大型犬のハグ
大型犬のハグ
千夏
夜、みんなで食事に行く。五十嵐さんが場を盛り上げるのを見ている。みんな楽しそう。上条君も、つまらない顔はしてない。
部長の話聞いて、納得いった。彼が年上の女の人を求めるのは、お母さんを求めてるわけか。でも、知っちゃったけど、これは知らないふりをしないとだめなんだろうな。
珍しく二次会まで行って、そして、部長が調子にのって上条君に飲ませすぎちゃった。お店でテーブルにつっぷして寝ちゃった。
「ごめん」
「もう」
明日からメイン。客先回るのに、つぶしてどうする。
「わたしが送ってくからいいですよ。トレーシー。部長ホテルまで送って」
「あーい」
にこにこしながら手振ってるトレーシーとみんなと分かれる。
「歩ける?しっかりして、上条君」
肩貸して歩くとき、聞いてしまった。小さい声で、彼がおかあさんとつぶやいた。
タクシーに乗せて、そのまま寝ちゃってる。そして、涙を流した。少しだけ。ちょっと驚いて、ハンカチ出して拭いといた。
困ったな、と思う。きっとわたしはこれからこの子に冷たくできない。
でも、同情って難しいよね。
同情されて、人って元気になる?
わたしは自分の家族でそんな辛い目にあったことがない。
だから、同情できても理解はできない。
***
「ほら、水飲むとかしとかないと、明日も仕事だよ」
部屋まで連れて行って、ベッドに寝かせる。
でも、そのまま寝ちゃいそう。しょうがないのかな?と思ってると、ふと立ち上がって、ふらふらとトイレへ行って、げーげー吐いてる。ああ、吐いたら、少しは大丈夫になるかな。しばらくすると静かになったので覗くと、トイレの床で寝ちゃってる。おいおいおい。
「ほら、しっかりして」
ベッドまで歩かせて、コート脱がせて、スーツの上着脱がせて、ネクタイはずす。さすがにこれ以上はやりすぎだろうと思って、放置と思ったら、酔っぱらい、抱き着いてきた。やられた。
「何?酔っぱらったふり?」
「いや。酔っぱらってます」
ぎゅうっと抱きしめて、ただ、それだけ。お互いの体が温かかった。なんか、久しぶりだな。こういうの。大きな犬に抱きしめられてるようなそんな安心感しかなかった。性的な雰囲気のないハグだった。不思議だった。あんだけ2人であーだこーだ言い合ってたのに。
たぶん、彼の育ちについて聞いてしまって、そして、あのつぶやき。お母さん。この子今、ただ、お母さんに抱きつきたいだけなんだよね。
「千夏さん、変。なんで怒んないんですか?」
「ひっぱたいたりしたほうがいいの?」
「ひっぱたかれるだろうなと思ってしたのに」
「じゃ、いたずらだったわけだ」
たっぷりお互いのぬくもりを味わった後で、身を離す。
「なんで今日は優しいんですか?」
「わたしはいつでも優しいわよ」
立ち上がって、かばん持って、玄関へ向かう。
「お水、飲んどきなさいよ。明日からが大切なんだからさ」
***
自分の家へ帰る道すがら思う。あの子はほんとはあまり酔ってなんてなくって、そして実はわたしがあの子のお母さんのこと知ってるって知ってて、それで演技でお母さんとつぶやいて泣いてみせて、そんで、あんなことをした。そうなんだろうか?
