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03.First Forget(PartA)








「想いは言わねば伝わらない。しかし伝えるたびに劣化する。故にコミュニケーションとは至難の業だ。我々が普段コミュニケーションと呼ぶそれは、大抵、緊張と衝突を避けるための社会的行為でしかない」




















 地震兵器。

 コールドスリープ。

 フリーメイソン。

 “怪人”ハンドレッド――。

 「――やっぱり、ないな」

 出てきた文字列を目で追い、俺は画面を閉じる。昔懐かしいデザインの胡散臭(ウサンクサ)いウェブサイト。都市伝説をでかでかと銘打ったそれに、探していたものは遂になかった。

 「……はぁ」

 黒の背景に、赤色の文字は目に悪い。

 俺は携帯をテーブルへ置くと、疲労感を訴える目に指を押し当てた。

 視界を遮ると、それまでは気にならなかった環境音――男女の喧噪が鮮明となる。そろそろ二限の終わる頃合いだ。続々とトレーを持った人が増え始めている。

 俺も自分の昼飯に向き合う。小さなスペースに区切られたお皿に、ちょっとした料理が細々と並ぶ、いわゆるランチプレートというヤツだ。

 俺の中では大学の学食と言えば味の薄いうどん、かと言って油の濃すぎる揚げ物、あるいはキムチ丼大盛りご飯抜きで――などというイメージが先行していたわけだが、事実は果たしてそうではなかった。

 何を食べても少しだけ物足りないレベルで、物語にいるような()()のいいおばちゃんもいない。(フタ)を開ければ、現実はいつもどこか無菌室の中のよう。

 俺はスプーンを謎の豆料理へと走らせる。そこへ声がかけられた。

 「……あ、いたいた。相席いい?」

 「……ん?」

 辛めに味付けのされた豆を飲み下して、声のした方を見る。

 黒と金。

 馴染みの顔が二つ、そこには並んでいた。

 「なんだ、加藤とヘレナか。いいぞ。空いてるし、適当に座れ」

 「はーい」

 「何様だ、ヨウヘイは。……しかし、助かる」

 二人は俺の正面へ腰かけた。

 瞬間――目の前に、小山が鎮座する。

 「……相変わらずよく食うな、加藤」

 「そうかなぁ?」

 加藤はとぼけたような声を出す。

 「そうだよ。見てて胃もたれしてくるぞ、それ……」

 加藤の昼食は、メニューの写真から明らかに逸脱した質量のカツ丼だった。普段であれば目にかかる機会もない大きさの丼に、溢れんばかりの米が盛られ、更にその上に数多くのカツ、とろみのある卵餡、刻みノリがかけられている。

 常人の何人前かも知れない量の飯を、しかし加藤は涼しい顔で食べ進めていく。

 「うむ……ホノカは食べ過ぎだ。少し、健康を気にかけた方がいい」

 傍らのヘレナが、腕組みをしながら苦言を呈する。

 そんな彼女の目の前にあるのはご飯に納豆、お味噌汁。おかずに一切れの塩鯖と、ほうれん草の白和えという和定食。

 大盛りのカツ丼に比べたら、格段に普通に思えるが、金髪碧眼、ヨーロッパ人と聞いて、大多数の日本人が真っ先に連想するだろう姿の彼女には、些かミスマッチに映るメニューだった。

 しかし彼女はそれを気にするでなく、黙々と食べ進む。当然、箸を器用に使い、塩鯖の身をほぐしながら、だ。俺よりも箸使いが巧みなまである。

 加藤とヘレナは、それぞれフルネームを加藤(カトウ)穂之香(ホノカ)、ヘレナ・フリーデリケ・ラウツェニング・フォン・リューベックと言う。二人とも俺と同じ、文学部の同級生である。

 「――そう言えばさ、私」

 加藤が思い出したように、口を開く。

 「ホノカ、口の周りに米がついている。……ほら」

 「うん。ありがと。……私、昨日、ヨウちゃんがテレビに出てたの見たよ?」

 「……今朝?」

 何を言っているんだ?

 あとヨウちゃん呼びは気恥ずかしいからやめて欲しい。

 「見間違いだろう」

 「私も見たぞ。多分、同じ番組を見ていたんじゃないか?」

 「……俺は何もしてないぞ」

 「ああ、違う違う」

 加藤は否定する。

 「ニュースに映り込んでたんだよ。ほら、こないだのさ、看板が落ちて、女性が一人亡くなった事故。現場の映像に、ヨウちゃんが映りこんでたんだよ、一瞬」

 うんうん、とヘレナが頷く。

 「ヨウちゃんは野次馬ってタイプじゃないし……バイトの帰りか何かだったの?」

 「ああ……あのときか――」

 冷汗が垂れる。

 記憶に新しい夜のこと。警察が来ないうちに逃げおおせたかと思ったが、報道に捉えられていたとは。

 まさか天使と一緒に霊魂を天に還していました――なんて言えない。言えるはずがない。

 「……まぁ、そんなようなもんだ」

 「なんだか歯切れが悪いな、ヨウヘイ」

 「……そうか?」

 「そうだね」

 誤魔化そうとするも、加藤の瞳がこちらを見据える。なまじ顔立ちが整っているだけに、迫力がある。

 「――何かしてたの?」

 「いや、映ったのはたまたまだよ、本当に。――ただ、アレだ」

 「アレって、どれ?」

 「アレは……いや、そうだ、ちょうど、駅前でエロ本を何冊も買った帰りだったから、二人には言いにくかったんだよ。男の子的に」

 「え、エロ……」

 「ふぅん?」

 加藤は首を捻る。

 変なところで(サト)いヤツだから、これで誤魔化せるかは、五分五分といったところか。

 五分五分(フィフティ・フィフティ)――成功率五十%とは、普通に考えれば分の悪い賭けに入る。強化手術であれば、誓約書にサインをしない確率だ。

 しかし。

 「……よそう、ホノカ。立ち入った話だ」

 予想通り、ヘレナが加藤を制止した。

 その顔は僅かに赤い。話をシモに振ると、大抵色々言って話を逸らしたがるところを何度も見てきたが、どうやらヘレナは相当のねんねちゃんらしかった。

 「因みにヨウちゃん、どんなジャンルのものを買ったの?」

 「ホノカァ!?」

 なんてことを訊きやがる。

 思わず水を吹き出しかけた。口元まで迫り来た水が鼻に抜け、ツンと痛む。

 「……そんなに変なこと聞いた?」

 「当たり前だろ」

 なぜ加藤は首を傾げているのだろうか。

 「大丈夫だよ、私はヨウちゃんが十二歳以下の女の子にしか反応できなくても、ずっとヨウちゃんの幼馴染だから、ね?」

 グッ、と拳を握り、加藤は力強く宣言する。

 ヘレナは、ロ、リ、ヰ、タ――などとブツブツ呟いている。

 「人をローボールヒッター呼ばわりするのはやめなさい。警察呼びますよ」

 「そうしたら捕まるのは?」

 「俺ですね、はい。つか、大体お前は俺の幼馴染じゃないし、仮にそうだったとしても装備品の感覚で外せるもんじゃねぇだろうが」

 「もう、何言ってるの。ヨウちゃんたら。相変わらず照れ屋なんだから。私のことだって、穂之香、でいいのに」

 「お前の相変わらずは何年前の話なんだよ……」

 溜息を吐く。

 彼女の言う相変わらずとは、もう十年以上も昔――死者の霊魂が見えるようになる以前のこと。

 本人曰く、俺達二人は当時、いや、小学校に入る前から仲が良かったらしく、毎日のように遊んでいたという。

 加藤が、俺を本名である葉平をもじったヨウちゃんなどと呼ぶのはその名残――いや、むしろ証拠、と言うべきかも知れない。

 何せ、俺は全く彼女のことを覚えていなかった。苗字の頭文字であるカとシで学籍番号が連番となった縁で、再び互いに互いを認知するようになったわけだが、俺の第一声は忘れもしない。

 ――『はじめまして』、だった。

 別にそれ自体はごくありふれた、平凡な言葉だった。しかし何がそんなに記憶に焼き付いたかと言えば、それを聞いた加藤が急に泣き出したということだった。――その上、同学部の学生が集まる場で、だ。

 感動の涙だったと本人は言っているが、危うく、あの日俺の大学生生活は全て崩れ去るところだった。累卵の危機だった。

 「何度でも言うが、十年経てば嫌でも人は変節するもんだ――もしかしたら、十二歳以下にしか反応できないロリペド野郎になってるかもしれない」

 「ヨウスケ……お前……」

 「目を隠すのやめろヘレナ」

 指の間から見えてんだろそれ。

 しかしいちいち芸が古いなこのドイツ人。流石風呂上りに電動マッサージ機に腰かけて瓶牛乳を飲んでそうな女子ナンバーワン(俺調べ)。多分そろそろ殿堂入り。

 「分かってると思うけど、あくまでものの例えだからな?」

 「ととと、当然ではないか、なぁホノカ?」

 「うーん」

 加藤は、ヘレナをすげなく無視する。

 「私は変わってない、……と思うけどなぁ。私も、それに、ヨウちゃんも」

 「そんなことはないだろ」

 「そうかなぁ――」

 加藤は、板ゴムのようなカツを咀嚼(ソシャク)しながら、何か考え事をしているようだった。しかしそれを飲み下すと、再び声のトーンを上げて言った。

 「ま、でもよかったよ。ヨウちゃんがデートの帰りとかじゃなくて」

 「そうだな、ホノカ。独り身同盟は永遠の(キズナ)で結ばれている」

 「私、そんな変な同盟に入ったつもりはないけどね、ヘレナ」

 「そうだぞ。俺にだって正常に恋人への願望くらいある」

 「私にないみたいな言い方はやめろ! 訴えるぞ!」

 出たな訴訟大国人(偽):B+。

 ――いや、まぁそんなことはどうでもいい。

 ただ加藤もヘレナも、機嫌を戻してくれたようで何よりだ。何となく会話があるべき場所に収まったような心地がする。

 ただ昼休みも有限なので――とは言え俺は今日、この午前中で講義が終わってしまっていたが――急いでこの辛い豆と格闘していると、いつの間にか二人で、俺を三割増しで男前にするメイクの方法論なんぞ話していた。

 もうテレビに出るつもりはないんだが。しかも俺は母親譲りで、あまり雄々しい顔立ちはしていない。方向性からして無理がある――もっとも女装も勘弁だが。

 そう言えば少し前に、舞台の化粧は土木工事に似ているなんて、演劇をしている友人が言っていたけれど、俺を三割増しでイケメンにする行為は、さながら地形を変えるレベルの大工事に違いない。顔面改造論だ。

 ――と、そんなことをつらつらと考えながら、最後に味噌汁を啜っていると、不意に携帯が鳴動した。

 ヴァイブレーションで動き回るそれを捕まえて発信者を見ると――。

 「……アレ、ヨウちゃん、着信変えた? 確か前は――」

 「あー、悪い。ちょっと出るわ」

 「構わないが、バイト先か? 昼食時に急な連絡とは、不躾極まるな」

 「まったくだ」

 言いながら俺はトレーを急いで片付け、外へ出る。周囲、そして背後を確認。

 ――誰もいないな?

