仁義の灯、ジャパンタウン
続きでやんす
下水道の悪臭と冷たい闇の中、
ケンはほとんど意識のないリンを抱え、必死に前へと進んだ。
背後にはミズキの診療所を破壊した爆発音がこだまし、
クリーンアップチームの足音が迫っている。
サイバネティック・アイはEMPのダメージで視界が歪み、警告音が頭に響く。
唯一の頼りは、ミズキが飛ばした最後の言葉と、握りしめたデータチップの感触だった。
「ジャパンタウン…『鳳凰閣』…真島…」
その名前は、ダウンタウンでも異彩を放つ地域の象徴だった。
ネオ・アメリカンシティの縮図とも言える混沌の中で、
ジャパンタウンだけは、ネオンとスモッグに埋もれながらも、
かすかに昔ながらの佇まいを残していた。
老舗の看板、手入れされた盆栽(多くはプラスチック製だが)、
そして表向きは飲食店や商店ながら、
その裏には巨大な企業連盟の力すら及ばない独自の秩序を持つ真島組が存在する。
ケンは下水道の梯子を必死に登り、重いマンホールの蓋を押し上げた。
外は、薄暗い路地裏。看板の光が漢字とカタカナでにぎやかに輝き、
醤油と油の香りが混ざった空気が流れ込んできた。
ジャパンタウンだ。
しかし、その懐かしさも一瞬で消えた。
サイバネティック・アイの残存機能が、遠くから飛来する監視ドローンの気配を捉えた。
「…くそ…まだ追って…」
ケンが喘ぐ。
リンは彼の腕の中で微かに震えている。
エレナの名を呟いて以来、虚ろさの中に苦しみの色が強まっている。
その時、路地の影から一人の男が現れた。
スーツに身を包み、無骨な顔つき。
目に一瞬、警戒の色が走ったが、ケンが抱えるリンの姿を見ると、それがわずかに和らいだ。
「…随分と重い荷物を抱えてるようだな」
男の声は低く、落ち着いている。
「鳳凰閣へ行くなら、こっちだ。早く」
ケンは一瞬躊躇ったが、ミズキの言葉と男の直截な態度が選択の余地を奪った。
「…ああ」
男は無言でうなずき、複雑に入り組んだ路地を案内し始めた。
時折、死角を確認するように振り返るその動きは、
紛れもない用心深さと、この街の裏通りを熟知した者だけのものだった。
監視ドローンの気配は、男が現れた途端、奇妙に遠のいていく。
真島組の縄張りでは、企業のドローンすら簡単には入れないことを示していた。
目的地の「鳳凰閣」は、一見、古びたが風格のある日本料理店だった。
赤い提灯が揺れ、暖簾がかかる。
しかし、男がケンを連れて通ったのは表口ではなく、
店の横にある細い通路の奥にある頑丈な鉄の扉だった。
男が複雑な電子ロックと、おそらく生体認証を解除すると、扉が静かに開いた。
その向こうには、老舗の料亭とは思えない、無機質で清潔な空間が広がっていた。
医療機器や通信端末が並び、数人の屈強な男たちが警戒の目を光らせている。
真島組の実質的な拠点だ。
部屋の奥、大きな机の前に座る男がいた。
年齢は六十代半ばか。
銀髪を短く刈り込み、和装に似た上質なスーツを着こなしている。
顔には古い傷痕がいくつかあり、特に左頬の長い傷跡が威圧感を増していた。
しかし、その目は驚くほど澄んでいて、鋭い観察眼を宿している。
これが、真島竜二組長だ。
「…ミズキの知らせを受けた」
真島の声は低く、重みがあった。
ミズキの名前を出すことで、ケンが「客」であることを示したのだ。
「彼女はな、少々荒療治をしたようだが、命に別状はない。今、別の場所で蟄居している」
ケンの胸のつかえが少し下りた。ミズキは生きていた。
真島が視線をリンに向ける。
「…で、こちらのお嬢さんが、あの『ゴーレム』と呼ばれるものか」
ケンは息を呑んだ。真島は既に情報を掴んでいる。
「…はい。彼女の名はリンです」
「リン…か」
真島はじっとリンを見つめた。
リンは怯えたようにケンの後ろに身を隠そうとするが、
その目は真島の鋭い視線をまっすぐに受け止めている。
虚ろさの中に、かすかな意志の光を宿して。
「…ジェノサイエンスの愚かなる野望の犠牲者よな。人間の尊厳を踏みにじる…許せぬ所業だ」
真島の口調に、抑えた怒りが込められていた。
真島組が「弱いものを助ける」という評判は、単なる美談ではなく、
彼らの行動原理そのものなのだとケンは感じた。
「組長…何故?」
ケンが問う。
「企業連盟と正面から敵対することになります。リスクが大きすぎるのでは?」
真島は微かに笑った。
それはまるで、古い時代の価値観を守る者としての誇りの笑いだった。
「ケンよ。この街で、『仁義』という言葉が死語になりかけた今、我々が守るべきものは何だと思う?」
ケンは答えられなかった。
「弱きを助け、道理を重んじることだ」
真島は静かに、しかし力強く言った。
「企業連盟は金と力で全てを支配しようとする。だが、このジャパンタウンでは、我々の『義』が法だ。このお嬢さんを、人間の尊厳を弄ぶ道具として見捨てることは、我が組の誇りを貶めることに他ならない」
