01.Missing Angel “Azamiel”
「人は生きたまま自由になれない。死して初めて自由を得る」
古びた、反応の悪い自動ドアが、重い音を立てて開いた。
首から社員証をぶら下げた男と、肌寒い春の風が入れ替わる。
よれたフリーペーパーがバタバタとはためく。
「ありがとうございましたー……」
それを横目で見ながら会釈。千円札をキャッシャーへしまい込む。自動ドアが逆再生をするように閉まる。溜息が漏れた。
「なーに疲れてんだよ、お前は」
若いだろう、と言う言葉と共にべしん、と後頭部が叩かれる。
振り返れば、見覚えのある顔。胸元の名札には、横谷、とだけ書いてある。
「……レジ一人でやらせといてその言い草はないんじゃないですか、先輩?」
横谷さんは煙草を吸うジェスチュアを取る。
「――お前、当店は禁煙だぜ?」
だからバックヤードで吸ってた、とでも言いたげに口角を吊り上げる。
「理不尽だ……」
「何か言ったかー?」
「何でもないですよ、何でも」
この人には何を言っても無駄だと、この一年で俺は悟っていた。
横谷さんは俺ともう一人の教育係を、店長から仰せつかっていた。
染め忘れか根元の辺りが黒い、毒々しい金髪という、見るからにヤンキーと言ういで立ちをしていて、俺は当初、この人生で初めて出会う稀少な人種に対し、恐らくはビビっていた。もう一人も、多分、同様だったに違いない。
ただ、今もこの人の言うことに逆らえず、反駁もそこそこになってしまうのは、決してその時の恐怖が残っているからではない。
横谷さんは、人を納得させることに長けていた。徳と言えば、徳なのだろう。前世はタイかどこかの王様に違いなかった。
「お前今日何時までだっけ?」
「十八時までッス」
「アレ? じゃあ夜は誰来るの?」
「横谷さんが知らないなら知らないッスよ……浜さんとかじゃないッスか?」
「あー、かもな」
言いながら横谷さんは段ボールに腰かけ、煙草を吹かす。アメリカンスピリット。水色のレギュラー・ボックス。
客からは見えず、火災報知機も反応しない。まさに死角と呼ぶべきその位置取りは、横谷さんの勤務歴の長さを思わせた。
ぷかり、と煙が輪を描いて上った。刺激臭が鼻を突く。片手で煙草を支え、もう片手でスマートフォンをいじる姿から、勤労意欲は感じ取れない。
俺は視線を背けるようにレジへ立ち、店内を眺める。客の姿はない。コンビニバイトの最も忙しい時間帯の一つ――昼食時は少し前に終わっている。
正直なところ、この時間帯は暇だ。次の繁忙期である夕方までは、学生や主婦が時折来る以外ほとんどレジで行う業務はない。この店だって一応は駅前にあるわけだが、こんな支線の外れにあるような店には、冷やかしも好んでは来ないらしかった。
とは言え、目の前の先輩のような大胆な真似などできようはずもない。暇潰しがてら、陳列の確認でもしてこようかと思った――その矢先。
不意に、自動ドアが開いた。
そこには、大きな翼が閃いていた。
†
「――――あ?」
自分で自分の見たものが信じられない。
翼。
純白の、大きな翼。
人がその背に背負えるほどに大きな――そう、神話なんかで、天使と呼ばれる人達が付けているような。
俺が見たのは――垣間見たのは、そういう、およそ非現実的なものだった。
「おい」
背中が小突かれる。
煙草を指に挟んだまま、横谷さんがこちらを睨んでいる。
「お客様だろうが。シャキッと挨拶しろ」
「え――?」
見れば、一瞬、視界を埋め尽くしたはずの翼は跡形も残さず消えていた。きっと日の光か何かを見間違えたに違いなかった。
その代わりに一人の女子学生が、自動ドアのすぐ近く、コーヒーマシンの前に立っていた。いらっしゃいませ、と声をかける。
彼女は何を探すでなく、首だけをこちらへ――レジの方へ、じっと向けている。
その視線で捉えているのは恐らく――間違いなく、俺だった。もう少し目が良ければ、彼女の黒目がちの瞳に映る、自分の顔が見えそうに思えた。
「えぇと、お客様。何かお探しですか?」
少女は沈黙。透明な視線を動かさない。
「……お客様?」
「いえ」
二度訊いて、そこで初めて彼女は声を出した。つい、と首を元へ戻す。
「探し物は見つかりましたので、お構いなく」
「はぁ……かしこまりました」
こちらの言葉を待たずに、彼女は踵を返し、店の奥、飲み物の棚へ向かう。雑誌の陳列棚から左へ曲がったところで、横谷さんが立ち上がった。
「お前、何ボーっとしてたんだ? アレ、知り合いか?」
「……まさか」
翼が見えたから――などとは言えない。
反応を見るに、横谷さんには多分翼なんて見えていないだろう。馬鹿正直に話したところで、頭のおかしい人扱いをされるのが関の山。近くの病院でもオススメされるかもしれない。
――まぁ、その辺りは適当に誤魔化せばいいんだけど。
「あの服、聖霊院のですよね」
「あぁ、中等部のな。JCだ。ぴちぴちの」
「……ぴちぴちかは知りませんけど。平日のこんな時間に来るなんて変だな、と思って」
