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02.Sense of Death














「人は己の知らないことしか断言はできない。だから死ぬと思って死ぬ人など、ほとんどいない」














 電車が揺れ、その拍子に窓ガラスに後頭部を打って、私は目を覚ます。

 最寄り駅を告げるアナウンスは、いつもどこか他人事(ヒトゴト)のように聞こえる。

 それは声の調子からか、はたまた、職務に忠実だからか――この路線だけで幾つも駅があり、その全てに、まるで自分のことのように打ち込むことは、物理的に不可能に違いない――分からない。あるいはもっと他の要因か、もしくはそんなものないのかもしれなかった。

 間もなく開いたドアから駅のホームへ出る。逆に電車へ乗り込む人はいない。スーツ姿の人達が数多く降車していて、その中にはOLの姿も見える。

 判を押したような黒づくめの恰好は、ちょうど夕方――夜に差し掛かろうかという中に、ずぶずぶと同化しているんじゃないかと思う。

 昔のわたしはそれをどこか嫌だと思っていた。スーツを着なくていいという理由だけで、看護婦になりたいと作文課題、将来の夢だかなんだかに書いた記憶がある。

 けれど。

 今のわたし――十四歳の新渡戸(ニトベ)杏子(キョウコ)は、そんなスーツと似たような恰好で、今日も家路に就いている。


 

 わたしの学校――聖霊院(ショウレイイン)女子学院中等部は、この県で最も大きな街の外れにある。

 ここはいわゆるお嬢様学校として、世間に認知されている。実際大会社の令嬢だとか、大地主の一人娘といった子も数多く在籍している。

 でもその反面、奨学金制度や学費免除の制度も手厚く、この県内にある私立中学では最も費用面の安価になりうる学校でもある。成績と実績さえあれば、という条件付きだが、実質タダで教育を受けることも可能だ。そんな恩恵を受ける生徒だって、この学院にはたくさんいる。

 そして何を隠そう、このわたしだって、その一人である。

 わたしは、中等部からこの学校に編入した。認められたのは絵だ。

 小学校三年生の頃。わたしは夏休みの宿題として描いた絵で大きな賞を取った。海を描いたものだったと思う。

 それから三年連続――小学校を卒業するまでずっとわたしは絵を描き続け、何かしらの賞を取り続けた。

 文部科学大臣賞だったか、総理大臣賞だったか、そんなものをもらったこともある。テレビにも出演した。

 『神童』。

 いつしか、わたしにはそんな枕詞がついていた。

 聖霊院女子学院に編入したのも、絵を続けるためだった。

 学力的には到底足りなかったものの一芸入試で合格し、学習面に関する費用のほとんどを免除してもらっている。

 寮費――学生寮の家賃こそ免除はならなかったものの、通学定期代は学校が持ってくれているため、毎日電車を乗り継いで学校へ通っている。

 果たして今日もそうだった。

 家の最寄りの駅から三駅。

 そこから本線に乗り換えまた三駅。

 この県で最も大きな街の郊外から、無料のスクールバスに乗っておよそ十五分。

 バスロータリーから長々と歩いて教室へ向かう。

 それは全くいつも通りのことで、だけれど今日に限っては、珍しいことが相次いだ。

 ――それを因果めいた一連、つまり厄日だと考えるのも自然なことだろう、とわたしは思う。


 

 「おっはー、ニトー」

 教室に入ったわたしを目敏く見つけたクラスメートが細い腕を振った。

 一瞬だけ、他の子がこちらを見て、すぐに目を逸らせた。

 ――他に、誰が来ると思ったんだろうか。

 「うん、おはよう。涼華」

 わたしはそれだけ言って、自分の席――その彼女のすぐ後ろの席へ腰かける。

 「珍しいじゃない、学校に来るなんて。体調は大丈夫なの?」

 うん、と彼女――水前寺(スイゼンジ)涼華(スズカ)は短く答え、力瘤(チカラコブ)を作る。

 もっとも、お世辞にも作れているとは思えない。工作機械が関節を曲げているようだ。

 「最近、お父さんが医者を変えてね。セカンドオピニオン、って言うの? ……とにかく、どうもその人が有能らしくて、最近じゃ、何と家にまで帰れたよ。それまでの人は何をしてたのかねぇ。はっはっは」

 「それって笑いごとなの?」

 いやに朗らかに笑い飛ばす級友に、思わずわたしは苦言を呈する。

 「病院じゃ、病気の数と治療のハイレベルさで、常におばあちゃま方が争ってるもんだよ? さながら戦場で、兵士が傷の数を争うみたいにね」

 彼女は、ニヒルに口角を上げる。

 そんな病院あるある、健康優良児たるわたしが知るはずもない。

 「それじゃ、涼華は病院じゃエターナルチャンピオンなわけだ」

 「めでたくそう、相成(アイナ)ったわけだねぇ」

 いったい何がめでたいのか分からないが、とにかく今日の彼女は体調も機嫌も、すこぶる良好なようだった。

 見ればその白い――あまりにも白すぎる頬にも、ほんの少し朱が差していた。

 わたしと違い、涼華は本物のお嬢様だ。幼年部から順当に内部進学を決めている。

 この学校では、どれだけ長く在籍しているかによって階級差――カーストのようなものがあるけれど、その観点からすれば涼華は、最高位に位置している。

 そんな彼女とわたしの付き合いは、中等部一年。編入したわたしと涼華が同じクラスになって以来のものだった。

 苗字をなぞらえたニックネーム、ニトーなどとわたしを呼ぶのは今、この学校では彼女くらいのものである。

 「けど本当に久しぶりだね、涼華。いつ以来だっけ?」

 「ん? 電話で話したのが、三日前くらいだっけ。直接会ったのは……もう覚えてないや。多分春休みくらい」

 彼女は指折り数えている。

 最後にいつ会ったかなんて、本当は手足の指を総動員しても、日数計算は難しいはずだった。

 彼女は覚えていない――あるいは覚えていてとぼけているのかも知れないけれど、わたしははっきりと、日にちまで覚えている。彼女と最後に会ったのは、病室でのことだった。

 彼女は、重病人だ。詳しい病名は知らない。本人も覚えられない、何か難しい名前の血液の病気らしい。

 それも生半可なものではない。現代医学では治療の――正確には根治の手段が未だに見つかっていない国家指定の難病、不治の病だ。

 多分、彼女は二十歳まで生きられない。どころか、中等部を卒業できるかどうかすら、現状では不透明なはずだった。

 ただ彼女は、それを全く思わせないような素振りで、わたしの背中をぶっ叩いた。

 「なんだよニトー、寂しかったのか?」

 「そんなこと――」

 ない、とは、言えなかった。

 呼吸が詰まったのだ。慌てて咳込む。

 「あ、ゴメンゴメン。加減効かなくてさ。何せ私エターナルチャンピオンだし」

 「ごめんじゃないわよ、もう……」

 デッサン道具の入ったツールケースの傍に置いていた水筒の蓋を捻り、呷る。冷たい苦みが広がって、わたしは一息吐く。

 涼華は後頭部を掻く。癖のない黒のロングヘアが、そのたびに揺れる。

 「あー、ほら。今度私描かせてやるからさ。ニトー、最近描けてないんだろ?」

 「む――」

 わたしは言葉に詰まる。

 その顔は鉛筆で描き殴るように、苦み走っていたに違いない。

 あ、やべぇ、と顔に書いてある涼華に、私は問う。

 「……誰に聞いたの?」

 「誰ってそりゃあ――」

 そこまで言いかけ、涼華は言葉を中断した。

 彼女の視線は明後日の方向を向いている。それはちょうど、わたしの背中――死角となる向き。

 振り返る。

 クラスメート、そのほぼ全員の顔がその一点に向いている。

 「……」

 後ろの戸を開け、刺々(トゲトゲ)しい雰囲気を放ちながら現れたのは、わたし達のクラスに籍を置いている一人の生徒だった。


 

