第1話「ブラック企業の終着駅と、始まりの食堂」
登場人物紹介
◆相川 梓
主人公。27歳。食品メーカー勤務の社畜OLだったが、異世界食堂と出会い人生が一変する。料理が唯一の趣味で、現代の知識とユニークスキル【絶対味覚の調理人】を武器に、異世界の人々の胃袋と心を掴んでいく。基本的に真面目で少しお人好し。
◆ジークフリート(ジーク)
ヒーロー。30歳。王国最強と謳われる騎士団長。銀髪碧眼で彫刻のような美貌を持つが、過去のトラウマで味覚を失い、食事をただの作業と捉えていた。アズサの料理で初めて美味しいと感じ、彼女に強く惹かれていく。不器用だが誠実。
◆リリィ
猫の耳と尻尾を持つ猫獣人の少女。孤児だったところをアズサに助けられ、食堂の看板娘として働くことになる。明るく元気で、アズサとジークにとても懐いている。鋭い嗅覚で食材探しを手伝う特技も持つ。
◆ヴァルター宰相
悪役。王国の実権を虎視眈々と狙う野心家。アズサの持つ不思議な力に目をつけ、彼女を利用して自らの計画を遂行しようと画策する。
アスファルトを叩く冷たい雨音が、相川梓の疲れきった思考にまで容赦なく染み込んでくるようだった。時刻は深夜1時を回っている。もちろん、終電はとっくの昔に走り去ってしまった。
「……また、やっちゃった」
誰に言うでもなくつぶやいた声は、冷たい雨音に掻き消される。
食品メーカーの企画部で働く梓は、世に言う社畜だった。連日の残業、休日出勤は当たり前。今日も今日とて急な企画変更の煽りを受け、気づけばこんな時間だ。タクシー代も馬鹿にならないが、かといって会社の仮眠室で夜を明かすのは、もう精神が限界を告げている。
せめて近道の裏路地でも通ろうか。普段なら絶対に選ばない薄暗い道を、ぼんやりとした足取りで進む。心も体も、まるで鉛を引きずっているように重い。人生に乗り遅れた終電みたいだな、なんて自嘲気味に笑った時だった。
ふと、視界の端に温かい光が灯った。
古い建物の軒先で、裸電球がぼんやりと周囲を照らしている。そこに掲げられていたのは、『食堂きまぐれ』と書かれた、木製の古びた看板だった。
こんな場所にお店なんてあっただろうか。
まるで夢遊病者のように、梓は何かに引き寄せられるようにその扉に手をかけた。ギィ、と年季の入った音がして、扉が開く。
中に広がっていたのは、驚くほど清潔な空間だった。磨き上げられたカウンター席と、四人掛けのテーブルが数席。奥にはすぐにでも火を入れられそうな、ピカピカの厨房が広がっている。誰の気配もないのに、そこには不思議な生活感と温かみが満ちていた。
「ごめんくださーい……」
声をかけてみるが、返事はない。ただ、静寂が広がるだけ。
その時、梓のお腹がぐぅ、と情けない音を立てた。そういえば、夕食もまだだった。コンビニで買ったパックご飯と生卵、インスタントの味噌汁が入ったビニール袋が、がさり、と音を立てる。
(さすがに、勝手に厨房を使うのは……)
罪悪感が胸をよぎる。けれど、空腹と疲労は、梓の理性を麻痺させるには十分だった。机にお金を置けば、きっと許してもらえるはずだ。梓はそう自分に言い聞かせ、そっと厨房に足を踏み入れた。
手際よくパックご飯を温め、お椀によそう。真ん中にくぼみを作り、そこに新鮮な卵を割り落とす。醤油を少しだけ垂らせば、即席の卵かけご飯の完成だ。お湯を沸かし、インスタントの味噌汁も用意する。
カウンター席に座り、いただきますと小さく手を合わせた。
温かいご飯をかき込むと、優しい卵の味が口いっぱいに広がる。そして、熱い味噌汁を一口。じんわりと、体の芯から冷え切っていた何かが溶けていくような感覚があった。ああ、美味しい。ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。
夢中で食べ終えた時、梓は信じられない感覚に襲われた。
あれほど重かった体が、羽のように軽い。数日間、こびりついて取れなかった頭の靄が、すっきりと晴れている。まるで、数時間ぐっすり眠った後のような爽快感だ。
「……なに、これ」
あまりのことに呆然としながらも、梓は約束通り千円札をテーブルの上に置くと、店を後にした。扉を閉めて振り返ると、そこはいつもの帰り道。さっきまでいたはずの路地裏も、『食堂きまぐれ』も、跡形もなく消え失せていた。
***
狐につままれたような気分で自宅に帰り、泥のように眠った翌朝。
会社のエレベーターの鏡に映った自分の顔を見て、梓は二度驚くことになる。肌には艶があり、目の下のクマも綺麗に消えている。何より、体中から活力がみなぎってくるのがわかる。
(昨日のあれは、一体……)
不思議な体験を反芻しながらデスクに着いた、その時だった。
彼女の脳内に、まるでゲームのメッセージのような、無機質な音声が直接響いたのだ。
【スキル:調理 Lv1を獲得しました。ユニークスキル:絶対味覚の調理人に目覚めました】
「……え?」
梓のつぶやきは、今日も騒がしいオフィスの喧騒に、静かに溶けていった。




