栗原家の俗習
栗原美琴は、日本でも有名な栗原財閥の跡取りです。一人娘として栗原家に生を受け、それから今まで厳しい教育を受けてきた。
今の栗原家の当主は、美琴の母である。父は婿であり、実質的な権限は母が握っている。日本国内だけでなく国外にも様々な企業を展開しており、母が全ての企業の社長を務めていた。父は母をサポートする副社長であり、2人はほとんど家を不在にしている。そのため、美琴が住んでいる栗原家の本邸には多数のメイドや執事が雇われており、白石のそのうちの1人であった。
日本国内を支配している栗原家は、当主の言葉1つで数億という金が一瞬にして動く。日本国内の多くの企業が栗原家の傘下にあると言っても、過言ではない。その正式な後継者として、栗原美琴は学園でもそれなりの権力を有していた。
「あっ……お母様。お戻りになられていたのですか」
「ええ、荷物を取りに少しだけね。またこれから海外へ行くわ」
「そうですか。どうかお気を付けて」
「美琴、待ちなさい」
夏休みに入った7月の下旬、美琴は自宅の1階で母と遭遇していた。母と会うことも数週間ぶりであり、美琴にから見れば顔を見ることの方が珍しい日々であった。
母に一礼してその横を通り過ぎるが、その母に呼び止められる。話をすることすら稀であった美琴は、その足を止めて振り返った。
「白石から報告を受けています。先日の定期考査では、再び甘んじて2位になったと。それに、いつまでもバドミントンという球遊びをしているのかしら? もうすぐ卒業だと言うのに、貴女には自覚というものが無いの?」
「……すみません。ですが」
「もうすぐ貴女は、この栗原家を継ぐ者になるのです。早々に子どもの遊びはおやめなさい。それに、あの水沢家の後塵を拝することになるのも、今後の栗原家の重大な危機になります。夏の大会までは認めますが、そこで負けるようなことがあれば……娘とて容赦はしないつもりです。そこは肝に銘じておきなさい」
「……心得ております」
美琴の返事を聞く前に、母は颯爽と背中を向けて去っていく。娘の顔を注視することなく、ただ戒めを与えるのみで、母はその場からいなくなったのだ。
静まり返った廊下に、小さな足音が聞こえてくる。そして、美琴の背後から声をかけたのは、美琴が最も信頼しているメイドの白石だった。
「美琴様、雪枝様とのお話は終わりましたか」
「……聞いていたのね、白石」
「申し訳ございません。聞き耳を立てるつもりはございませんでした」
美琴の背後に立った白石は、深々と頭を下げて謝罪する。しかし、俯いたまま視線を上げなかった美琴は、白石の姿を視界に入れていなかった。
しかし、美琴は白石の気配を事前に感じ取っていた。おそらく、美琴が当主である雪枝と話をする前に、雪枝と話をしていたからだと思われた。美琴の力を持ってすれば、人の気配を察知することは容易であった。
「松島様のことは仕方ないでしょう。あのお方は、あの学園で己の存在を示すために勉学に励んでおられます。あの執念は、私とて中々感じたことのない、鬼気迫るものがあります。美琴様と互角に渡り合っているのも納得です。しかし、水沢家のことは、これ以上あちらを図に乗せるのも問題かと」
「……子どもの遊びなのに、何をそこまで固執しているのかしらね」
「水沢家は、栗原家と並ぶ巨大企業です。日本の多くの企業は、多かれ少なかれ栗原家か水沢家の支援を受けて運営されています。今は僅かに栗原家の勢力が上回っておりますが、勢いは水沢家の方が上だと申し上げざるを得ません。昨年のインターハイ、美琴様が苦杯を舐めたのも、水沢家の後継者、水沢花音でしたから」
「分かっているわ。これ以上、お母様の顔に泥を塗ることは許されない。何が何でも、今年は水沢花音を潰す。そして、水沢家が栗原家に楯突くなどあってはならないと、その身を持って思い知らせてあげるわ」
唇を噛み締めながら、美琴は昨年の出来事を思い返していた。
昨年のインターハイ、松島たち男子バドミントンはベスト8で敗退したが、美琴率いる女子バドミントン部は決勝までコマを進めた。その決勝戦の相手が、栗原家と肩を並べる大企業の後継者、水沢花音率いる水沢学園だった。
バドミントンの団体戦は、ダブルスが2試合、シングルスが3試合である。ダブルスに出場した4名は、その後の第2または第3シングルスにも出場することが出来る。第1シングルスに出場する選手のみ、ダブルスとの同時エントリーは出来ない。つまり、団体戦は最少で5名、最大で7名がエントリーして戦うことなるのだ。
水沢花音は美琴とダブルスで直接対決することを避けるため、敢えて第2ダブルスに出場した。美琴と多賀城がペアを組んだ第1ダブルスは圧勝したが、第2ダブルスは水沢ペアの前になす術なく敗退。第1シングルスは1年ながら出場した名取が善戦するも敗退。第2シングルスは気迫を見せた多賀城が勝利を納め、対戦成績を2ー2のタイに持ち込んだ。
しかし、最後の第3シングルスで美琴が水沢との直接対決に敗れ、女子バドミントンは惜しくも準優勝という結果になったのだ。
「美琴様。子どもの遊びとはいえ、どちらの傘下にも属していない企業からすれば、美琴様たちの戦いは注目の的です。お2人の戦いで、どちらの傘下に入るか決める企業もあるでしょう。美琴様たちには関係無い、全く愚かな選択ではありますが」
「ええ、分かっているわ。お母様も、水沢家を意識されているのは分かっている。たとえ子どもの遊びとはいえ、昨年の敗北は耐え難いものがあったはずよ。同じ轍は踏まないわ」
「……美琴様。松島様にはお伝えしているのですか? この大会が終わり、夏休みが終わった後、美琴様は……」
「伝えていないわ。副会長には、何の関係も無い話だもの」
「……それでよろしいのでしょうか、美琴様は?」
「……何か言いたげね、白石」
背中を向けていた美琴の表情を、白石は何も言わずとも感じ取っていた。18歳という若さで、栗原家の重過ぎるプレッシャーを受け、人生のレールが既に決まっている。そこに意味はあるのかという思いはあるが、美琴はその運命を受け入れていた。全ては、この栗原家の娘として生まれたが故の因果である。
しかし、白石は美琴と松島の関係性を少なからず把握している。以前も、美琴が保健室で松島の手当てを施されているとき、白石は敢えて部屋に入るタイミングを遅らせた。扉の隙間から見えた美琴の表情が、白石の扉をノックする手を押し留めたのだ。
美琴が松島以外には決して見せることのない、ただの女子高生の姿であった。
「……良いのよ、副会長には何も言わなくて。これが私の運命だもの。卒業後の人生も、結ばれる人も……私には選ぶ権利はないのだから」
「……美琴様。夕飯の準備が出来ています。お着替えを済ませられました頃、お部屋にお持ちいたします」
「ええ……お願いするわ、白石」
美琴に会釈し、白石はゆっくりと踵を返していく。
自室へと戻るために階段を上っていた美琴は、階段の踊り場の窓ガラスから見える空へ視線を移す。空には煌めく星々が無数にあり、まるで美琴は大きな屋敷に軟禁されている王女のようであった。




