第一章 七月二十七日~七月三十日
第一章 七月二十七日~七月三十日
今年が高校生最後の夏休みになるという先生の言葉が嘘だと思った。高校一年生の時点で夏休みは終わっていた……そもそも高校生に夏休みなんてないのかもしれない。夏休み前ということで、各教科担当の先生から宿題が出され、その量の多さにクラスのみんな、いや学校全体が辟易している。折角の長期の休みなのに、そんなに宿題を出されたらやる気も何もなくなってしまう。お盆の数日間を休みにして学校に通っていた方がまだ耐えられるように思える。そういえば三年生は課外がお盆直前まであるとか。中途半端に期待させるのは良くないとつくづく思いながら、私は帰り支度をして部室へ向かおうとした。
「環」
ふと私を呼び止める声が。声のした方を向くとそこには永遠と日向がいた。
「あれ、もう部室に行ったんじゃないの?」
「たまき氏、私達をそんな血も涙もない冷血な人間だと思っていたのですか」
「ちょっと話したいことがあるの」
日向は放っておいて、永遠がそんな風に改まって何かを尋ねてくるなんて珍しいことだ。場所を変えた方が良いかと聞き返すと、部室に行きながらで構わないと答えた。道すがら、永遠はこの前二人に話したことを尋ねてきた。その内容を完結にまとめるなら、あれから色々と考えて、これまでの作品に当たってみて、結局何も浮かばないということだった。つまり、お手上げ状態ということらしい。
「ごめんなさいね、私一人で考えていたら煮詰まっちゃって」
「それは仕方ないよ。私が無理なお願いしたんだもん」
「全く、とわ氏は頭がお固いですなぁ」
余計なことを言って仕返しを受けている日向に憐れみの目を向けていると、永遠は「確かに日向の言う通り、私は少し考えが偏っていたのかもしれない」と言ってすっきりした表情に。私はどう言葉を紡げば良いのか分からず、日向への憐れみを強めていた。
途中で別れて私は美術室へ。教室に入ると既に他の部員が各々やるべきことをやっていた。県の芸術祭などに向けてみんな一生懸命に時には歓談を交えながら取り組んでいる。対する私は不真面目にただ自分のやりたいことをやろうとキャンバスを前に腕組み。
さっき永遠が言ったお手上げ状態は私にも当てはまって、あれからいくら考えてもどうすれば同じ時間が達成されるのか出て来ないで、この白いキャンバスに向かって唸っている。あの永遠が悩むくらいなのだから、自分がやろうとしていることは相当大変なことなのだ。日向はどうなのか分からないけれど、きっと日向も同じだと思う。表には出さないから分からないだけで、日向はいつも裏でああだこうだと一心不乱に考え込んでいる。
そうやって考え込んでいる内に時間はどんどん過ぎていく。腕を組んだまま何も描こうとしない私に何人かが「悩み事でもあるの?」と訊いてくるけど、悩みといえば確かに悩みだけれど、期待しているような類の悩みではない。そして流石に何も描かないという訳にもいかず、何か適当な物を見付けては、描いている途中で良いアイディアが出て来るかもとちょっぴりの期待を抱きつつデッサンしてみる。でも、出ないものは出ない。
あれ以来ずっとこんな状態だ。今更に変なことを思い付かなければと後悔もしてしまうけど、やると決めた以上は――それに二人まで巻き込んで――しっかりと達成しないと。でも、そう考えるとそれが却ってプレッシャーになっての悪循環。永遠があんなことを言ったのも、今の私みたいに何をすれば良いのか分からなくなっているから。
結局何の進展もなく下校時刻になった。道具を片付けて帰り支度をし、他の部員達に挨拶をしてから部室棟へ向かった。文芸部部室に入る。部員は十人くらいいるらしいけれど、今部室には永遠しかいなかった。ただ一人、窓辺で本を開いてひたすら活字と格闘している……永遠曰く格闘らしい。抜き足差し足で忍んだつもりはなかったのだけれど、永遠には私が入室したことを気付いている様子はなく、集中が途切れたようには見えない。
「永遠、もう下校時刻だよ」
私が声を掛けると永遠は特段驚かず、小さく返事を一つして、読んでいた本を鞄にしまって、戸締りを入念に確認後部室を後にした。
そして――
「日向、一緒に帰ろう」
「――!? ……うわぁ! もう、びっくりしたよ。入る時はノックくらいしてよ」
漫研の部室に入ると日向は取り繕った様子であたふたしている。他の部員はもう帰ったらしい室内で、取り敢えず落ち着きを取り戻した日向は何事もなかったかのように、
「それで、何の用かな? 二人とも」
と尋ねてきたのでこちらも詮索することなしに、
「もう帰る時間だから一緒に帰ろうって」
「ああ、なるほどもうそんな時間……頑張り過ぎて分からなかったよ」
何を頑張っていたのかは兎も角私達三人は一緒に帰路に着いた。
幼馴染みというよりも腐れ縁と言った方が良い私達の学校生活は、今日みたいに何の変哲もなくきっと世間の女子高生と違わない日常で――偶に日向が変なことをするけれど――でも私はそんな日常が楽しくて楽してくて仕様がなくて、この同じ時間を過ごしてみたいと心の底から思ってしまうのだった。そんな訳であの企画を思い付いたけれど、時間のループなんてどれほどのエネルギーが必要なのかと考えると、無謀な挑戦にしか思えない。
「それにしても日向、あなた随分とソフトなのね」
思い出したように永遠が日向に話し掛ける。
「え、とわ氏はハードなの?」
「その話はやめなさい、二人共」
腐れ縁というのが別の意味であることを痛感しつつ、自分もその一員なのだと思うと何だか遣る瀬無い気持ちになってくる。とはいえ自分も理解して愛好しており、そうなるのは仕方ないと心の何処かで思っているのだから、結局のところ仕様もない。
途中で二人と別れて自宅に辿り着いた。家では既に夕食の準備が終わっていて、荷物を片付けるとすぐに夕食となる。食卓に着いた頃には、もう弟とにゃんこは食べ始めている。中学生の弟は思春期特有の反抗的態度を一切取ることはなく、快く団欒に加わっている。寧ろ私の方が反抗期のような気がしてくるが、今はそんなことよりお腹が空いているので、早くもごはんを食べ終えて外に出ようとしているにゃんこを制止することなく、私は両手を合わせていただきますをして箸を取った。
いわゆる中間管理職に就いてしまい帰りの遅い父を余所に家族三人の団欒が続く。団欒での話題はただの世間話で、あとは適当にテレビを見て、ある意味で世間一般が想像するような団欒とは違うのかもしれない。いや、もしかしたらそこまでは同じかもしれないけど、うちにはにゃんこがいて、変なことをしたり遊べと要求したりとそこは違うと思う。
放送コードに引っ掛かるから会話の内容は一切誰にも言えないとして、時刻が午後九時になろうとしているのを確認して、お風呂の支度に取り掛かった。家族に入浴の宣言を行って、万が一にも浴室のドアを開けられないようにしてからお風呂に入る。
夏だからといってシャワーだけで浴槽に入らないということはなく、しっかりと湯船に浸かっておじさん顔負けに「いい湯だなぁ~」と言ってぼんやりと考え事。だから長風呂だと家族のみんなから非難されるに至っていて、でも私にとってはこの時間がとても大切だから直す気なんてさらさらない。最近の考え事は例のことで、どうやれば問題が解決するのか今の自分には簡単に答えが出せなくて、その所為で余計に入浴時間が長くなる。それで解決すれば良いけれど、結局出ないから本当に困りもの。
「ああ、どうしようかな……」
妙な反響を伴って声は虚しく消えていった。果たしてこの問いに答えてくれる者がいるのだろうか。いや、弱気になってはいけない、悲観してしまっては元も子もなくなる。と、いわゆるポジティブシンキングなるものを試みたけれど、永遠と日向が悩んでいることを考えるとどうしてもまた落ち込んでしまう。
「どうしてあんなこと言っちゃったかな……」