ふむ、と横谷さんは腕を組む。
聖霊院学院――正確には聖霊院女子学院――は、この地域ではよく知られた、カトリック系のお嬢様学校だ。小学校から大学まで揃えていて、それだけでなく、そこそこに優れた進学実績もあると言う。平日の昼――午後の授業も中頃かと言うこの時間帯に表れるような非行とは縁遠い。
だが来店した少女の纏う、黒と濃い灰を基調とした落ち着いた意匠のスカートはその制服だった。特殊な趣味でも持ち合わせていない限り、彼女は聖霊院の生徒に違いない。
「警察に連絡でもします?」
「いや、いい」
即答だった。
「何故です?」
「めんどくさいから」
清々しいほどに即答だった。
「だいたい、制服着て出歩くような奴は、俺達でなくとも、お節介な誰かが通報すんだろ。それをどうしてわざわざ面倒を買って出にゃならん。警察って心底めんどくせぇんだぞ」
「実感こもってますね……」
特に最後。警察で何か面倒な目に遭ったことがあるんだろうか。
「ま、仮に何かあったとしても、どうもあの娘っ子はお前を気に入ったらしいし、頑張るのは俺じゃねぇからな」
横谷さんはそんなことを言いながら、手にしていた煙草を折り、立ち上がる。
「……気に入られたって。中学生とか犯罪なんですけど」
「愛は勝つってな」
「誰が何に勝つんですか」
「そりゃお前が、社会的な何かに?」
「せめて断言してください」
勝てるものも勝てなくなりそうだ。もとい勝つつもりも挑むつもりもないが。
――と、そんなことを話していると、再び先程の少女が姿を表す。規則正しい足取りでこちらへ来ると、ミルクティを音もなくカウンターへ置いた。
会計を通す。彼女はぴったりの金額をカルトンへ落とすと袋を受け取り、外へ出た。
自動ドアが閉まる。店内には、再び一人の客もいなくなる。彼女がこちらをじっと見ていた、その眼差しが熱と質量を持っているかのように、胸の内に残っているようだった。
当然のことだが、閉まる寸前、少しずつ少しずつ小さくなる彼女の背中に、もう一度翼が見えることは、ついになかった。
†
アルバイトが終わり、帰る頃には、既に日は傾きつつあった。空の端から茜色に染まっていて、長い影を落としている。
職場のすぐ近く、真四角にも見える駅舎からは仕事帰りのスーツ姿や、学校帰りのブレザー姿なんかが出てきて、足早にすれ違う。
彼らのほとんどは、駅から少し行ったところにある住宅街へ向かっているのだろう。この街は近年、近隣大都市へのベッドタウンとして再開発されている。
もっとも俺が帰るのは、それとは正反対の方向だ。自転車を押して十五分ほど歩くと、古びた木造の平屋が多く立ち並び始める。歴史のある地域と言えば聞こえはいいが、実際は権利だとかそう言ったものが幾重にも絡みつくことで時の流れに乗れず、固定されてしまったような、そんな場所だ。
街灯も少なく、薄暗い。人通りもまばらなため、もの寂しい雰囲気が漂っている。たまにある商店は、もう皆シャッターを下ろしてしまっている。
塗装の剥げた掲示板には、明らかにWordで作成したであろう、通り魔事件への注意を喚起するポスターが貼られている。そこから自転車を軋ませて左へ曲がると、アパートが見えてくる。
築何十年かも分からないおんぼろで、階段にはすっかり錆が浮いている。最低限暮らす分には障害はないが、恐らく耐震だとかそう言った言葉は知りすらしないだろうと思っている。
明かりのない自室は西日が差し、赤く染め上げられている。紐を引くと、しばらく点滅した末、明かりが灯った。
携帯電話を開くと、着信履歴があった。従妹からだった。心配性な人だから、風邪でも引いていないかだとか、そういう用事に違いない。かけ直そうかとも思ったが、やめておくことにする。
冷蔵庫を開ける。見事に何もない。冷気が頬にかかる。さぞや冷却効率がいいことだろう。料理は一通りできる――もっとも米を炊くだとか、切って炒めるだとか、そう言ったレベルの話――つもりだが、いざするとなると億劫だ。夜のシフトであれば廃棄の弁当などで凌げるが、今日は何か買ってくるほかにない。
そう思い、先程放った財布を拾い直す。給料日前だから贅沢はできない。いつの世も学生とは貧しい生き物だ。夕食は素うどんでいいだろうか――と。
そう結論付けたところで、俺は何か割れた音を聞いた。
何かが割れた音――ではない。音質が悪く、ひび割れた音。それがインターホンを、しかも俺の部屋のものを鳴らしたものであると気付くのに、何度も鳴った末、たっぷり一分はかかってしまった。
来客の予定なんてあったろうか。ドアミラーから外を見る。
――が、誰もいない。ただ歪んだ玄関先が見えるのみ。
そもそも来るような人なんて心当たりがない。大学の同級生にはこの部屋は教えていないし、宗教関係者もわざわざこんなところになんてやっては来ない。
戸を開く。やはり、誰もいない。
「イタズラか……?」
「いいえ」
「何だ、そうか――って」
……ん?