 俺の話を盗み聞くような知り合いがいないことを確かめた後、発信者の顔が脳裏にありありと浮かぶほど延々鳴り続ける携帯電話の、その通話ボタンをタップした。



 「――シノガミさんは、病院はお好きですか?」

 彼女、欠格天使アザミエルこと六条薊が唐突に言い放ったその一言が、恐らくは他愛のない――他意はあるかもしれないが――雑談であると気がつくのに、俺は僅かな時間を要した。

 「……いや、あまり好きじゃないな」

 少し考え、俺は答える。

 病院に限らず、あまり死者と縁のある場所は好きじゃない。墓場にも普段はなるべく立ち寄らないし、例えば仮に地元に火葬場が出来る――なんてことになれば、全力で反対運動をするまである。

 「そうですか。……」

 彼女は押し黙る。

 会話終了。

 ……いやいや。何もないのか。

 隣の座席に腰かける、二の句を継ごうとしない彼女の横顔を、俺はまじまじと見やった。シミ一つない白い頬を、午後過ぎの弛緩した日差しが照らしている。

 服装は、いつも変わらぬ制服の上下。変わっている点と言えば足元。今日は初めて会った時とは違い、長めの、味気ないデザインのソックスを履いているくらい。

 それは気分と言うより、恐らく気温で決めているのだろう。初対面の日は風も強く、やや冷え込んでいて、彼女は色濃い黒のタイツを履いていた。

 気温や湿度に応じて着るものを変えるのは、生物の本能や服飾の意義からして極めて妥当なのだが、年頃の女子学生がそこで妥結して履物をころころと変えるのは、あまりらしくないことだ。

 生物としては正しいのに、どこか機械的な――あまり人間的ではないことに感じられる。勿論、これは多分、俺が身勝手に抱く、大袈裟な感傷なのだろうけれど。

 午後二時の急行列車の中は、他の客の姿は見えず、穏やかな沈黙だけが積もっていた。彼女は足をゆったり組んだまま、車窓から流れる景色をぼうっと眺めている。

 ……そもそも、俺と彼女が二人して電車に乗り込んでいるのは、昼食時、ひとえに彼女が電話をしてきたからである。

 曰く。

 『死の感覚が感知されました。至急来てください』

 ガチャリ。

 事前に説明をされていたとは言え、契約にも合意していたとは言え、あまりにも言葉足らずのその事務連絡に、若干――いや、相当に辟易(ヘキエキ)しながらも、俺は集合場所である部屋の最寄り駅へ赴いた。

 そして間もなくやってきた急行列車に乗り込んで――今に至る。

 行先も告げられず、もう十分になろうかという時間、ごとごとと列車に揺られ続けた計算である。

 ……これはもしかしなくとも、次に彼女が言葉を発するのは、目的地に付いた時ではなかろうか。

 一応は天使の眼として、コミュニケーション不全はまずいだろう。

 ――そう考え、俺は何となく、水を向けることにする。

 「そう言えば、結局、死の感覚……って、具体的にいったいなんなんだ?」

 彼女は、じとりとこちらを見据えてくる。列車の座席上仕方のないことだが、随分と距離が近い。

 アレ?

 話題間違えたか?

 「……前にお話したような気がしますが」

 「もう少し、段取りに沿って説明してくれないか?」

 「それですと――天使とは何か、ということから話さねばなりませんが」

 「構わない」

 どこまで行くかは知らないが、まぁ、時間はあるだろう。それにこの時間なら、誰が見ているということもない。

 そういうことなら、と彼女は切り出す。

 「物質界(ヒュレー)における人の霊魂の観測手であり、理念界(イデア)への導き手。以前、私は天使と言う存在を、そう説明したと思います」

 「あぁ」

 具体的にそれが何を意味するのかは知らないけれど。

 「しかしそれは、あくまでこの世界――物質界における我々の使命を説明したものに過ぎません。もっと言うのであれば、どちらかと言えば副業の色合いが強いものです」

 ――副業?

 と、言うことは――。

 「本業があるのか?」

 「はい」

 彼女は頷いた。

 「本来天使というのは、本来理念界で『アカシャの樹状図』の守護に務める者のことを指すのです」

 『アカシャ』――『樹状図』?

 またよく分からない単語が出てきた。

 「『アカシャの樹状図』とは理念界にある、古今東西、全ての存在の『可能性』が記された一枚の図面のことです」

 「可能性――?」

 「例えば今日シノガミさんが電車のホームに立ったとき――そこには二つの可能性がありました。すなわち電車を待つか、待たないか、ということです」

 「待つか――待たない?」

 「颯爽と電車の前へ飛び出す、そういう可能性があったわけです」

 「……そんな、馬鹿な」

 颯爽と、なんて彼女は淡々と言うけれど、それはどう言い繕ったとしても自殺だ。

 何の前触れもなくそんなことをする可能性が自分自身にあるとは思えない。

 ――いや。

 思いたくない、というのが本音だろうか。

 「はい。実際、シノガミさんから死の感覚は感知されなかったのでものの例えで済みましたが、そういう突拍子もないものから、ほんの些細な――歩くときに右足を先に出すか左足にするかというようなものまで、全ての人に可能性は存在します。そして『アカシャの樹状図』には、時間軸を超え、全ての人間の全ての『可能性』が記されているのです」

 ――時間軸を超えた、全ての人間の、全ての可能性。

 彼女の言うことが確かなら、記された可能性の総数、そしてその可能性を選択した結果――分岐の数は文字通り星の数だけ、いや、それすらもゆうに凌駕(リョウガ)するほどあることにならないか。

 その上図式化するならば、なるほど無限大の枝が複雑に絡まり合った、(ヒト)つの大木を形象するに違いない。

 だからこそ――『樹状図』か。

 それはさぞや長大で、広大で、途方も知れないものだろう。

 「でもそれと、今この世界に天使がいることと、いったいどんな関係があるんだ――そもそも死の感覚と、どう繋がってくるんだ?」

 「先程も言ったように、天使は本来、この世界にはいません。彼らは理念界において『アカシャの樹状図』を守護し、世界に大きな悪影響を及ぼす『可能性』を回避するべく活動しています」

 しかし、と彼女は言葉を継いだ。高架が連続し、俄かにその顔に影が広がった。

 「理念界にいる身では、この世界――物質界に影響を及ぼすにも限界があります。そこで天使達の長――主教天使(アークエンジェル)の権限をこの物質界の住人である人間に分与することで、物質界への干渉を容易にしようと考えました」

 それが、私達――天使と呼ばれる存在が発生した所以です。

 彼女は、そう言った。

 「そして分与された主教天使の権限の一つが、『アカシャの樹状図』に記された、物質界の直近未来における、非業の死を感知する能力。――すなわち、死の感覚を感知する権限です」

 「……なるほど」

 分かったような、分からないような。

 しかし今の説明を聞く限り、彼女もまた、死の感覚について、本質的な知識は持ち得ていないのだろう、と感じる。

 要するに昔読んだ本に載っていた内容を、ある日唐突に思い出すような――それが確実にあることしか理解のできない、そう言った感覚に近いものがあるのではなかろうか。

 「(ツタナ)い説明でしたが……お分かりになりましたか?」

 彼女は、そう言って、小首を傾げる。さらり、と髪が揺れた。

 多分無自覚なんだろうが、それはストライクゾーンが低めの方には、随分とコケティッシュに映る動作だろうと思われた。

 俺は勿論違う。健全です。全年齢です。えっちなのはよくないと思います。

 「あぁ、ま、一応はな」

 生返事をして、ひらひらと手を振る。

 ……正直なところ、俺とて理念界とやらを実感できない――信じることができていないため、その存在を前提とした彼女の話は、完全な第三者には詭弁を通り過ぎた暴論、あるいは妄想にしか聞こえないことだろう。

 ましてこの話を鵜呑みにして、天使の存在を証明できたと言い出す人がいたならば、彼女と合わせて精神病院二点セットである。まとめ売りしても入院代は変わらない。

 ただ、ストーリーラインだけなぞれば、そこいらの本屋の、ライトノベルの棚に刺さった売れていない本のあらすじにでもありそうだ。その二束三文具合が、けれど天使の存在を見て実感した身には、却って生々しく感じられた。