 駅から出たところで携帯を開くと、メッセージアプリに、お母さんからメッセージが来ていた。

 曰く用事があるので、夕食はどこかで食べてきて、とのこと。

 ――ああ、やっぱりね。

 朝から恰好の華やかだったお母さんの姿を思い浮かべるとひどく納得が行く。また男の人にでも会いに行っているんだろう。

 わたしにもお父さんがいるわけで、古臭い言い方をするなら、お母さんのしていることは不貞に違いないんだろうけれど、それを咎める気にはならない。

 わたし達家族三人は、きっと三者三様に、互いに負い目、引け目のようなものを感じているんだと思う。

 だから家族としては半ば崩壊し、しかしながら決定的な決裂は、辛うじて免れている――繋がっている。

 その行為が、三者三様の共倒れ、己の身の破滅へ至ることを、多分共通して理解している。そのシンパシーを絆と呼ぶのは、他のあらゆる家庭に失礼なことに違いないのだろうけれど。

 ――さて。

 わたしは意識して考えを切り替える。

 夕食はどうしようかな。

 周囲を見る。

 夕方から、夜に変わろうかという時間帯。

 どんなにうらびれても駅前というだけあって、街灯は灯り、人も賑わっているけれど、この辺りは居酒屋やラーメン屋が多く、女子中学生独りで入るには、少々剣呑(ケンノン)だ。

 すぐ近くにはコンビニもあるけれど、どうせ家に帰っても誰もいない。なら、外で済ませる方が気も楽だ。

 となれば、選択肢は一つ。

 ここから少し行ったところにあるファミリーレストラン。確か株主優待券がまだ残っていたはずだ。

 わたしは帰る方向――ベッドタウンへ背を向けるようにして、歩き出した。



 駅の裏の通りは、治安がいいとは言い辛い場所だ。

 この街で十四年生きてきたが、家のある地域とこの辺りとでは、行政上の区分以外に帰属意識など共有はできない。

 怪しい店も多く、街灯もちかちかと切れかけで、出入りする人物もどこか仄暗い。

 高速道路沿いに行く都合上どうしても通らねばならないが、足元もよく見えないような場所だ。必然、足早になってしまう。

 「おい、気を付けな、嬢ちゃん」

 ドン、と肩がぶつかる。

 短く切り揃えた髪を金に染めた男性が、低い声を出した。

 もともと広くない道の端。すれ違おうとして、失敗したのだ。

 「……すみません」

 「チッ、分かればいいんだよ」

 男性は肩を怒らせ、去っていく。去り際に、そんなに怖いかよ、などと吐き捨てた。

 よほどわたしの声が震えていたのだろうか。

 かもしれない。

 建物の形に区切られた空は曇りがち。星の光も届かない暗闇が、インク壺をひっくり返したかのよう。

 振り返っても、自分の来た道を輪郭でしか理解できない。肌を撫でる風も生ぬるく、生理的な嫌悪感が否応なしに高まっていく。

 飲み込む唾液が粘っこい。

 足元の頼りない感覚に、記憶も時制を失って――唐突に、わたしは今朝のことを思い出した。

 謹慎明けのクラスメート、六条(ロクジョウ)(アザミ)が現れた朝のことを。

 「……」

 彼女――六条さんは、ビスクドールのように整った顔を(ケワ)しく(ヒソ)めたいつもの表情で、教室と廊下の境目に立っていた。

 誰一人として、言葉を発しようとしない。教室内は気温が下がったかのように、恐々とした空気が立ち込める。

 遠巻きに六条さんを眺める皆が、彼女の最後にしたこと――謹慎のきっかけとなることを未だに忘れられないでいた。

 息の詰まる沈黙が続く。

 やがて小さく、息を吐く音が聞こえた。

 「……。おはようございます」

 意外にも、口火を切ったのは六条さん本人だった。誰に向けたのかも知れないが、彼女はほんのわずか、頭を下げる。

 クラス委員の柏原(カシワバラ)さんが、弾かれたように挨拶を返し、深々とお辞儀。時代錯誤な太いお下げ髪を揺らす。

 そちらを見ようともせず、六条さんは教室へ入った。つかつかと自分の席へ歩む――と思いきや、それを素通り。

 どこへ行くのか――その答えはすぐに示された。

 六条さんは、わたしの席の、そのすぐ(ソバ)で立ち止まった。

 わたしと涼華は、呆けて彼女の顔を見上げる。冷ややかな黒の瞳が、わたしを凝視しているようだった。

 「六条さん、謹慎明け、今日……だったんだね」

 わたしは、気付けば、そんなことを言っていた。

 まるでさほど親しくもない友人に話しかけるような――あるいは、数年ぶりにあったクラスメートへの第一声のような。

 自分でも分かるくらい、その言葉は生暖かい調子だった。

 勿論、六条さんとは、そんな関係にあるわけがない。

 「はい。正確には昨日、ですが」

 六条さんは、そんなこと気にも留めないといった風情(フゼイ)で、わたしの問いに答える。

 あるいは本当に気にしていないのかもしれない。誰に対しても彼女はそんな態度を貫いている。

 それしか知らないかのように。

 「で、どうしたの、薊さん。昨日見たテレビの話でもしに来たの?」

 涼華が(ハヤ)し立てる。

 「……生憎、そういったものはほとんど観ないもので」

 なんだい、と空振りした涼華が悔しがる。

 それに、と六条さんは付け加える。

 そして。

 「私の用があるのは貴女ではありません、水前寺さん」

 そう言って、視線を改めて、こちらへと向けた。

 もしかして――いや。

 もしかしなくとも、その意味するものは明確だ。

 「――わたし?」

 わたしは、自分を指さす。

 六条さんは、小さく頷いた。

 「はい。そうですよ、新渡戸さん」

 「な――」

 ――なんで、どうして?