今、独り言に答えが返ってきたような――。
玄関先には誰もいない。ただ暗い廊下が続くのみ。
「後ろです」
「後ろ?」
言われるがまま、振り返る。
そこには――。
「ようやく見つけましたよ。先程ぶりですね、店員さん」
夕方から夜へと、様相を改めつつある時間帯。
そこへ溶け込む恰好の、独りの少女が立っていた。
彼女は昼時と全く変わらない黒目がちの瞳を真っ直ぐこちらへ向け、祈るように指を絡ませている。
その頬は薄暗闇の中で見ても分かるほどに上気していて、何かしらの熱量が全身を駆け巡っているようだった。活発というよりも、危うげだ。
彼女は――俺に翼を幻視させた少女だった。
ぎこちなく口角を上げ、彼女は俺へ微笑みかける。
「――シノガミさん。あなたは、天使という存在を信じますか?」
「……はぁ?」
何せ本気で言うものだから、こちらも本気で正気を疑ってしまった。
またぞろ面倒なものに引っかかってしまったと、心からそう思った。
†
「そもそもシノガミさんは天使という存在をどう考えておられるのですか?」
「どうって……なんだ、羽根の生えた人間のようなもんってくらいしか」
俺の返答は、彼女には不服なものだったらしい。大袈裟に肩を竦める。
その前には供されたばかりのミックスグリルと、もはや元が知れぬほどに色合いの混沌とした飲料が置いてある。
俺と彼女はファミレスに来ていた。きっかけは、彼女が玄関先ではなく、どこか落ち着いて話のできる場所はどこかにないか、と提案をしたことだった。
大学進学を期に学校の最寄り駅から三駅という微妙な場所へ越してきた身としては、セキュリティの万全でこじゃれた喫茶店なんぞ知るわけもない。
そのまま自室でどうかとも思ったが、客観的に考えて、独り住まいの男子大学生が女子中学生を自室へ連れ込むというのは世間体が悪い。仮に俺が殺されたとしても、魔女裁判も真っ青の理屈で彼女に無罪判決が下るような気がする。
結果として、近くのファミレスに落ち着いた。懐具合はお寒い限りだが、必要経費だ。これ以上の場所など思いつかなかった。
「まぁ通俗的な理解としてはそうなってしまうのも、やむを得ないことかもしれません。一口に天使と言っても、やってることは多種多様なわけですから」
彼女はそう言って、謎めいた飲料をストローで飲む。時間帯的にも込み合う頃だ。誰かに盗み聞きされていないか不安だが、彼女はそれを些かも不安に思っていないらしかった。
「それに時代、宗教によっても定義は変わってきます。ましてそれが正しく天使というものの実態を表しているかと言えば、そうとも限りません」
「……そうかい」
珈琲を啜る。
……何というか、先程から全く会話が噛み合わない。言ってることも、もしかしたら正しいのかも知れないが、早口だし半分も理解できているか自信がない。
ただ目の前の少女が、人の金で躊躇なくミックスグリルとドリンクバーを頼める存在だというのは理解ができた。それだけで第一印象は最悪に近い。見目は可愛いらしいのだが、むしろそれ故に、余計に粗ばかりが引き立てられた。
「で、なんで俺なんて捕まえてんだ?」
「それは――」
ペラペラと捲し立てていた彼女が、沈黙する。盛んに油を跳ねさせていた鉄板も次第に冷め、その勢いが弱まっていた。
「まさか自分がその天使です――とでも言うんじゃないだろうな」
彼女はそこで初めて表情を変えた、気がした。驚愕に扁桃型の眼を見開いている。
「……私が天使だなんて、どうして分かったんですか? やはり、シノガミさんは――」
「待て待て待て待て」
やはりってなんだ。やはりって。俺は一体何だと思われているんだ。
「何でしょう」
「あー……」
ものすごい熱い目線で見られてる。
薄々感づいてはいたが――いわゆる電波、あるいは厨二病と呼ばれる部類なんだろうか、彼女は。彼女……そう言えば、名前を聞いていなかった。
「……アンタ、そもそも何て名前なんだ?」
フ――と彼女は薄く笑んだ。
「あなたになら、我が真名を答えてもいいでしょう――」
「あ、やべぇ」
話を逸らすつもりが、変なスイッチ踏んだ。
彼女はバンクでも流れているんじゃないかと思うほど勢いよく立ち上がると、誇らしげにその胸に手を当てて――。
「我が名は天使アザミエル。物質界における人の霊魂の観測手であり、理念界への導き手。シノガミさん。我が同志となって、共に死後の安息を守る使命に就きませんか?」
堂々と、店内の衆目を一身に集めながら――ご丁寧に人の名前付きで、そんなことを宣言した。
