王太子との婚約を解消しましたので、王家の冬支度もお引き継ぎください
婚約者として引き受けていた仕事は、婚約が終われば次の人へ返す。
ただ、それだけのはずでした。
王家の冬支度は、夏に始まる。
七月の終わりに北部の小麦収穫量を確認し、八月には薪炭の契約を結ぶ。
九月に薬草と毛布の在庫を数え、十月には除雪人員と馬車の手配を終える。
雪が降ってからでは遅い。
「王家の冬支度」と呼ばれているけれど、実際には王宮予算で動く王都の冬季対策だ。
備蓄、施療院への配給、主要街道の除雪まで、いくつもの部署をまたぐ。
婚約が決まった六年前、最初の二年は各部署について回るだけだった。
三年目から調整会議に座り、ここ二年は実務の取りまとめまで任されている。
「アメリア。話がある」
王太子エドワード殿下にそう呼ばれたのは、八月十二日の午後だった。
場所は王宮西棟の小応接室。
机の上には、私が午前中に提出したばかりの薪炭契約書がまだ置かれている。
殿下は立ったままだった。
「婚約を解消したい」
驚かなかった、と言えば嘘になる。
けれど、予感がまったくなかったわけでもない。
この春から王家と南方諸侯の交渉が続いていた。
国境地帯の港を安定させるには、南方最大の伯爵家との結びつきを強めた方がいい。
私の父であるリンドール公爵も、その話を知っていた。
「理由を伺っても?」
「君に非はない」
「それは理由ではありません」
殿下は困ったように息を吐いた。
「南方との同盟を婚姻で固める。王宮会議の結論だ。君の父上にも昨日、方針を伝えた」
「お父様は?」
「公爵家として異議はない、と。ただし、婚約解消は君と私が署名して成立する」
そこまで聞けば、話は終わっている。
私は背筋を伸ばした。
「承知いたしました」
「……それだけか」
「決定事項なのでしょう?」
「そうだが」
「でしたら、私から申し上げることはありません」
言葉にすると、思ったより平らだった。
六年間、未来の王太子妃として生きてきた。
その未来が今、机の上から書類を一枚抜くように消えた。
痛くないわけではない。
でも、痛いからといって薪炭の契約期限が延びるわけでもない。
「それでは、冬季業務の引継ぎを始めます」
殿下が瞬きをした。
「今?」
「今からでないと間に合いません」
◇
正式な婚約解消は九月一日。
それまでの三週間弱で、私は担当業務を洗い出した。
穀物備蓄。
王都北倉庫、東倉庫、西倉庫の在庫確認。
薪炭。
王宮、施療院、孤児院、兵舎向けの納入量調整。
薬草。
冬季に増える肺炎と凍傷用の乾燥薬草。
除雪。
北門から王宮までの主要道、施療院へ続く坂道、王都外縁の三本の街道。
それだけなら、書類にできる。
問題は、その下にあるものだった。
「北倉庫の小麦は数字どおり受け取らないでください」
引継ぎ担当に決まった財務官補佐のローレンスが、眉を寄せた。
「どういう意味です?」
「去年から湿気が多いんです。在庫台帳は搬入した袋数なので千二百。けれど、冬前の検品で毎年一割ほど傷みが出ます」
「廃棄分は?」
「倉庫の検品簿には残っています。ただ、冬季計画へ上がってくる数字は在庫台帳の方です」
ローレンスが眉間を押さえた。
「数字は間違っていないのに、使う側では間違う」
「はい」
「去年までは?」
「検品が終わった時点で、私が東倉庫から不足分を回していました」
口にして、自分でも嫌なところに気づいた。
「つまり、その調整が手順になっていない」
「……そうです」
ローレンスは何も言わなかった。
その沈黙が、少し痛かった。
◇
九月一日。
婚約解消の文書に、私と殿下の署名が並んだ。
私はその日の午後、王太子妃教育の部屋から私物を運び出した。
六年分にしては少ない。
本が十四冊。
茶器が一組。
冬季配給表の写しが束で三つ。
「最後のは私物ですか?」
侍女のミーナに聞かれた。
「……違うわね」
机へ戻した。
癖になっている。
何でも持ち帰って確認する癖が。
帰る前、ローレンスへ引継書を渡した。
三百頁を超えている。
「多いですね」
「減らした結果です」
「これ以上あったんですか」
「頭の中には」
冗談のつもりだった。
ローレンスは笑わなかった。
「それが一番困ります」
「ええ。私も今、そう思っています」
◇
婚約解消後、私は王宮へ行かなくなった。
最初の一週間は落ち着かなかった。
朝になると、北部の気温を確認しそうになる。
雨が続くと、小麦の乾燥具合が気になる。
でも、もう私の仕事ではない。