 そう叫びださなかったのは、ひとえにここが衆人環視の空間――教室だったからだ。

 二人きりであれば、恐らくはその胸倉に掴みかかっていたに違いない。

 それほどに、彼女から話しかけられるという事実はわたしにとって重いものだった。

 六条薊という女子生徒は、涼華と同じ本物のお嬢様――それも寮暮らしではないという、魔界の奥にいるような、S級のそれ。

 しかし彼女の立場は現状――形容のし難い場所にあった。

 「……用って、何かな。六条さん」

 わたしは、辛うじて、それだけを伝えた。

 「新渡戸さん」

 「……はい」

 「新渡戸さんには、死にそうになったりだとか、あるいは何か死にたくなるような気持ちに陥る、というようなこと、最近、心当たりはありませんでしたか?」

 彼女は、凪いだ声音でそう、問うた。



 「死にそうな……?」

 「ええ」

 私の問いに、六条さんは律儀に答える。

 ――ない。

 ……と、思う。

 少なくとも身体的な変調や危機はなかった。

 死にたいと思うようなことも二度三度――いやそれ以上にあったけれど、そのどれもが、六条さんの問う要件を満たしているとは思えない。

 だからわたしは素直に、ない、と答える。

 「そうですか……」

 六条さんは、それだけ答えて、若干不満げに、考える素振りを見せた。

 わたしは問う。

 「どうして、そんなことを訊くんですか?」

 「貴女から、死の感覚を感じ取ったからです」

 ――死の、感覚?

 「何ですか、それ」

 「近々その人が亡くなるだろうという、予感のようなものです」

 「……それって、わたしが近いうちに死ぬ、ってことですか?」

 「そうなりますね」

 六条さんは、平然と答えた。

 まるでそうなるという未来をどこかで見てきたかのようにあっさりとした口調。

 その対象が、他ならぬ自分の生命であるということに、頭の中が一瞬で熱くなる。

 なんで、どうして、そんなことが言える――?

 「ちょっと待った。いいかい、薊さん」

 そこで、わたしと六条さんの間に割って入るようにして、涼華が言う。

 「構いませんよ、水前寺さん。何か?」

 「ニトーが……杏子が死ぬと、アンタが言うなら、業腹だが、私は信じるにやぶさかじゃない」

 「――そうですか」

 「涼華、何言って……」

 わたしは声を上げかけたが、涼華がそれを横目で制止する。

 そのタイミングは完璧。

 きっとわたしなら――新渡戸杏子ならそんな反応をするだろうと、予期していたに違いない。

 それはわたしが、死を予言できるなどというオカルトを――いや、そもそもオカルトなんてもの、端から全く信じていない、と知っているが故の芸当だった。

 だからわたしは言葉を飲み込み、涼華に任せることにした。

 彼女なら成績も悪くないし、そこまで抜けたことは言わないだろう。

 それに。

 ――少なくとも、今のわたしよりは冷静だ。

 「だけどどうして杏子なんだ? 例えば、私からその、死の感覚とやらはしないのか」

 「……」

 六条さんは、瞑目(メイモク)する。

 「……貴女の死の気配は濃厚過ぎる。もし、死というものが見えるのならば――あなたは人の形をした霊魂に違いない」

 涼華が死の病に冒されていることはこのクラスでは周知の事実だ。孤立した六条さんでも知っていておかしくない。

 「じゃあ、杏子は違うのか」

 「はい」

 即答する。

 「新渡戸さんの死の気配は、まだ稀薄です。これは未だに死の未来が確定していない――未来を覆しうる、ということです」

 「なるほど。そりゃ確かに全然違う」

 あっけらかんと涼華は言う。

 「だから訊いたのね。死にそうになったり、あるいは何か死にたくなるような気持ちになるか、なんて」

 「はい。残念なことに、死ぬことは察知できても死因までは察知できないものですから」

 そこで、俄かに六条さんは瞳を伏せた。

 「……本当に、心当たりはありませんか? ほんの些細な変化でも構いません。そこにつけこまれる場合だってありますから」

 そう言って、じっと、六条さんはその黒い瞳でこちらを見据える。

 わたしは、そこから逃れるようにして視線を逸らし、辛うじて答える。

 「ない……よ」

 「……分かりました」

 六条さんは小さく溜息を吐く。

 「ないのなら、確かにないのでしょう。……考えてみれば、死とは内発的な動機によって起きるものばかりとも限らない」

 「え?」

 「ま、確かにそうだね」

 随分と回りくどく、要領を得ない言い回しだが、涼華はその意を即座に看破(カンパ)したようだった。

 「それに、最近は物騒だ。ニトーだって、ニュースくらいは見てるだろう?」

 「う、うん……?」

 実は殆ど見ていない――ニュースはおろか、テレビ番組自体、最近はあまり馴染みがないが、生返事だけは返しておく。

 「県内で相次ぐ連続殺人……ですか」

 六条さんの言葉に、ザッツライト、と涼華がなぜか英語で称賛する。

 「連続殺人……?」

 そう言えば、お父さんがそんな話を今朝していた――ような気がする。

 「でも被害者は十代後半から二十代が中心だったな。ならニトーは大丈夫か」

 「涼華。それ、どういう意味?」

 「確かに新渡戸さんの外見はどう見ても十代前半ですが――」

 「六条さんまで!?」

 よりにもよって、外見の大人びた二人に言われるとは。わたしじゃなくてこの二人がおかしいんだ。絶対に。わたしは年齢相応だ。

 「――連続殺人とまではいかずとも、例えば交通事故などもありますから、用心に越したことはないでしょう」

 「……そうね」

 つまり、交通安全。

 殺人事件に巻き込まれる――などと言うより遥かにこの県では現実的だ。

 そう考えていると、再び六条さんがわたしの名を呼んだ。

 「新渡戸さんのお住まいはどの辺りですか?」

 「へ? えぇと――」

 反射的に、わたしは最寄り駅を答えてしまう。

 それから疑問が口を突いて出た。

 「……どうして、そんなことが必要なの?」

 「死の感覚は、それが近づけば近づくほど明確になります。ですから私なら、死の訪れを先んじてお伝えすることができる」

 六条さんの口ぶりは、始終変わることがない。だけどそうやって言ったことは、わたしにとって、嫌な予感をかきたてるに足るものだった。

 遠巻きにわたし達三人の会話を立ち聞きしていたクラスメートも、考えていたことは大差ないらしく、同様に息を飲んだ。

 粘り気の強い唾液を飲み下しながら、わたしは尋ねる。

 「……どうやって伝えるの?」

 「そうですね。当然――お近くで、死の感覚が去るまで、いることになるのではないかと――」

 「お断りよ」

 言葉を最後まで待たずに、わたしは制した。

 六条さんは打たれたように顔を強張らせた。彼女の視線が初めて揺らぐ。

 その先にあるのは窓際の席。クラスメート、小田(オダ)環姫(タマキ)の座席があった。

 しかし始業も間際という時間帯、その席には主である環姫の姿はない。

 その代わりに安置されているのは花瓶。蒼く輝く硝子(ガラス)の、細くなった口から数輪の白い花が顔を出し、陽の光を浴びている。毎日水を変え、肥料もよく与えているからか、咲いて間もない頃の新鮮な美しさを未だに保っているように思えた。

 そこは小田環姫の座席――だった場所。

 過去形で、今は違う。

 誰のものでもない場所――墓か、影。

 彼女はつい先日、この校舎の屋上から転落し、この世から去っていた。

 六条さんは自分のことを天使であると吹聴している。もうそれだけで随分と痛々しい――イタい人だけれど、それだけならば、まだマシだ。

 環姫の死んだ日。彼女のいた屋上で、最後に会話を交わした人物。それが目の前にいる、六条薊その人だった。

 しかもそれだけじゃない。

 偶然、不幸な死を遂げた人物のすぐ近くに、決まって六条さんは姿を見せていて、しかも偶然、何らかの接触を試みていたという。

 その数たるや、中等部に上がって早六件。仮にわたしも数えるのなら、七件目。

 ――偶然?