ファミリーレストラン全域が基地局なんじゃないかと思うくらい、その電波ぶりは極まっていた。
堂々過ぎて、堂に入り過ぎて、ラズベリー賞でも差し上げたくなってしまった。
†
――案外、と言うべきか。
彼女――もうアザミエルと言ってしまおう――アザミエル一世一代だと思いたい奇行が、想定外の騒動を引き起こすことは、ついになかった。
店内にいた者は俺含めほぼ全員が、水を打ったように静まり返ってしまっていた。
スピーカから流れる有線放送の曲目、甘ったるい歌詞のポップスが、どこか遠く、虚しく流れていた。
それを背景に、アザミエルはすとんと座る。
「どうですか?」
「どうですかと言われても……」
何故してやったりという自信気な表情を作れるのか分からない。
……いや、表面上は大して変化していないのだが。
ただ、半端に付き合ってやったのが、多分いけなかったんだろう。こういうのには、あくまで毅然とした態度で接するべき……なのかもしれなかった。既に手遅れ感。
さながら爆弾でも解体している気持ちだ。題して厨二爆発。液体窒素とは程遠い常温の水で唇を湿す。
それから俺は咳払いを一つ。出来るだけぶっきらぼうに――心の底から、嫌な奴になりきったつもりで、言ってやる。
「……馬鹿が。それで誘おうというのが、そもそも間違いだ」
「な――何ですって!?」
アザミエルは声を張り上げる。
「いったい何がいけないのですか」
「あのな、中学生の冗談に付き合うほど、俺は暇じゃないんだよ」
ひらひら、と俺は手を振る。
天使ごっこなら友達とやればいい。何が眼鏡に適ったかは分からないが、ともかくしけた男子大学生なんかとやるものではない。
「冗談なんかじゃありません!」
ガン――とアザミエルは両の拳を机に叩きつけた。金属の食器が乾いた音を立てる。掴みかかろうか、というほどに彼女が迫り来る。
「私は本当に天使です! どうすれば信じてくれますか!?」
「どう、って。そりゃあ――」
「お金ですか!? それならきちんと払いますよ!」
「はぁ?」
彼女は傍らに置いていたスクールバッグを開き、中からファイルを取り出した。
それは無地で半透明の、文字通り色気のない事務用品だった。そして挟まれていた紙切れを一枚、こちらへ示した。
ワードプロセッサーで出力したと思しき文字列が見える。
――契約書?
細かい文字列を目で追う。
曰く契約者、以後乙と呼称される者、俺の労働――天使としての業務は、夜を中心とした週六日。
具体的な業務の有無に関わらず甲、すなわち彼女は日当として一日に六千円を支払うという。週六日なので一週間に三万六千円。一か月を四週間とすると――。
「――十五万!?」
彼女のお遊びに付き合えば、今のおよそ二倍以上は稼げてしまう計算となる。
破格だ。
このご時世、いくら労働法に当てはまらないだろうイレギュラーなものでも、パートタイムでここまで収入の高いものなどそうはない。物欲に心が揺らいでしまったのも、むべなるかな。
彼女は、そんな俺の反応を前向きに考え直した、とでも思ったのか、わずかに平静を取り戻した様子で言う。
「大丈夫です。内容に関してはまだ話し合いの余地もありますので。十五万は最低ラインとして考えていただいて構いません。何ならその証明をしてもいい。自身の遵守したい契約には誠実でいろ、と私は教わっています」
「さ、最低ライン……」
「私個人で所有していても、使う用がないので」
この天使(仮)、さらりと抜かしおる。
制服からお嬢様だとは思っていたが、まさかの経済感覚が一般と乖離する部類か。
だが。
「い、いやいや。もしこれを飲んだら、俺は女子中学生に養われるクソ野郎になるじゃないか」
アザミエルは、頬を不服に膨らませた。
「確かに私は俗世間的には女子中学生ですが……」
俗じゃない世間なんてこの世にはない。
「そうだろう? だからなし。アンタに養われるつもりなんてない」
俺は紙を横にし、引き裂こうとして――やめた。そのまま突き返す。
脚を組み直す。愁嘆場にでも見えたか、制服姿の女子がこちらを見て何かひそひそと囁いているようだ。
「ではどうすれば――」
彼女はすごすごとファイルを戻す。項垂れる顔は、アンティーク人形めいている。
俺はその、髪が絞り緞帳めいた額に、思い切りデコピンをした。
「~~~~ッ!」
効果は抜群だ。
「な、なな、何するんですか!」
アザミエルは混乱している。目尻に雫を浮かべながら額をさすっている。