後悔ではないけれど、自然とそんな言葉が出てきてしまう。同じ時間はどうすれば過ごせるのか、思い出として残すのではなくて、この楽しい日々を作品という形で表してその中でずっと続くようにするにはどうすれば……。
「にゃいー」
突然外からにゃんこの声が。そしてドアを引っ掻いて開けろと要求してくる。
「はいはい、ちょっと待ってね」
ドアを開けるとにゃんこは当然のように入り込んできて、桶の水を飲み始める。どういう訳かにゃんこの水飲み場がお風呂場になっていて、確かに濡れても大丈夫だけど、冬になると大変なことになって困っている。そんなことは露とも知らずににゃんこは満足した様子で顔を上げた。再びドアを開けたが、にゃんこは立ち止まって私を凝視する。
「ほら、用が済んだらさっさと出て行って」
催促しても出る気配はなく、かと言って遊べとも言わない。一体何を考えて――
「――!? ちゃんと閉めておけよ!!」
弟に裸を見られた。そしてにゃんこは静かに退室したのだった。
女性にとって裸を見られるということは、とても恥ずかしいことで、異性は勿論のこと同性に対してもあまり見られたくはないのだが――温泉や銭湯はどうなのかだとか、下着は案外大丈夫かもしれないということは脇に置いて――私の場合だと恥ずかしいと同時に可哀想という感想も抱いて、折角の女の裸なのだからもっと魅力的な――弟にとってそれが何かは知らない――女の裸を見られればとつい思ってしまうのだった。例えば……クラスメイトの彼女だろうか、おっぱいも弾力があったし。
そんな感想を抱きつつ、私は自室で課題のノルマを片付けていた。時折、にゃんこが遊べとねだってくるが、そんなことは適当にあしらって大量の課題を崩さないといけない。
三角関係もとい三角関数は基本的にパズルだとエロイ人が言っていたけれど、私には全くそうは思えず、解答を見た時にハテナが浮かぶことさえある。といつものように考えながらノートの端に落書きしてしまい、慌てて消す。このノートは提出しなければならない。
それにしてもどうしてあんなことを言ってしまったのかとある種の後悔をしている。前にも同じようなことを考えたような気がするけれど、どうしてもふと頭の中に湧いてしまって、少しの時間考え込んでしまうのだった。いつもはどうすればやどうやって作品を完成させるかを考えているから、今日はタイムスケジュールについて考えてみよう。今回のこの企画は夏休みの企画だから夏休み中に終わらないと意味が無い。すると一ヶ月強ある計算になるけれど――課外の日はしっかり入れて計算している――その間は課題に忙殺されることになると予想され、実質的に作業に取り組む時間とその準備の為の時間など諸々の要素を鑑みると……全く以て時間が足りない気がしてきた。
少々の絶望的展望に打ちのめされたが、頭を横に振ってなかったことにした。
翌日、私達三人はいつもの場所に集合して登校した。いつものごとく日向は集合時刻に少し遅れてやって来たのだけれど、顔と手に絆創膏を貼った姿に少しの驚きを覚えた。
「いやぁ、本が崩れてきてね」
笑って説明する日向を見て、定期的なあれかと永遠と溜め息を吐いた。日向の部屋は綺麗に汚くなっていて、雑然と物が散らかっているのではなく、計画的に散らかっていて、例えば漫画は漫画で一つの区画に立ち並び、学校で配られたプリントは別の区画で群れをなしている。だから、足の踏み場はちゃんと確保されているし、ゴミなんて落ちていないのだけれど、本棚やカラーボックスなどの収納用品を活用しないものだから、それぞれが勝手にビル群を形成している状態になっている。喩えるなら、景観維持条例の下で徹底的に街並みを美化している都市と清掃活動だけを積極的に行って街並みを綺麗にしている都市との違いのようなものであり、前者が永遠、後者が日向。因みに私は農村地域かな。
「仕方がないから、私がお掃除して上げましょうか?」
「いやいや、あんなふうにされたら居心地悪いよ、潔癖症みたいで」
「確かに日向は色々と汚い方が好きよね」
「なにさ、とわ氏の方が汚いだろ、主に頭の中が」
罵り合いを始めた二人に諦めと辟易、ちょっとの貶みの笑みを向けながら学校に着いた。
教室に入るといつものごとく某クラスメイト二人が夫婦漫才宜しく激しいやり取りをしていて、私達三人それぞれにごちそうさまと感謝の言葉を述べて、良からぬ妄想に花を咲かせて、朝からお腹いっぱいで満足するのだった。
授業は基本的に何事も起こらずに過ぎていき、あまりにも退屈で、時折先生が冗談を言うけれどすぐに特有の静寂に戻ってしまって、先程の騒ぎなんて想像出来ない。そんな授業の傍ら、私は例のことを考えていた。
二人はどうか知らないけれど、絵の問題は一枚の中にどうやって長い時間を描き込むことが出来るか、そこが問題になってきて、単純にある一瞬を切り取って描いたとしても、その一瞬だけになってしまってはそこだけが繰り返すことになる。私の言うところの同じ時間は、今まで過ごしてきた楽しい日々のことだから、時間的厚みを持たせないといけない。場合によっては連作という手があるけれど、作品数を増やせば解決出来る問題ではなくて、作品ごとの断絶をどう処理するかという新たな問題も発生する。
やはり一枚に収めることが妥当だと、時間的問題も含めて結論付けた。漸く一歩前進。けれども、肝心の何を描くのかがまだ決まっていないから、本当に小さな一歩でしかなく、場合によっては一歩ですらなくて、片足を上げようと脳から司令が出た段階かもしれない。
三時間分の課外授業で得た成果はそれだけで――授業内容はさほど新しいこともなくてちゃんと理解している内容だから問題なし――ある種無意味な時間を過ごしてしまったかもしれない。けれども、考え事を出来たという点においては良かったのかもしれない、と無気力に襲われそうになったので自己弁護しておく。
放課になって私達三人は一緒にお昼を食べることにした。
「いやぁ、それにしても日本人って昔から変態だよね」
お昼ごはんを食べ始めた時の日向の第一声がそれだった。源氏物語は出なかったはず。
「あら、そんなこととうの昔に分かっていたことでしょう? 今更過ぎるわ」
「そうだけど、昨日の夜久し振りにあのタコの絵を見てね、洗練されているなぁと」
「ああ、例のやつね。確かにあの構図はよく計算されているわね。画風なんかを今のものに変えたら、充分にそのまま通用するわ、きっと」
食事の時にする話では一切ないが、日向の言っていることに私は大いに賛同する。
「そうそう、それこそ何か芸術的な価値を見出しちゃうくらいだよね。あーあ、私も一度でいいからあんな絵を描いてみたいなぁ……」
「なるほど、たまき氏はエロゲかなんかの絵師になりたいと、しかも触手ものの」
「どうしてそうなるの。私はあくまでも芸術的なエロをね。それに日向は一枚絵で性的興奮を覚えさせることの大変さをちゃんと理解していないんじゃ?」
「いやいや、そんなことは……広い意味で絵を描く者同士、それは痛いほどに」
「いいわね、視覚的効果を存分に使えて……」
「あれれ、とわ氏どうしたのですかな? 珍しく深刻な顔をして」
「言葉だと中々うまくあの淫靡な有り様を表すことが出来なくて」
「それぞれで、それぞれの悩みがあるみたいね」
「……」
「……」
「……」
まだ高校生だけれども、エロの奥深さが途方も無いことを私達は痛感した。
昼食が終わったら次にやることは部活動で、歓談もそこそこに私達はそれぞれの部活へ向かった。とはいえ、私にとっても今の部活は懊悩でしかなくて、周囲が順調に作業を進める中、私はいつものごとく筆を握り締めたり振り回したりと普段使わない所も使って考え抜いた。勿論……という言葉は言いたくないけれど、一向に進展はない。見兼ねたのか後輩が「先輩、煮詰まったら取り敢えず何か適当に描いたらどうですか? 手を動かしていた方が考えがまとまるかもしれませんよ」と助言してくれて、ふと後輩のキャンバスを覗くと殆ど完成しているように見えて――後輩曰くまだ六割程度しか進んでいないらしい――助言は嬉しいけど優秀過ぎる後輩に少し悲しくなった。先輩としての面子はさておき、後輩の言っていることは尤もで、私は紙と鉛筆を取り出して、思うがままに描き始めた。