 「……本当に分かってますか?」

 彼女が、問い詰めてくる。

 なかなか鋭い。やはり根は聡明な娘なのだろう。特に金銭に関し、基準が吹っ飛んでいるだけで。

 例えば今こうして一緒にいるのだって、彼女は契約書を手に、契約通りの日当――一日六千円を支払いたいと強弁を張っていたものだった。

 普通、給料を払う側は少しでも払いたくないと考えるのが典型的だと思っていたが、俺と彼女の場合は、その逆だ。

 幾らなんでも女子中学生に生活費を養われるのは情けないと感じてしまう俺と、自身の課した契約に律儀な彼女。

 お互いに妥協点を見出した挙句、通学定期範囲外に行く場合の交通費を彼女が出すことで、合意が成立した。そこまで至るのにたっぷり二時間はかかったから、彼女の金銭感覚は――加えて、俺の交渉能力も――推して知るべきだろう、と思う。

 しかし本当に分かっているのかという問いには、答え辛い。生半可な答えでは納得しないだろうし――と。

 そんなことをつらつら考えていると、車内アナウンスが、間もなくこの辺りで最も大きな駅に着くと告げた。

 「まぁ、それはよしとしましょう。……ここです。降りますよ、シノガミさん」

 「おい、ちょ、袖引っ張るなっての」

 ドアが開くなり、彼女は俺の袖を引き、車外へと出た。

 ――そう言えば、結局、俺は彼女がどこへ行こうとしていたのか、尋ねるのを忘れていたことに気がついた。



 「ここですね」

 駅を出て、二十分も歩いた後のことだった。

 「これは――」

 俺は、それを仰ぎ見た。

 丘の上に建つ、一軒の建物だ。箱を組み合わせ、鉄骨で繋いだような外観に、くすんだ白を基調としていて、清潔感がありながら、どこか無機質に感じられた。

 広大な敷地は駐車場になっていて、その真ん中には、球と曲線で構成されたオブジェがある。いわゆる現代美術(コンテンポラリー・アート)というヤツか、それは抽象的で、美醜のほどは理解できないが、その大きさも相まって、存在感だけは抜群にあった。

 「――病院?」

 それは、大きな病院――この近くにある国立大学の附属病院だった。

 なるほど、病院が好きか、なんて訊かれたのはそういうことか。合点が行く。

 「死の感覚は、ここから?」

 「はい」

 そう言って、彼女は空を見上げた。

 二階か、三階か、それとも――兎に角、例の死の感覚とやらは、上階にあるようだ。未だにそれらしい霊魂は見えていないから、まだ観測された死の感覚は有効――対象者はご存命のはず。

 ――そんなことを考えていると、いつの間にか、彼女が隣から消えていた。見れば入口の脇、ちょうど、定礎とある付近に屈み込んでいて、出入りする人に怪訝な目で見られている。

 「何してんだ……?」

 「いえ、少し気になることがあったものですから――確認は終わりましたし、行きましょうか」

 彼女は立ち上がり、埃を払うと、こちらへやってくる。

 それを待って、俺達は院内へ入った。



 自動ドアが開くと、消毒液のものだろうか、独特の芳香が鼻を突いた。

 中は、随分と賑やかだ。

 待合室ともいうべき、椅子の多く並んだ場所にはたくさんの人がいて、私語に興じていたり、ワイドショーを見ていたりする。

 その誰も、制服姿の女子中学生と、男子大学生という奇矯な組み合わせには目もくれない。何せ病院というくらいだから――それも、様々な科を設置した総合病院だから、それだけ客層も様々になるのだろう。

 だから俺達なんて珍しくもないのかもしれない。入口近くにぼうっと佇む俺達に、ごろりと視線を投げかけた男性も、興味なさげにふいと視線を外し、点滴(ガードル)台を転がして、どこかへ去っていった。

 しかしこうしている分ならばともかく、実際に死の感覚の元になる人を探すのは、骨の折れることに違いない。カウンターには何人もの看護師がいて、来客一人一人に目を見張らせている。それは俺達も例外ではなくて、先程からちらちらとさりげなく視線を送っているようだった。

 「……なぁ」

 「なんでしょう?」

 「どうやって探すんだ? 多分、入院患者――だよな」

 「はい」

 彼女は平静に答える。

 入院患者に会う名目と言えば、お見舞いが最も妥当なところだろう。

 だがお見舞いをするには入院患者のことを知っていなければならない。もしお見舞いできたとしても、この病院の、いったい何人いるかも分からないその内から、たった一人の対象者を見つけることは困難だ。

 さて、どうするか――。

 腕組みをして考えていると、上着の裾が引かれる。小声で彼女が囁いた。

 「……すみません。少し待っててもらってもいいですか?」

 「いいけど……」

 どこへ?

 と聞く前に、彼女はすたすたと、迷いない足取りでカウンターへ向かいだした。

 それから看護師を一人呼びつけ、何か話をし出していた。

 距離があって、何を話しているかは分からなかったが、彼女から何事かを聞いた看護師が、弾かれたように奥へと消えた。

 代わりに、白衣を着た恰幅のいい男性の医師が表れ、彼女にしきりに頭を下げ出した。

 いったい、何が起きているんだ――?

 そう思ったのは俺だけではないらしく、周りにいた人達もどよめいている。

 すぐに彼女が戻ってくる。

 「……何したんだ?」

 「別に、私は何もしていませんよ」

 謙遜するでなく、凪いだ――凪ぎ過ぎた声音でそう言うと、これをどうぞ、と何かを俺に手渡した。

 「……」

 それは首にかけるタイプの名札入れだった。

 紐の伸びたプラスチックの入れ物の中に厚紙が入っていて、スタッフという文字列が大きなゴシック体で書かれている。

 「これを首にかけている間、私達は出入り業者として、この病院で自由に活動できます。……流石に、医師の詰所などは恐らく追い出されるでしょうが」

 「……なぁ。これって――」

 聞くべきか悩んだが、俺は、そこを指差して尋ねる。

 『スタッフ』の下。綺麗な明朝体で書かれた文字。

 ――『六条建設』。

 それはこの国の、この二十年の内に台頭した新興の建設会社の名前であり、それ故に黒い――反社会的集団との癒着や、不正な金銭授受などの噂、風聞(ゴシップ)の絶えない伏魔殿(フクマデン)の名前。

 そして、何より。

 その一致を偶然――奇遇とするには、少し都合が良過ぎる。

 いや。

 あるいは彼女にとっては、悪過ぎたのか――。

 『六条』建設と、彼女――『六条』薊の、その一致は。

 「…………」

 ほんのわずか、その硝子玉(ガラスダマ)のような瞳が曇った……ような、気がした。

 「……確かに『六条建設』は父の会社です。もっとも、本当に私は何もしていません。ただ、思い出すことがあったので」

 「思い出すこと?」

 「はい。この病院は、老朽化が進んでいたので、今から四年前に、父の会社が改装工事を請け負いました。――シノガミさん。この大学病院で四年前に起きたこと。何か、覚えはありませんか?」

 「四年前――そうか」

 それは当時、この県だけでなく、国全体で話題になったことだった。

 医療ミスと診療報酬の水増し。

 看護師の管理ミスによって薬をあべこべに患者に投与したため、二組四人の患者が亡くなった事件と、学生の実習と称し、患者に本来必要のない医療行為を行い、診療報酬を水増ししていた事実の発覚だ。

 確か当時の院長が辞職にまで追い込まれ、医療体制の腐敗が全国で論ぜられた。おかげで、昨今の病院は何でも患者に訊く。インフォームド・コンセント、と言ったろうか。

 「四年前の事件によりこの病院の権威は失墜。そこにちょうど改装の時期が重なったものですから、いっそ解体してしまえという意見も、当時の大学内ではあったそうです。しかし当時の副院長――現在の院長が、当時から親交のあった父に働きかけ、改装へ至ったと聞いています」

 「なるほど」

 彼女の父親にこの病院は大きな借りがある、ということか。確かに彼女は何もしていない――ただ父親の名を出せば、それでよかったのだろう。

 「もっとも私もそれがこの病院だとは今まで失念しておりまして――なので、確かめていたのですよ。ちょうど、入口近辺に改装工事の責任者を銘打ったプレートがあったものですから」

 さっき屈んでいたのはそのためか。

 彼女はそこまで言い切ると、渡された名札を首にかけ、階段へと向かった。

 「――さぁ、そろそろ行きましょうか。父のことは、どうだっていいでしょう。今は、死の感覚の出所を探すことが最優先です」

 「そうだな」

 俺も後続する。

 訊きたいことはまだ他にもあったが、他人の家庭の事情だし、何より、確かに優先度は低い。

 今は彼女の厚意に甘えるのが正解だろう。

 ――それは決定的な間違いでない、ということなのかもしれなかったけれど。



 階段へ四階へ上がり、ある病室の前に、彼女は立ち止まった。

 「ここです。間違いありません」

 「……」

 それは、当たり前だが、見る限り普通の病室だった。

 強いて特別な点を挙げれば、そこが個室であること。

 戸の隙間から、かすかに旋律らしきものが流れていること。

 そしてこの病室――というより、この周りに共通していること。

 彼女が躊躇なくその戸に手をかけようとする――そこへ通りかかった看護師が、怪訝(ケゲン)な視線をこちらへと向けた。

 背後から声をかけられたため、名札入れ――スタッフ証はちょうど死角になっていた。

 「あなた達、こんなところで何をしているの? 下で許可はもらったの?」

 余裕のないざらついた、乾燥した声だ。

 そこそこ可愛らしい方だが、目に隈がひどく、化粧も浮いている。疲労が窺えた。

 「――いえ。私達は」

 こういうものです。

 そう言って、彼女は振り返り、スタッフ証を示した。

 看護師の顔が強張る。僅かに逡巡(シュンジュン)し、しかし手遅れと悟ったか、舌打ちをする。

 「……アンタらが、例の、院長の。――フン。何だか知らないけど、子どものお遊びで私達の仕事をこれ以上増やさないでもらいたいものね」

 お遊びと言われ、彼女は眉を(ヒソ)める。構わず、看護師は続ける。

 「ただでさえ、この階の患者はデリケートなんだから。いらぬ火種は持ち込んで欲しくないものね」

 そう言い捨て、看護師は憤然と去っていった。後姿を見送る。

 この階――か。

 「気にしてますか?」

 ふと考えたことが、声に出ていたのか、彼女がこちらの顔を覗いていた。

 「……そりゃあな」

 気にするな、という方が無理だろう。

 一階にあった施設図を思い出す。

 施設説明では婉曲に評されていたが、この四階は終末医療を行う場所――つまり、ホスピスだった。

 階層全体も他の階とは違い、静かで、どこか陰鬱としている。西向きのよく日の当たる廊下なのに、どこか寒々しい影が落ちているようだ。薬品臭さも薄いような気がする。

 「こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、むしろこういう階で死の感覚を覚えるのは自然なことです。私達は大義があってやっていることですし、あまり気になさらない方がいいですよ」

 それだけ言うと、彼女はふいと視線を外した。ふと、馬鹿げた考えが頭を過ぎる。

 全く普段と変わらない調子だったが……もしかしたら、気を使っていたのだろうか?