「俺はアンタが天使だなんて、信じちゃいない。何故なら天使の存在なんて、端から信じてないからだ。それだけじゃない。UMAだって、宇宙人だって、俺は全く信じちゃいないんだ。なぜだと思う?」
「……」
彼女は、わずかに黙って。
「……見たことがない、からでしょうか」
「正解。より正確には、その存在する証拠が示されていないからだ」
「証拠――?」
「例えばウン億年前の地球には、恐竜と呼ばれるとても大きな爬虫類が闊歩していたと、俺達が疑いなく信じられるのは、何もタイムマシンで実際に見に行ったからじゃない」
「化石、ですね」
「正解」
当意即妙の返答に、俺は頷く。
「どこから見ても客観的で、偽造のしようもない明確な証拠。そういう、いわば化石のようなものを俺は見たことがないから――信じない」
「……つまり私が天使であるという証拠を示すことができれば、あなたは信じてくれるのですね」
「そうだな。そりゃ、そうなるだろ」
だがどうせ無理なんだろう――と言いかけたのに被さるように、彼女は言う。
「……分かりました。証拠――ですね」
彼女は、膝に置いているだろう手を、震えるほど強く握りしめたようだった。
「シノガミさん、これから私の出すものは、あなたになら、見えるはずです。なぜなら、既に一度見ているのだから」
「見える――?」
はい、と返ってくる。
「本当はみだりに人に見せてはいけないものです。今日は例外――例外中の例外として、見せてしまいましたが。ですがそれ故にうまくいくのですから、運命というものは酷薄です」
何を言って、と問いかける前に彼女は目を閉じ、自身の指を、掌を重ね合わせるような形で絡ませた。祈りを捧げるような格好だ。
しかし彼女の言う証拠とやらは、ついにこのファミリーレストランでは出なかった。それは彼女が何かしらダメだったから、というわけではなかった。
むしろ――その逆だった。
瞑目していた彼女は、指を完全に絡ませきるその寸前に、その瞳をカッと見開いた。それから俺の右腕を取ると、立ち上がった。
拍子に彼女のグラスが倒れた。謎飲料が零れ、机を伝い、床に黒の水たまりを作り始める。その完成を見るよりも早く、彼女は切迫した口調で俺に語りかけた。
「――来てください」
「どこへ?」
「走りながら伝えます。そう遠くはないはずです。いいから早く」
その握力は、振り払おうと思えば容易に振り払えるものだった。平穏を願うのなら、振り払って帰るべきだった。
でもそうはしなかった。為すがまま引っ張られた。途中でバイト君だと思われる店員が代金を支払えと催促したので、財布から千円札を二枚引き抜いた。お釣りは受け取らなかった。受け取る余裕などなかった。
俺達は、共だって外へ出た。
†
ファミリーレストランの外はもう夜の帳が降りていた。
等間隔に立つ街灯、書き入れ時に騒ぐ飲食店、忙しなく行き来する自動車。その全てが煌々と明かりを灯していた。おかげで足元を見るのにも苦労はしない。
彼女は夜の街を駅の方へと向かっていた。その中途、些か奇妙なこととして、俺を先導して走る彼女は時折立ち止まり、うんうんと少し唸った後、再び方向をこちらへと示す、というのが幾度かあった。
まるで視覚以外の、それこそ超感覚、シックスセンスか何かに頼ってナビゲートしているように思えた。
ともあれそうして十分も行こうか、というところ。俺達は駅のすぐ近く、視界の隅で職場であるコンビニも窺えるような場所へ出た。
「……何かあるのか?」
彼女は盛んに用心深く周囲を見渡している。
「まだないようです。……いえ、これからあるのかもしれません」
「これから? いったい何が――」
俺の質問は、大きな音に遮られた。
何か硬い――金属質のものが思い切り叩きつけられたような音だ。
俺も含め彼女も、そして道行く人々も、音のした方へ顔を向ける。
何が起きたのか、即座に理解することはできなかった。しかしこそこそと話し合う声から、およその事態を把握する。
見上げると、あるべきものがそこになく、錆びた壁面が見えるのみ。
――どうやら、ビルから大きな看板が落ちてきたらしかった。
「……アレです、シノガミさん!」
現場にまで駆け寄った彼女が叫ぶ。
アスファルトと看板の間から、赤黒い液体が漏れ、広がっていく。
鉄臭い異臭から、その正体は明らかだった。
「まさか――」
血の気が引いていくのを感じる。
恐らく不幸なことに、看板の下に、人がいたのだ。