絵を描くことは本当に楽しい。私にとっては日常の大切な一部となっていて、当然これもしっかり描かないといけないのだけれど、となると今こうしている姿を写真にしておかないと駄目なのかもしれない。……いけない、折角の気分転換なのに余計なことを考えた。
楽しいことというのは、物凄い集中力を発揮してしまうもので、いつの間にか時間が過ぎてしまって、息抜きが終わる頃には部活の終了時刻が近付いていた。息抜き程度のつもりだったのに気付けば本気になっていて、描いたり消したりを繰り返しては紙面にその時に感じたままを描き表していって、最終的に出来上がったのは……。
(うーんと、これは……)
昼に話していた所為か、高校生が描くべきではない内容がきっちりと描かれていた。
先輩や後輩に見られないように隠して私は本日の活動を終了させた――反省はしていない。美術室を出て二人のいるだろう部室へ向かった。まずは文芸部に赴くと……そこにいるはずの永遠はいなかった、というよりもしっかりと施錠されていて、そもそも中に入れず、中には誰もいないと考えられる――中からは施錠出来ない仕様だから。果てさて永遠は何処にいるのかと思いながら、隣の漫画研究部の部室に赴いた。
「日向、永遠が何処にいるか知ら……!?」
戸を開けて驚いた。いや、目の前の光景に一切の感情が伴わなかった。
「あら、いつもよりも少しばかり早かったのね」
「……い、一体何してるの」
「何って、私と日向の親密な関係がもっと親密になるようにスキンシップを」
「永遠には訊いてない、日向に訊いてる」
「あら、寂しいこと言うのね、環。もしかして嫉妬でもしているのかしら」
「とわ氏、からかうのはよして、放してよ。読みにくいから」
「つまらないわね、じゃあ今度は環にしましょう」
そう言って永遠が襲い掛かって来るが、無視して日向の所に行った。迷惑な話だけど、永遠は寂しがりやなのか、偶にこうなって抱き着いて来る。
「ねぇ、日向、何読んでるの?」
「う~んとね」
日向が差し出したのはA四用紙横方向に縦書で印刷された複数の紙だった。その一番最初には『同じ時間の過ごし方』と書かれており、この紙が何を表したものかを物語る。
「課外も課題も全部投げ捨てて取り敢えず書いてみたの。どうかしら?」
おそらく冗談が混じっているだろうけど、少しの時間も惜しんで書いたのは本当だろう。流石永遠、仕事が早いと私は思いつつ、日向が読み終わったものから読んでいく。
小説の主人公は勿論私達三人で、小説の中でとても楽しそうに学校生活を送っている。
「文化祭とかは敢えて書かなかったの。特別な日が繰り返しても意味が無いから」
文化祭とかその前日が繰り返すなんてよくある話な上に、今回の企画の趣旨に反する。同じ時間といっても単純にループすれば良いという問題ではないし、それにループから脱しようと主人公が頑張ることが目的でもない。
読んでいく内に永遠特有の癖のある文章に侵され、ちょっとした中毒状態になり、脳がもっともっとと欲していき、より快感が強くなっていく。中毒性の高い永遠の文章を読んでいて、そこに書かれている思い出が蘇ってきてはあの頃の楽しい日々を再び噛み締める。
「……面白かった。流石永遠」
読了後の感想はさらりと考えることなく出てきた――嫌味なんて決してない。率直な感想と羨望の気持ちを述べたけど、永遠は「ありがとう」と一言感謝の言葉を返すだけで、その表情には満足という感情は見られなかった。
「そう言って貰えるのは嬉しいけれど、同じ時間を過ごせているのか分からないのよね。作品として出来上がっちゃえば、そう簡単に字面が変わることがないし、書かれているものそれ自体は同じだって言えるかもしれないけれど、まだ何か引っ掛かるのよね」
読む方に特化している私は永遠が一体何に躓いているのか分からず、思わず日向を見るけれど、日向は腕組みしながら唸って考え込んでしまっている。私みたいな素人からすれば、この状態で充分に完成していると思うのだけれど、常日頃から書いている人でないと分からないことがきっとあるのかもしれない。
その後は真面目な雰囲気が一変していつもの少しふざけた話になって、暴走した永遠に貞操を奪われそうになり、日向は抵抗虚しく犠牲になって、お陰で私は難を逃れた。貞操云々と言っても、流石に公衆の面前でそんなことをして来ることはなく、ただ後ろから抱き締められて胸を揉むだけだった。もしかしたら、耳か首筋に軽く唇を当てていたかもしれないけれど、私はそんな変態と知り合いではなく赤の他人だから詳しくは知らない。
夏休み開始からこの短時間であそこまでのものを作るなんて、と私はお風呂に入りながら今更に思った。前々から永遠の筆の速さには驚いていたけれど――パソコンだからなせるのかもしれない――どうやったらあそこまで完成度の高い作品を素早く作れるのだろう。速ければ良いという問題ではないけれど、ある程度のものを速くに上げられるというのはそれなりの価値があって、速く出来た分だけ見直しをする時間が取れる。〆切がある時なんて特にそう、なんてこれまで一度も気にしたことのない私が言うのも何だか変だけど。
「……はあ」
永遠は色々考えている――だからこそ作品が書けた。そして日向も何か閃いたに違いない――さっきの考え込んでいる時の表情は何か思い付いた時のものだった。小説と漫画の違いはあるけれど、基本的に物語を表すものだから、お互い通じる所があるのだろう。勿論、絵画にだって物語性みたいなものはあるけど、二つとは少し違う。
自分だけ取り残される気がしてきた。そんなことを思っても仕方がないのに、どうしてかそんな劣等感にも似た感情が生まれて、私を妙に責め立てて、強い焦燥感を育む。
「ああもう!」
少々乱暴に顔を洗う。全部は拭い去れないけど、少しはすっきりした。
――カリカリカリカリカリ。
昨夜に続き今夜もにゃんこが水を飲もうとドアを引っ掻く。
「はいはい、ちょっと待ってね」
扉を開けてにゃんこを入れて上げる。ついでに私はお風呂から出ようとタオルを取った――万が一にも見られないようにお風呂場で体を拭いている私。横でタオルをバサバサとしても全く気にせずに一心不乱に水を飲むにゃんこ。
「お前は何も悩み事がなさそうでいいねぇ」
そんなことを呟くと、にゃんこは水を飲むのを止めて、こちらを見上げる。そして……。
「ああああああああああああ――!!」
反論するかのように、素肌が剥き出しの乙女の脚に爪を立てたのだった。
「あれ、どうしたのたまき氏、こんな暑いのにニーソなんて履いて」
今日は珍しく予定時刻よりも早くに来ている日向が挨拶よりも先にそう言った。「どうしたの?」はこちらの台詞だと切り返して、今日は何か用事でもあるのかと尋ねると、
「いやぁ、珍しく徹夜しちゃってね。流石に寝れなくなっちゃったんだ」
そう言って笑う日向の目の下には確かに隈が刻み込まれている。それにしても、どんなに夜遅くまで起きていても睡眠は欠かさない日向が――だからいつも時間に遅れる――徹夜するなんて一大事で、余程のことがあったに違いない。だから私はそれこそ空から天が降ってくるかのごとく日向を問い詰めたのだった。
「ちょ、ちょっと、そんな問い質されることしてないってば。兎に角この手を放してよ……もう、大袈裟なんだよ、たまき氏は。徹夜したくらいで騒がないでよ。で、何をやっていたかって? それは勿論たまき氏の企画に決まっているでしょ。漫画も読まず、アニメも見ずに頑張ったんだから。それで、これがその成果なんだけど」
そう言って、日向はバッグの中を漁り、数枚の紙を私に突き出した。
「まあ、成果と言ってもプロットとか本当に最初の段階なんだけど、でも大いなる一歩」
