10恐怖の跡
優しく頭を撫でられる感触に、目を覚ましました。
「あ…………目が、覚めた……?」
目の前にはエルバート様の呆然とした顔。
どうされたの?
そう聞こうと口を開きました。しかし……。
「にゃ、けほっけほっ」
喉が張り付く不快な感触に、堪らず身体を丸めて咳き込みました。
「っ!『水よ』!」
エルバート様はすぐさま水を呼び出して、わたくしを抱き上げると、口元にあてがって下さいました。
「ゆっくりでいい」
そう、気遣ってまで下さいます。
少しずつ水を飲み、喉が潤ったところで口を離しました。
「もういいのか?」
「にゃあ」
しゅうっと水の塊が消えていきます。相変わらず、綺麗な魔術でした。
ここでわたくしは自分の状況を確認いたしました。
わたくしはまだ猫のまま。ここはエルバート様の寝室です。
「よかった、目を覚まして」
エルバート様はわたくしを抱きしめて、とても嬉しそうで、どうやら心配を掛けてしまったようです。
「にゃにゃにゃ」
ごめんなさい、という気持ちを込めて鳴きました。自然と耳がぺたんと倒れます。
「…………」
エルバート様は何も言わずにわたくしを撫でて下さいます。
優しい手。こんな風に撫でられたのは、随分と久しぶりです。嬉しくて頭を擦り寄せました。
あの時、わたくしは瀕死の重傷を負ったそうです。そこへ帰りが遅いことを心配したエルバート様が探しに来て下さり、治癒をして下さったということだそうです。それから二週間以上も経っていたことには驚きました。
……思い出すと、あの時の恐怖が蘇ります。あれほど強い怒り、恨み、負の感情を向けられたことはありません。マリアさんに、わたくしは一体何をしてしまったというのでしょう。
暗い感情に淀んだ目。
憎々しげに歪んだ顔。
身体中に走る鋭い痛み。
意識が戻って数日経っても恐怖は消えず、ぶるりと身体が震えます。
「ふにゃあ!にゃああ!」
「大丈夫、大丈夫だから」
毎夜魘されるわたくしに付き添って下さるエルバート様に申し訳なく、でも側にいてくれることを嬉しく思いました。
エルバート様は学園も休み、部屋でずっとわたくしの側にいて下さります。
それは、猫であるわたくしのため。
サナリア・ケティライトのためではなく。
わたくしがサナリア・ケティライトだと知ったら、彼はどんな反応をするのでしょう。
大切なひとであるマリアさんをいじめたわたくしを、許しはしないでしょうね。勿論、そんなことはしておりませんが、殿下もエリック様もフィリップ様も、誰も信じてはくれなかったのです。
エルバート様も……。
つきり、と胸の奥が痛みます。
わたくしは……。
わたくしはいつまでこのままなのでしょう…………。
◆◇◆
剣術大会、魔術大会はケニドア学園の一大イベントだ。その名の通り、剣術と魔術で勝負をする。試合はホールの裏にある闘技場で、一対一のトーナメント形式で行われる。また、親族や騎士団、魔術師団の人間も見学に来る。ここで腕を見せれば、推薦状を貰うことが出来るため、参加者には皆、気合が入る。恋人にいいところを見せようと奮起している騎士候補生も多い。
今年も恋人にいいところを見せたい三人の男たちが燃えていた。
「今年こそは勝たせてもらうぞ、フィリップ」
「いいえ、勝つのは私です」
「ま、勝ちを譲る気はないがな」
ルイフリッド、エリック、フィリップの三人は各々の剣を手に、控室に向かった。
その途中。
「ルイ、リック、フィル!今日は頑張ってね!」
マリアが駆け寄ってきて、三人に声を掛けた。それだけで三人の顔は緩む。
「あれ?エルは?」
マリアはエルバートの姿がないことに首を傾げた。
三人はマリアが友人とは言え、他の男に意識を向けたことに眉を寄せる。
「あいつには最近会ってないんだ」
「どうして?」
「さあな。勝手にさせとけば」
フィリップが突き放したように言うと、マリアはむっとした顔をつくった。
「お友達に、そんな言い方はないんじゃないかなあ」
「わ、悪かったよ」
「よろしい」
フィリップはマリアに嫌われないように慌てて謝った。それを受けてマリアは大仰に頷いて見せ、ルイフリッドとエリックが笑っている。
一見、幸せそうな学生生活の一幕であるが、その内情はぐちゃぐちゃに歪んでいることに、どれほどの人が気付いただろう。
「マリアも、明日は魔術大会に出るんだろう?」
「頑張れよ」
「ええ!優勝しちゃうんだから!」
「私達は一番近い席で応援させて頂きますね」
「うん!じゃあね!」
マリアは応援席の方へ駆けていき、三人は控室に入る。
間もなく、試合開始の鐘がなった。