父は何も聞かなかった。
母だけが、夕食の席で一度、
「暇そうね」
と言った。
「かなり」
「では、家の帳簿でも見る?」
「嫌です」
「元気そうで安心したわ」
その程度だった。
三週間ほどして、私は王都商業院の冬季物流相談室へ顔を出すようになった。
もともと王宮との取引調整で何度も出入りしていたので、相談室の主任とは顔見知りだった。
王宮のためではない。
商人側が毎年どこで詰まるのか、前から気になっていたのだ。
そこで、王宮の机から見ていた冬と、商人が相手にしている冬がずれていたことを知った。
「王宮は十月末納品って簡単に言うでしょう」
薪炭商の女主人が言った。
「はい」
「北の山は、その頃もうぬかるむ年があるのよ。だから本当は九月に半分入れたい」
「なぜ言わないんです?」
「契約書が十月末だから」
私は額を押さえた。
六年やって、知らなかった。
いや。
聞こうとしなかったのだ。
◇
最初の連絡が来たのは十月十八日だった。
王宮からではない。
施療院の院長からだった。
『今年の毛布がまだ届きません』
私は手紙を読み、机に置いた。
返事を書きかけて、やめた。
もう担当ではない。
代わりに、商業院の受付へ回した。
二日後、ローレンス本人が商業院へ来た。
「ご相談があります」
「王宮の件ですか」
「はい」
「でしたら、相談料が発生します」
彼は少し驚いてから、頷いた。
「もちろんです」
そこは話が早かった。
「毛布の納入が半分、止まりました」
「契約先で何か?」
「九月末に織機小屋で火事があったそうです。人的被害はありません。ただ、今季分を全部は織れないと」
それなら引継ぎ時点では誰にも分からなかった。
「代替調達は?」
「王宮管理局は契約変更が必要だと言い、医務局は必要枚数だけを出している。財務局は追加予算の根拠待ちです」
「誰も間違ってはいませんね」
「だから止まっています」
以前の私なら、三部署を一日で回っただろう。
私は机の上の相談票を引き寄せた。
「代替になりそうなところは二つ知っています。王都南部の織物組合と、東区の修道院工房です。ただ、今から一か所で全量は無理です」
「紹介していただけますか」
「紹介はできます。必要枚数の決定と契約は、そちらでお願いします」
「承知しました」
私は紹介状を二通書いた。
そこで終わるはずだった。
「もう一件あります」
ローレンスが言った。
「薪ですか」
「なぜ分かったんです」
「この時期に来るなら、次は薪です」
◇
問題は薪そのものではなかった。
納入量は足りている。
契約も成立している。
ただし、王宮に届くはずの二百荷が、まだ北門の外に止まっていた。
「北門の通行税が変わった?」
「今月から大型荷車だけ追加徴収です」
「財務局の新制度ですね」
「ええ」
「薪炭商は旧契約だから、その分を負担したくない」
「その通りです」
私は笑いそうになった。
「私、六年間ずっとこれをやっていたんですね」
「何をです?」
「部署と部署の間で、誰の仕事でもないものを拾うことです」
財務局は通行税を決める。
王宮管理局は薪を買う。
門衛局は規則どおり税を取る。
商人は契約どおり納品しようとする。
誰も規則を破っていないのに、薪は門の外で止まっている。
「どうされていたんです?」
「去年なら、私が財務局へ行って特例証を取っていました」
「今年は?」
「取りません」
ローレンスは頷いた。
「そう言うと思いました」
「代わりに、契約変更してください。追加税を王宮側が負担するか、納入価格へ上乗せするか。来年以降も続く制度なら、特例で逃げるべきではありません」
「時間がかかります」
「今年はかかります」
「寒くなる」
「だから、急いでください」
少し前の私なら、自分で財務局まで行ったはずだ。
今日は椅子から立たなかった。
それでいいのか、まだ少し落ち着かない。
◇
十一月二日。
初雪が降った。
例年より九日早い。
王都の屋根が白くなった朝、私は商業院の窓から街を見ていた。
「北街道、閉じました」
職員が報告に来る。
「どこで?」
「第三峠です。昨夜からの積雪で馬車が二台止まっています」
「除雪隊は?」
「王家契約の隊が向かっています」
それなら大丈夫。
そう思った。
午後、ローレンスがまた来た。
今回は顔色が悪い。
「第三峠の除雪隊が半分しか動けません」
「契約人数は?」
「揃っています。ただ、東街道の村から来る季節人夫の契約開始が十一月四日です」
私は目を閉じた。