確かに実際の作品ではないけれど、その数枚にはびっしりと書き込みがされている。
「これさえあれば、あとは描くだけ――それが一番大変だけど。取り敢えず、とわ氏には負けないように頑張らないとね。あ、勿論今日からはちゃんと眠るけど。徹夜はもう嫌」
欠伸をする日向。
「そういえば、永遠遅いね」
これだけのやり取りをしているのに、まだ永遠は来ていない。
「ああ、永遠なら連徹の反動で遂にダウンしているみたい。私が行った時にとわ氏のお母さんが教えてくれた。頑張ったんだから、少しくらいご褒美を上げないとね」
永遠のことだから遅刻なんてことは無いだろうけど、後で大変なことになりそう。
こうして同じような日が始まった。二人と一緒に同じ学校、同じ教室で同じ授業を受ける。ある意味で既に私は同じ時間を過ごしているのかもしれないけれど、折角だからこの機会に表象を試みようと考えてしまうのが創作に携わる者の性。
起こさなかった罰として、永遠に生殺しにされた日向は放っておいて、休み時間の歓談。これもいつものことで、話す内容は取り留めのない世間話ということにして、毎回昨日のような変な話ばかりしていない。今、話していることは……一方的に聞かされていることは、日向の悪口で、永遠は本人を戦闘不能状態に追いやってもなお毒舌という形で攻め続けている。とはいえ、陰口という形を一応取っているのか、直接本人にではなく私に対して言って来て、こちらとしては非常に迷惑。だから、適当に相槌を打って、別のことを考えてやり過ごす――今日のお弁当の中身とかを中心に。
とても過激な発言ばかりだから、一切の記述は出来ないし、それ以前にそのような言葉を私に向かって言うものだから、日向への罵倒だと分かっていても、まるで自分が言われているみたいでやめて欲しい。あまりにも汚い言葉の数々でクラスメイトもちらちらとこちらを向いて様子を窺っている。それにしても知らない言葉ばかりではてなが浮かぶ。
たった十分の時間では収まるはずのない量を圧縮して、授業が始まる直前に罵り終えた永遠はチャイムが鳴った時にはちゃんと席に着いて準備も完了していたのだった。唯々私は呆れるだけ。確か以前にも同じようなことがあったような気がするけれど、これも同じ時間に含まれるのかと思うと、創作意欲が萎えてしまう。
学校の授業の面白さとは何か、偶にそんなことを考える。例えば、今中学生に「高校の授業は面白いですか?」と尋ねられたとして、私はなんて答えるだろうか。正直なところ、中学の時よりも難易度と深さが変わっただけで、授業の雰囲気が変わっただとか極端に先生の言う冗談が可笑しくなったとかはなく、授業の面白さと言ったらやはりその内容となってくる訳で、でも深さは面白さにつながるかもしれないけれど、難易度はどうかといえば、必ずつながるものではない。つまり、高校の授業の面白さとは、授業内容の深さということになるだろう。広くそして突っ込んだ内容が展開される、これが面白さ……かな?
そんなことを考えている暇があったら先生の解説を聞くようにと言われるかもしれないけれど、今解説している箇所は充分に理解している所で、聞き流していても特に問題がないと思われる。そうか、授業の面白さとは、頑張って内容を理解した分だけ、どんどん暇な時間が増えること……中学校も同じだったような気がする。
次の休み時間になると復活を果たした日向が永遠に反撃を企てようと試みて、返り討ちにあってしまった。敗因は永遠に対して舌戦を挑んでしまったことで、手数の差で日向は圧倒され、再び撃沈。そしてどういう訳か永遠はまた日向の悪口を私に言い始めた。勝ったのだから、それに無関係なのだから、わざわざ私にまで言わなくても……。
そして授業が始まる。今日はつまらなくて退屈な授業が――先生には大変申し訳ないけれど――救いになるなんて、こんな珍しい日も偶にはあるのだなぁと思いつつも、実のところ日向が果敢に永遠へ挑む姿は私にとって何と言うか微笑ましいと言うか、案外好きだったりと私もダメな人間なのだけれど――でも私に言って来るのはやめて欲しい――昔から永遠と日向のこの攻防は頑張り屋の日向が永遠の土俵で勝とうとするという見守りたくなる光景を繰り返していて、何処か様式美的なものを感じてしまう――でも私に言って来るのはやめて欲しい。こう考えると私は見ているのが好きなのかなと思ってしまうけれど……いや、にゃんことじゃれるよりもじゃれているにゃんこを見ている方が好きだから、どうやら弁解の余地はなく、私は見ている方が好きらしい。
前にもやったような自己探索を行って「ああ……」と息だけでなく声も漏れてしまって、気恥ずかしい思いをしてしまった。こんな感情を抱く羽目になるなんて、永遠の所為、全部永遠の所為、原因は日向だけれど永遠が悪い。腹いせにノートに"Towa is imp."なんて拙い英語で以て格好良く筆記体なんて洒落たものを使って書いてみる。そんな子供じみたというか、質の悪いというか、低俗な行為をして授業が終わった。
私の趣味は永遠に唆されて現在に至る。永遠から始まり日向に続いて私に伝染したという経緯があって、日向は私のことを守ってくれたけど、永遠は日向の防衛網を掻い潜って耳元で妖しいことを囁いて甘噛までしていったのだ。よくよく考えると復讐の必要があるらしいことが判明したので、そろそろ傍観はやめた方が良いらしい。
二人がお昼ごはんそっちのけでやり合っているのを傍目に私はそう決意した。ところで、二人はいつの間にやら激戦が談笑になっているのだけれど、一体何があったのだろう、私が決意するまでに。素朴な疑問とちょっとした危機感を以て二人の様子を眺めていると、
「たまき氏はリアルでショタコンだったのでござるか!?」
「日向に教えて上げなさいよ、真相を」
不敵な笑みを浮かべてよく分からないことを言い出して来た。
風評被害としか、いや捏造ともっと強く言うべき事態が突然に到来して、私は一瞬どころか二人がより迫って来るまで正常な思考が全く出来ず、理解不能とはまさにこのこと。様々にやり取りをしたところ、どうやら私が適当に相槌していた時に、知らない内にそのような話を永遠が振ったらしく、私は何事も気付かぬ間に頷いて、めでたくショタコンの、しかも自分の弟も含めてと危険な人物に指定されていた。
「何よ、それって、誘導……いやサブリミナル、あれ?……とにかく永遠は汚い」
当然ながら私は抗議したけれど、
「でも、前に『うちの弟、結構可愛い所あるのよね』って言ってたわよね」
「それ私も聞いた。もしやと思ったけど、三次元にまで手を出してしまうとは」
いつもは味方をしてくれる日向も永遠に便乗して私のことを攻めてくる。確かにうちの弟はちょっぴり茶目っ気があってそれでいて真面目で中々に可愛らしいけれど、だからといってショタコンとか況してや三次元にまでという話は飛躍のし過ぎ。それに前にうちの弟に会った時に一番騒いでいたのは二人だった気がする。
「いやぁ、たまき氏には敵わないよ」
「流石、環。私達を軽く凌駕している」
いくら説明してもこんな風に全く聞く耳持たずという姿勢を取る二人に腹が立った。
「分かった、二人の考えはよく分かった。そこまで言うなら、この前見せてくれた作品、諜報部に売ろうかなぁ……きっと高く買ってくれるよねぇ」
私の言葉に二人は血相を変えた。
「え、この前ってまさかあれ……でも返してもらっていたはずじゃ……」
「ちょっと、まさかコピーしているんじゃないでしょうね」
焦る二人を見て私はご満悦と言われても仕方ないくらいの気分になった。
「それは勿論、二人の作品は大事に大事に複写して保存されてますよ。何なら全部渡してもいいかな。あれなら全部買い取ってくれるだろうし」
「たまき氏の鬼、悪魔!」
「それは著作権の侵害よ」
二人は私を罵るが私は一切の音を遮断して、昼食に専念することにした。