看板――数十キロから、数百キロという質量の鉄塊が高所から落下する。その衝突重量、重力も加算した重さたるや、数トンにも迫る。
骨も肉も構わず押し潰され、人間などひとたまりもないことだろう。死を認識できるかさえ、想像できない。看板と道路の狭間では、かつて人間だった肉塊から、果汁でも搾られるように血液が流れ出しているのだろう。
そして、次の瞬間。
夜の街が光り出す。
彼女の立つ傍、看板の横たわる場所から、俄かに蒼白い燐光が立ち上り始める。
小さな光の粒が、離合集散を繰り返し、留まり続ける。
俺はそれに見覚えがあった。
「あ、ああ――」
呻き声が漏れる。
人間は死んだ瞬間に四分の三オンス――およそ二十一グラム軽くなる、という実験結果を発表したのは、十九世紀アメリカの医師、ダンカン・マクドゥーガルであるという。
そこから導出される仮説は、魂は物質的に存在をしている、ということだ。この説が正しいか否かというのは定かではない。物質的であるかどうかという以前に、その存在だって、未だに観測はできていないのが現実だ。
しかし。
魂。残留思念。エクトプラズム。
表現はなんだっていいけれど、とにかく俺には、そう言った、死んだ人間の吐き出す何かを、蒼白い燐光を放つ球体という形で見ることができた。
気付けば俺は、腰が抜け、座り込んでしまっていた。光の乱舞するこの光景は、月並みな表現だが非常に美しい。全面硝子張りの水族館のようだ。
しかしその陰では、少なくとも一人、人が死んでいる。あるいは人が死んでいるからこそ、こんなにも美しいのかもしれない。
だからそんなもの、二度と見たくないと、固く思い続けていた。
「シノガミさん」
見上げれば彼女――アザリエルが立っている。
暗い路上で、彼女は背景となった燐光に照らされている。
服装はそれでも夜闇に溶け込んでいて、白い手足が浮かび上がるさまは、確かに何かしら人ならざるものにも見えた。
ただ彼女に人魂は、見えていないらしかった。困ったような、慌てたような、そんな顔で俺に問いかけた。
「――見えているんですか?」
「な、何が……?」
「魂が、です」
言葉を失った。
なぜ――どうして分かる?
動揺が顔に表れているのか、彼女はそこで朗らかに笑んだ。
この状況でそんな表情を作れるのは少し不気味だった。意図は、理解できたけれど。
「昼、見たのでしょう? 私の、翼を」
「翼――」
譫言のように繰り返す。
散華した魂の漂う、非現実的な光景。それは彼女の言葉に、そして俺の幻視に確かな色彩を与えるようだった。
「ああ、だが、まさか」
「言ったでしょう、私は天使だと。私の使命は人の霊魂の観測だと」
言うや、再び彼女の背中から翼が生えた。間違いなく、昼に見たものと同じものだった。
「ですが私には霊魂を見ることができません。だから探していたのです。私の眼となれるような存在を。……シノガミさん。教えてはいただけませんか。今、あの霊魂はどこへいるのか」
「あそこ――だ」
俺は彼女越しに、その背後を指さした。彼女は緩慢に振り返る。
「ちょうど君の後ろで、魂――霊魂は、ずっとぐるぐると、とぐろを巻いている」
「なるほど」
彼女は、真剣な声音で、言葉を返す。
それから――翼で遮られてよく見えなかったけれど――どうやら、右手をそこへかざしたようだった。まるで差し伸べるかのように、柔らかく自然な手付きだった。
「――――」
そして彼女が何事かを呟くとその足元に、白い光が広がった。
それは線をやたらに組み合わせた幾何学的な模様――魔法陣。
白く、暖かなただの光に何かを被せ、志向性や規則性を与えたもののように感じられた。
「権限――<浄化領域>」
足元の光が眩く輝く。
ちょうど魔法陣の内側にいた霊魂は、立ち上った光に囚われるような形となり、細かく身じろぎする。
――何をしているんだ、彼女は。
恐らく声に出して言ってしまったのだろう。彼女は振り向かないまま、俺の疑問に答える。
「感情を、浄化しています」
「……なんだって?」
「天使に与えられた権限が一つ、この<浄化領域>には、光輝の内側に霊魂を閉じ込め、その焼き付いた感情を浄化する能力があります」
「どうして、そんなことをしなくちゃならない」
霊魂が盛んに光の牢獄へとその身を打ち付ける。
発生する閃光に時折目を焼かれつつも、俺は問う。
「人の子の霊魂が天壌へ行くのを観測するのが、天使である私の使命であるというのは、既にお伝えした通りです。しかし霊魂と人の感情とは、本質的に別のものです。人間の感情を、天の国に持ち込んではならない。――原罪というものを、聞いたことはありませんか?」
