2婚約者と黒猫
「ねこちゃん、今日も少しだけお邪魔するわね」
わたくしはそう声を掛けながら、黒猫の隣にハンカチを敷いて座りました。
黒猫はちらりと視線を向けましたが、直ぐに欠伸をして伏せてしまいます。
いつも通りの様子に、自然と笑みが浮かびます。
そろりと左手を伸ばし、ゆっくりその背中を撫でました。素晴らしいふわふわの毛並み。
「……はぁ」
気が抜けて、思わずため息を吐いてしまいました。
黒猫が再びちらりとこちらを見上げ、尻尾で手の甲を撫でてくれました。
◆◇◆
わたくしがここに通うようになったのは、入学して半年が経った頃でした。
婚約者であるルイフリッド様は少しずつおかしくなってしまわれた。
最初の頃はわたくしとの時間を取って下さっていたのに、今では会いに行っても邪険にされて。マリアとかいう女生徒と親しくされている。
婚約者を差し置いて別の女性を側に置くなんて、ルイフリッド様は何を考えておいでなのか。
ルイフリッド様だけではない。
エリック様や、フィリップ様、エルバート様までも彼女の取り巻きと化している。エリック様とフィリップ様には婚約者もいらっしゃるというのに。
わたくしはルイフリッド様が誰と親しくされようと構わない。勉学を怠らず、王族としての意識をしっかり持って頂ければ、たかが学園の三年間のことにいちいち目くじらを立てたりはしません。
そもそも、ルイフリッド様は勤勉で真面目な方。わたくしが心配する必要など無いはずでした。
はず、だったのです……。
始めはルイフリッド様の優しさからでした。
彼はわたくしに会いに、休み時間に三階にある一年生の教室へ足を運んで下さっていました。
そこで、クラスに馴染めていない、一人の女生徒の噂を耳にしたそうです。
マリア・ライジットというその生徒のことはわたくしも耳にしていましたが、悪い噂ばかりで、クラスが違うこともあり関わることはありませんでした。
しかし、ルイフリッド様はその持ち前の優しさと責任感から、彼女にも学園生活を楽しんで貰おうと、気に掛けるようになりました。
「サナリア、同じ女性である君の方が気付くことが多い筈だ。君からも気にかけてやってくれ」
「かしこまりましたわ」
わたくしは彼女がクラスに馴染めるよう、まずは態度を改めるように言いました。
……効果は、ありませんでしたが。
「そうやってあなたもわたしのことをいじめるんですね!」
「そんなつもりは……」
「わたしはそんなものに屈したりしません!」
そう言って、何を言っても悪いように捉え、わたくしを敵視するようになりました。
それでも、ルイフリッド様から頼まれた以上、放り出す訳にはまいりません。繰り返し言葉を尽くして根気よく。 いつかはわたくしの言葉を受け取ってくれると信じて。
そんなわたくしの気持ちを裏切って、彼女はルイフリッド様を始めとした殿方達との交流を深めていました。
当然、上級貴族には幼い頃から婚約者が居ますが、そんなことはお構いなしに、物理的にも精神的にも距離を縮めていきました。
その婚約者である女生徒の皆さんは大層ご立腹なさって、彼女に苦言を呈していらっしゃいましたが、わたくしの時と同じようにどれも聞き入れては下さりませんでした。
そして、三ヶ月後……。
「サナリア、貴様には失望したぞ!マリアに複数人で酷い言葉を投げ掛けていたそうだな!」
「ルイフリッド様!それは何かの間違いですわ。わたくしはただ……」
「言い訳は無用だ!」
わたくしの言うことは一切聞き入れて下さらず、彼女の言うことを盲目的に信じていらっしゃった。
こんなこと、今までのルイフリッド様ではありえないことでした。
近づくなと言われた以上、わたくしが彼女に会いに行くことは無くなりました。
しかし、夏期休暇が明けてから、何故か廊下や階段、中庭で彼女とすれ違う機会が増え、その度に彼女は転んだり「ひどい!」と叫んで走り去ったりと不思議な行動を繰り返しました。
その理由が分かったのは直ぐのこと。
「貴様、まだマリアにいじめをしているのか!いい加減にしろ!」
「誤解ですわ!わたくしは何もしておりません!」
「黙れ!もうマリアに近づくな!」
彼女を抱いてこちらを睨みつけるルイフリッド様は、まるで別人でした。
わたくしは彼女に会わないよう、できるだけ教室にいるようになりました。
すると二ヶ月後、ルイフリッド様達が教室に怒鳴り込んでいらっしゃいました。
「サナリア!今度は人を使ってマリアをいじめるとは、なんて卑劣な!」
「お待ち下さい!わたくしには何のことだかわかりませんわ!」
「まだ言うか!少しはマリアの清い心を見習え!心優しいマリアはお前の仕打ちに傷つきながらも懸命に立ち向かったというのに……人を使ってマリアを貶めるなど、恥ずかしくないのか!」
「ルイフリッド様、そんなことをした覚えはありません!信じて下さい!」
わたくしは必死に訴えましたが、その応えは……。
パシンッ
少しの間、何が起こったのか分かりませんでした。
体は床に投げ出され、頬にはじんじんと熱が広がり……。
ああ、叩かれたのだ。
そう理解した時、わたくしの中にあった何かが音を立てて崩れていきました。
わたくしは礼儀も忘れてその場から走り去りました。
行く当てなんてありません。ただただ、そこから逃げたかった。一人になりたかった。
◆◇◆
そうしてたどり着いたのがここ、三号館の裏にある森の先、第二図書館です。
古びていて、とても使われているようには思えない風貌。人気はなく、しんと静かで、わたくしの必要とした場所そのものでした。
入り口の石段の上には黒猫が一匹。じっとこちらを見つめた後、ふいっと視線を逸らし伏せてしまいました。
「……嫌われてしまったのかしら」
先に居たのはあの子です、わたくしは少し離れた木の根元にハンカチを敷くと腰を下ろしました。
まさかその仕草が許容の印だなんて、この時のわたくしには全く伝わりませんでした。
その黒猫は、わたくしが行くといつもそこにいて、何をするでもなくごろごろとしていました。
なんとも愛らしい姿に、少しずつ距離を縮めていきましたが、黒猫の反応は変わらず、最終的に背中を撫でても大丈夫だと分かりました。
どうやらとても賢い子らしく、わたくしの話を聞いて相槌を打ったり、そのもふもふで癒やしてくれたりします。
そして今では愚痴を聞いてもらう仲に。
「今日もまたルイーズ様達に苦情を言われてしまったの。わたくしにはどうしようもないって言ってるのに」
「にゃあ」
「ねえ聞いて?ルイフリッド様達、ついに授業に出なくなったんですって。試験の順位もどんどん落ちて、どうするつもりかしら」
「にゃにゃ」
「今日はルイフリッド様が怒鳴りに来たのだけれど、側近候補の皆さんも一緒でね。いつもよりひどかったの」
「にゃうん」
学園で注目を浴びてしまったわたくしにとって、唯一の癒やし。
とても穏やかで貴重な時間。
この時間のおかげで何とかその日その日を乗り切れた。
でも、もうだめかもしれない。