正直なところ、いつも冷静で取り乱さない永遠といつも飄々として捉え所のない日向の二人を困らせて、気分爽快なのだけれど、部活中の作業がだからと言って捗る訳ではない。この悲しい現実に、先程までのちょっとした優越感はすぐに消えてしまった。
昨日と同じように私は筆を持ったまま不思議な儀式をして、何か閃かないかと思っていたけれど、結局のところ、部室に来て一時間経っても、まだ何も思い浮かばないでいた。時折、後輩の調子や先輩や同じ二年生の様子を見て、今この部室の中で、一本の線も一点の点描もしていないのは自分だけだと知った。
朝見せられた日向のプロットは、徹夜という言葉に相応しく、かなり作り込まれていて、日向のやる気を感じられる。あれが実際に作品になったらと思うと、とてもわくわくすると同時に怖くもあって、永遠も含めて質の高い作品を作られると私にプレッシャーが重く伸し掛かってきて、勝手な劣等感と対抗意識が私にもっと凄い作品を作れと悪魔の囁きをして、私を苛んで非常に困った事態になってしまうのだ。
そんな訳の分からないことはさておき、自分も頑張らないといけないのは素直な気持ちで、言い出しっぺなのだから、そろそろ何とかしないといけないと思ってしまう。結局、それも自分勝手な思いで、よく考えればあまりに余計なことを抱き過ぎると逆効果だと分かるのに……とこうして時間を潰しても全然意味もなく、そろそろ本気出す。……でも、本気なんてそう簡単に出せるものでもなくて、やっぱり何も出来なくて、どうしようかと更に小一時間考えた結果、私も日向を見習って(盗んで)、多分描くことになるだろう私達三人の姿でもデッサンしておこうと思った。ここまでにどのくらい掛かったのやら。
ということで、私はスケッチブックと鉛筆を持って、一応先生に一言断って、取り敢えず文芸部へ行ってみる。距離的には漫研の方が近いのだけれど、この前のようなお取り込み中のことが度々あるし、隣で騒げばそれが日向にとって作業終了の予鈴になるし、あとちょくちょくいなくなる永遠を早くに拾った方が良いから。
「あれ、珍しいね」
そこには日向も居た。「こんにちは」と後輩らしき人に挨拶して二人の所へ。
「二人して何してるの?」
どうせいやらしいことでも考えているでしょ、と言葉尻に埋め込みながら覗くと、今朝日向が見せてきたプロットなどの紙を永遠が真剣な表情で読んでいる最中だったようだ。お邪魔だったかなあ、と申し訳ない気持ちが表に出てしまったのか、
「今、朝のやつを見てもらってるの。それで、たまき氏はどうしたの?」
用件を説明するように促してくれた。永遠を邪魔しないように――真面目な時の永遠を邪魔すると面倒なことになる――日向に二人を写生しに来たことを告げた。
「なるほどねぇ……あんまり自分を描かれるのは好きじゃないけど、たまき氏の為なら」
日向は快く承諾してくれたけど、果たして永遠は――
「私とは向かう先が違うように思えるのだけど」
私達のやり取りを無視するような形で、永遠は日向に言った。
「方向が違っても、私にとってはそれが過ごしてきた時間なの。それに、私はとわ氏じゃないんだから、そもそも完全に一致する訳ないでしょ。それはたまき氏も一緒だって」
緊迫した空気が漂い始めて、余計に何も言えなくなった。私の名前が出て来たけれど、それは例示でしかなくて、永遠は日向との一対一を希望している。
「確かにそうね、全く同じなんて気持ち悪いものね。別にそれを否定するつもりはないの、ただ日向にとっての描こうとしている日々がどんなものか確認したかっただけ。……取り敢えず現段階での私の感想を言うと、私がイメージしていたのは月下美人で、日向がイメージしているのは竹なのかしら? 私は二人と過ごした日々をとても大切なものと捉えて、それでいて短い夢のような日々だと、まさに月下美人のように考えているの。でも日向は違う。竹林は変わらずそこにあるように錯覚してしまう。でも、いつか花が咲いて終わってしまう。そうなったらそこの竹林は全滅してしまう。これまで過ごしてきた日々が跡形も無く消えてしまう。私のは儚いからこそ希望に満ちているけれど、日向のはずっと続いているけれど何処かそこにいつか終わってしまうという不安が隠されている……どう?」
静かに聞いていた日向は少し考え事をしているように間を置いてから、
「流石、とわ氏。私の考えていることをお見通しのようだ。で、どうかなそれ」
「どうかなって……実際に作ってから訊きなさいよ。この段階じゃ、お好きにどうぞって言うのが精一杯なのだけれど。まあ、そうね……一言だけなら、面白くなりそうね」
その後暫くの間二人は目で会話しているのか、顔を互いに向けたままにして、私の知らないところで何か合意したのか、にやりと怪しい笑みを浮かべたのだった。
「で、環はデッサンをしたいようだけど、もう少し早くに言ってくれれば、着飾ることは無理だとしても、身なりを整えることは出来たのに」
置いてけ堀を食ったようになっていた私に永遠が話し掛ける。
「いやいや、特別な日が続いても意味が無いって言ったのは永遠でしょ」
そんなツッコミで以て二人のデッサンが始まった。
文芸部の後輩ちゃんには悪いけれど、場所を移すのが面倒だったので、文芸部の部室で行うことにした。よくよく考えてみると、二人を絵にするなんて初めてかもしれず、それこそ二人をまじまじと見るなんて……何だかちょっぴり恥ずかしくなってきて、いつもより時間が掛かってしまうかも。あ、日向の左目に泣き黒子があるなんて初めて知った。小さくてよく見ないと絶対に分からないようなもの。もしかしたら永遠も知らないかも……。
「ねぇ、知ってる? 日向の左目にね、泣き黒子があるの」
悲しいかな永遠は既に知っていた。でも、可愛いことに変わりはなく、なるほど永遠が日向を弄る理由が理解出来る。それにしても見れば見るほど日向が可愛く思えてきて、今度永遠と一緒に日向のことを弄って優しく抱き締めようかなと下衆なことを考えてしまう。
生唾が垂れそうになるのを必死に堪えながら日向のデッサンが終わり、次は永遠のデッサンが始まるのだが、先程身なり云々と言っていたので、デッサンが始まっても少しの間は「おかしくない?」なんて何度も訊いてきて、普段気にしている素振りなんて全く見せないのに、私の作業をそうやって邪魔してくる。実際に被写体になる人は写真を撮る時と同じようにたとえデッサンであっても緊張するらしいので、ある意味永遠の反応は普通。
それにしても、永遠には日向みたいな知らなかった特徴があるのだろうか。見たところ、まだこれといって特徴的だなと思えるものはなく、寧ろ黒子もシミもないという白い肌を持っているなんて、同じ女として羨ましいことこの上ない。一体どうしたらそんな綺麗な肌になる……いやこういう人に限って生まれつきとか言うのだ。
「永遠って弱点とかないのかな?」
日向が耳元でそう囁いてきた。
「弱点ね……」
永遠の弱点、そう訊かれて実のところ何も思い浮かばなかった。日向なら胸、私なら耳と判明しているけれど、永遠の弱点については一切分からないし、見当も付かなかった。
「そうかぁ、たまき氏も知らないかぁ……。それじゃ後で頑張って探さないと」
確かに探す必要がある。度々永遠にやられているから、そろそろ仕返しをしても罰は当たらないはずで、積もりに積もった罪をしっかりと償わせないといけない。
「案外言葉攻めに弱かったりね」
「二人共、聞こえてるわよ」
まずいと思ったのか日向はそそくさと私の後ろに隠れる。もう終わったのだから部室にでも戻ればと言ったのだけれど、日向は「終わるまで見たい」と答えるのだった。
弱点追及の必要あり、とメモして永遠のデッサンは終わった。時計を見ると四時を回ろうとしていて、少しばかり時間が掛かった……その前に考え込んでいたから余計に。
「環の作品、楽しみにしているわ」
「私も~」
と部室を出る時に言われたけれど、正直なところプレッシャー以外の何ものでもない。