 病院は確かに苦手だが、別に看護師がイヤだとかそういうことは全くない。だとしたら考え過ぎだ。

 けれど。

 俺は思い切り戸を開こうとする彼女に先んじて、それをノックした。自分で思うより、大きな音が鳴った。戸の向こうで何かが身体を縮め込ませた、そんな気配がした。

 「失礼します」

 そんな部屋の主を待たず、彼女は勢いよく戸を開いた。

 「――――!?」

 ばさり、と布団が音を立てる。

 部屋にいたのは、一人の少女だった。長く黒い髪を二つに結び、小柄な体格をしている。枕を抱え、警戒心を露わにこちらを見ていた。

 「澪標さん、ですね?」

 「――――?」

 少女――澪標さんは、こちらから視線を外そうとしない。何かあれば、即座にナースコールを押そうと言う構え。

 「我々は天使です。今日ここに来たのは実は……!?」

 そんな澪標さんにいきなり素性をまくしたてようとした彼女の口を、背後から慌てて塞ぐ。ばたばたと抵抗される。

 「馬鹿、そんなこと言って信じてもらえると思ってるのか?」

 小声で、澪標さんに聞こえないよう、耳打ちをする。

 彼女の口を離してやる。

 「しかし、それならどうすれば……?」

 「それは俺も分からない」

 「な――!?」

 彼女が絶句する。

 ……いや、方程式を解くんじゃないんだから、するべきことが必ず分かるメソッドなんてあるはずがない。

 「じゃあどうするんですか、シノガミさん!?」

 「それはこれから考えていくんだよ、まずはこう、雑談から入ってだな」

 「それでは時間が――」

 しかしいきなり天使などと言われて真に受ける人なんているはずがない。俺だってそうだった。

 なので一先ずは穏便に、理解を得るところから始めよう、と彼女を説得する。

 そこへ。

 『あの……』

 遠慮がちに、声がかかった。

 『取り敢えず、お二人とも、落ち着いたらいかがですか? ……その、看護婦さんも、もう呼びませんから』

 ほら、と澪標さんが示す。

 その手に、もうナースコールのスイッチは握られていなかった。

 代わりに両手いっぱいになるほど大きな黒い板切れ――タブレット端末があった。

 そして。

 澪標さんの声――俺達がそう認識していたものが、その端末から流れていた。



 「なるほど、そういう事情が――」

 『はい』

 一通り、澪標さん――この市内の私立高に通っていた高校二年生、澪標(ミオツクシ)汐里(シオリ)さんは話し終え、息を吐いた。

 『――ああ。こんなに話をしたの久しぶりで、私疲れちゃいました』

 それからそう言って、汐里さんは、冗談めかして手をひらひらと振り、それから入院着の上に羽織った薄い青色のカーディガンを着直した。

 彼女は、タブレット端末を使って話す。唇の代わりに指を忙しなく動かし、インストールした音声合成ソフトにメッセージを読み上げさせるのだ。

 「それはすまなかったな。この部屋、何か飲むものはあるか?」

 『棚の中にインスタント珈琲があるので、お願いできますか』

 「了解」

 「――私が淹れてきます」

 言うや、六条は席を立った。

 それを見送って、汐里さんは言う。

 『それにしても。シノガミさん――でしたっけ』

 「あー、いや。篠上な」

 汐里さんは、目を丸めた。

 『そうなんですか。すみません。六条さんがずっとそう呼んでいたものですから――』

 そこで不意に、かちゃん、と背後で何か金属質のものを取り落とす音がした。

 振り向くと、驚愕に満ちた顔で、六条がこちらのことを見ていた。

 一応、彼女にも名前は教えているはずなのだが――何度言ってもすぐに忘れている。

 『……それで、篠上さん』

 三点リーダも律儀に読ませ、汐里さんは言う。

 『私ばかり自分の話をしていることですし、篠上さんも何か話してくれませんか?』

 何か、ねぇ。

 「――我ながら恥の多い生涯を送ってきてるつもりだけども」

 くすり、と汐里さんが含み笑う。

 『別に私のように昔話でなくともいいですから。例えば、大学の話とか。大学生活って、やっぱり楽しいんですか』

 「大学が楽しいかには個人差があると思う。ま、そんなことは何事にも言えると思うけど。……やっぱり進学とか考えてるんだ?」

 『それは、まぁ』

 汐里さんはは言い淀む。手の動きが止まり、それから。

 『でもまずは声を出せるようになってからかな、って、思います』

 そう言って、紙を丸めてくしゃくしゃにするように、笑顔を作った。

 そうだね、とだけ俺は返す。

 その喉には、今もなお包帯が幾重にも重なり、巻いてある。

 汐里さんは、声を出せない。

 彼女が入院しているのは、下咽頭――喉の一番奥に、悪性の腫瘍が見つかったからだと言う。

 発見に時間がかかったため、病院を受信した際にはもう腫瘍は喉の、特に声帯にかけて大きく広がってしまっていて、もう声帯を切除しなければならなかったそうだ。

 それからすぐに人工の声帯を付けたそうだが、結局、今日に至るまで声は出せていない。

 何故か、まるで石でも詰まったように、声が出せないでいるそうだった。

 ――今もその喉には、痛々しく、何重も包帯が巻かれているのが見て取れた。

 「でも私も、興味はありますよ。シノガミさんのお話は」

 お盆を持った六条が、そこへ戻ってきた。盆の上のコップを、俺達に手渡す。

 「シノガミさんはブラックでよかったですよね?」

 「――ああ」

 『仲がいいんですね、お二人とも』

 汐里さんは珈琲にスティックシュガーを入れ、そんなことを言う。機械のせいで、その声音はどこまでも平坦だが、多分、感嘆の声だったろうと思う。

 ただ勘違いして欲しくなかったが、俺は、本当は、カフェオレのほうが好きなのだ。普段部屋で飲むときにミルクや砂糖代をケチって、ブラックで飲んでいるだけなのである。六条はその辺りを勘違いしているだけだ。――もっとも、ブラックも別に嫌いなわけではないけれど。

 そして。

 「お付き合いが長いだけですよ」

 平然と、ブラックを飲みつつ、六条が汐里さんの言葉にそう返した。

 瞬間、汐里さんは口に含んでいた珈琲を吹き出した。タブレットを慌てて取る。

 『お、お付k合いですか』

 「はい」

 信じられない、と言った目で、汐里さんは交互にこちらを見やった。

 「一応言っておくけど、別に変な意味じゃないからな? 単に――」

 「単にボランティア――病院慰問のボランティアとして一緒にいた歴が長いと、そう言いたいのですね、シノガミさん」

 「あ、あぁ。そうだよ」

 何だか棘のある言い方だ――そんなに、ボランティアという言い方が気に食わなかったのだろうか。

 咄嗟に思い付いた割に、六条が聖霊院の――カトリック系の学校の生徒であるということからも説得力の生まれる、なかなかの理由付けだと思ったのだが。

 乙女心とは複雑怪奇だ。解き明かせばいいというものではない、謎のままであることに意義のあるものだと思うけれども。

 俺は苦いだけで、風味のしない黒い水を啜る。

 「ただ俺の話か……あまり、パッとしないというか、女子中高生が聞いて楽しめるようなものでもないと思うんだが」

 正直、昔の話は人に――特に、汐里さんに話せるものではないし、最近の話は多分面白みがない。

 だが二人が何だか傾聴しているようだったので、灰色の日常から、少しでも色味のある内容を思い出そうとする――。

 ――その時。

 不意に、ドアをノックする音が聞こえた。そしてそこに。

 「澪標、俺だ。来たぞ。CDも、ちゃんと持ってきた」

 そんな声が聞こえ、すぐに乱暴にドアが開かれた。



 「ヌマ。何、早退するの?」

 昼休み。

 俺――ヌマこと、沼淵(ヌマフチ)斜彦(ハスヒコ)がせこせこと教科書や辞典、携帯ゲーム機なんかをリュックへ詰め込んでいると、俺の席の前に立った奴が、そんなことを言った。咎めるような口調だった。