いや、たぶん違う。あれはわざとじゃない。さすがにあれは酔ってたよ。
あの時、あの子がただハグしただけじゃなく、キスしたりセックスしたりしようとしたら、わたしはどうしただろうかと思う。ひっぱたいただろうか。わからない。
同情から許してしまった気がする。
もし、そういうことで少し気持ちが楽になるのなら、1回ぐらいどうってことないのかもしれない。これまでに、お母さんを求めて再三口説いてきたのを断って、寂しそうな顔をさせてたのもあって、過分に同情的になってる。
ただ、これは恋愛ではない。そして、彼は自分を温めてくれるのなら誰でもいい。一緒に仕事する子、何もなくてよかった。今更ぞっとする。
そして、最後にこっそり思う。自分自身もまた、久々の人のぬくもりに癒されてたと。心地よかったから突き放さなかった。突き放せなかった。
***
「千夏さん。あの、すみません。昨日」
朝、会社でコーヒー淹れてると、上条君謝ってきた。
「あ、覚えてるんだ」
「すみません」
「あのくらい、たいしたことない。気にしないで」
というか、君がここまで気にするとは思わなかったわ。
「ま、でもさ、孤独な30女にはああいうのこたえるから、これっきりにしてね」
尼になれなくなっちゃうわ。彼に背向けてデスクに戻りかける。
「ほんとに怒ってすぐたたかれると思ってたから」
振り向く。
「酔っぱらってたんで、すみません」
たたかれて何をしたかったんだろうね。この子。
あの安心感がまだ残ってる。男の人の腕の中ってどうして気持ちいいんだろうね。
そこまで考えてはたとおかしいと思う。
わたしおかしい。
男の人の腕の中、気持ちいいなんて思ったことなかったじゃん。なんだ?わたし、おかしい。嫌だなと思いながらいつも我慢していたじゃん。
デスクに戻って仕事しながらもしばらくもやもやする。
きっとお母さんみたいな気持ちだったからだ。だから気持ち悪くなかったんだ。そう結論づけた。
樹
3日間ぐらい部長、トレーシー、千夏さん、僕。客先まわって、新規のアニメ何本か売り込んだ。初めて自分たちがどういう仕事をしているのかわかった。
アニメの売り込み、人によってやり方が違うんだろうけど、2人はいつもまず、画像を見せた。そりゃそうだ。アニメーションは絵が命だ。それから、その話のストーリーや見どころ、日本でどれだけ売れてるか、教える。
もともと向こうにも買わない気はない。問題はいくつ買うかで、Totalの金額を見ながらあーだこーだ言ってる。向こうは最後に紹介した作品は要らないと言っている。これは原作者も新人。日本でもまだそんな人気のない話。しばらくあーだこーだ言いあっていた後に突然、
「じゃあ半額にするよ」
千夏さんが値段下げた。
「損はさせない。これはきっと人気でるよ。この人は」
先方が顔を見せあって相談した後苦笑しながら千夏さんと部長に手を伸ばした。
「千夏がそういうなら」
そういって握手している。
ちょっとすごいなと思った。千夏さんかっこいいね。
「値段下げちゃってよかったんですか?」
ん?という顔でこっち向く。
「ばかね。逆よ」
「?」
「最初に二倍にして提示してんの」
「え?」
かわいそうな子を見る目で見られた。
「基本よ、基本。全部少し大目か、絶対に売れないってものはもう極端に高くしてんのよ。だって、必ず最初の言い値で売れないんだからものなんて。それで、いいタイミングで提示額からがっと値下げすんの。わたしなんてときどきはなから売るつもりないもの入れてることもあるわよ」
そういうものなんだ。それからじっと見られた。
「あなたはうまいと思うわよ。そういうかけひき」
「なんでですか?」
彼女歩きながら、ちょっと上目づかいになりながら話を続ける。
「ほら、年上だからとか上の人だからとか、全然気にしないで言いたいことは言うじゃない。悪く言えば生意気だけどさ。そのくらいの度胸ある子じゃないとさ、かけひきなんてできないって」
嬉しかった。社会人なってから生意気って言われていつも叱られてばかりだったから。
「ねぇ、あのね。物って一生懸命作ってもさ、上手に売る人がいないとさ、お金が入ってこないのよ。するとみんなで飢えなきゃいけなくなる。だからさ、上条君も上手に物売る人になってよ。みんなのごはんのためにさ」