一応、一歩前進したのかもしれないが、何をどんな風に描くのか、まだ何も決まっていないから、まだまだやることは山のようにあると言っていいのかもしれない。取り敢えず、二人のデッサンは決して無駄にはならないだろう。
そんなことを考えての帰り道、何事も無くいつもの腐敗臭のする話を至って楽しくにこやかに行う。勿論、世間様に迷惑は掛けられないから、しっかりと蓋を閉じて、周囲に漏れないようにしている……でもその中では科学的常識を無視した化学反応によって、得体の知れない邪悪なものが生成されている。あ、私は聞き役で、二人が勝手にやっている。
「結局分かんなかったなぁ」
帰宅して色々と済ませた後、古文の問題を解きながらふとそんなことを思う。帰り道に解明するつもりで日向と示し合わせていたけれど、話題が話題だった所為で、そちらの方ばかりに気を取られてしまってすっかり忘れていた。
そんなどうでもいいことを思いつつ、にゃんこの催促を丁重に断って、再び課題に。
……今更だけど、私の高校生活は勉強しているか、歓談しているか、絵を描いているか、にゃんこと戯れているか、この四つの繰り返しのように思える――食べる寝るもあるが。完全に同じではないけど、殆ど同じことを繰り返すだけで、毎日を日記に認めれば今回の企画を達成した……いやいや違う。作品の中で繰り返すのではなくて、作品を読むことで、今のこの楽しい日々を再び過ごしているように感じられるか、ということに主眼がある。
悩んだ末にふと時計を見ると、すっかり就寝予定時刻を過ぎている。
「寝るか……」
課題の進度に問題はないから、私はベッドの上で寝ているにゃんこを移動して就寝した。
高校生は週休二日制でなく、週休一日制、いや無休のように思う。でも、そんなことを言うと大人の人から論理的に攻められるかもしれないから、今のは無しという方向で。
今日の日向の眼は輝いている。私が余計なことを考えている横で、永遠の弱点を明かそうと、虎視眈々と狙っているのだ……多分そう。やめておいた方が良いのにとちょっと思うのだけれど、言ったところで聞かない気がする。
「それでね……? 日向どうしたの?」
「ん? いや何も……昨日ちょっと寝るのが遅くなって、にゃはは」
明らかに取り繕っていると私でも分かる。
「うんうん、そうだよね、私もそう思うよ。流石はとわ氏――覚悟!!」
「――――あら、そんなに威勢よく襲って来たのに、このざまはみっともないわね」
「ぐぬぬ……」
会話を断ち切って襲っても、ひらりと躱され後ろを取られる日向。だからやめておけば、と溜め息を吐く私だけれど、ちょっとした邪な考えが頭に浮かぶ。――物は試し。
「覚悟ぉおおおおおおおおおおおおおお!――あ痛っ」
戦闘向きでない私は片手だけで充分だった。
最後には「交通の邪魔よ」と説教じみた口調で言われて、謀反(?)は失敗に終わり、私達二人は捕虜同然の扱いで学校に到着した。
「号外っ号外だよっ!」
いつも号外の新聞を撒いているクラスメイトが校門にいた。
「おっと、そこにいるのは腐の文化部三人組。どうだい、美味しそうなネタでしょう?」
山吹色のお菓子を差し出すごとく一枚の紙を差し出してくる。見るとそこには『玖社月那氏の貴重な水着シーン!!――スク水の魔力との融合を果たす』なんて文字が踊っていて、なるほど彼女の言う通りに私達好みなネタ。
「それにしてもこんな写真をどうやって?」
永遠の質問は尤もで、非合法的やり方でないと撮れないような写真が掲載されている。
「いやいや、ちゃんと許可を得て――本人じゃないけど――撮影しましたよ?」
聞けば彼の伴侶に快諾されたとか。可哀想にと思う気持ちの一方で、ごちそうさまと感謝する気持ちもある。朝から中々に良いものを貰ったと満足して教室に入ると、渦中の人物が共犯である伴侶と痴話喧嘩の最中だった。
夫婦喧嘩は犬も食わないということで、私達は一切参加することも観戦することもなく、例の記事を美味しく頂くことにした。――それにしても和鶴さんは分かってらっしゃる。
「ちょっと、あんまり朝から垂れ流さんといて」
怪しいニヤつきで妄想していると突然似非関西弁で声を掛けられる。
「ん? ああ、出てた?」
私の問いに頷く正の文化部四人組の一人。「許せ!」と謝罪して自重せよと自分に言う。
正の文化部四人組に対し、私達は腐の文化部三人組(負でなく腐)。読んで字のごとくだけれど、実のところ私達三人よりも向こうの二人の方が濃いし、一人は充分に造詣が深く、結局のところ何も知らない藍里さんの近くにいて隠しているから「正」なんて呼ばれているだけ。本当は正の文化部一人に対し、腐は六人もいる。一体いつからそんな分け方を誰が……よくよく考えると、去年の今の時期に和鶴さんがだった。
朝の喧騒は先生によって鎮静化され、何事も無く軽い朝のホームルームが始まる。
スク水の魅力とは一体何だろうか。勿論、着る人の問題もあるけれど、スク水を着ることで顕現される特有の力、そんなものが存在するのだと私は思う。スク水の魅力……ビキニ等とは比較にならない飛び抜けた魅力……きっと適度な露出の為に発生する、隠すことのエロスと出すことのエロスの二重のエロスが存在し、その上スクール(学校)の水着ということを象徴する為に決して触れてはいけないという絶対不可侵の意味合いが出て来るという、この二つのことが大きいのかもしれない。見えそうで見えないという隠すエロスと見えているエロス、そして不可侵の領域という要因が融合することで、触れたいけれど触れられないという欲望と抑圧の狭間での悶絶を見る側に与える、これがスク水の魅力かもしれない。だから、スク水を着用している人が自身の裸を曝け出そうなんて意志もなく、逆に隠そうとするなら、それは魅力の増幅につながるかもしれない。あと、体の線がはっきりと分かる(推測出来る)のも要素の一つだろう。やはりスク水は恐ろしい……。
今朝の写真を思い出しながら私は一人でうんうんと頷く。あ、エロスとかいう表現を使ったけれど、それは決して性的興奮という意味でなく、それこそ人を惹き付ける力、視界に入ったらついつい注意をそちらに向けてしまうような力という意味で、確かに性的という表現も関わってくるけれど、スク水で性的興奮が促進されて性犯罪が云々と言ってしまうような輩は勉強し直した方が良いと私は個人的に思っている。人それぞれで解釈や反応が違うのだから、通り一遍等に綺麗事を並べても前提が間違っているのだから害悪。
そんなことを考えながらの授業。成績に響いてはいけないけれど、どう考えても不真面目としか言い様がなく、教師が知ったら大変なことになるかも――内申書とか世間体とか。そもそも、学校のというか集団で受ける授業はそうなのかもしれないけど、内容をしっかり理解していれば、ちょっとした知らないことの解説とか小ネタ以外は説明をそこまで聞かなくても大丈夫で、生徒の力量は退屈な授業をどうやって楽しくするかだと思う。勿論、授業内容をしっかりと理解していないとそれこそ大変な問題が起こる。
それにしても、この先生、三角関係が余程に好きなのだろうか。三つの要素があると必ず言って来る、x,y,zとかsin,cos,tanとかp,q,rとか。何か思い出でもあるのだろうか。
やることもなくなってきて、流石に退屈になってきた。課外は課題の解説だから仕方がないといえばそうなのだけれど、こういう時はノートの隙間に絵でも描くしかない。と決意したところで、何を描こうか悩ましいところであって、やはりここはスク水……を着た永遠で。ロングかセミショートかで迷ったけれど、スク水少女は黒髪ロングが良いように思うのですよ、奥様っ。誰に声を掛けたのか分からないけれど、私はその方が良い。だから、今朝の写真は非常に私好みで、スーハースーハーするのも無理もない。
兎に角、考えるより行動をということで――強烈なブーメランにしか思えないけど――早速ノートにスク水永遠を描いていこう。昨日のデッサンが役に立つなんて、流石私!
