地下の灯火と、蘇る亡霊
続きでやんす
排水管の暗闇と濁流の中での逃亡は、ケンの体力的な限界を超えていた。
肋骨のひびか骨折かわからない痛みが呼吸の度に鋭く刺す。
サイバネティック・アイは過負荷で視界が歪み、警告表示が絶え間なく点滅している。
それでも、彼の手は、
ほとんど無意識に動く少女——リンと名乗った——の細い腕を離さなかった。
彼女は奇妙な状態のままだった。
虚ろな目は変わらないが、ケンに引かれると従順に、
時折よろめきながらも歩き続ける。
まるでプログラムされた機械のように。
「…もうすぐだ、頑張れ」
ケンが呻くように言う。
その声は自分に向けた励ましでもあった。
排水管の壁に、かすかに落書きされたマーキングを見つけた。
三本線と、その下に逆三角形。ダウンタウンで活動する「闇医者」、ミズキの目印だ。
この腐った街で、企業連盟の目をかいくぐり、お金さえ払えば誰でも診てくれる数少ない場所の一つ。
目印に従い、分岐する管のさらに奥、錆びたハッチを力ずくで開ける。
その向こうは、廃棄された地下鉄の保守トンネルだった。
埃とカビの臭いが鼻を突く。
薄暗い非常灯が、無限に続くかのようなトンネルをかすかに照らしている。
ミズキの診療所は、この先にある廃駅の一室だ。
重い足取りでたどり着いたその場所は、
外見はただの金属のシャッターに過ぎなかったが、
ケンが特定のリズムで叩くと、内部から解除音が聞こえ、
シャッターがわずかに持ち上がった。
中は消毒液と薬品の臭いが混ざった、ぎこちないクリーンルームのような空間だった。
壁には中古の医療機器が無造作に接続され、
モニターがちらついている。
部屋の中央には、血痕が落ちた手術台。
「…随分と派手な持ち込みだな、ケン」
声の主は、手術台の奥から現れた女性だった。
白いコートは汚れ、その下の服は作業着のようだ。
年齢は三十代後半か。
左腕は肩から先が精巧なサイバネティック義手で、その指先が微かにサーボ音を立てて動いている。
ミズキ。彼女の目は鋭く、ケンとリンを一瞥しただけで状況を把握したようだった。
「緊急だ、ミズキ。治療と…診断」
ケンがリンをそっと手術台に座らせる。
リンはぼんやりと前方を見つめ、時折、微かに首を振るような痙攣を見せる。
「治療? お前の肋骨か? それとも…」
ミズキの視線がリンに注がれる。
彼女は素早くポータブルスキャナーを取り出し、リンの頭部と脊髄を重点的にスキャンする。
モニターに複雑な神経系のイメージと、異常な数値が流れ始める。
ミズキの眉間に深い皺が寄った。
「…これは…」
「何だ?」
ケンの声に焦りが滲む。
「神経伝達物質の異常分泌…それも特定の受容体への指向性の高い…人工的なものだ」
ミズキの指が、スキャン画像の脳幹部の一部を指し示す。
そこには、微細な、しかし明らかに自然ではないナノマシンのクラスターが映っている。
「見えるか? こいつらが、彼女の意識と運動神経の中継点をジャックしている。外部からの指令で、思考や身体動作を強制的に上書きする…あるいは完全にシャットダウンするための『リモート・コントロール・システム』だ」
ケンの背筋が凍りつく。
エレナの遺体から検出された
「神経系に未知の薬物反応の痕跡」——それはおそらく、このナノマシン導入の前段階か、初期型だったのかもしれない。「…『G-プロジェクト』…ジェノサイエンスの仕業か」
「ジェノサイエンス?」
ミズキの目が危険な光を宿す。
「あの遺伝子改造のゴミ共が、今度は脳神経に直接手を出すのか? しかも…」
彼女はスキャン画像を拡大する。
「このナノマシン…設計思想が尋常じゃない。完全な支配を前提にしている。兵士? それとも…奴隷の生産か?」
その言葉に、リンが突然、激しく体を震わせた。
「…いや…やめて…」
かすかで、しかし明らかに苦痛に満ちた声が、彼女の口から漏れた。
虚ろだった目に、一瞬だけ強い恐怖の色が走る。
「リン!」
ケンが駆け寄る。
「…声…頭の中で…」
リンが自分の頭を抱え、苦しそうに呻く。
「…消えない…戻ってくる…!」
「外部指令の試行か…!」
ミズキが素早く注射器を準備する。
「鎮静剤を打つ! 彼女の神経が耐えきれない!」
その時だった。
ケンのサイバネティック・アイが、
外部からの微弱な指向性電波を検知した。警告表示が赤く点滅する。
『外部指令パルス検知。ソース:近距離(500m圏内)』
「ミズキ! 指令源が近くにいる!」
ケンが叫び、コートの下の銃に手をかける。
「クッ…ここまで追ってきたか!」
ミズキは鎮静剤をリンに打ちながら、
義手の操作パネルを叩く。診療所のシャッターがガシャンと閉まる音がしたが、
それと同時に——
ドカン!