 「そうだよ」

 手を止めず、顔も上げず、短くそう返す。

 「ふーん」

 俺としては、さっさと会話を切り上げ――本音としては、成立もさせたくなかったのだが――席に戻って欲しかった。

 だがそいつは、その意に反する。

 「いいの? 五限、数学でしょ? ヌマ、内申やばいんじゃないの?」

 手が止まる。

 数学教諭の仏頂面を思い出す。手心などという単語、期待するだけ無駄だろう。

 「……心配性だな、お前は」

 「ばーか」

 俺が顔を上げるとそいつ――有留(アリドメ)朱音(アカネ)は、舌を出した。手を腰につけている。むかつくほどに、その動作は似合っていた。

 「あたしは何も心配してない。ただ、自分のせいであんたが留年とかなったら、あんたよりも汐里のほうが気にするから」

 ……。

 多分、俺は今、苦虫を噛み潰したような顔になっただろう、と思う。

 全てお見通しか。それも当たり前のことであるが――。

 極力平静を保つように、言う。

 「……澪標は関係ない」

 「あら、違ったの?」

 有留は大袈裟に驚いてみせた。

 ご慧眼の通り、確かに俺の手の中には、これから澪標に貸す予定のCDがあった。

 だがそれこそ、澪標のためには隠しておかねばならないことだった。

 だから。

 「駅前のゲーセンに行くんだよ」

 俺は急いでそれをしまい、そう嘘を吐いた。

 実際に行くつもりではあったから、厳密に嘘とも言い切れない。

 勿論、それも澪標に会ってからのことだったけれど。

 「補導されるわよ? 最近、うるさいし」

 朱音は、諭すように言う。

 祖父母と住んでいるらしく、朱音はたまに異様に説教臭くなる。そこが俺は少し苦手だった。多分、朱音もそれは感じ取っていただろう。

 「へ、いいんだよ。俺は老け顔だからな」

 俺はそう嘯いて、リュックのファスナーを閉めた。HFを図案化したマークの大きく印字された、学生には非常にポピュラーな――ありがちなモデルである。

 まだ机の中には電子辞書などもあったが、俺はその紐ををひょいと左肩に通して、片方だけ背負って立つ。

 何かまた言われると思ったが、有留は何も言わず、渋い表情を作り、溜息を吐いた。

 「……難しいわねぇ」

 「何がだよ」

 「アンタには関係ないことよ」

 「そうかい」

 この流れで俺に関係ないということが果たしてあり得るのか疑問だったが――しかし、邪魔をされないのはこれ幸いだった。

 「じゃあな、有留。また明日」

 「あーはいはい。勝手に行きなさいな。汐里によろしく言っといてよ」

 最後の言葉は、聞かなかったことにした。



 学校を出て、およそ一時間後。

 駅の近くの、知り合いが経営する花屋で大きな花束を買い、俺は澪標の入院する病院へと来ていた。

 警察とはすれ違わなかったけれど、制服の上にパーカーを羽織っていたし、仮にすれ違っていたとしても遠目では分からなかったことだろう。

 ただ一度、危なかったことがあるとすれば、それは花屋で花束を買った時だった――。

 いつものように硝子戸を開くと、いつもと勝手の違うことがあった。

 普段、平日にはほとんどいない客の姿が、珍しいことに、あったのだ。

 「こんにちはー……」

 俺も、戸の向こうからそれは見えていたから、終わるまでは待とうと思っていた。

 しかし店長と何かを相談していた男性が目敏く俺の姿を見つけたようで、声をかけてきた。

 「……おや、店長。お客様だよ」

 その声は低く、落ち着いていた。モノトーンの服装や、オールバックに撫でつけた髪型と合わせ、大人の雰囲気をぷんぷんに醸し出していた。

 「ん? おお、斜彦か。なんだ、いつものか?」

 「あ、はい」

 バンダナを頭に巻いた店長がカウンターから出て来る。

 「――斜彦? 店長、お知り合いですか?」

 「おお。そうだよ。斜彦の親父さんとちょっと親しくてな――まぁ、少し待っててくれ」

 言うや、店長は花を大量に飾る一角へ向かった。いつものように、花束を作ってくれるのだろう。大体、五から十分程度はかかる。それまでは、手持ち無沙汰だ――それは目の前のお客さんも同様だったようで、ふと、俺へ話しかけてくる。

 「斜彦君、君は、ここにはよく来るのか?」

 「へ? えぇ、まあ、最近は」

 「最近? ――ふむ、何かあったのか?」

 じろり、とこちらを見てくる。

 その視線は、服の向こうまで見透かされているかのように鋭い。

 「……ちょっと、知り合いが入院していて」

 「なるほど」

 「はい。ちょっとした病気で。花が好きな奴なんですけど、小遣いじゃ買い続けるの大変だって言ったら、親父がここを紹介してくれたんです」

 「そうか――」

 お客さんは目を細めた。

 「――いや、なかなか見上げたことじゃないか。もしかして、その知り合いとやらは、君のこれか?」

 言って、お客さんは小指を立てた。

 随分と古臭いジェスチュアだったから、意味を察するのに少し時間がかかってしまった。

 「……違いますよ」

 「それは失敬」

 そう言って、くつくつとお客さんは笑った。胸ポケットから何か――多分、煙草を取り出しかけ、慌ててしまう。この店は禁煙だ。

 そしてその代わりに、名刺入れを取り出し、更にそこから小さな紙片――名刺を出して、俺へ示した。

 「そうそう。俺はこういう者だ」

 名刺を受け取って、見る。

 飾り気のない白の背景に、名前と電話番号、この人の経営しているであろう、喫茶店の名前が書いてあった。

 随分と余白の使い方が拙い。恐らく初めて作ったのだろう、と見当がついた。

 「川北さん……ですか」

 お客さん――川北さんは、そう、と頷いた。

 「今日は何か店に飾ろうと思って、相談に来ていたんだ。なかなか客足が伸びなくてね」

 「はぁ……」

 素人考えながら、店に観葉植物を飾ったところで劇的に変わるとも思えないが。

 「ま、時間はあるから、店長とゆっくり考えるさ――そうだ」

 思い出すように、川北さんは言った。

 「――にある交番は通らない方がいい」

 「……え?」

 思わず訊き返していた。

 俺の耳が確かなら、今、この近くの駐在所の名前を出していたと思うのだが――?

 「最近は警察全体もピリついてる――特に今言ったとこは、報道も多かったから、警戒の眼も厳しいぜ」

 そう言って、ぎこちなく、川北さんは片目を閉じた。ウインクのつもりらしかった。

 しかしすぐに、よくこんなことがすらすらとできるなアイツは、などと毒づいた。

 「えぇと……ありがとうございます」

 俺は素直に頭を下げた。

 どうして喫茶店の店主が警察の内情を知っているのかは定かではないけれど、それは俺の服装か何かを見抜いて言ってくれたことなのだろう――そこを通れば、間違いなく面倒なことになる、と。

 で、あれば礼はするべきだ――俺は、パーカーのファスナーを上げた。

 「はいよ、斜彦。お前も精が出るね」

 そこへ、ちょうど店長が戻ってきた。

 その手には、青を基調とした花束があった。この間あげたものも、その前も青色をベースとしたものだったけれど、要は、澪標の好きな色が青色なのだ――変に凝ったものをあげるよりは、澪標が好きだと言ったものの方が無難だと、俺は思う。

 「……ありがとう」

 俺は、そう言って、それを受け取った。

 「がんばれよ、少年」

 川北さんが言う。

 どう背伸びをしても、今の俺には出せない言葉だった。

 だから、うす――とだけ答え、それが聞こえたかどうか確かめることもせず、俺は足早に外へ出た。

 ……結局、その日、病院に着くのはいつもよりも余計に――だいたい、二十分程度多くかかってしまった。

 何せ川北さんの言う交番は、駅と病院を直線で結ぶ道路に沿って立つ――つまり最短距離を行く経路の途中にあった。

 必然、それを避けるということは迂回――遠回りを余儀なくされるということと同義だった。

 少しばかり花束が不安だったが、病院の前で見る限りでは、まだ鮮度を保っているように思えた。

 病院へ入る。

 「……?」

 何度となく――と言えるほど、常連なわけでもないが、それでも数度来た中で、これほど院内がざわついているのは初めてだった。

 いや。

 ざわついている、というよりはむしろ、浮足立っているような――。

 「……あら、沼淵くん。いらっしゃい。澪標さんのところ?」

 「どもっす」

 そこへ、声がかけられる。

 四階フロアを担当する看護師の生駒(イコマ)さんだった。夜勤明けか、疲労が顔に滲んでいた。

 「じゃ、いつものように、名簿でも書いてもらおうかな」

 「あ、はい」

 ただそれだけではないようだった。俺をカウンターへと案内する足取りはどこか揺らいでいた。

 ……普段は、そんなこと、絶対になかったと思うのだが。

 「――なんかあったんすか?」

 「……うーん」

 極力さりげなく尋ねたつもりだったが、生駒さんは、唸るように声をあげた。眉間を押さえ、しきりに首を振っている。

 「ちょっと……院長がね」

 ……?

