最終話:『午前二時の迷子たちへ』
小久保紬が羽田空港から遥か遠い異国——シンガポールへと旅立ち、
僕の手元にあのカセットテープと手紙を残していってから、季節は静かに、けれど確実に巡っていった。
あれほど東京の街を苛烈に焼き尽くしていた猛暑の牙も、十月を迎える頃には急速に衰えを見せ始めた。南青山や表参道の街頭を彩る街路樹の葉は少しずつ黄色く色づきはじめ、
夕暮れ時になると、どこか冷たく乾いた秋の風がビルの谷間を吹き抜けていく。
住宅街にある古い賃貸マンション。
深夜一時五十分。
デスクの上に置かれたパソコンのモニターが、青白い光を静かに放っている。
画面の脇には、KNOXのPR部から会社経由で届いたあの古びた小さな木箱と、15年前のNHKコンテスト応募用のカセットテープ、そして彼女の筆跡が残るクリーム色の便箋が、今も整然と並べられていた。
あの日——静まり返った自室で一人、彼女の手紙を読み、涙を流した夜から、僕の中で何かが決定的に変わった。
彼女は去った。
藤代涼介という完璧で誠実な伴侶とともに、僕の届かない眩しい未来へ向かって。
だが、彼女が最後に残していった「自分を許してあげてください」という言葉は、
十五年間ずっと僕の心を金縛りのように縛り続けていた罪悪感の呪縛を、
温かく解きほぐしてくれたのだった。
「彼女はサクの正体に気づいていたのか、それとも知らなかったのか」
その答えは、もはやどちらでもよかった。
彼女がサクという存在に救われ、そして現実の樋口朔という身勝手な男の嘘までをも丸ごと包み込んで許してくれたという真実。
それだけで、僕の十五年間の暗闇には十分すぎるほどの光が差し込んでいたのだから。
僕は引き出しの奥からマイクを取り出し、スタンドにしっかりと固定した。
オーディオインターフェースの電源を入れ、ボイスチェンジソフトを立ち上げる。
時計の針が、深夜二時を指し示した。
僕はマイクに向かって息を吸い込み、静かに、けれどこれまでで最も穏やかな声を乗せた。
「……こんばんは。時刻は深夜二時になりました。
『午前二時の迷子たち』……今夜も、始めていきたいと思います。
パーソナリティの、サクです」
配信開始の通知がネットの海へと放たれ、画面右側のチャット欄が瞬く間にリスナーたちの温かい言葉で埋め尽くされていく。
《サクさんこんばんは!》
《今夜も聴きに来たよ!》
《最近のサクさん、なんだか声が少し優しくなった気がする》
《今日も1日疲れたから、サクさんの声に癒やされに来ました》
僕はひとつひとつのコメントに優しく微笑みながら、マイク越しに語りかけた。
「みなさん、今夜も集まってくれてありがとうございます。
秋の風が冷たくなってきましたね。風邪など引かれていませんか?
……今夜も、皆さんが抱える誰にも言えない悩みや、夜の寂しさを、この場所で少しだけ分け合えたらと思っています」
閲覧者リストの中に、『夜のくじら』の名前はない。
けれど、僕は知っていた。
彼女がどこにいても、たとえこの配信を聴いていなくても、僕たちの声と想いは、確かにあの夏の夜に交差し、お互いの人生を救ったのだと。
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それから数ヶ月が経ち、季節は冬を経て、春の芽吹きを感じさせる三月を迎えていた。
ステッド・デザインのオフィスでは、新年度に向けた新しいプロダクトの打ち合わせが慌ただしく進められていた。
「おい、朔! これ見ろよ!」
一ノ瀬拓海が興奮した様子で、デスクの上のタブレット端末を僕の目の前に突き出してきた。
画面には、KNOXの海外公式ウェブサイトのトップページが表示されていた。
「KNOXのシンガポールフラッグシップショップオープン記念特集だってさ!
見てみろ、お前がデザインしたアッシュグレーのペンケース、東南アジア全域で爆発的に売れてて、現地でも大絶賛されてるぞ!