 そんな偶然、あってたまるものか。

 いや。

 あるいは偶然だからこそ、一層性質(タチ)が悪いのか。

 噂によれば、聖霊院女子学院初等部の校舎が全焼した事件にも、当時初等部の生徒だった六条さんが関わっているという。

 勿論出所も不明の根も葉もない噂を鵜呑みにするつもりもないけれど、彼女はそのような噂が生まれるような存在でもある。

 自分を天使と言うけれど、六条薊という同級生はわたし達にとって異様なまでに不吉で、死に近く、血腥い――。

 ――死神。

 「あなたにそばにいて欲しい子なんて――誰もいない。誰もいないよ。六条さん」

 誰だって、死神には魅入られたくない――死にたくはない。

 わたしだってそうだし、きっと他の被害者だって――環姫だって、そうだった。

 環姫は死を望むような、あるいは望まれるような、そんな子では決してなかった。

 わたしと同じで、さほど裕福でもなかったけれど、奨学金をもらいながら、実家の手伝いをしながら、いつも明るくわたし達に振る舞っていた。

 そんな彼女が、思い悩んだ挙句に校舎から投身自殺。

 それは不自然だ。

 死神――六条薊が、何かしらの作用をしているに、違いなかった。

 「わたしは、死神なんかじゃ、ありません。ただ――」

 「ただ……なんなの?」

 自分でも客観的に分かるくらい、冷たい言葉が出た。

 彼女は、言葉に詰まった。

 わたしの視界の外では、涼華が仲裁のタイミングを図りかねている。

 涼華だって、環姫が死んで、悲しかった癖に。わたしと涼華と環姫とで、これからどう過ごしていこうかという、その半ば以上を叩き壊した彼女に、いったい何を庇い立てすると言うのだろうか。そんなことをして、何になるのか。

 六条さんは、しどろもどろになりながら、答える。

 「……ただ、小田さんを助けたくて」

 「嘘を吐くな!」

 転瞬――わたしは、六条さんの胸倉に掴みかかっていた。胸元のリボンを捻りあげ、下のシャツごと彼女の首を締めあげる。

 六条さんは、掴まれた瞬間こそ生理反射的にその身体を強張らせていたが、すぐに無抵抗に弛緩(シカン)した。まるでわたしに締めあげられるのを待っているようだった。

 そのことに、余計に腹が立った。

 気にしているのか、一丁前に。

 人を何人も殺したことを、今更気に病んでいるのか、この死神は――。

 背後では涼華と柏原さんが、わたしの静止に入っていた。けれど直接的に行使することはなく、あくまで声をかけるのみだった。

 「アンタが悪いんだ、環姫に近づいて、何を囁いたか知らないけど、アンタのせいで環姫は――」

 「ご……誤解です。私は、小田さんが亡くならないように、行動して」

 六条さんは咳込んだ。その顔はどんどん赤くなっていく。

 逆にわたしは力いっぱいに締め過ぎて、手が石膏の像かと思うほど白くなっていた。

 「でも環姫は死んだ。――アンタの目の前で!」

 わたしの声には随分と湿り気が混じり出していた。目尻が熱く、視界は揺らいでいた。

 わたしのものだった水分が目から彼女の胸元へ滴る。そこでようやく、わたしは床へ仰向きに倒れた六条さんに対しマウントポジションを取っていることに気がついた。

 六条さんの髪は木造の床に力なく放射状に広がり、黒い蓮の花を想起させた。これほどの距離で彼女の顔を見たことはなかった。死神に相応しく、その顔には何の瑕疵も見られなかった。熱っぽく湿った吐息が鼻にかかる。

 殴りつけてやろうかと拳を振りかぶると、制動がかかった。柏原さんがわたしの腕に(スガ)り付くようにしていた。あまり合理的というか、実務的な抑え方ではなかったけれど、たかが絵描きの――それももう丸一年も、たった一枚の風景画を描けていない人間を止めるには充分過ぎた。

 だから――というわけではないけれど、急に頭が冷えてしまった。どうでもよくなった、というわけではない。ただこれ以上怒りをぶつけても無為(ムイ)だと、どこかで認めてしまったのかも知れなかった。

 彼女に引かれるまま、わたしは六条さんから退(シリゾ)いた。いつの間にか先生が来ていて、後で生徒指導室へ来るよう、わたし達に言った。多分反省文に、謹慎処分でも言い渡されるのだろう。

 けれどそんなことはどうでもよかった。

 わたしは制服の乱れを直す六条さんへ向き直る。

 「……本当は、もっと早く、こうしたかった。自分の身勝手な妄想で人を振り回して不幸にして。挙句殺すような――わたしはアンタみたいなヤツ、大嫌いなんだ」

 「……」

 反論はない。

 「それに――死の感覚、だっけ? そんなの、わたしは信じないよ」

 ただ六条さんは、目を見開いて、こちらを見ていた。

 チャイムが鳴り、皆が席に着く。

 彼女もそれに倣うかと、すっかり沈黙を守るものと思った、その矢先。

 「――信じる、信じないは勝手ですし、私があなたにどう見えているのかも、私の与り知らぬところです」

 しかし、と彼女は理屈を翻した。

 「くれぐれも、お気を付けを。私は信じなくても、あなた自身を信じ、ご自愛なさってくれるのであれば――私は構いません」

 何故ならば、それが――。

 その最後の言葉は、喧噪に紛れ、消えた。

 それとは、いったい、何なのだろう。

 天使か、死神か。

 あるいは、それ以外か。

 いずれにせよ、それはわたしにとって許しがたい――不倶戴天(フグタイテン)の敵に相違なかった。



 踏み出したローファーの爪先が、何か硬いもの――小石を蹴った。

 それは擦れたような音を立て、不規則に弾み、夜の闇へ消えた。

 原色の毒々しい、背の低い看板がぺかぺかと光る通り。見覚えのない道だ。

 多分――いや、間違いなく、わたしは迷っていた。

 ……一度、道を間違えた――あるいは怪しくなったときに立ち止まり、深呼吸して、Uターンをすることさえできれば、未然に防げたイージーミスに違いない。

 けれど少なくともわたし、新渡戸杏子にとって、それ――その程度のことが、相当に難しい。今朝だって、六条さんに掴みかかってさえいなければ、謹慎処分は免れただろう。

 「ニトーがそこまで激情家だったとは知らなかったよ。寿命が縮む思いがした。もう大して残っちゃいないだろうけどね」

 そう、ニトーはわたしを励ましたけれど、それだって穿(ウガ)って考えれば、婉曲な皮肉だ。世間一般的に、絵を(タシナ)む女子中学生というのは虫も殺せぬ白皙(ハクセキ)な乙女。怒りっぽいどころか――怒り方も知らないと言うところ。

 自分がそんな類型から寸分はみ出ないような人間だとは当然思ってはいなかったけれど、ただ、ニトーに反論をするなら、自分がそこまで激情家だったなんて、他ならぬ自分――わたしが、何より全く知らなかった。