真島は机を軽く叩いた。
すると、奥のドアから白いコートを着た中年の男性が現れた。
医師だ。真島組専属の「闇医者」だろう。
「中村。このお嬢さんの診察を頼む。特に頭部の…異物について詳しく調べてくれ。ミズキのデータも渡す」
「承知」
中村医師は無表情にうなずき、リンに優しく手を差し伸べた。
「お嬢さん、こちらへ。痛いことはしませんから」
リンはケンを見上げた。目に不安がよぎる。
ケンはうなずいた。
「大丈夫だ。この人を信じろ」
ケンの言葉に、リンはかすかにうなずき、
医師に従って奥の診察室へと消えていった。
彼女が去った後、真島の表情が一層険しくなった。
「しかしケン、楽観は許されん」
真島はケンにデータチップを指し示した。
「お前が掴んだこのデータ…そして『ゴーレム・プロジェクト』の存在。
これはジェノサイエンスだけの問題ではない。
その背後には、企業連盟の巨大な意思がある。お前は、世界を動かす巨悪の片鱗に触れてしまったのだ」
真島は立ち上がり、窓の外の、ネオンに彩られたジャパンタウンの街並みを見つめた。
「彼らは必ず、お前とリンを消しに来る。手段を選ばずにな。
我が組の縄張り内では守れるが、ここから出れば話は別だ」
ケンは拳を握りしめた。
「…分かっています」
「一つ、条件を出そう」
真島が振り返り、ケンをまっすぐに見据える。
「我々はお前たちを匿う。医師もつける。必要な物資も提供する。その代わり…」
真島の目が、ケンのサイバネティック・アイを捉えた。
「…お前の『力』を、いずれ我が組のために貸してもらう」
ケンの眉が動いた。
警察官時代の経験、そして
その後のダウンタウンでの「なんでも屋」としての荒療治の腕前。
真島はそれを見込んでいるのだ。
「企業相手の仕事ですか?」
ケンが問う。
「必ずしもそうとは限らん」
真島は含みのある笑みを浮かべた。
「だが、この街で『義』を通そうとすれば、いつかは企業の巨大な壁にぶつかる。
その時、お前のその眼と腕が、我々の…いや、この街の弱き者たちの『盾』となるかもしれん」
ケンは迷わなかった。
リンを守るため、エレナの謎を解くため、そして今この瞬間、
彼らを庇ってくれるこの組織とその「仁義」に応えるため。
「…分かりました」
ケンは深く頭を下げた。
「お世話になります。そして…恩に着ます」
「よろしい」
真島は満足そうにうなずいた。
「まずは身を休め、傷を癒せ。中村の診断結果を待つとしよう。そして…」
真島の目が鋭く光った。
「お前が持つ『ELENA M.』という亡霊と、どう向き合うのかもな。
それが、お前の戦いの核心だろうからな」
ケンの胸が締め付けられる。
真島は、ケンの最も深い傷を見抜いていた。
その時、診察室から中村医師が戻ってきた。
顔色が冴えない。
「組長…リン嬢の状態は深刻です」
中村は厳しい口調で報告する。
「ナノマシンクラスターは予想以上に深く、脳幹と高次神経系に深く浸潤しています。
外部指令による完全支配のリスクは極めて高い。また…」
中村はケンを見た。
「…ベースモデルとされた『ELENA M.』の神経パターン痕跡が、
リンの深層意識に強く刻まれていることを確認しました。
リン自身の本来の人格は、その下に押し潰されるか、
融合しかけている可能性があります。彼女が時に示す奇妙な反応や、
あなたへの依存心は、その表れかもしれません」
ケンは息を詰まらせた。
リンはエレナの「亡霊」を背負っていた。
彼女を救うことは、エレナの亡霊を解放することでもあり、
同時にリン自身を失う可能性すらあるのか…?
「今できることは?」
真島が冷静に問う。
「ナノマシンの活動を一時的に抑制する特殊な神経遮断剤を投与しました。
しかし根本治療は…ジェノサイエンス内部のプロトコルか、ナノマシンの設計データなしでは困難です」
中村はデータチップを示した。
「このデータの完全解読が急がれます。そこに突破口があるかもしれません」
ケンは握りしめた拳の爪が、掌に食い込むのを感じた。
データチップ。これが全ての鍵だ。
そして、それを奪還しようとする企業連盟の魔の手は、
既にジャパンタウンの外で静かに動き始めているに違いない。
鳳凰閣の奥深く、一時の安息を得たケンとリン。
しかし、その安息は脆く、エレナという過去の亡霊と、
リンという現在の苦しみが交錯する、新たな苦悩の始まりでもあった。
真島組の「仁義」の庇護の下、
ケンはデータチップと向き合い、エレナとリンを繋ぐ恐ろしい真実と、
ジェノサイエンスが目指す「ゴーレム」の全貌に迫る戦いの第二幕が始まろうとしていた。
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