第38話 氷の方程式
シノンとディアブロの『初デート』から数日後。学園の放課後は、いつもの活気を取り戻していた。
チーム『アベレージ・ワン』の面々は、ギルド活動の合間を縫って、それぞれが『師匠』の元へ、特訓に向かっていた。
王都郊外、演習場跡地。そこは、アリアナと氷の魔将グレイの、いつもの特訓場所だった。
だが、今日のアリアナは、到着するなり、異様な光景を目にした。
いつもなら涼しい顔で佇んでいるはずのグレイが、珍しく眉間に深い皺を寄せ、空中に複雑な『魔法陣』を展開したまま、微動だにしていなかったのだ。
「……違う。この配列では、魔力循環が0.03秒遅延する」
グレイは、宙に浮かぶ無数の数式を指先で神経質に書き換えている。その背中には、近寄りがたいほどのピリピリとした空気が漂っていた。
「あの……先生?」
アリアナが、恐る恐る声をかける。
「……アリアナか」
グレイは、数式から目を離さずに答えた。
「すまない。今日の指導は少し遅れるかもしれません。……私の『研究』が、壁にぶつかっていてね」
「研究、ですか?」
アリアナは、グレイの展開している魔法陣を見上げた。それは、彼女が今までに見たこともないほど複雑で、美しい幾何学模様を描いていた。
「『永久氷壁』の再現実験です。古代に失われた、絶対防御の大魔術……。理論上は完璧なはずなのですが、どうしても『核』の定着がうまくいかない」
グレイは、悔しそうに眼鏡の位置を直した。魔界きっての知性派である彼にとって、解けない『式』など存在してはならなかった。だが、論理を詰めれば詰めるほど、術式は窮屈になり、崩壊してしまう。
▶(アリアナ)◇
(……すごい)
私には、まだ半分も理解できない高高度な術式。でも、先生が何に悩んでいるのかは、なんとなく分かる。先生の魔術は、完璧すぎるのよ。綺麗に整列しすぎていて、遊びがない。
先日のロイドとの決闘。私は、先生の理論を実践して勝った。でも、最後の『氷棺』を決めた時、私は計算だけじゃなく、自分の『感覚』を信じた。
氷の反射角。空気の流れ。計算式にはない『ズレ』を、自分の肌で感じ取ったからこそ、あの一撃は成功した。
(もしかしたら……)
▶◇◇◇
「……先生」アリアナは、意を決して魔法陣に歩み寄った。「失礼します」
彼女は、グレイが構築した完璧な数式の、ある一点を指差した。
「ここの術式……。理論上は正しいと思います。でも、『感覚的』には、少し窮屈ではありませんか?」
「窮屈?」
グレイが、怪訝な顔をする。
「魔術に感覚など不要です。全ては理によって……
「いいえ。魔術は、生き物です」アリアナは、きっぱりと言った。「型に嵌めすぎると、息が詰まって割れてしまいます。ここを、少し『斜め』に滑らせて……あえて『隙間』を作ってあげれば、魔力が呼吸できるはずです」
アリアナは、自分の杖で数式の一部を書き換えた。論理的には『無駄』に見えるわずかな曲線。だが。
「……!」
グレイが、目を見開いた。その『隙間』を通って、滞っていた魔力の奔流が、一気に循環を始めたのだ。
キィィィン……! 魔法陣が、青白い光を放ちながら収束していく。そして、二人の目の前に、ダイヤモンドよりも硬く、水晶よりも透明な、美しい『氷の壁』が出現した。
「……完成、した……」
グレイが、呆然と呟く。それは、彼が数年間、どうしてもたどり着けなかった『解』だった。
「……美しい」
グレイは、氷壁に触れ、そしてアリアナを見た。その瞳には、いつもの冷徹な評価ではなく、心からの『感嘆』と『敬意』が宿っていた。
「私の論理に、貴女の『感性』が加わることで……この式は『完全』になった」
「先生……」
「私は、魔術とは孤独な探求だと思っていました。他者の介入など、ノイズでしかないと。 ……ですが、間違いでしたね」
グレイは、アリアナに向き直った。夕日が、二人の影を長く伸ばしている。
「アリアナ。貴女は、優秀な生徒だと思っていました。ですが、今は違います。……貴女は、私にないものを持っている」
アリアナの心臓が、早鐘を打つ。憧れの先生。雲の上の存在だった人。その人が今、自分を『対等』に見てくれている。
想いが、溢れた。
「……私、先生の隣で、もっと新しい景色を見たいです」
アリアナは、震える声で、でも真っ直ぐに伝えた。
「魔術だけじゃありません。先生のことが……好きです。弟子としてではなく、一人の女性として」
静寂が落ちる。グレイは、眼鏡を外し、ふっ、と柔らかく笑った。それは、アリアナが初めて見る、彼の素顔の笑顔だった。
「……私は、不器用な男ですよ? 研究に没頭すれば、寝食も忘れる」
「私が、サポートします!」
「魔術の話を始めると、止まらなくなります」
「いくらでも聞きます!」
「……そうですか」
グレイは、アリアナの手を取った。その手は、冷たいけれど、とても温かかった。
「アリアナ。貴女の才能は、私の研究……いえ、私自身にとって『必要不可欠』です」
グレイは、アリアナの手の甲に、誓いの口づけを落とした。
「共に、魔道の深淵を解き明かしましょう。……私の、大切な『パートナー』として」
「……はいっ!」
アリアナの目から、幸せな涙がこぼれ落ちた。氷の魔術師たちの間に、温かな春が訪れた瞬間だった。
その日の夜。作戦会議室に、アリアナが駆け込んできた。その顔は、夕焼けよりも赤く、そして輝いていた。
「き、聞いてくださいまし!」
「どうしたんだアリアナ、血相変えて」
エルザがスルメを齧りながら振り返る。
「わ、私……グレイ先生の、『研究パートナー』になりましたの!」
「へえ、助手か? よかったな」
「ち、違います! その……『恋人』、です!」
「「「えええええ!?」」」
シノン、エルザ、リリィの声が重なった。
「やったね、アリアナさん!」
シノンが、自分のことのように喜んで抱きつく。
「アリアナさんも、私と同じだね!」
「ええ……! まさか、あの先生が受け入れてくださるなんて……!」
「むー! 先を越されたか!」
エルザが悔しがる。
「でも、すげえな! あの氷仮面をデレさせるとは!」
「氷仮面とは失礼よ! 先生は、とても情熱的な方なんです!」
すでに惚気が始まっている。
「ふふふ。おめでとうございます」
リリィが、お祝いの紅茶を淹れながら微笑む。
「最強の魔術師とのコネクション……。これは、我がチームにとって盤石の『地盤』となりますね」
部屋は、祝福ムードに包まれた。アリアナの幸せそうな顔を見て、シノンも安堵した。
(よかった……。魔族とか人間とか関係なく、心を通わせることができたんだ)
アリアナは、幸せの絶頂にいた。……自分が恋した相手が、人類の敵である『魔族』の最高幹部であることなど、知る由もなかった。