 逆に、むしろわたしは自分を常人よりも冷めている人間だとすら思っていた。実を言えば、環姫――小田環姫の葬式の時だって、わたしは、涙の一滴も流さなかったのだから。自覚、もしくは自戒を以てわたしはわたし自身を、熱しにくく冷めやすい、鈍感野郎だと判断していた。

 ……勿論、朝のわたしはそんなことにまで考えが及ぶはずもない。ニトーの賛辞だか皮肉だか、あるいはその両方だか受け取りに困る言葉を、ただ胸でトラップして、それっきりになっていた。ニトーは――ついでに六条さんも――午前中で早退してしまっていたのだった。

 ともあれ、いずれにせよ、過ぎてしまったことは戻せない。元の道も分からないし、わたしは当面――多分、一週間程度の謹慎処分。小休暇ができたとでも思って、今は今をどうにかするのが先決だ。

 ――そう考え、わたしは鞄から携帯電話を取り出した。最近買い換えたスマートフォン。スクリーンの画質が売りの、大きめの奴だ。サイズに相応しい大きな画面には、沖縄で撮った鮮やかな水面が写っている。

 ただ正直言って、小柄な、成長期をまだ迎えていないわたしには、これは少しばかり手に余る代物だった。だから地図アプリを開こうとして――。

 「――あっ」

 うっかり、取り落としてしまう――その上、その拍子に、プリインストールの懐中電灯アプリが作動。画面のそれと合わせ、立派な光源と化した携帯が、回転しながら足元を滑っていき、裏道へと向かった。

 「ちょっと……」

 わたしは慌てて携帯へ駆け寄った。携帯は裏道の半ばで停止していた。拾い上げる――。

 ――アレ?

 今、何か動くものを照らした――ような?

 違和感のした方へカメラ――懐中電灯の光を、そちらへ向ける。

 真っ白の光に道が照らされる。そこは三方を壁、建物に囲まれた、いわゆる袋小路(フクロコウジ)。近くの店が不法投棄しただろうゴミ袋が散乱し、()えた臭いを放っている。

 こんなところで動くものと言ったらゴキブリかネズミか。……いずれにせよ、あまりお近づきになりたくはない。

 しかし幸いなことに――いや、逆に全く不幸なことに、わたしの照らしたものは、どうやらそうではなかったらしい。

 光を袋小路へ照らした直後。わたしの目の前にあった、一番大きなゴミ袋が、おもむろに蠢きだした――。



 ――わたしがゴミ袋だと思ったものは、どうやらそうではなかったらしい。

 周りに同じような――ゴミ袋が多かったためそう考えてしまっただけで、どうやらそれは人影のようだった。ゴミ袋と同じような、黒く、不透明なレインコートを着ているせいで、錯誤してしまっていたのだろう。

 人影。男性か女性かは、判断がつかない。ゆっくりと動き出す――こちらへと振り返るその顔は、フードを目深に被っているせいで見えないし、背格好も男女両方に当てはまる程度。しかもレインコートのサイズは、適正より一回りも二回りも大きいようで、体型も曖昧になってしまっていた。

 「……」

 人影は、じっとわたしを見ていた。

 先程まで、こちらに背を向けていたものが振り返る形で半身になっている。

 そのため、その人影の前にあったもの――わたしから、ちょうど遮蔽(シャヘイ)になっていたものが顕わになった。

 「――――ッ!?」

 言葉にならない恐怖が全身を駆け巡る。

 それは――独りの、男性だった。

 壁にもたれるようにして座り込むスーツ姿。それは微動だにせず――しかし酔って寝ているだとか、そんなことは決してあり得ない。

 死んでいた。最大限に希望的観測を織り込んだとしても瀕死(ヒンシ)、虫の息といったところ。

 なぜならば腹部に幾つもの穴が開き、赤のワイシャツを着ているのではないかと錯覚させるほどにとめどなく血液が流れ出し、普通は見えないはずの内部構造が露わになっていたのだから。

 「あ――嘘……」

 唐突に、今朝の会話を思い出す。

 殺人。

 県内で相次ぐ――連続殺人。

 まさか、これはその現場、今まさに殺害を終えた、その瞬間に立ち会ってしまったのではないか。

 そしてそれを裏付けるように、人影がその手に――ツーリングに使うような、分厚いレザーの手袋を()めた右手に持つものがぬらりと光る。

 それは何の変哲もない包丁だ。人の、恐らくは目の前の男の血液を浴び、その輝きを粘り気の高いものとしてしまっているだけの、ただの調理器具。

 しかしそれ故に目の前の人影――連続殺人犯の異常さは明確になる。ワイシャツの前面を真っ赤に染まるには、尋常じゃない量の出血が必要なはずだ。

 腹部に何度も何か所も刃を突き立て、穿ち、抉って、傷つける――それを包丁という、ただよく切れるだけの、人を殺すには合理的であるとは言えないもので成し遂げるのだ。犯罪心理などとは程遠い我が身であれ、その秘める高い殺意と執着が(ウカガ)い知れるというものだった。

 ――いや。それどころでは、ない。

 重要なのは、今、何をすべきか。

 通報?

 否――まずは逃げるべき。 

 どこへ? 

 どこまで? 

 どうやって?

 思考が即座に巡る――そこで、人影が口を開いた。

 「……見たな?」

 「え?」

 くぐもった声は、ひどく聞き取り辛い。男女も決して定かになるものではなかった。

 「見たからには……生かしておけない」

 「は――?」

 人影は、銀の刃を(ヒラメ)かせた。アスファルトに硬い足音を鳴らしながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。

 逃げることは可能なはずだった。少なくとも背を向け一息に、一目散に逃げ出せば――たとえ追いかけてきても、()くことはできるに違いない。

 だが、わたしはまるで影を射貫かれ、縫い止められたが如く、動けないでいた。どころかツールケースを取り落としてしまっていた。がちゃり、と金具の揺れる音が鳴る。

 人影はにじり寄ってくる。逃げないといけない。けれど意に反し、わたしは微かに踵を引き、小石を蹴って砂利を踏みにじることしかできないでいる。歯の根が合わないようで、自分の与り知らぬところでカタカタと歯が震え音を立てている。

 死の感覚。

 これが――つまり、そういうことか。

 もし六条さんの言うことが仮に正しかったとするなら、今のわたしは生き残る確率の限りなく低い状況に陥っていることになる。

 勿論、悪意ある偶然という可能性だってある――むしろその方が大きいのは確かだ。

 あるいは逆に――。

 ……いずれにせよ、立証の余地がないし、あるいは仮にできたとしても、そのとき既にわたしはこの世にいないことだろう。

 すなわち――死。

 それを明確に連想したところで足腰に力が入らなくなった。思わず、その場に尻餅を突いてしまう。

 人影は包丁を逆手に持ち変え、先端をこちらへと向けた。振り下ろし、刺殺(シサツ)しようと言う構え。

 生温く、悪臭を乗せた風が吹き、人影の(マト)うレインコートがばさばさと揺れる。その向こう、こと切れた男性が、力なくずるりと倒れ伏した。壁面には、大きな刷毛(ハケ)で塗ったようにべっとりと血が付いている。

 それは多分、あと数分後のわたしの姿。本当は無駄なのだろうけれど、命乞いの一つでもしなければならない――そんなことは理解できているが、肝心の行動が全く伴わない。まるで自分の身体の所有権が、目の前の人影に奪われてしまったかのように、視線が釘付けとなり、一歩も動けないでいた。

 彼我(ヒガ)の距離、およそ五メートル。人影は、そこで包丁を上段に振り上げる。わたしの頭か、肩か、あるいは腹か。どこであれ充分に刺し穿つことの可能なエネルギーが保証される。

 万事休す。わたしは、それをただ眺めることしかできなくて――。

 瞬間。

 「――――チッ」

 人影が、その構えを解いていた。自然体の構えで、わたしを見下ろしている。

 ――いったい、何が起きたのか。

 人影はぼそりと呟く。

 「目敏(メザト)いな。見ていた際に通報したか」

 え――?