『日本の伝統的な職人美とモダニズムの融合』だってさ!」
画面の写真には、洗練されたシンガポールの最新ショッピングモールの店舗内で、
大勢の顧客に囲まれながら華やかにインタビューに答えるKNOXの現地スタッフたちの姿が写っていた。
そして——その記事の最後、現地PRディレクターとして紹介されていた写真の中に、彼女の姿があった。
ライトベージュのジャケットを綺麗に着こなし、知性的な眼鏡の奥で晴れやかに、けれどどこかあたたかく微笑む小久保紬。
その表情には、かつて表参道のカフェや南青山のオフィスで見せていたような、過去の傷に怯える陰りは一切存在しなかった。
自分の足で立ち、自分の人生を堂々と切り拓いている、一人の強い女性の顔だった。
「……すごいな。完璧な仕事だ」
僕が素直な称賛を口にすると、一ノ瀬はニヤリと笑って僕の肩を小突いた。
「だろ? 小久保さん、向こうでも大活躍してるみたいだな。
移住手続きも無事に終わって、先月、藤代さんと現地で挙式されたらしいぞ。
KNOXの元同僚から聞いたわ」
「……そうか。それは、本当に良かった」
胸の奥に、嫌な痛みはもう来なかった。
ただ、温かい春の光がじんわりと広がっていくような、深い祝福の感情だけが僕の心を満たしていた。
彼女は幸せになったのだ。
僕がかつて傷つけ、置き去りにしてしまった少女は、十五年の時を経て、自らの手で最高の幸せと未来を掴み取ったのだ。
「樋口、お前も最近いい顔するようになったよな」
一ノ瀬が少し感慨深そうに、僕の顔を覗き込んできた。
「前の仕事人間だった頃のお前ってさ、どこか『自分を罰するために働いてる』みたいな暗いオーラがあったけどさ。
最近のお前、デザインに温かみが出てきたっていうか、すごく良い質感作るようになったよ。
クライアントからの評判も上々だぞ」
「……そうかな」
「おうよ。お前が吹っ切れたおかげで、うちの会社も安泰だわ!」
一ノ瀬の快活な笑い声がオフィスに響く。
僕は窓の外を見上げた。ビル街の隙間から見える空は、澄み切った春の青色に染まっていた。
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その日の夜。
仕事を終えた僕は、新橋のオフィスを出て、静かな足取りで表参道へと向かった。
数ヶ月前、彼女と再会し、そして決定的な拒絶の言葉を交わしたあの街。
テラス席のあるカフェの前を通りかかる。
今、その場所には穏やかな春の夜風が吹き抜けており、街灯のあたたかな光が街路樹の若芽を優しく照らしていた。
僕はカフェのテラス席の端に腰掛け、温かいホットコーヒーを注文した。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を開く。
YouTubeの『午前二時の迷子たち』のチャンネル管理画面。
登録者数は、今や数万人に達していた。
深夜に一人で孤独と戦う人々、現実の痛みに耐えかねて迷子になっている人々が、毎夜僕の配信に集まってくる。
僕は「サク」として、これからも声を届け続けるだろう。
誰の顔も作らず、何の見返りも求めず、ただ暗闇の中にいる見知らぬ誰かの夜に、小さな灯りをともすために。
それが、かつて紬を傷つけ、そして紬に救われた僕が選んだ、これからの生き方なのだから。
ふと、スマートフォンに一通の通知が届いた。
それは、チャンネルのコミュニティ投稿に寄せられた、新しいコメントだった。
差出人のアカウント名は、無機質な英数字の羅列。
アイコンも初期設定のままだ。
だが、そのコメントに記された短い文章を見た瞬間、僕は言葉を失った。
『サクさんへ。
お久しぶりです。
新しい街はとても温かく、眩しい光に満ちています。
私は今、とても幸せに暮らしています。
サクさん。
今夜もどこかで、あなたの優しい声に救われている迷子たちがきっとたくさんいますね。
どうかこれからも、その優しい声を届けてあげてください。
遠い空の下から、あなたの幸せを心から祈っています。』
風が、静かに頬を撫でていった。
僕はスマートフォンの画面を見つめたまま、ゆっくりと空を見上げた。
東京の夜空の向こう、別の夜空の下で、彼女もまた、この同じ空を見上げているのかもしれない。
「……ありがとう、紬」
ボイスチェンジャーのない、僕自身の本当の声で、僕は静かに呟いた。
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自宅へ帰った僕は、時計の針が深夜二時を指すのを待った。
部屋の灯りを消し、デスクのスタンドライトだけを点ける。
マイクに向かい、オーディオインターフェースのスイッチを入れる。
画面上に『配信中』の文字が点灯する。
「……こんばんは。時刻は深夜二時になりました。
『午前二時の迷子たち』……今夜も、始めていきたいと思います」
僕は深呼吸をし、ボイスチェンジャー越しの穏やかな声で、世界に向けて語り始めた。
「今夜も、この広い世界のどこかで、
眠れずに夜の暗闇に取り残されている迷子たちがいるかもしれません。
道に迷うことは、決して恥ずかしいことではありません。
誰かを想い、誰かを傷つけ、自分自身を嫌いになってしまう夜があってもいいんです。
でも……覚えていてください。
あなたが歩んできた傷だらけの道のりも、
誰かを愛そうとした愚かな嘘も、
すべてはあなたが懸命に生きてきた証です。
どうか、自分自身を責めないでください。
あなたを許し、愛してくれる人は、必ずどこかにいます。
……今夜も、あなたの夜が、どうか少しでも穏やかなものでありますように。
パーソナリティの、サクでした」
チャット欄が、溢れんばかりの感謝の言葉で埋め尽くされていく。
僕はマイクのスイッチを切り、静かにヘッドフォンを外した。
暗闇の中、卓上の木箱に収められた古いカセットテープが、スタンドライトの光を受けて静かに佇んでいた。
15年前のあの日、二人で放課後の部室で未来を夢見ていた僕たちの声。
過去は消えない。
犯した過ちも、つけた傷跡も、一生消えることはない。
けれど、人はその傷を抱えたまま、誰かを愛し、誰かを救い、生きていくことができる。
僕は窓を開けた。
深夜の澄んだ春の風が部屋の中に吹き込み、僕の頬を優しく撫でて去っていった。
午前二時の静寂の中、僕は新しい明日へ向かって、静かに空気を震わせた。
(完)
本作こちらで以上となります。
稚拙な本作を最後まで読んでいただいた、読者のあなた様に深く感謝申し上げます。
終盤の展開について、モヤっとする方も多いかと思います。
今回、大人になって抱えている過去や後悔や、どこか忘れられないものに対して触れる話を描きたいと思って書き始めたのが本作となります。
そのため、ハッピー(?)なエンディングだったかと存じます。
「これが現実かな」という達観した私と、「フィクションだから幸せでいいじゃない」と思う私の2つの視点がまとまらず、正直6話終わりぐらいまで落としどころをどうするか決めかねていました。
もし、もっと別のエンディングも見たい、読んでみたいと思っていただける奇特な方がおりましたら感想等でご一報くださいませ。




