第26話:情報の奈落、虚無のガーディアン
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ついに物語は、全編通しての最大の謎が眠る「未定義領域」へと突入しました。 これまでの「魔法」や「理屈」が通用しない、文字通りの『情報の奈落』。 そこには、自分自身の存在すら危うくなるような虚無が待ち構えています。
敵の定義を奪うのではなく、あえて「意味を与える」ことで攻略する。 レトが辿り着いた、翻訳家の真髄とも言える新たな戦い。 神話の断片が舞い散る中、二人が目にする世界の真実とは――。 新章、怒涛の開幕です!
一歩踏み出すごとに、足裏から伝わる感覚が「土」から「文字列」へと変化していく。自由交易領の西端、絶壁の裂け目に広がるその場所は、もはや三次元の地図には記せない情報の深淵であった。空には太陽も月もなく、ただ淡く発光する数兆の文字が、川のように、あるいは血管のように脈打ちながら流れている。
「……マスター。警告。この領域の『背景放射魔力』は通常の三千倍を超えています。我々の存在定義を維持するための演算に、リソースの六十パーセントを割かざるを得ません。……意識を強く保ってください。少しでも自己定義が揺らげば、この情報の海に溶けて『意味』を失います」
アイリスが展開した光の防壁が、周囲のノイズと衝突して激しい火花を散らしている。レトは「真説シルフィード」を握り締め、黄金の瞳で世界を射抜いた。彼の視界には、岩も風も存在しない。あるのは、膨大な記述の断片と、それを強引に縛り付けている「見えない鎖」だけだった。
「……ここが、聖女が触れた『原初の記述』の入り口か。……ひどいな。言葉が泣いている」
レトの「翻訳眼」には、この空間を漂う文字たちが、あるべき文脈を失い、バラバラに解体されて漂流している無惨な姿が見えていた。それは、十年前にエレインがこの場所から「王国の管理に都合の良い言葉」だけを抜き取り、残りを廃棄した結果だった。
二人が神殿の残骸と思われる、空中に浮遊する巨大な回廊へと足を踏み入れたとき、空間が突如として歪んだ。
何もない虚空から、真っ黒なインクをぶちまけたような巨大な影が染み出し、形を成していく。それは、複数の生物を無理やり繋ぎ合わせたような歪な姿をしていた。頭部には目も鼻もなく、ただ巨大な「穴」が開いており、そこから絶え間なく意味不明な呪詛が溢れ出している。
【対象:領域守護者(虚無のガーディアン)】 【状態:未定義個体】 【特性:あらゆる物理・魔法攻撃を『意味不明』として棄却する】
「……アイリス、こいつは……」
「……マスター。最悪の相性です。このガーディアンには『定義』が存在しません。我々の攻撃が『ダメージ』として認識されるための論理基盤そのものが欠落しています。……戦うという概念そのものが成立しません」
ガーディアンが咆哮を上げた。その声は物理的な鼓膜を振るわせるのではなく、レトの魂に直接「虚無」を叩き込んできた。視界が急速に色を失い、レト自身の右腕が、まるで砂のようにサラサラと崩れ始める。
「……ぐっ! 俺の存在まで『未定義』に書き換えるつもりか……!」
「マスター! 精神防壁を最大出力で固定してください! ……くっ、私の演算が……弾かれる!?」
アイリスの光の翼が、ガーディアンから放たれる漆黒のノイズに侵食され、黒く染まっていく。これまでの敵とは根本的に違う。王国の法の中にいる者たちなら、その法を書き換えればよかった。だが、この場所は「法そのものが生まれる前の混沌」なのだ。
レトは崩れかける右腕を必死に抑え、シルフィードの刀身に触れた。
(……定義がないなら、俺が『名付けて』やる。……この混沌とした情報の嵐に、新しい文脈を与えるんだ!)
レトはあえて、シルフィードを鞘に納めた。そして、襲い来るガーディアンの虚無の腕を、避けることなく真正面から受け止めた。
「マスター!? 何を――」
「翻訳――再定義。この空虚な影に、『痛み』という言葉を。この混沌とした呪詛に、『形』という文脈を!」
レトの瞳が、これまでにないほど強く黄金に輝いた。彼の指先から放たれたのは、破壊の力ではない。世界を構築するための「最初の文字」だ。
レトは、ガーディアンという名の「存在しないもの」に対して、一文字ずつ「お前はここにいる」という証明を刻み込んでいった。
【書き換え中:虚無のガーディアン → 個体名『名もなき守護者』】 【属性付与:実体化、触知可能、論理受容】
「……お前はただの影じゃない。……ここを守れと命じられた、悲しい『忘れ形見』だろ! その記憶を、今ここで翻訳してやる!」
ガーディアンの漆黒の身体に、白銀の亀裂が走った。レトの言葉が浸透するにつれ、のっぺらぼうだった顔に、うっすらと「目」が形作られていく。その目は、長い年月の中で孤独に苛まれてきた者の、深い悲しみを湛えていた。
実体を持った瞬間、シルフィードが翠色の光を放ち、レトの手を離れて宙を舞った。
「アイリス、トドメじゃない。……こいつを『解放』する!」
「了解。共鳴リンク――論理解決!」
アイリスの演算とレトの翻訳が一つになり、シルフィードがガーディアンの胸を貫いた。切っ先から溢れ出したのは血ではなく、数千年の呪縛から解き放たれた、温かな情報の光だった。
ガーディアンの姿が、光の粒子となって霧散していく。最後に、その守護者はレトに向かって、音にならない感謝の言葉を残して消えた。
周囲の重苦しい重圧が消え、視界に色が戻る。レトは膝をつき、激しい眩暈に襲われながらも、自身の右腕を見た。崩れかけていた皮膚が、元の健常な状態へと復元されている。
「……マスター。バイタル、安定。……驚異的な挙動です。敵の存在定義を『付与』してから倒すなど、全盛期の神々でも考えなかった手法です」
「……倒したわけじゃない。あいつを、この世界の『ゴミ箱』から救い出したんだ」
レトは立ち上がり、さらに奥へと続く回廊を見据えた。今の一戦で確信した。この領域では、これまでの翻訳の常識は通じない。だが、レトが「言葉」を信じ続ける限り、どんな虚無であっても「意味」を与えることができる。
回廊の突き当たりに、巨大な「扉」が見えてきた。そこには、聖女エレインがかつて触れ、そして歪めていった『世界原典』の鼓動が響いている。
「アイリス。あの中には、きっとエレインが一番隠したがっている『嘘』がある」
「……はい。そして、この世界の『バグ』をすべて消去するための、究極の修正プログラムも」
二人は、光り輝く扉へと手をかけた。その先に待つのは、救済か、それとも世界の終わりか。
背後で、情報の海が大きく波立った。レトたちが一歩進むたびに、死んでいた世界が、新たな息吹を吹き込まれたかのように色づいていく。
翻訳家レト。追放された少年は今、神話の続きを書き換えるために、運命の扉を押し開いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第3編のスタートとして、これまでの舞台とは全く異なる「異空間」の描写に力を入れました。物理的な戦いではなく、存在の根源を懸けた「論理の戦い」。レトがガーディアンを救い出すシーンでは、彼が単なる破壊者ではなく、言葉に命を宿す者であることを再認識していただければ幸いです。
そして、ついに目の前に現れた『世界原典』。 ここからは、聖女エレインの力の源泉と、この世界の驚くべき構造が少しずつ明かされていきます。アイリスの正体についても、そろそろ重要な断片が見え始めるかもしれません。
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