 院長とはこの病院の最も偉い人のことだろう。あまり印象はないけれど――。

 「ううん、ま、いいわ……ほら、このリストね」

 「はい」

 慣れたもので、すらすらと書く。

 瞬く間に手続きが済み、俺は四階――澪標の病室へ行く。

 「いったい、何だったんだろうな……」

 院長のことだから、俺はもちろん、澪標にも縁遠いのだろうけれど、気になる。

 後ろ髪を引かれるというか、好奇心が頭をもたげる。

 がさり、と花束が擦れ、音を立てる。

 「いやいや……」

 そこで考えを切り替える。

 楽しい話題を思い出す。その全てを澪標と話せた試しはないものの――。

 俺は、澪標の病室の戸を叩く。

 「澪標、俺だ。来たぞ。CDも、ちゃんと持ってきた」



 戸を開いて表れたのは、青い花束を抱えた、一人の男だった。

 彼は、癖の強い髪を短く切り揃えた、そばかすの浮いた顔を怪訝げに歪め、こちらを見ていた。

 元々の目つきが鋭いのか、敵意の類をひしひしと感じる。

 「えぇと、あなたは?」

 六条が恐れ知らずに尋ねた。

 「そちらこそ誰――いや、どなたですか」

 目の前の男は、負けずに言い返した。

 「私達は――」

 六条が言いかける。

 『沼淵くん!?』

 それを、汐里さんが遮った。

 「よ、澪標。元気してたか?」

 くすり、と汐里さんは表情を崩した。

 『病院にこれ以上ないほど似合わない挨拶だね』

 「……うっせ」

 汐里さんの声に反応するように、わずかに男――沼淵の表情が緩んだように見えた。

 そして沼淵は汐里さんの下へ歩み寄って、手にしていた花束を手渡した。

 「これ、土産な。……で、結局。そちらはどなたなんだ?」

 先程までの敵意は感じられなかった。

 汐里さんがそうしないから、やめたのだろう。まるで番犬だ。

 『こちらは、病院慰問のボランティアの方。男性の方が篠上さんで、女性の方が六条さん』

 「……どうも」

 俺は、汐里さんの紹介に従って、軽く会釈をした。

 「なんだ、びっくりしたぜ。……あー。俺は沼淵だ、です。澪標の同級生……です。えぇと、篠上さんは……」

 慣れない丁寧語で、沼淵は挨拶をしてくる。

 「ん? 俺は大学生。あと、タメでいいよ。話しにくいだろ?」

 「あ……うす」

 沼淵は、小さく頭を下げた。

 その頃、六条は一抱えもある花束を持たされて、右往左往していた――随分と高そうなものだが、一介の男子高校生にしては、かなり奮発したのではないだろうか。

 「あーおい、六条、大丈夫か」

 「……花瓶、どこですか?」

 『あ、ごめんなさい。私がやりますよ』

 そう言って、汐里さんはタブレットから手を離し、花束を取ろうとする。

 「馬鹿」

 それを、寸前のところで沼淵がもぎとった。

 「澪標、お前病人だろうが。病人なら病人らしく、でかい態度でベッドに寝とけ。で、花瓶はいつもの場所でいいんだよな?」

 『……うん』

 悪態を吐きながら、沼淵は花瓶を取り出し、持ってきた花束を活けた。

 「沼淵くんは、汐里さんの同級生ってことは、同じ高校の?」

 「あー、はい。一応、クラスメートっすね」

 『部活も一緒なんですよ』

 「何部なんですか?」

 六条が訊く。

 ……そう言えば、彼女は何かしら部活動はやっているのだろうか?

 あまりイメージがない――というよりも、健全に学校生活を(イトナ)めているかが、そもそも不安だが。

 『朗読部です』

 「朗読部?」

 六条が首を傾げた。

 確かに聞き慣れない名前だった。

 「あ、おい澪標……」

 『一緒に集まって、詩や小説を朗読するんです。楽しかったですよ?』

 「へぇ……」

 六条が目を見開く。

 「私の学校で言う聖書研究会のようなものですかね。……朗読で何が得られるかは分かりませんが」

 フフ、と汐里さんは笑う。

 『何かを得る。何かに繋がる。それだけが活動の理由になるわけではないと思いますよ――ただ集まって、それだけが、活動するには十分過ぎることだってありますから』

 そう語る汐里さんは、どこかここではない遠くを見つめているようだった。

 六条は、不服そうに言葉を漏らす。

 「……そういうものですかね」

 『はい。恐らくは。それに、意外と沼淵くんは声がいいんです』

 全員の視線が集まる。

 「そうなのか?」

 「……そんなことはない、です」

 沼淵は顔を明後日の方向へ逸らせた。

 「ま、確かに通りはいいよな。アナウンサーみたいな」

 「やめてください」

 『謙遜しないでいいんだよ?』

 「澪標まで……!」

 『いや、でも、本当に沼淵くんはそういう才能があると私は思うよ。例えば声優とかさ』

 「……」

 合成音声だから、声の調子が読めないぶん、断定はできないが、恐らくは本音だろう澪標の言葉に、沼淵は沈黙する。

 「声優さん……ですか? 声がいいなら、歌手などでもいいと思うのですが」

 『フフ――』

 六条の生真面目な問いに、汐里さんは微笑んだ。

 『――沼淵くん、音痴ですから』

 「な――お前、それは言わないって約束だろ!? しかも知らない人の前で!」

 沼淵はそう言って、立ち上がった。その顔は真っ赤になっていた。

 『あれ、そうだったっけ?』

 「そうだよ――ッ!」

 そう言って、沼淵は何か言い訳がましく、叫び始めた。

 俺達の静止は聞かず、結局静かになったのは、看護師――汐里さんの病室の近くですれ違った、生駒という人の注意を聞いた後にことだった。

 汐里さんは、合成音声によるものとはいえ、からからと朗らかに笑っていた。

 ――とても六条の言う『死の気配』、非業の死を遂げる前段階にいるとは、この時、俺は思うことができないでいた。



 楽しい時間はすぐに過ぎ去る。

 俺と六条と汐里さんと、沼淵の四人で話していると、看護師が、沼淵を呼びに来た。

 いつの間にか日は傾き始め、昼から夕方へとなりつつあった。

 弛緩した――伸びきったゴムのような西日が、どろりと病室を照らしている。

 「じゃあな。澪標。また、な」

 『――うん。また』

 そう言って、看護師と共に、沼淵は病室を出た。彼は花束と、一枚のCDを置いていった。

 汐里さんは、その背中にひらひらと手を振っていた。

 それは彼が戸を閉め、完全にその姿が見えなくなるまで、足音が聞こえなくなるまで続いた。看護師と何事か会話を交わす彼の声が段々と遠ざかっていった。

 そしてついにしん、と静まり返ると同時に、汐里さんは力なくその手を下ろした。

 「……じゃ、俺達もそろそろ」

 「……」

 俺達も、それに続いて帰ろうとする――そこへ。

 『――待ってください』

 やおら、声がかかった。

 『結局、お二人はいったい何なのですか? ――なぜ、今日、私を訪れたのですか?』

 字義通り機械的な一本調子の声が、ぼけたオレンジのにじむ室内に響いた。

 俺達は顔を見合わせた。

 六条は、静かに頭を振った。

 誤魔化すのは、どうやら俺の担当だった。

 「……沼淵にも言っただろう? 俺達は病室の慰問をする――」

 フフ、と汐里さんは表情だけで笑った。

 『それは嘘ですね。もし仮にそれが本当だとしたら、私よりももっと寂しい人のところへ行くはずです。例えば、身寄りのないお年寄りの部屋とか』

 「……」

 正論だった。

 加えて言えば、一つの部屋にこうして長居をすることもあり得ないだろう。

 『それに、生駒さんがお二人を見る目――アレは、少なくとも病院の認可したボランティアを見るものではありませんでした。先程の面会時間でも言及がなかった辺り、お二人は何らかの非合法的な手段でこの部屋にいるとしか思えません――』

 「シノガミさん」

 六条が、服の裾を引いてくる。

 分かってる分かってる。

 言わんとすることは、いやでも分かる。

 「……よく見てるんだな」

 お手上げだ。

 俺はおどけて両手を上げた。

 「ま、確かに君の言う通り、俺達は概ね不審者だ。一応、病院からの許可はもらってるけどね」

 俺じゃなくて、六条が。

 それも決して穏健なものではなく、むしろ横紙破りもいいところのものではあったが――許可は許可だ。

 『そうでしたか。それは考え違いでした』

 「安心しろ。それは誰にも分からん」

 分かるはずもない。

 『で、お二人はなぜ私の病室に?』

 ――まぁ。

 やはり問題はそこだよな。

 ただ問答無用で叩き出されるようなことがないから、ある程度の信頼はある。

 ……と、思いたい限り。

 「……シノガミさん、もう、誤魔化しても無駄なのでは?」

 傍らで、六条が言う。

 西日にもろに当たっていることを差し引いても、なおその顔はどこか赤い。

 ――なぜ、少し誇らしげなんだろう。

 見れば、行儀正しく腰かけるスカートの上にあてがう手も、柔らかくグーを形作っている。さながら、餌を前にした犬のよう。

 俺をひたむきに見つめるその瞳も、西日を反射したものとは思えぬほど爛々としていた。

 ――なるほど。

 何となく、分かった部分がある。

 どうやら六条は、自分が天使であるという事実に、ある種の自負を抱いているらしい。だからこそ、自分がそうあることをひた隠しにしていた部分に対し、不満を抱いていたのだろう。