 全く身に覚えのない賛辞に、当惑する。しかし人影の言う通り、遠くから聞き覚えのある音が――サイレンが近づいてくることが聞き取れた。

 恐らくこの近く――駅前かどこかで何かあって、誰かが警察を呼んだのだ。それをこの人は、わたしの手によるものと勘違いしている。ちょうどわたしが携帯電話を手にしていたから、余計にそう感じてしまったのかもしれない。

 人影は(フトコロ)に凶器をしまう。

 そしてやおらわたしの顔面へ、その顔を急接近させた。

 息もかかる距離。心肺が凍り付くように呼吸を忘れる。

 「ああ――次はお前だ。覚えたぞ、その顔」

 「――――ッ!?」

 初めて顔を見た。

 人影はそんな事実は些事だとでも言いたげに身を翻すと、袋小路の奥へ歩み、三角飛びの要領で壁を蹴り、上方――建物の屋上へと消えた。

 完全にその姿が消え、辺りに音が消え――そこでプツン、と、わたしの中で何かが切れた。

 意味を持たない声が、ひとりでに漏れた。

 「あ。あ、あぁ、あ――」

 恐怖。殺意。死の感覚。

 その全て、それが瞬く間に立ち去った。

 しかしわたしは、へたれこんだまま、ただ(オノノ)くことしかできなかった。

 その機動は超人的――人間業を超えたものだったけれど、この時わたしを打ちのめしていたのは全く別の事柄だった。

 連続殺人犯、その人影には――顔がなかった。

 本来顔があるべき場所には何もなく、闇が顔の輪郭を形作っていた。

 まるで本当の影のようだった。

 (ニワ)かには信じられない、信じるべきでない――だけど直接見てしまったのだから、信じざるを得ない異常。

 それがわたしの心臓を鷲掴(ワシヅカ)みにし続けていた。

 「そうだ。通報。……と、取り敢えず、警察、呼ばなくちゃ――」

 震える手で、110をかける。

 無機質なコール音が聞こえる中、脳内で、伝えるべきことを、どう伝えるか整理する。

 建物に区切られた空は暗く、どろりと雲が広がっていて、(ヨウ)としてその全容は計り知れないものだった。



 「ここ……かな?」

 ――連続殺人犯と出会ってから、三日後。

 わたしはこの県で最も大きな駅の前にいた。

 駅前と言っても、電気屋のあるような通りでもその反対側でもなく、高架の走る裏通り。くすんだ色合いのビルが並ぶ場所だ。

 わたしは何度も地図アプリを見返すと、それを(カバン)へしまう。メールに記載された住所をコピー&ペーストし、地図アプリに打ち込んで、今の今まで探していたのだ。

 何せ行ったこともない場所の、それも込み入った通りにあるものだから、危うく遅刻するところだった。向こうから来て欲しいと言っておいて、もう少しやりようはなかったのかと真剣に考えてしまう。

 ――もっとも謹慎処分の身なので、こんなことでもなければ退屈のまま出歩くこともなかったわけだが。

 しかし。

 「……本当に合ってるよね?」

 思わず、わたしは呟いてしまう。

 目の前にあるのは、焦茶(コゲチャ)の木材を使った建物。ショーウィンドウにはパフェやカレーの食材サンプルが飾られていて、看板にはそっけない字体で『喫茶四○四』とだけ書いてある。それはどこからどう見ても、うらびれた喫茶店だった。

 メールに書かれた用件とは不釣り合いなような、だけど案外、その拍子抜けなところが、いやにリアルな――現実志向な気も、同時にする。

 いずれにせよ、答えが出ないのならば――。

 「――ま、いいか」

 それこそ気楽に、十円を指で弾く――コイントスでもするような心地で、わたしはその戸を押し開くことにした。

 からんからんと鈴の音が鳴る。

 入ってすぐ、階段が出迎えた。店内は半地下で、間接照明を採用しているらしく、辛うじて足元を窺える程度に薄暗い。

 有線放送か、やかましくない音量で、音楽が流れている。聞き覚えのある旋律だ。確かクロード・アシル・ドビュッシー作曲『ベルガマスク組曲』第三曲、『月の光』――だったろうか。

 見渡せば幾つかのテーブル席。カウンターの向こうにはコーヒーの用意の他に、色とりどりの瓶も見える。詳しくはないが、恐らく酒瓶(サカビン)。店の出入り口にも、営業時間は夜の十一時までとあったから、夜間はバーにでもなるのかもしれない。

 こういう店に独りで来るのは初めてだったから、足を止めて見渡してしまう。そんな、お(ノボ)りさんのようなわたしの視界に、手を振ってこちらへアピールする人の姿が見えた。

 「あぁ来た来た。おーい。こっちこっち」

 わたしを呼んでいるだろうその声には、(イササ)かの緊張感も混ざっていないようで、もしかしたら騙されているのではないかという疑念が、わたしの中で一層高まっていくのを感じた。



 「いいだろう、この店。僕達の、いわゆる御用達ってヤツなんだけどさ」

 「僕達……って、警察の、ですか?」

 「イエスイエス」

 言うや、目の前に腰かける男性は、懐から何かを取り出し、開いた。

 警察手帳だ。生まれて初めて見た。

 「申し遅れたけど、僕は由田。刑事部刑事第二課――いわゆる知能犯を専門に捜査する部署に籍を置いている。君が、新渡戸杏子ちゃん……でよかったかな」

 「はい。えぇと、由田さん」

 「あぁ、呼ぶなら下の名前――蘇芳でもいいよ? 苗字なんて堅苦しいし、君のような可愛い()に呼ばれるなら本望だ」

 「はぁ……」

 わたしの生返事にも構わず、男性刑事――由田(ヨシダ)蘇芳(スオウ)さんは、にこにこと笑顔を崩さない。

 あまり年上の男性を見たことがないので詳しいことは分からないが、この人は端正――と言うより、随分と若く見える。今のような笑顔であれば二十代前半――どころか、大学生と言われても信じてしまうだろう。

 その上、髪も茶に染めているし、スーツも黒とか紺ではなく一面の白。ネクタイだけが赤い。着方もだらしなく、警察官と言うよりもホストのようである。

 「……どうしたの、杏子ちゃん。まじまじとこっち見て」

 「あ、いえ」

 しかし流石刑事と言うべきか――わたしの視線は目敏く感知していたらしかった。他意はないが、少し気恥ずかしい。

 「由田さん――蘇芳さんは、かなりその、珍しい恰好をしているな、って。刑事さんにしては」

 「そう? そうかな?」

 蘇芳さんは、ひらりひらりと身体を揺すり、自分の服装を確認した。それで分かったが、この人は耳にピアスまでしていた。全金属の地味なデザインだったから分かりにくかったけれど。