原罪。
確か原初の人類、アダムとイブが犯し、今生きる俺達にまで受け継がれることとなる罪のことだ。キリスト教の聖典『創世記』に記されている。
その定義は時代や教義によって曖昧で、これといった定説はない。むしろデリケートな問題故に、敢えて明言することを忌避している節があるように思える。
「イブは狡猾な蛇に唆されることで、アダムもまた、そんなイブに勧められるという形で、互いに禁断の果実――知恵の木の実を食べました。では二人の犯した原罪とは、それを食してはならないという、唯一神の言いつけを破ったことなのでしょうか?」
否、と彼女は断ずる。
「もちろんそれがよくないこと――悪であると、罪であると、そういう側面はあるでしょう。しかしながら真に私達の原罪となるのは、神の意志に反したことではなく、私達の感情に従った、ということです。感情。それは、私達と唯一神の間にあった、正しい関係性を歪めてしまった」
「感情が、原罪――」
「故に天使は、感情を浄化することで、人間の魂を純化させ、天壌へ導いているのです」
こうして話している間も、依然彼女の放つ暖かな光と霊魂の蒼白は拮抗しているように見えた。
両者がせめぎ合っているのは、前提条件が同じだからだろう。彼女は霊魂を見ることができず、霊魂もまた彼女を認識することができていない。
だから両者の争い――という呼称は、実はあまり妥当ではないのだろうけれど――を決定づけるのは、純粋な質量。すなわち力の大小に他ならない。
徐々に徐々に、霊魂の抵抗が、小さくなっていく。暴れまわっていたのが固定され、幼い頃に見覚えのある、純粋な球形へと形を変えていく。
そこで彼女が、声を張る。
「シノガミさん、完全に停止した段階で、合図をください」
「わ、分かった」
頷く。
間もなく、霊魂は最後の抵抗とばかりに痙攣すると、倒れ伏すように、沈黙した。
俺はすかさず、声を出した。
「――今だ!」
応えるように、彼女の魔法陣――<浄化領域>の光量が一段と増し、垂直に、高く伸びていく。
外から見れば、それは光の塔に見えただろう。しかし内側から見ることで、その本質を見定めることが出来た。
「欠格天使アザミエルの下に命ずる。ヒトの霊魂よ、我らが父のおわす天へ安らかに還るがいい。<浄化領域>――!」
霊魂は天へ昇っていく。彼女の光が天壌へ連なる階となって、霊魂を誘っているのだ。
俺はぼうっと、その様子を眺めている。
そこでふと、生まれて初めて霊魂を見た日のことを思いだした。
それは幼い頃――五、六歳の時だった。
前触れはなかった。もしかしたら生まれつき見えたのかもしれなかったけれど、少なくとも自覚したのは、その時のことだった。
初めて見たのは、自動車事故で失った両親の霊魂だった。仲睦まじかった二人に相応しく、二つの霊魂は絡まり合いながら、天へと昇ったと記憶している。
何が見えたのか理解するのは早かった。ただなぜ見えるのかは未だに理解できていないし、見える人間が何をするべきか――あるいは何をするべきでないか理解するのは、それから数年も後のことだった。
結果として俺の半生――およそ十年の人間関係は、ほぼ全て手遅れとなったわけだが、とかく高校、大学に進んでからは、口を貝のように閉ざしてなるべく霊魂の見えない、普通の人間として振る舞ってきた。
けれど、そうか。
ようやく分かった――納得した。
彼女を無下に追い払わなかったのは、その手を無理矢理に振り払わなかったのは、きっと無意識下で、彼女と当時の自分を重ね合わせて見ていたからだ。
自分にしか見えないモノ、感じられないモノの存在。
自分一人が正しくて、他の全てが間違っていると、そう躊躇なく断言できるようなエゴイストであれば、それは幸福だったのかもしれない。
――でも俺も彼女も、そうじゃない。
自分にしか感じられないのであれば、他ならぬ自分がおかしいのではないか、狂っているのではないか、異常なのではないか――そう思わざるを得ない、普通の人間だ。
故に、そう思われたくも、そう思いたくもないがために、一層大きな声で主張をする悪循環に陥ってしまう。
身の丈に合わない異能を持つことは不幸でしかない。間違っても特別な全能感に浸れるものではないし、何か意味があるのではないかと考えるのは無為でしかない。
きっと彼女も、今に俺と同じ末路を辿るのだろう。