 四人で話していた時、いやに無口だったのも、その表れか。

 つまり今の彼女には、反動が現出していた。

 「仕方ないな……説明は任せる。一応、適宜フォローはしていくつもりだが」

 「……! 分かりました」

 今、この時、仮に本当に六条が犬ならば、千切れんばかりに尻尾を振っていたに違いない。

 彼女の身動ぎで、安い質感の四脚(ヨンキャク)の椅子ががたんと揺れた。

 『――――?』

 汐里さんは、小さく首を傾げた。

 俺は、そんな汐里さんに、初めて六条と会った日のことを思い出しながら伝える。

 「あー、これからする話は、多分、とても信じられないような話だと思うんだが、取り敢えず最後まで聞いて欲しい」

 汐里さんはわけが分からないよ、とでも言いたげな顔をしながら頷いた。



 「――というわけなんです」

 六条が説明し、俺が時折補足をし、全て終わった時、既に日はだいぶ傾きつつあった。

 気温が徐々に低下する中、薄青のカーディガンを着直した汐里さんは、タブレットから手を離し、沈黙を保っていた。

 その姿は、大きな影の内に沈んでいる。

 「……澪標さん?」

 六条が、やや不安げに名前を呼んだ。

 『――すみません、窓を閉めてもらえますか?』

 「あ、はい……」

 六条が、慌てて窓を閉めに立ち上がった。

 風向きが変わり、薄黄色のカーテンがはためいていたのが、窓を閉めると共に止んだ。同時に、外の音も遮られる。

 『……正直、信じがたい話でした』

 「……」

 六条は黙って、席へ戻った。

 「ま、そうだろうな、そりゃあ……六条も、あまり気にするなよ」

 「……はい」

 六条は、力なく返事をした。

 声には出さなかったが、汐里さんが瞳を丸めていた。

 「いや、君がそう思うのも仕方のない話だよ。ただ、まぁ、今言ったことはみな本当なんだ」

 『――――』

 汐里さんは、俺と六条と、交互に見やった。

 『それは、分かります』

 「本当ですか」

 六条が、身を乗り出さんばかりに驚いた。

 『私も入院生活が長いですから、嘘を吐く人は、大抵分かるようになりました。クラスメートだとか、先生だとか……私の周りのほとんどが、残念ながら嘘つきでした』

 ――そういうの、目を見れば分かるんです。

 と言って、汐里さんは笑った。

 何かを後ろ手に隠していそうな笑みだった。

 「なら俺達は、君の信用に値するのかな」

 『どうでしょう……篠上さんはどうかな』

 なんだと。

 『篠上さんは、嘘を吐くのが上手なように見えます』

 「そんなことはないさ」

 全く身に覚えのない嫌疑をかけられていた。

 六条が横目で、こちらに冷たい視線を注いでいた。元よりさほど温度の高くないものが、今は氷点下にまで冷え込んでいる。

 「シノガミさん、あまり虚偽は好ましくないかと」

 「いや、吐いてないから」

 そりゃ勿論、生まれてこのかた一回も吐いてないと言えば、それこそ嘘になるけれど。

 『うふふ、まぁ、あまりお気になさらないでください。冗談ですから』

 「……なんだよ」

 内心で、胸をなで下ろす。

 声音のせいで冗談かそうでないのか、区別が付けづらい。

 『けど、篠上さん。よく考えた設定だと思いますよ。慰問のボランティアなんて――』

 「そうか?」

 そう言われると悪い気はしない。

 『沼淵くんは完全に騙されてました』

 「……そうかな」

 『そうですよ』

 汐里さんは言う。

 『彼、根が素直ですから』

 そう言って、汐里さんは笑った。

 ……俺にはひねくれた、斜に構えたオタク気質の高校生に見えたが。

 ただ汐里さんが言うからには何かあるのだろう。彼のことを語る彼女の顔は、影にあってなお、どこか紅潮して見えた。

 「……別に、沼淵さんが騙されようが、私達としては、あなたを騙せなければ何の意味もなかったのですが」

 『そうむくれないでください。可愛らしい顔が台無しです』

 「……別にむくれてなんてないですよ。それに可愛らしくもないでしょう」

 そう言いながらも、諾々と六条は汐里さんに頭を撫でられている。

 『そんなことはないですよ? ただもう少し、気を使えばいいとは思いますが――ほら、ここも髪が跳ねていますし』

 「シノガミさん、やめるよう言ってください」

 『そうだ。すみません、篠上さん。棚に櫛と、小さな箱が入っているので取ってもらえませんか?』

 「ほいきた」

 「シノガミさん……!?」

 何となく、二人の空気ができつつあったので、汐里さんの頼みは渡りに船。琥珀(コハク)色をした櫛を渡してやると、六条は飼い主に捨てられた忠犬のような顔でこちらを見た。その長い髪が見る見る梳かれていく。

 だが口では文句を言いながら、何だかんだ抵抗せずに、六条も為すがままに任せている――みるみるうちに六条の髪から細かな癖が取れ、真っ直ぐになっていく。

 それはまるで歳の離れた、仲睦(ナカムツ)まじい姉妹のようだった。

 男、まして一人っ子の身には、正視に耐え難い――眩しい光景だ。

 最後に、ずっと口にくわえていた、箱の中身――深紅(シンク)の硝子玉をさくらんぼに見立てた髪飾りを付けて、終わり。汐里さんはぽん、と両肩を軽く(はた)く。

 『はい、できました』

 「うぅ……」

 緊張した顔の六条が唸る。

 「私、いったいどうなったんですか……?」

 『鏡が……あれ、ないですね。どうです、篠上さん』

 「どう――って」

 言葉に迷う。

 ――けれどここは素直に言うべきだろう。

 「可愛くなったんじゃないか、随分。髪を弄るだけで」

 自分で言っていて、少し照れ臭くなってくる――こんなこと、同い年の女子にも言ったことがない。頬がじわじわと熱くなってくるようだ。

 「かわ――――?」

 六条が硬直する。

 漫画であれば、その頭部から湯気が噴き出しているに違いない。

 『……ずいぶん、直球ですね?』

 「それ以外知らないんだよ。慣れてなくてな」

 『まぁ――変に着飾るよりは、よほどマシです』

 「――どうも」

 俺は、小さく手を上げる。

 実際――今の六条は、とても可愛い。

 勿論今の、とは言うけれど、それ以前がそうでなかったとは、口が裂けても言うまい。

 ただこれまではどこか大人びた――いや、背伸びをした大人っぽさというのか、そういう部分が前面に出ていたような気がする。

 ヘアアレンジも無造作なまでにシンプルで、服装もモノトーン。

 それはどこか冷たい、触れ難い――硝子匣(ガラスケース)の向こうの人形を想わせた。

 ――しかし今はどうだ。

 髪を弄って、アクセントに赤を添えただけで年齢相応の――女子中学生・六条薊が表れたようだった。

 誤解を恐れずに言うならば、天使どうこうと言うことを抜きに、それを見られただけで、ここに来た価値はあったのではないかと、そう思わされた。

 そしてそれを形容する言葉は、一番衒いのないものを選ぶのであれば可愛いと言うのが、最も適切なようだった。

 二人の光景に当てられた、というわけでもないが、歳の離れた妹がいたらこんな気持ちになるのだろうか。

 『でも確かに素材がいいので弄り甲斐はありそうですよね。どう弄っても可愛いですし』

 「ヒ――――ッ!?」

 汐里さんは瞳を輝かせる。

 それを見た六条が慌てて俺の背中へ隠れた。

 こんなに狼狽した彼女を見るのは、初めて会って以来のことだった。

 『うふふ……』

 「わ、私なんて煮ても焼いても可愛くないですよ……」

 そりゃそうだ。

 「あまりいじめてやるなよ、ただでさえこう――真面目な子なんだから」

 『分かってますよ』

 汐里さんは頭を掻く。

 おずおずと、六条が頭を出した。

 その一挙手一投足に付随し、柔らかな髪の毛が腕に触れる。

 ……少しこそばゆい。

 『……天使と言うのは、確かに、私には俄かに信じがたい話です』

 唐突に汐里さんは話し出した。

 真っ当に話していれば何かしらの兆候(シルシ)――例えば溜息だとか、抑揚だとかが標識(ディスコース)となっていたろうが、今の彼女にはそれができない。

 その分どこか、どこまでも、溝を感じる。共感ができない。

 『なので即座に、そうですか、ではお願いします、とはまさか言えないでしょう』

 「……」

 袖を引かれる感触が強くなった。

 日はますます傾き、いよいよ夜の(オモムキ)が強くなる頃合い。既に室内のそのほとんどが夜の闇に塗り潰されようとしていた。

 しかし汐里さんの動きは、まるで影絵のようによく分かる。そのほっそりとした手で、やや伸び気味の髪を撫でる。

 そして――その瞬間。

 恐らくは自動点灯(オートメーション)だったのだろう。時計が鳴ったと思ったら、俄かに病室の明かりが全て灯った。

 『――ただ、今日は久しぶりに楽しかったですよ。だから天使としてではなく』

 しばし、指が止まる。

 『次からは――友達として、来てください』

 「とも……だち」

 『ね?』

 こつん、と六条の額を、汐里さんが小突いた。

 『それは親愛の証に差し上げます。――私は、多分、もう使わないでしょうし』

 「……」

 それ、とは先程の髪飾りのことに違いなかった。暖かい白の光を浴び、鈍く赤く輝いている。

 六条は呆けたようにしばらく黙り込んでいたが――やがて恐る恐る口を開いた。

 「それって――いいことなのでしょうか」

 「いいんじゃないか? お前は確かに天使だが――それ以前に、普通の子供だ」

 ……むしろ、人と天使の違いとは何なのだろうか。

 あったとして、それは彼女自身にしか知覚のできないものかもしれない。

 「――私が子供だという点には異議を申し立てたいところですが、……その」

 『――――』

 「また来ても、いいんですね――?」

 『――勿論』

 ずっと、その言葉を待っていた汐里さんは、にこりと破顔した。


 

 思うに。

 ゲームセンターというのは、ある種異質で非現実的な空間だ。

 音と光の洪水。

 不特定多数の熱狂。

 まるで理性という(タガ)を外すための実験場のようだ。

 いつもそこから外へ一歩踏み出たとき、駅前ですら静かで、薄暗く感じられるものだから、既に時刻が夕方から夜へなりつつあると気がつくのに、少しばかり時間がかかってしまった。

 「――――クソ」

 俺――沼淵斜彦は、悪態を吐く。

 それは、溢れんばかりの人通りに紛れて消えた。

 いったい俺は何にこんなにも苛立っているのだろう。

 筐体の反応が悪く、ゲームに負けたことだろうか。

 それとも俺に勝ったヤツが、ハンドレッドなんてふざけた名を語ったことだろうか。

 それとも――。

 ――いや。

 「こんなこと……考えるだけ意味ねぇよ」

 そうは言うけれど――しかし思う。

 澪標という同級生のことを。

 基本的に温和で、少しばかりいたずらっぽいところもあるけれど、しかしやはり根は善良な――俺なんかとは、全く違う彼女のことを。

 そう。

 俺なんかとは違うのだ――見舞いの帰りにゲーセンへ立ち寄って、ひたすらに荒れるようなヤツとは全く違う。

 本来は接点を見出す方が困難な間柄だ。それが何の奇縁か出会ってしまい、仲良くなって――いずれ遠くない未来に、別れが来る。

 澪標は長くない。

 ……そして彼女は、多分、俺がそれに気付いていると言う事実を知らない。

 必死で隠していて、隠しおおせていると思っているんだと思う。

 そういうところが、抜けてると言うか――馬鹿な奴だ。

 言えば心配をかける――とか思ってるんだろうか。

 心配なんてしていないふりだってできやしない。俺はいつだって、彼女の元気な演技に付き合わねばならないのだ。

 本当に馬鹿で、傍迷惑な女だと思う。

 澪標――汐里というヤツは。

 「……そういえば」

 ふと思い出す。

 今日、彼女の病室に来ていた二人組は、いったい何者だったのだろう。

 私服姿の、大学生風の男――篠上さんと、聖霊院女子の制服を着た六条さん。

 病室の慰問ボランティアと聞いて、その時は納得してしまったが――しかしよく考えてみれば、あそこは大学病院だ。キリスト教系の学校のボランティアが容易に入れるのか、よく分からない。

 ただ仮にそうではないとして――ボランティアというのが嘘っぱちだとして、しかしそんなことにいったいどんな目的があると言うのか。

 彼女を下の名前で呼ぶほどに密接になる目的とは。

 「――いやいや」

 (カブリ)を振る。

 仕事帰りのリーマンが数人、こちらを凝視した。

 あんなでたらめに美人な()がいて、それも同伴させて、わざわざ澪標を口説きに行くなんてそんな迂遠なこと、あり得るはずがない。自分でもどうしてそんな思考になってしまったのか分からない。

 「……疲れてんのかな、俺」

 あるいは熱でもあるんじゃないのかと、手で額に触れる。

 「そこの青年、ちょっといいかな?」

 「――?」

 青年――って俺か?