 そこへ。

 「……そうだな、蘇芳。お前は年々派手になる」

 「えぇ~?」

 気配もなく、横に立つ人がいた。くたびれた白いワイシャツ、黒のジーンズといういで立ちから、同じく黒いエプロンを着たモノトーンの男性。エプロンには白抜きで『喫茶四○四』と印字されている。カウンターの向こうにいた、この喫茶店の店長だった。店長さんはお冷を置きながら言う。

 「そのせいで俺は何度平謝りしたことか。忘れたくとも忘れられん」

 「いやいや。その件ならここを口利きした件で忘れるって言ったじゃない。何蒸し返してんのさ」

 「蒸し返される方が悪い」

 「堅物(カタブツ)!」

 二人はわたしそっちのけで悪口を言い合っている。何となく、手持ち無沙汰に手を拭い、お冷で口を湿(シメ)す。

 「杏子ちゃんも言ってやってくれない? この人さ、ほっとくとあることないこと話し出すんだよ」

 「お前な、客を巻き込む馬鹿がどこにいる」

 「僕は客じゃないと言うのか」

 「客なら俺を店長と呼べ」

 「てーんちょー。これでいいの?」

 「貴様のような客がいるか」

 「はぁー!?」

 「えーと……」

 侃々諤々(カンカンガクガク)の二人に、辛うじて言葉を挟む。

 「お二人は、その、お知り合いなんですか?」

 二人は、顔を見合わせる。

 すぐに店長さんが溜息を吐いた。

 「……残念なことに、それ以上の関係だよ」

 「それ以上って?」

 わたしの問いに、蘇芳さんが答える。

 「僕と店長――川北(カワキタ)って言うんだけどさ、川北は、昔同じ課に勤めてた同僚なんだよ」

 「え――!?」

 二人の顔を、交互に見比べる。

 蘇芳さんと店長――川北さんが、昔の同僚?

 それって、つまり――。

 「店長さんも、昔は刑事さんだったんですか?」

 ああ、と肯定の声。

 「この馬鹿の二つ上だ。いわゆる教育係の真似事もしていたんだが……まぁ、察して欲しい」

 苦み走った声は、なるほど苦労を窺わせるものだった。

 蘇芳さんは指を一本立て、補足する。

 「元警察官の営む店ってことで、機密への理解も深いし、そもそも川北は口が堅いからね。よくこうして人と会って、あまり漏らしたくない話をしたいときに使うんだ」

 「なるほど、だから御用達なんですね」

 「その通り」

 蘇芳さんがウインク。完璧に出来る人なんて生まれて初めて見た。

 「でも、どうして店長さんは喫茶店なんて? ……あ、込み入った事情なら別にいいんですけど――」

 「ああ、大丈夫。別に大した事情でもないから」

 店長さんは、わたしの不躾(ブシツケ)な問いに、そう笑って答えた。

 「俺も昔は警察官だったが、膝に鉛弾(ナマリダマ)を受けてしまってな。走れなくなったし、それに人を疑って疑って疑い抜く……こんな仕事にもちょうど嫌気(イヤケ)が差していた時期だったから、ならもうやめて、趣味の料理で食っていくか、と思ったわけだ」

 「はぁー……」

 早期退職、セカンドキャリア、というヤツか。

 わたしの二倍以上も生きた人が、更にそこから自分の職業を変えて何年も生活している事実は、全く想像もできないことだ。

 多分、我ながら間抜け面を(サラ)し、ぽかんと見上げていたに違いない――笑いながら、店長さんは、諭すような口調で言う。

 「まぁ俺の昔話なんてどうだっていいだろう。ほら、せっかく来たんだから、何か注文をしていけ。どうせ蘇芳が(オゴ)ってくれる」

 「本当ですか?」

 「まぁこれくらいならね。多分捜査費で落ちるし」

 いいのだろうか。

 店長さんが指摘しないのなら、多分、いいのか。

 「ここはカレーが美味しいんだ。杏子ちゃん、お昼ご飯は?」

 「いえ、まだです」

 「奇遇だね。僕もなんだ。ということで川北、カレー二つ。それと、僕には食後にアメリカンを。杏子ちゃんも何か飲む?」

 慌ててメニューを開く。

 「……じゃあ、紅茶。ストレートで」

 「産地は?」

 「えぇと……お任せで」

 「かしこまりました。カレーライス二つ。アメリカン一つ。紅茶のストレートを一つ。それぞれ食後に――ですね。少々お待ちください」

 伝票に二人分の注文を書くと、店長さんは(キビス)を返し、カウンターへ消えた。

 それを確認すると、どこからか蘇芳さんは手帳を取り出し、眼鏡をかけた。それだけで雰囲気が、険しいものへと一変する。

 「――さ、それじゃあ早速事件当時のこと、なるべく時系列順に沿って話してくれるかな、杏子ちゃん」

 わたしは、小さく頷いた。

 「あの日、わたしは――」



 結局、わたしの話――証言は、かなり長い時間続くことになった。

 具体的に何時間、何分というのは分からなかったけれど、注文したカレーライスが届き、その半ばを食べ終わるまで話していた。

 蘇芳さんはわたしの話を聞きながら不明な点、恐らく確認すべきであろう点に関してわたしに質問し、時折ペンを走らせ、それを書き記していた。

 「うん。丁寧にどうもありがとう。杏子ちゃんの証言は、今後の捜査の参考にさせていただきます」

 「いえ、別に構いませんけど――」

 紋切(モンキ)り型の答えに、わたしは曖昧に答える。

 「でもよかったんですか?」

 「ん? 何が?」

 「わたし、もう何人も違う人に同じこと言ってますけど」

 「あー、うん。それか」

 蘇芳さんは、手帳をしまいながらわたしの問いに答える。

 「正直なところ、君の証言はかなり貴重でね。他の課の連中と共有してないんだよ。だから僕も出張って来たんだけどさ。いわゆる縄張り意識、ってヤツ。……馬鹿らしいだろう?」

 「はぁ……」

 警察の内情なんて分からないけれど、人が多ければ当然そう言った、足の引っ張り合いが発生するというのは納得の行く話だった。例えそれが正義の府、警察内部のことであっても。

 「それに事件直後の証言というのは、感情的になって細かい部分が強調されたり、正確さを欠くこともある。ある程度冷静になってから聞く、ということに意味があったりもするんだ。もっとも感情的になる部分が、解決に必要だったりする場合もあるから、冷静になればいいってだけでもないんだけどね」

 「時間が経って記憶が曖昧(アイマイ)になったり……とか心配しないんですか」

 「それもある」

 かちゃかちゃとスプーンを鳴らし、カレーを食べながら、蘇芳さんは言う。

 「何事も一長一短だ――ある程度捜査が煮詰まってくれば、僕と他の人とで、杏子ちゃんの証言をすり合わせることもある。だから何度も聞いて申し訳ないんだけど、より確度の高い情報を得るためだから容赦して欲しい。何せ他に目撃者がいないからね」