そうだった。
平年の初雪はもっと遅い。
契約の日付そのものは間違っていない。
「去年も早く降りましたよね」
「はい。あの時は?」
「西区の建設組合から、三日だけ人を借りました。臨時費から出して」
「今年も頼めますか」
「頼めると思います。でも、私が毎年その場で電話……いえ、使いを走らせる仕組みでは駄目です」
窓の外で雪が強くなった。
「では?」
「十一月一日から季節人夫の契約開始日まで、建設組合と待機契約を結んでください。雪が降らなければ待機料だけ。早く降った時だけ出てもらう」
ローレンスはしばらく黙っていた。
「去年の臨時対応を、今年は契約にする」
「はい。去年の私は、冬を越すことしか考えていませんでした」
「それも引継ぎ事項だった?」
「本当は」
自分で言うと、ひどい。
有能だったつもりで、属人化させていた。
冬を回すことだけ考えて、次の人が回せる形にしていなかった。
「すみません」
ローレンスが顔を上げた。
「なぜあなたが謝るんです」
「引継ぎが不十分でした」
「三百頁以上ありましたけど」
「頁数の問題ではありません」
「それは同意します」
少しだけ笑った。
◇
第三峠は翌日の夕方に開通した。
王家は西区の建設組合と、早雪に備える待機契約を結んだ。
毛布も、二つの工房へ分散発注されて間に合った。
薪炭の通行税は契約価格へ正式に上乗せされた。
北倉庫では、初めて「帳簿上の在庫」と「実使用可能在庫」を分けて記録することになった。
十一月が終わる頃には、毛布も薪も街道も、新しい手順で動いていた。
私の名前が入っていない書類で回っているのを見て、意外なくらい肩の力が抜けた。
◇
十二月の半ば。
王太子エドワード殿下が商業院へ来た。
供は一人だけだった。
「相談料は払う」
開口一番そう言ったので、私は笑ってしまった。
「何のご相談でしょう」
「来年の冬季物流について」
「今年ではなく?」
「今年はもうローレンスが回している」
「そうですか」
「大変そうだが」
「でしょうね」
殿下は苦笑した。
「君がやっていたことを、少し誤解していた」
「私もです」
「君も?」
「自分が有能だから回っていると思っていました」
殿下が首を傾げる。
「違ったのか」
「有能だった部分もあると思います」
「そこは否定しないんだな」
「六年やりましたから」
私も笑った。
「でも、一人で解決しすぎました。だから、私が抜けると困る仕事になったんです」
殿下は窓の外を見た。
「王宮側も同じだ。君に頼めば済むと思っていた」
「では、お互い様ですね」
「そう簡単に言っていいのか」
「もう婚約者ではありませんので」
一瞬だけ、空気が止まった。
でも、それだけだった。
「南方との婚姻は春になる」
「伺っています」
「次の妃候補一人には、冬支度を背負わせない」
「賢明だと思います」
「代わりに、王宮内に冬季調整室を常設する」
私は少し驚いた。
「専任で?」
「六人。財務、倉庫、街道、医療、商業、王宮管理から一人ずつ」
「それなら回ります」
「君に外部顧問を頼みたい」
私はすぐには答えなかった。
昔なら、頼まれた瞬間に引き受けていたと思う。
「契約条件を見てから決めます」
殿下は笑った。
「それでいい」
◇
その冬、王都で大規模な凍死被害は出なかった。
雪は多かった。
薪も一度足りなくなった。
施療院では薬草の配送が二日遅れた。
何も起きなかったわけではない。
それでも、誰か一人が全部の穴を埋めなくても冬は越せた。
三月。
私は王都商業院の正式職員になった。
肩書きは、冬季物流調整官。
王家だけではなく、商人や施療院、地方領主からも相談を受ける。
机の上には、来冬の資料が積まれている。
北部の薪炭価格。
南部の毛布生産量。
今年新しくできた除雪協定。
その一番上に、王宮から届いた契約書があった。
外部顧問。
期間一年。
週二日まで。
私は最後の頁を確認して、署名した。
今度は、自分の仕事として。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、王宮の冬支度を一人で抱え込んでいた女性の話を書きました。
仕事を返すだけではなく、その仕事が次の人にも回せる形になっていたのか、という部分まで描いています。
楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで反応をいただけると、今後の作品づくりの参考になります。
空席あり