俺と彼女は、同じ道の前後を行く存在なのだから。
†
光が次第に収束していく。
霊魂が天へ届き、階が役目を終えたのだ。
彼女はそれを見届けると、こちらへ振り返り、手を伸ばした。もうその背中には、翼は出ていなかった。
「――ご協力、ありがとうございました、シノガミさん」
「……ああ」
その手を取って立ち上がる。彼女の手は冷たかった。
迸る二つの光芒が失われたことで、夜の闇は再び周囲を覆い始めていた。野次馬の誰かが通報したのか、サイレンの音が近づいてきていた。
「逝ったのか」
「恐らくは」
彼女は頷いた。
「あなたにそう見えたのであれば、そうなのでしょう。……私には、見えませんから」
彼女は下唇を噛んでいる。
「あ……すまない」
いえ、と彼女は返す。
霊魂を観測する権能の持ち主――天使・アザリエル。
そういえば、なぜそのような存在が、霊魂を見る権能を持たないのだろうか。
「ところで、シノガミさん。これで信じてくれますか?」
「信じて、って……ああ」
証拠、という話。
正直、これ以上のものはない。
万が一手の凝ったやらせだとしたら、彼女には奇術師の才能があるに違いない。
「そうだな、あんなものを見せられて、信じないというわけにはいかないだろう」
「よかった……」
ほう、と彼女は肩をなで下ろした。
「実を言えば、あまり人前で翼を出したくないんです」
「どうして?」
「万が一見られでもしたら、恥ずかしいですから」
「普通の人には見えないんじゃなかったのか。それに、今日は出していたじゃないか、昼」
俺の指摘に、彼女は俯いた。
街灯の加減からか、その顔には朱が差したように見えた。
「アレは――別件ですから」
「別件ねえ……」
「ま、まあ、そんなことはいいじゃないですか、別に」
妙に引っかかる言い方だが、それを追及する前に、彼女が咳込むように誤魔化した。
「とにかく、信じてくださったのであれば、私の使命を手伝ってくださる件も前向きに再検討してくれるんですよね」
「うーん、却下」
「え、どうして!?」
「取り敢えず、今はこの場を離れよう。じきに警察も来る。それに――」
俺は空を仰ぐ。つられて彼女も後に続く。
とっぷりと日の暮れた空には、大きな月が浮かんでいる。雲がちで星はあまりない。全般にどこか薄っすらと煙っているようだ。
「もう夜も遅い。君の家にだって門限があるだろう。学生は早く帰ったほうがいい」
「門限は構いません。そんなもの、私の住まいにはありませんので」
「随分な放任だな」
「自分の寝静まる間に人形が何をしようと、自分に累の及ばぬ範囲であれば、別に構わないでしょう? 例えば朝起きたとき、場所がひとりでに変わってでもいやしない限り。それを放任主義教育と言うのであれば、その通りなのかもしれませんが」
その口調は変わらず平坦で、だからだろうか、余計にどこか客観的過ぎた。他人の――それも創作上の家族構成について語っているかのようだった。
「すまない」
「別に。お気になさらず。指摘はごもっともです。場所を変えるのも賛成です」
「そうか……そうだな」
辺りを見回す。
警察の近付く中、あまり目につく行動は避けたいが、一先ず彼女と落ち着いて話のできる場を見つけなければならない。
だがそんなものは、この辺鄙な駅前では見つけられなかった。その意を汲んだのか、彼女も案じるような声を出す。
「どこへ行きましょうか……」
俺は、意を決した。
「こうなれば仕方ない。俺の部屋へ案内しよう」
「シノガミさんのお部屋、ですか」
「不満か?」
「いえ。他人のお部屋へ伺うのは初めてなので、粗相がないか、それだけが不安で」
「……そうか」
もう少し不安に思うべきことがあるだろう、年頃の女子中学生的には。君の目の前にいるのは、幾つも年上の異性なんだぞ――と思ったが、声には出さない。
そういうことは、男性側の考慮することかもしれない。もちろんやましいことなんてするつもりは毛頭ない。
そうしていると、赤い回転灯が視界に写った。警察と救急の二つのサイレンが、乱雑な夜気をかき混ぜる。
俺はそんな中でそっと彼女の手を取り、その光を彼女から遮るようにして夜の街を、暗い方向へと進んだ。
なんだかそれは昔、本当に昔に憧れていたヒーローみたいだった。
現実は当然違っていて、俺は多分、彼女にとって最悪の先輩だ。
だけど今こうして抵抗なく付いてくる存在は、もう少しだけ夢の風化を食い止めてくれるようだった。
俺と彼女――欠格天使アザミエルは、夜の闇へと溶け込んだ。