浮遊舞踏会
少女はこの夜会がデビューだった。
小柄な身体と、ふわふわと柔らかな栗色の髪。
明るい緑の目は、可愛らしい目鼻立ちの中にあって理知的な光を放っている。
今宵はデビュタントを集めた夜会ではない。
けれど、初々しさをアピールするかのように、彼女は真っ白なドレスを纏っていた。
少女を逃がすまいと、両脇に控えるのは叔父夫婦だった。
彼等は彼女の両親亡き後、男爵家に乗り込み、我が物顔で暮らしていた。
今は彼女が唯一の跡取りだが、もしも良縁を得て嫁げば、爵位と領地は叔父のもの。
この夜会を手始めに、彼女を一番高く買う男に売らんと欲望をたぎらせているのだ。
全てを知りながら、なすすべのない少女は力なく俯く。
ギラギラとした目で周囲を見回す叔父夫婦との対比は、まるで滑稽な舞台劇のようだった。
やがて楽の音が流れダンスが始まるが、少女に手を差し伸べる男は現れない。
それもそのはず。
これまで社交界とは無縁だった叔父夫婦に顔見知りはおらず、夜会にたった一人の白いドレスは、いかにも訳ありにしか見えないのだから。
まるで自分は、見世物にされた虜囚のようだ。
あまりにも惨めで、少女の目からは涙がこぼれそうだった。
そんな時、入り口が騒ぎ出す。
「いくら招待状をお持ちでも、そのお姿ではお通しできません」
「そうか、では、せっかく足を運んだが帰らせてもらおう」
悪びれない男は、魔法師団の戦装束を纏っていた。
礼装であればともかく、簡素なそれはドレスコードに触れる。
「よい。大事な招待客だ。通してくれ」
「旦那様……畏まりました」
男を招き入れたのは、主催者の伯爵だった。
「伯爵様、ご招待ありがとうございます」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。
社交嫌いの貴方が参加してくれるとは、この夜会に箔が付いた」
「そう仰っていただけると、参じた甲斐がございます。
美味い酒とご馳走を楽しみに参りました」
「そうか、楽しんで行ってくれ」
男の出身地を領地とする伯爵は、平民である彼の後見人となっていた。
すでに実績を重ね、自らの立場を確固たるものにした男であったが、たまには伯爵の顔を立てることも忘れてはいない。
ただし、ドレスコードというような些事については気にも留めていないのだが。
男が一歩、会場へ足を踏み出すと、参加者たちの視線が集まった。
簡素な装いながら、スラリとした体躯の美丈夫である。
輝く銀の髪に、煌めく紫の目。
名が知られていながら、なかなか夜会では見かけることのない男。
その正体は王立魔術師団の筆頭。
師団に属して以降、様々な功績を立てているのは国中が知るところで、平民の出身ながら立場的には貴族にも引けを取らない。
若いご令嬢たちは、その姿に扇の影で感嘆の声を漏らし、目を離せなくなっていた。
若いご令息たちは、婚約者や意中の相手の様子を見て、彼に恨みがましい目を向けている。
そんな視線には構わず、二歩三歩と進んでいく男は、ふと一点に目を留めた。
そこには、会場でたった一人だけの真っ白いドレスの少女がいる。
じっと彼女を見つめ、表情を緩める彼。
しばらくすると、その視線に気づいた少女も彼を見た。
そして、目が離せなくなった。
少女は、ゆっくりと自分に向かって歩いてくる男を見つめ続けた。
やがて、彼は目の前にやって来る。
差し出された手を取ればスローなワルツが始まり、自分の拙い技術に落ち込む間もない程、巧みなリードで夢の世界へと誘われる。
看守のような叔父夫婦も、遠慮のない他人の視線もどこかへ行ってしまった。
今、自分は夜空の下、舞い散る花びらの中で、一人の男に抱かれながら踊り続けている。
誰もいない。二人だけの世界。
きっと夢なのだと少女は思った。
現実には、自分はまだ、あの会場で晒されたまま俯いているのだ。
音楽が止み、二人は離れる。
少女はお辞儀をして顔を上げた。
正面から見つめれば、銀の髪と紫の目、そしてしなやかな体躯の美しい男。
幻であっても、こんなに素敵な人と踊れたなんて。
夢なら覚めないで、と思うのは贅沢過ぎる望みだろう。
「お姫様、次にこの手を取ったらもう、後戻りは出来ないよ」
「……夢の中で後戻り?」
「夢ではない。私は魔法使いだ。
君を一目見て好きになってしまった。
ひとり占めしたいから、空に舞踏会場を作って、君と二人になったんだ」
「まあ……凄いわ」
「君が今、幸せなのか不幸せなのかは知らない。
だが、私と一緒に来るなら、必ず幸せにすると約束しよう」
「わたしでいいの?」
「ああ、君でなければだめだ」
少女は男の胸に飛び込み、固く抱きしめられた。
:*::*::*::*::*::*::*::*::*:
「………というのが、お父様とお母様の馴れ初めなのよ」
「うわああ! 素敵!」
「お父様の魔法は凄いですけど、それってプチ誘拐状態では?」
王都に建つ、男爵家の小さな屋敷の居間では、夫人が子供たちに思い出話を聞かせていた。
「いいのよ。叔父夫婦はわたしを監禁していたのだから、お父様は救い出してくれた王子様なの!」
「そういうものなのですか?」
「お兄様は頭が固いの! そんなんじゃ、お父様みたいな凄い魔法使いになれないの!」
「ええ~!?」
出会いの夜会の後、男爵家の正当な跡取りを虐げた罪を暴かれ、少女の叔父夫婦は断罪された。
男の後見であった伯爵の力添えにより、二人は婚姻して家を継ぐことになったのである。
「貴方たちも、少しは覚えているかしら?
