、懐から取り出したハンカチで、ノルティマの涙をきわめて慎重な手つきで拭う。そして、そのままこちらを見下ろして言った。
「ノルティマのおかげで、俺は今生きている。俺がシャルディア王国からベルナール王国へ行った理由は――あなたを迎えに来るためだ」
「ど、どういうこと……?」
「俺なら絶対にあなたを泣かせたり、悲しませたりたりしない」
「言っている言葉の意味が分からないわ。また何か……世間知らずな私のことをからかっているの?」
「さぁ、内緒」
唇の前に人差し指を立てて、掴みどころのない笑顔を浮かべる彼。しかしすぐにその笑顔が消え、今度は何もかも見透かしたような炯眼でこちらを射抜く。
爽やかで端正な顔立ちに威圧が乗ると迫力が増し、ノルティマが圧倒されていると、彼は地を這うような声で呟く。
「あなたがこんな風にやつれ、クマができるまで、そして心が壊れるまで追い詰めた本当の愚か者は――俺がこの手で、死ぬより恐ろしい目に遭わせてやる」
「……っ」
怒りを含んだ声と、並々ならない殺気がじりじりと伝わってきて萎縮し、喉をぐっと上下させる。
自分に向けられている訳ではないと分かっていても、臆さずにはいられない強い憤りだった。
「それを俺に許可してくれる? ノルティマ」
「許可って……何をするつもりなの?」
「どうかお願い、お姉さん」
いつもなら甘い懇願に押し流されるノルティマだが、なけなしの理性を掻き集めて首を横に振った。
(エルゼは何を知っているというの? まだ、私が王室関係者であることすら打ち明けていないのに)
異国からやってきたあどけない少年の金色の目は、ノルティマの何を見ているというのだろうか。
「報復……は、望んでいないわ。私を傷つけた人たちのことはもう考えるのすら嫌なの。今はただ、自分のことだけに向き合っていたくて」
「……そう。あなたがそれを望むなら、俺も何もしないでおくよ。――今のところはね」
それは含みのある言い方だった。
お姉さんは優しい人だね、などと言って人好きのする笑顔を浮かべるエルゼ。だが、もしノルティマが報復を望んだら、彼は一体何をするつもりだったのだろうか。
ノルティマは、謎めいたエルゼという少年のことがますます分からなくなったのだった。