先生はまだ他愛もない世間話をしていて、ちょっとした絵を描くには余裕がありそうだ。私は先生の様子を窺いつつ、熱心に授業を聞いている生徒を装う。昨日のデッサンを机の上に出すことは出来ないから、思い出しならが描くことになるが、幸い記憶力は悪くない。
冷房なんてありがたい設備によって快適な温度に保たれた室内で、私は黙々とスク水姿の永遠を描いていく。時折、左隣にいる永遠を見ながら、忘れた箇所を補完して……と私はあることに気が付いた。永遠はこんなにも暑い夏にストッキングを履いている。以前、冷房に弱いということを言っていたから、その対策なのかもしれないけれど、休みに出掛けた時も永遠は何かしら履いていて、生足を見られるのはそれこそ水泳の授業くらいのもので、ではどうして永遠はそんなにも自身の生足を見せないのか?……綺麗なのに。
――チャイムの音。
永遠が持っている大きな謎を発見して、授業は終わった。休み時間は日向の所でお喋り。
「……やぁ、おはよう」
日向は授業中に寝ていたことを告白する。
「日向、睡眠学習の効果は残念ながら証明されていないわ」
「証明されれば何時間でも寝るのに」
「睡眠がダメなら催眠にすれば?」
「たまき氏、どうしたの? 随分と飛ばし過ぎだよ」
「そうよ、何かあったの?」
そんな突然だったかなと思いつつも、二人に先程の成果を見せる。
「じゃじゃーん。見てよ、スク水永遠」
ノートに描かれているのは、プールサイドに座り、上目遣いで見てくる永遠。
「中々上手に……どうして私なのよ」
「さっすが、たまき氏、こんな永遠なら思わず抱き締めて、ぺろぺろしちゃうね。ウヘヘヘヘ……ところでさ、どうしてスク水なのにパンストを?」
スク水ならニーソ、いやそもそもニーソなどを履いた状態でプールになんて入らない。
「それは、永遠って、何だかんだで生足を見せないようにしているなあって思って」
私がそう言った瞬間、永遠が反応した。これは何かある。
「確かに、いつも隠しているよね。折角の綺麗な足なんだから見せればいいのに」
日向の言葉にあからさまに拒絶の態度を取る。
「え、そんな……見ても何も得にならないわよ。そうっ、つまらないわ」
少々の冷静さを欠いた永遠、明らかにおかしい。そして思い付く一つの可能性。
「もしかして、永遠の弱点って『脚』なんじゃ?」
「ああ、なるほど、それで隠して」
「そ、そんなことなんてあり得ないわ。私の弱点が脚だなんて、ば、馬鹿にしているの」
「なら確認してみよう」
「そうしましょう」
「――!」
私は逃げられないように永遠を拘束した。そして日向がゆっくり永遠の脚に触れようと。
「や、やめて、お願いだからっ。そうよ、脚が弱いの、ほら白状したんだから、ね? いや、お願い……あああああああああああああああああ!!」
昼間なのに、このような声を大音量で流してすいません、というのが正直な感想だった。日向が永遠の脚に触れた途端、永遠は抵抗することなく落ちた。その時の声があまりにも卑猥なものだから、ちょっぴり興奮してしまった。クラスのみんなには申し訳ない。
「まさか、これほどとは」
「いやぁああああ――」
調子に乗った日向が崩折れる永遠を更に攻める。
「おい、何をやっているんだっ!」
そして委員長に怒られた。
委員長の言い分は尤もで、日向は平身低頭に謝罪した。ちょっとした出来心だったけれど、もう少し場所と時間を考えるべきだった。予測出来なかったのかといえば、出来たのであって、欲望に任せて行動したのはまずかった。でも、一時の恥で得たものは大きい。難攻不落の永遠が完全に落城したのだ。その証拠に「日向に貞操、奪われちゃった」なんて言っていた。私が欲しかった、という後悔と嫉妬はさておき、これで何かあった時に、永遠に攻撃することが、あるいは反撃することが可能になったのだ。
本物は私がとどす黒い欲望を渦巻かせながら、今度は大人しく先生の話を聴く。
ところで、本日は木曜日に当たるのだが、本日で課外が終了する。したがって、明日から夏休み終わりの課外まで休みということになる。晴れて、私達は解放されるのだが――宿題なんて焼却処分するもの――実は予定なんて一切立てていない。勿論、彼氏とかそんな消毒するべき存在はいないから、それと企画のこともあるから、夏休みは全部企画の為に使われることになる。とはいえ、夏休み全部をそうして過ごすなんてことは出来ない人間なので、偶には何処かに遊びに行ったり一日中家でごろごろしていたりしたい。夏休みというのは、あくまでも休みなのだから、日頃消費している英気を養わないと。
自分なりの結論で納得している私を余所に、二人は至極真面目な話を。
「そういえば、とわ氏はオープンキャンパスに行くの?」
「日向、早い所はもう終わっているわ」
オープンキャンパス……そのような行事もあるのか。
「へぇー、そうなんだ。で、やっぱりとわ氏は文学方面なのかな?」
「そうね、私としてはその方が嬉しいけれど、ここまで一貫して文学文学言っていると、『君は偏っている』なんて言われてしまいそうね」
「誰が言うのさ。そうかぁ、私もそろそろ決めないとなぁ……」
進路の話は正直なところ苦手で、自分の将来と言われてもピンと来ないし、だからといって安易に大学へ進学と言いたくもない。やはり大学は研究機関で、何というかそれなりの覚悟がない人間が行ったところでそれは自己満足に終わってしまって何の肥やしにもならないと私は思う。そんな大層なことを言うなんて偉そうだけど賛同者はいる……かな?
「漫画だと……芸術ではなくて……表象文化という分野かしら」
「へぇ、漫画の研究出来るんだ。それよりさ、たまき氏はどうなのかな。芸術?」
「そうね……」
全く以て考えていない。確かに絵に興味があるからそっちの方向へ行けたらいいけど、私はそこまで二人みたいに押し通すことが出来ない気がする。親とかの圧力で就職に役立つ方面へなんて言われて流されてしまうそう――文系の時点で就職も何もない気がするが。
「きっと環は芸大にでも行って、画家になるんじゃないかしら」
「わぁお、世界を股に掛けるたまき氏、カッコイイ!」
私の知らない所で話がどんどん大きくなっていって、しまいには紫綬褒章とか畏れ多いことを口にする二人。そんな罰当たりなことを言っていると、大変なことになるよ、と二人よりももっと過激な言葉を使って注意した。
若気の至りというのは本当に怖いもので、まるで自分が絶対的権力を持っているかのように感じてしまい、だからこそセカイ系とか厨二病とかそんな類のものが出て来て……あ、全く関係無い上に、書いている人は大人だ。兎に角、若者というのはエネルギーに溢れていて、それをどう制御するか分からないから、その上考えも足りないから、稚拙なことをして白い目で見られてしまうのだ――私もまだまだ若いはずだけども、いつかそんな頃もありましたなんて言える時が来たらいいなあ。
「ところで、夏休み中、どっかみんなで遊びに行こうよ」
閑話休題ということで、本日の本題はこれ。
「どっかって言っても何処が良いの、海? それとも山?」
「残念だけれど、私はどっちも嫌ね」
「そんなこと言ってるからとわ氏は体育の成績が悪いんだよ」
「あんまり遠くじゃなくていいよね。すると、雷都?」
「雷都……ライトニングって呟くの?」
「日向、それはどういう高等なギャグなの?」
「え、だから雷都にいるというのをingを付けてライトニング」
「流行らないと思う」
「そうね」
「酷いよ、考えた知り合いに謝れ!」
「それよりどうする? 大宮とか秋葉原とかそういう選択もあるけど」
「無視するなぁっ!」
「いえ、ここは敢えての日光?」
「まさかの選択だね。なるほど日光……えっと」
「一体何を考えているか知らないけど、その程度じゃダメね」
「なっ、まだ何も言ってないじゃんか」
「日光ねぇ……宿題あるしなぁ」
「だから無視するなあ!」
日光は近いけれど見る所が多い上に、基本的に山登りになるから体力が消滅していき、そんなことを言ったら先に挙げた候補もそういうことになって、その上宿題なんて言ってしまった為に、何処かへ遊びに行こうなんて企画は終了しそうになった。よくよく思うと私達三人は引き籠もりに近い……というより片足のかかと数センチだけがかろうじて違うくらいで、ほぼ引き籠もりと言っていいくらいの引き籠もり度なのだけれども、折角なのだから何処かへ行きたいもの――でもきっと最後は家が一番ということになるのだと思う。この間なんて、家から一歩外に出た瞬間に帰りたくなった。