婚姻してすぐ、十年間の諸国漫遊の旅に出たのよ。
いろいろな国を回って、とても楽しかったわ。
途中で貴方たちを授かったけれど、お父様がその度、医療先進国へ連れて行ってくれて。
空気の良い高原の産院は、とても気持ちがいい所だったし、その後しばらく借りてくれた別荘も広くて素敵だったわ」
すっかり淑女になった妻は、旅の時間を懐かしむ。
「お父様は、旅の間も国のお仕事をしていたのですよね?」
「ええ。宰相様が良い方で、お父様の希望を叶えつつ仕事も出来るように計らってくださったのよ」
「お父様、今日はいつ帰って来るの?」
「そろそろ、帰っていらっしゃるのではないかしら?」
「今、帰った」
「まあ、噂をすれば! お帰りなさい、ダーリン」
「ただ今、ハニー。子供たちもいい子にしていたかい?」
両親の甘い挨拶が済むのを待ってから、小さな娘は父親に話しかけた。
「あのね、あのね、今、お父様とお母様の初めてのダンスのお話を聞いていたの!」
「そうか、じゃあ……」
一家の主は娘を抱き上げると、小さく指を鳴らす。
気付けば彼等は一面の花園の中に建つ東屋にいた。
「わあ、素敵素敵!」
「うわ、これ、足を下ろしても花を踏まない!
けど、花は舞ってる! どうなってるんだ?」
まだ幼い妹ははしゃぐばかりだが、魔法を学び始めた兄は不思議の秘密を知りたくてしょうがない。
「ねえねえ、お父様! わたしと踊って!」
「もちろん。可愛いレイディ、お手をどうぞ」
最近は彼女も少しずつだが、母からダンスを教わり始めたところだ。
おしゃまな礼も、なかなか様になっている。
「では、わたしたちも踊りましょうか?」
「はい」
魔法への興味は一旦置いて、兄も母親の手を取った。
婚姻前、魔法使いは人嫌いであった。
社交は最低限で、女性に興味を持ったこともない。
妻に会って、彼は変わった。
彼は国の重要人物だ。
魔法師団の顧問の仕事は誰にでも出来るものではないし、時には現場で手助けもする。
国からすれば、少しも疎かに出来ない人材である。
当然、主立った夜会の招待状が届くし、後見をしてくれた伯爵家や、引き立ててくれた宰相閣下の顔も立てねばならない。
というわけで、魔法使いは渋々ながら妻を連れて夜会に出始めたのだが、これが意外と悪くない。
可愛い妻を好きなだけ着飾らせることが出来るし、家では子供たちに譲らねばならぬこともある妻をひとり占めできる。
夜会に出るのだから、と空いた時間で妻と寄り添い合い、ダンスの練習をするのも楽しい。
美しく磨き上がった妻に言い寄らんとする有象無象を、予め施した防御魔法で蹴散らすのも面白い。
家族が出来て、男は更に変わった。
国も王都も、そこに暮らす人々も以前のように煩わしくはない。
東屋に戻って、兄妹を椅子に座らせれば、すぐに転寝を始めてしまった。
「子供たちは、ちょっと疲れたようね」
「そうだな。だが戻る前に、一曲だけ、私と踊ってくれないか?」
「ええ、もちろんよ」
ゆったりとした子守歌は三拍子。
オルゴールの調べは宙に満ちて、家族を包み込んでいった。