 「それは、本当に構わないんですけど……」

 からん、とスプーンが鳴った。見れば、蘇芳さんのカレーがなくなっていた。すっかり温くなったお冷を、蘇芳さんは一気に飲み下した。

 「どうしたの、何か言いたげだけどさ。パフェでも頼む?」

 「いえ、パフェは別に」

 自分のカレー皿へ目を落とす。

 値段の割にライスの量が多く、小柄な女子中学生では完食は難しいだろう。追加でパフェなんて食べる余裕なんてない。

 「……蘇芳さんは笑わないんですね」

 蘇芳さんは瞳を丸める。

 「笑う? 何を?」

 「わたし、自分の言ってることがすごく荒唐無稽だって、理解しているんですよ。人が三角飛びでビルを跳び上がった、とか」

 「でもそれは、君が確かに見たことなんだろう?」

 「はい。でも警察の人は皆、多分マトモに受け取っていませんよ。精々、興奮した夢見がちな女子中学生のうわごととしか、考えていない――」

 わたしは自分の口角が、ウインチか何かを使ったように吊り上がるのを、どこか客観的に感じる。

 それも不均衡に、不均等に――とても真っ直ぐな笑みとは言い難い、自嘲(ジチョウ)を形作っているようだ。

 多分、わたしは自分で自分の見たものを未だに消化できていない。信じることができていない。

 人は壁を蹴って跳躍できないし、レインコートを着たくらいで性別の一切も分からぬほど輪郭が揺らぐこともない。

 それはひどく現実離れした――まるで、夢の中の出来事のようだった。

 蘇芳さんは腕組みしてふむ、と唸る。

 「刑事事件を担当して長いけれど、君のような場合は時々ある。人は自分が思うより遥かに奇妙で、現実離れしたことを為せる生き物だ」

 蘇芳さんは食後のアメリカンで口を湿す。

 「――僕が思うに、僕らは少し賢過ぎる」

 「賢過ぎる? 賢いというのは、いいことじゃないんですか?」

 「勿論、賢いというのが悪いと言いたいんじゃない。賢過ぎるんだ(・・・・・・)。賢過ぎるから、自分のできること、できないことを容易に判別できてしまう。例えば駅ビルの最上階から飛び降りて、君は無傷で帰れると思うかい?」

 「そんなこと――」

 駅ビルを思い描く。

 高さ何メートルかなんて知らないけれど、落下したらただではすまない。良くて骨折。悪ければ死んだことすら認識できずに死ぬのではないか。

 黙って首を左右に振る。

 だよね、と蘇芳さんは笑う。

 「君も僕も、多分無理だ。でももしかしたら、世の中にはそれをできてしまう人がいるかもしれない」

 「まさか。どうやって?」

 「それは僕も会ったことがないから分からないけれど……例えば空を飛んだり、着地する地面を柔らかくしたり。方法だけなら、そこそこ思いつくだろう?」

 「そんなこと、人間業じゃない」

 「それさ。それこそが人間の限界だよ。ああ、仮に君は、自分について何を知っている? 身長は何センチで体重は何キロ。スリーサイズは上から幾つ。体温は何度何分で血圧は上から幾つ下から幾つ。上前歯の右から何番目がまだ乳歯、左から何番目が軽度の虫歯? それはね、自分という存在を総覧するうちのほんの一部――氷山の一角に過ぎない。逆説的に言えば、君は自分という、もっとも身近であるはずの存在に関し、たったそれっぽちしか知らないのさ」

 「つまり、わたし達には、わたし達も知らない才能がある――ってことですか」

 「いや、ほとんどの人はそもそも才能なんて持たないさ。そうじゃなきゃ、才能を持った人間が都合よく活躍する物語なんて流行らないだろうね。所詮、アレは見目麗しく着飾っただけの慰めでしかないんだから」

 けれど――と蘇芳さんは言葉を継ぐ。

 「才能という言葉で片付けるには、有り余る存在――そうだな、異常、と呼ぶべきだろうか――そう言ったモノが、この世には一定数存在していることは、間違いない」

 「異常、ですか」

 「人の身をしていながら、人を超えた業を為す。主観を排して言うのなら、この表現が一番だと、僕は思うよ」

 「……なるほど」

 正直なところ、突拍子(トッピョウシ)もない話に思える。わたし自身、恐らく自身の才能、描画(ビョウガ)を評価されている身なのだから、蘇芳さんの言い方を借りるのであれば異常――異常者だ。

 なるほどわたしは世の中に存在している――異常者はこの世に存在している。それを拡大すれば、どのような埒外の存在だって、肯定できるに違いない。

 とは言えそれは――。

 「――極論、ですよね」

 「そうだね」

 蘇芳さんはあっさりと肯定する。

 「確かに極論だ。でも極論が間違っているという前提は歪んでいる」

 そこまで言って、再び声色が、元の軽佻浮薄(ケイチョウフハク)な調子に戻る。

 「ともあれ、つまり僕はそう思っているから、君の証言に対しても、特別なことは思わないよ。……もしかして、笑われるのがイヤで、言えていないこととか、あったりするのかい?」

 「それは……」

 ある。

 確かにある。

 とても人には言えない、わたし達の密やかな禁忌(タブー)。確実に人の生命を奪い続ける死神に関する話。

 だけど言ってしまっていいのだろうか。目の前の刑事――蘇芳さんは、それほどに信用のできる人物なのだろうか。

 まだ自分の中で見定めができていない。わたしの短い人生の中で、由田蘇芳という人は、見たこともない部類の人間だった。

 「あるのなら、是非聞かせて欲しい。どんな小さなことであっても」

 「……」

 わたしは反芻(ハンスウ)する。

 この世には異常が存在する。

 これは、要は考え方なのだろう。

 事実は小説よりも奇なりなんて言うけれど、つまりそう言ったものもあるんだと心得ておくことで冷静に対処ができる――多分、職業柄身に付けざるを得ない考え方。

 わたしはこの人を、信用できるか分からないけれど――でも、逆に考えるのなら。

 信用できないからこそフラットに、冷静に、わたし達に巣食う死神を分析できるのではないか。

 そしてあわよくば。

 そのメカニズム、仕組み、システム、トリックの類を暴き、終止符を打つことも可能なのではないか。

 脳裏に環姫の顔が浮かぶ。死神に魅入られた親友。死後間もなく、転落した彼女の顔は、苦悶に満ちていたという。

 わたしではその無念を晴らすことは、多分、できない。だから一縷でも可能性のある話に賭けてやりたい。

 もじもじと擦れ合わせていた指が、俄かに熱を帯びていた。

 「……あの、これは直接事件に関わるかどうか分からない話、なんですけど」

 「うん」

 「実はわたしが殺人犯に遭って、殺されかけることを、予め知っていた人がいて――」

 「それって……?」

 蘇芳さんがやや前のめりになって、わたしの話を聞く。

 わたしは学内に広まった噂から丁寧に、先日に至るまでを話す。

 段々と自分の語りが、身振り手振りが、大きく、そして過熱していくことを、わたしはどこかで感じていた。

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