 声のした方を向く。

 そこには男――だろうか。

 声から判断するに、恐らくそうなのだろうが、その頭からすっぽりと纏う服があまりにも黒く、立体感を失わせるほどなので、判然としない。

 男は『辻占』とだけ書いてある台の向こうに腰かけ、骨ばった手でこちらへひらひらと手招きをしている。

 「青年と言えば君しかいないだろう――そこのお疲れムードなリュックの君」

 「……え?」

 慌てて周りを見る。

 「な――」

 この県で、いやこの地方で最も大きな都市の中心たる駅の、その目の前の通りだと言うのに、俺の周りにはこの男以外、誰一人としていなかった――みな消滅していた。

 それどころか街頭ヴィジョンや店の明かり、ひっきりなしに走り回っていた自動車までもがない。

 一瞬にしてゴーストタウンにでもなったかのように音源を失った街は、しんと静まり返っていた。

 「アンタ――何者だ?」

 「ははは、驚いただろう? 私はうるさいのが苦手でね。少し小細工させてもらったよ」

 男は、愉快そうに笑った。

 「だが何、安心するといい。ここは君からしてみれば虚構に過ぎない」

 ――虚構?

 俺の疑問に答えず、男はマイペースに喋り倒す。

 「しかして、私が誰か、とな。さて――何者か。既に名前などあってないようなもの」

 「名前は名前だろう。戸籍にだってある」

 「戸籍? ――ああ、常人(ヒト)としての名か。そんなもの、覚えてもいないほど昔に捨ててしまったよ。今は単なる敗残兵だ。故に辻占売りとでも呼んでいただければ光栄だが――」

 男は芝居がかった仕草で、肩を竦めた。

 「ここは昔の名を拝借するとしよう。今日は怖い怖い鬼の監視の目もないことだからね――」

 「つまり、どう呼べばいいんだよ?」

 「『オーダーメイド』」

 「『注文服(オーダーメイド)』――?」

 日本人とは思えない名前だった。

 いや外国人だとしても異様だろう――況して男の言葉が本当だとしたら、この名前も偽名の可能性が高い。

 「そう。しがない辻占売りのオーダーメイドさ。もとい今日は商売道具は持ち合わせていないけれどね」

 見れば確かに男――オーダーメイドの向かう台にはそれらしい雰囲気の布こそかかっていたが、その上には何もなかった。占い師であれば水晶や(メドキ)、タロットカードなどがあって然るべき場所には何かを乗せる台座のようなものしかなかった。

 「じゃあどうして俺なんて」

 「占うためさ」

 「はい?」

 思わず聞き返していた。

 「さっきアンタ、商売道具がないって――」

 「道具なんてなくとも、占い師同士のネットワークを使い、相談者のプライバシーを知ったうえで、それを微妙に掠めたようなこと言ってやれば、占いなんて成立するものさ」

 「そんな夢も希望もないことを」

 「夢や希望を無邪気に信じるタマかい、青年。君くらいの年齢なら、薄々は気がついているはずだ――人生を良くするものは夢でも希望でも何でもなく、自分自身だということくらい」

 「…………」

 「自分を英雄(ヒーロー)にするのも、凡骨にするのも、全ては自分自身の判断であり、感情だ。主観だらけのこの世界で、運命なんて客観的なものの実存を信じるほど、馬鹿げたことはありゃしないぜ?」

 「……それは自分の否定になってるんじゃないのか?」

 「いいんだよ、私の占いは。要はアドバイスなんだから」

 「つまり?」

 「奇跡を待って口を開けるだけの愚物には現実を諭して動けと言い、そうでないものには適切な方向を示す。私は少しばかり特殊でね――人の進む方向をある程度固定できるのさ。助言という形でね」

 「……よく分からない」

 くくく、とオーダーメイドは笑った。

 「別に分かる必要もない。従うか従わないかも君次第だ。お金も取らない――要は気紛れだよ、これは」

 お得だろう? 

 と、オーダーメイドは嘯いた。

 いきなり表れ、そんなことを言われてもハイそうですか、と信じることはできないが、しかし今の異常な状況を作ったのは恐らくこの男――オーダーメイドに違いない。

 であれば仮に発言の全てが出任せ、嘘八百だとしても、何かしらのモノはあるはずだ。

 真意は読めないが――従っていれば、一先ず穏便にことは進むことだろう。

 「分からないけれど――助言がしたいなら、好きにしてください」

 「素直じゃないねぇ……好きな子の前でもそうなのかい?」

 「は――!?」

 「顔が赤いよ。図星かな?」

 「別に――澪標のことは好きでもなんでもないですよ」

 「ほーう。澪標という娘なのか。なかなか趣のある名前じゃないか」

 「――――ッ!?」

 絶句する。

 しかしその中で、昔読んだ本を思い出した。

 占い師や手品師、やり手のセールスマンなどが用いる話術。

 相手の外見を観察したり、一言二言会話をすることで相手に自らその内心を暴露させる――だが当の相手はその事実に全く気がついていないから、内心を透かし見られたと誤解してしまう、というものだ。

 『目の前の人は、自分のことに対して詳しい』ということは、今後の会話の非常に大きなアドバンテージになる――確か、コールド・リーディングと言うのだったか。

 この場合もその派生だろう。

 男子高校生なら広範に当てはまる、『想い人がいる』という事実で反応を探っていき、墓穴を掘るのを待つ。随分初歩的だが、俺はまんまと引っかかったという形。

 種が分かれば、何でもないこと。冷静にもなれる、というものだ。

 ――そもそも、別に俺は澪標に恋愛感情なんて抱いていない。……危うく痛くもない腹を探られるところだった。

 俺は深呼吸を一度した。

 「……いいから、そのアドバイスとやらをくださいよ」

 「おや、私は恋占いも専門だよ? まず消しゴムに澪標ちゃん、と下の名前をだね」

 「誰が引っかかるか! だいたいそれは占いじゃなくておまじないだ!」

 占いを肯定したいんだか否定したいんだか、どっちなんだこの人は。

 「せっかちだな――全く」

 オーダーメイドは溜息を吐く。

 そして刹那――その身に纏う雰囲気を一変させた。

 フードが取れ、顔が露わになる。

 長く伸ばした、癖の強い髪の向こう――鋼色の瞳がこちらをじっと見据えてくる。

 「ふむ……はっきりとはしないが――君は近いうち、本当に近いうちに、人生を変える転機が訪れるね」

 「転機――?」

 「そう。うまく転がれば君の周りの問題のそのほとんどが片付くような――しかし一歩間違えれば、その全てが拗れ、身の破滅を招くような、そんな転機が」

 勿論、君の好きな子、澪標ちゃんとの問題も含めて――だ。

 オーダーメイドは、そう茶化すのを忘れない。ノーコメントで。

 「少し曖昧とし過ぎていないか? それじゃ、そんなものがある、ある、と思ってビビり通すだけだ――何か、きっかけとかないのかよ?」

 「きっかけ、きっかけねぇ――」

 オーダーメイドはしばし、瞑目する。

 そして再び目を開ける。

 「女性――だな」

 「また幅広い……」

 「仕方あるまい? ――兎に角、女性には気をつけることだ。それは君の幸福の女神であり、厄災の魔女であり、あるいは愛のキューピットかもしれない――」

 まだ言うか、と言いかけて気がつく。

 オーダーメイドの姿が霞みつつあった。

 ――いや、それだけではない。

 世界が、焦点を定められなくなったかのように、徐々に揺らぎつつあった。俺の手も、道路が透けて見えるほどその存在が不確かなものとなっている。

 「ははは、何か言いたげな顔だが――残念。時間切れ、だ」

 「な、待てよ――」

 結局、言いたいことだけ言って消えていくのか。

 そう思って伸ばした手も、肘から先が揺らいで消えた。

 次第に、意識も朦朧としだし――。

 意識が消えても、頭部は消えないのだな――と、そんなどうでもいい感想を抱きながら、俺の視界は闇へ溶けた。


 

 鋭い音で意識が覚醒した。

 「ここは――!?」

 慌てて、周囲を見渡す。

 そこは、最後にいたはずの場所から、駅を挟んだ反対側にある通りにある、スクランブル交差点のど真ん中だった。

 大型の電器屋の近くにある歩行者信号が青く点滅をしている。

 鋭い音と言うのはクラクションだった――もうじきに赤になると言うのに、ど真ん中に立ち尽くしていれば、鳴らされても当然だ。

 大きなトラックが、ひっきりなしに鳴らしている。

 「あの野郎――」

 転送位置くらい、しっかりしやがれ。

 そう悪態を吐きながら、俺は青信号を逃すまいとする人の群れに紛れ、駅の方へ走った。

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