「みんなのごはんですか?」
「そう」
「自分のじゃなくて?」
「他の人だって得意なことで役立ってんのよ。だから自分の得意なことは磨かないと」
そこまで言うと行ってしまった。
***
母は本当にすてきな人だった。頭もよかった。
まだ僕が小さい頃、小学校に上がる前、母は父と離婚した。大きくなってから知ったことだけど、激しい気性だった母は、父からの養育費や生活費の援助を断ったらしい。それでも僕にみじめな生活はさせないと、必死に働いた。
母子家庭の子だからと言われないようにしなさいとそりゃ厳しく育てられて、特に勉強は手を抜くことは許されなかった。成績がいいと母は喜んで、だから一生懸命勉強した。仕事が忙しくて家事にまで手が回らない母のために、家のこともできるだけした。
それなりに幸せな生活だった。でも、ある日その生活は終わってしまった。母が突然倒れて亡くなってしまったから。脳の血管が破れて、発見されるのが遅くて、大学一年生の時だった。
お葬式で母の遺影の横でぼんやりと座っていると、
「樹」
声かけてくる人がいて、
「お父さんのことわかるか?」
母が嫌がるから、口ではダメと言わないけど、でも、嫌がってるのがわかるから、僕は父とほんとに数えるほどしか会ってなかった。ほんというとこの人のこと嫌いだったわけじゃない。会えなくなったときは恋しかった。子供の頃は父と母がなぜ離婚したのかわからなかったから。大きくなって、父が母を裏切って外に女の人ができて離婚したことを知って、それからは母のために僕もやはり父を憎んだ。
「これからはお父さんがお前の面倒を見るから」
葬儀の席上でそう言われた。
迷った。とても。
母が父のことを憎んでいたので。裏切り者の父の援助で大学に通い続けるか。それとも、大学を諦めて働くか。
母はどちらを望むだろう?
一旦休学して働いてお金を貯めて、自分の力で大学へ行こうかとまで思った。思い詰めて夜中に起きて眠れなくなって、母と2人で暮らしたマンションで、来月からは家賃を払うことができない部屋で、朝日が昇って少しずつ明るくなる空をベランダから見つめてた。朝の光が見えるまで僕は本気で1人で生きていこうと思っていた。父の手を借りずに、でも勉強はちゃんとして、1人で生きていこうと思っていた。
そして朝の光を浴びて思った。勉強もする、そして、父の手も借りない。それは、その二つは僕には、その頃の僕にはとても一緒に持てなかった。
理想は、人生の敵の手を借りずに尚且つ、母の望んだようにきちんと大学を出て仕事につくこと。でも現実は、母と暮らしたマンションを引き払って、たくさんの物を、母のたくさんの物を処分して、そして、父と僕たちから父を奪った女と、2人が産み育てた兄弟と同じ屋根の下で暮らすこと。
あの苦痛に満ちた数年が、屈辱的な時間が、僕を別の人間に大きく変えた。
就職してやっと1人で生きることができるようになっても、僕はもとの僕には戻らなかった。そして、そのくらいの頃から、年上の女の人を見ると片っ端から声をかけるようになった。
***
一通り客先回った後、最終日にまとめの会議。
「これから売れていきそうな作品、入れていきたいです。もう少し」
「でも、字幕入れるのにコストかかるからな」
「じゃあ、こちらで訳すとこまでしたら、加工のほうはお願いできますか?」
部長がぎろっとにらむ。
「部分をちょっとやるのと全部やるのは違う。結構テクニックいるんだぞ。あれ」
「スティーブだったらできますよ」
「どんだけスティーブの仕事量増やす気だよ。売上増えても人増やせるほどには増えてないぞ」
「僕も手伝います」
部長がこっち見た。
「その、字幕はできないけど、スティーブの仕事手伝います。時間とれるように」
困った顔した。部長。
「部長、どんどん新しいもの投入して、裾野広げていかないと、来年、再来年がきついです」
千夏さんが言う。
「あー、もうわかった。日本戻ってから相談するよ」
ミーティングが終わってから、スティーブに言われた。
「樹、ありがとう」
少しだけ微笑んでた。ふと思う。ロス来てからまともに口きいたの初めてだったかも。