色々と確認している内に休み時間が終わってしまった。やっぱり十分という時間は短すぎると思う。授業が五十分なのに対して休み時間が十分だなんて、正直なところ許されないと思うのだけれど、そんなことを言ったら大学は九十分らしいからダメかもしれない。
それより、遊びに行く場所を決めないといけない。まあ、宇都宮か大宮が妥当だけれど、そういえば、どっちも最近行ったように思う――とはいえ春休みと大型連休中だけれど。やはりここは秋葉原か池袋という選択肢しかないように思えるけど、年がら年中そんな所ばっかりではいけないような気がしてならない。……日光か。
先生はちょうど日光に行った時の思い出話をしている。おみくじのエピソードを聞き流しながら物事は重なるものだと思いつつ、時には落ち着くことも大切だと感じる。
ということで――
「夏は日光に行きましょう!」
お昼ごはんを食べ始めた後の第一声がそれだった。私としてはその後に色々と尋ねられるかと思っていたけれど、何も訊かれることなく即決された。
「それにしても、日光……ということは日帰り?」
「朝早くに行って、寄り道しなければ大丈夫かと」
「そういえば、来週あたりに扇の的大会なるものがあるらしいわ」
「宮原さんが言ってたやつかな? 扇に向かってやるんだっけ?」
「那須与一さんですな、よつぴいてひやうどはなつ」
「そうそう、折角だからその日にしましょう」
「それならきっと委員長との怪しい現場を激写出来るかもね」
「たまき氏は略奪愛が好きなのですかな」
「どうしてそうなるの。私なら永遠をお嫁さんに迎えたいなぁ」
「あら、環ったら……///」
「なっ……わ、私はどうなるのっ」
「日向は……ペット?」
「ふふ、可愛がって上げますからねぇ」
こうして日向を可愛がりつつ昼食が終わった。
部室に行くと既にみんな忙しそうに制作に取り掛かっていた。その様子を見て未だに何も出来ていない自分に嫌気が差してくるけれども、結局何も出来ないのだから質が悪い。
今までのことを思い返すと、今こうして何も描けずにいるなんて無かったように思える。常に何かしら描きたいものを見付けては絵筆を執ることが当たり前だったから、こうして悩んでいる状態なんて私にとってはあり得ないことだった。こんなことを言うと怒られるかもしれないけれど、そうだったのだから仕方がなく、でも今は妙な声を出しながら何も出来ないでいる。もしかしたら、今は描きたいものがはっきりとあるからいけないのかもしれない。同じ時間という描きたいものがあるから、こうして悩んでいるのであって、今までは描こうとするものが出現していたから問題がなかった――遊べと要求してくるうちのにゃんこのように描けと要求してきたのかも。そうだとすると私はつくづく幸せ者。
それで結局何も進展はない。ついつい周りを窺ってしまって集中なんて出来なくなっていて、みんな学校の開いている時は描きに来るのかなぁ、と余計なことを考えてしまう。この場所は今の私にとっては良くないのかもしれない。
美術部の良いところ(この学校に限定)は、活動に関して特別な決まり事がなく、良い意味でも悪い意味でも自由なところだ。だから、学校が開いている限りはいつでもここで活動出来るし、ここでなくとも家でも何処でも構わない。その上に、入部した以上は必ず制作せよなんてことはなくて、その所為で鑑賞専門なんて人もいるし、当然ながら幽霊も。
だから――
「お先に失礼します」
と、言って出ても「じゃあね」とだけ返事されて教室を出られる。きっと、特に運動部とかはきっちり活動時間が決まっていて、先輩より先に上がろうものなら半殺しにされて、一方で我が美術部はとても優しいというか面倒くさがりやというか……でも、その反面、頑張ろうとしないといつまで経っても元のままで、趣味としてやっているなら良いのかもしれないけれども、極端な話、画家になろうだなんて思っている人は余程に頑張らないといけない。その点においては、ある程度の強制があっても良いかもしれない。
……それで、教室を出たのは良いけれど、何処に行こうかな。
考えなしの行動は良くないと常々思うのだけれど、私の場合は頻繁にやってしまうから本当に困ってしまうもので、よくよく振り返ってみるとどうも今回の企画もその節がある。
兎に角、何処へと考えている内に、いつの間にか部室棟の二階へ来ていた。無意識とは怖いものだと思うが、こうなったのはどうしようもないから、どちらか、文芸部か漫研かに入ろうと思う。今日は今朝……といっても休み時間だけれども、その一件があるから、永遠に近付くと大変なことになりそう。ここは漫研が妥当な判断。
「あ、良い時に来たね。ねぇ、たまき氏も手伝ってよ」
正解は文芸部だった。
こうして私は日向の手伝いをさせられる羽目になった。私の担当はベタ塗りで、それで永遠はペン入れの終わった絵に消しゴムを掛ける作業……あれ、文芸部に行っても結局のところ漫研に誘導されて、同じ結末になったんじゃ……。最初から確定されていた運命に悲しくなりながらも、私は逆らうことなく日向の作業を手伝う。
今日はお休みして適当にお喋りをして帰ろうと思っていたにもかかわらず、こんな目に遭うなんてと嘆かわしくなるのだけど、ちょっとでも注意を逸らすと大変なことになってしまう――インクを零したり、余計な箇所を塗ってしまったり。
それにしても、一体これだけの量をいつ描いていたのだろう。日向に徹夜をした素振りはないし、だからといって課題を犠牲にした様子もなく、課外後の時間と自宅での数時間で描いたことになるのだけれど、緻密な描き込みもあるし、日向の集中力と仕事量が良く分からない。日向はいつも適当で(悪い意味で)何をしているのか全く理解出来ないのだけど、いざという時になると――漫画云々の時だけ――それこそ良く分からない力を発揮して訳の分からないことをしたりと訳が分からない。そして、いつも「寝ている間に妖精さんが」と何処かで聞いた台詞を言ってその後妙な妄想を披露してみせるのがつ――!! 余計なことを考えていたら、危うく間違えるところだった……。
実は怒ると一番怖いのは日向だと私は思っていて、永遠ならこのまま殺されても良いなと首を絞められながら思えたけれども、日向の場合そんなことを考える余裕を与えられること無く心の底から恐怖を抱いた。だから、日向の手伝いをする時には絶対に失敗は……しないようにと肝に銘じて、それは永遠も同じらしく、軽口はおろか息さえしていないと心配になるくらいに静かに黙々と作業をこなしている。
そんな訳で夕方近くになる頃には、私達は本当にくたくたに疲れていた――日向は更に元気になっている。これから夏休み本番だというのに、幸先が非常に思いやられる状況に、今夜はにゃんこと一心不乱に戯れようかと少し考えたけれど、高校生としてやらなければならない課題の存在を考えると、またまた萎えてくる。
「さてと、もう一息だっ」
日向が私の心中を知らずに、明るい未来に向かって突き進もうと高らかに宣言するのを見ると、君の歩む道は修羅なのだと教える必要があるのかもしれない。そういえば、感謝の言葉はそこはかとなくあったような気がするけれども、労働と釣り合っていないと判断せざるを得ない。――労働代価として日向のマシュマロおっぱいを揉もう。
永遠と共謀して労働代価を勝ち取った帰り道もすぐ終わり、普段と変わらない我が家に辿り着き、世間話交じりの夕食、にゃんこによる妨害を受けた入浴を経て、少しばかりの寝支度を整えた後に、机に向かって今日のノルマ最後の問題を解くに至る。
「もうちょっと待っててね、もうすぐ終わるから」
"finaly"と書いて、課題のノルマは終わった。
にゃんこと戯れる最中に、私は明日からの生活をどうすべきか考えた。明日から学校に行かなくて良いのだけれども、果たして家にいて出来るかどうか心配している――課題ではなくて企画のこと。けれども、学校にいて進展したかといえば全然で、とはいえ、何も閃かずに家にいるよりも、外に出て何か考えた方が良いかもしれないと思った。
「朝、散歩でもしようかな」
我ながらに良いアイディアだと感心しながらにゃんこの肉球をぷにぷにして、どさくさ紛れに触った永遠のおっぱいの感触を思い出していた。