金属製のシャッターが、外部からの強力な衝撃で大きく歪んだ。
続く第二撃で、蝶つがいが悲鳴を上げ、シャッターが内側にめり込み、隙間が生じた。
隙間から、赤外線サイトの光が不気味に揺れる。
セキュリテックの標準装備ではない。もっと重武装だ。
「ジェノサイエンス直属の『クリーンアップチーム』だ!」
ミズキが歯噛みする。
「お前、とんでもないものを連れてきやがったな!」
隙間から小型のドローンが数機、バッタのような羽音を立てて侵入してきた。
ドローンの底部から、小型のスキャナーが青白く光る。明らかにリンを探知するためのものだ。
「見つかった…!」
リンが怯えた声で呟く。
鎮静剤が効き始めているのか、声はかすれている。
「黙ってろ!」
ケンは旧式ハンドガンを構え、侵入してきた最初のドローンを撃ち落とす。
バン! 実弾がプラスチックのボディを貫き、火花を散らす。
しかし、他のドローンは素早く散開し、天井や機器の陰に隠れた。
「ここは逃げ場がない! 奥の非常口から抜けろ!」
ミズキが叫び、手術台の下の床板を蹴り上げる。
そこには暗い縦穴が開いていた。
「下水道につながってる! 先に行け!」
ケンはリンを抱え、穴へと向かおうとした。しかし、その瞬間——
バリバリバリッ!
侵入したドローンの一機から、強力な指向性EMPが放たれた。
診療所内の明かりが一瞬で消え、医療機器のモニターが一斉に真っ暗になる。
ケンのサイバネティック・アイも激しいノイズと共に視界が乱れ、警告音が頭蓋骨に響く。
『EMP被害! 機能低下! 視覚センサー不安定!』
「ケン! 目が…!」
ミズキが叫ぶ。
ケンは目を押さえ、激しい眩暈に襲われる。
生身の右目も、サイバネティック・アイの暴走の影響を受けてか、かすんで見える。
リンを支えきれず、膝をついてしまう。
「標的、無力化。サンプル、回収。妨害者、排除せよ」
隙間から聞こえる冷徹な声。
蝶つがいが限界を超え、シャッターが完全に引き裂かれた。
影のような男たちが三人、重装備を纏い、無表情で侵入してくる。
彼らのサイバネティック・アイは、EMPの影響を受けていない特殊なものだ。
銃口がケンとミズキ、そして手術台のリンに向けられる。
絶体絶命。
ケンは視界の歪みの中で必死に銃を構えるが、狙いが定まらない。
ミズキも義手の動作が明らかに鈍っている。
「…終わりか…」
ケンが呟く。エレナの顔がまた浮かぶ。
また…守れないのか?
その時、ケンのポケットの中の、あのデータチップが突然、熱くなったように感じた。
コンテナのパネルから強制ダウンロードしたデータだ。
全くの無意識に、ケンはそのチップを握りしめると、
近くにあるミズキの医療用ポータブル端末(EMPでダウンしているはずだが)のスロットに、
無理やり押し込んだ。
ピーッ… ガガガッ!
端末のスクリーンが突然、異様な光を放ち、ファンが暴走するような音を立てて起動した。
ケンのサイバネティック・アイも、端末とワイヤレスでリンクしたのか、
乱れていた視界に、無数の暗号化されたファイル名と、
一つの目立つロゴ画像がオーバーレイ表示された。
Project Golem: Phase Ω
Primary Subject: "Lynx" (Designation: LN-X07)
Neural Compliance: 92% → ??? (External Interference Detected)
Associated Legacy Case File: ELENA M. (Deceased) - Neural Pattern Base Model?
ELENA M.
その名前が、ケンの視界に焼き付く。
エレナ…? リンの異常な神経パターンのベースモデルが…エレナ? それはつまり…?
「…エレ…ナ…?」
その名を、手術台のリンが、かすかに、しかしはっきりと繰り返した。
彼女の虚ろだった目が、ケンの方を一瞬、まっすぐに見つめる。
その瞳の奥に、深い悲しみと、何かを理解したような光が走った。
クリーンアップチームの男たちが一歩踏み出し、銃を構えた。リンフックを伸ばす。
しかし、その一瞬の衝撃的な情報の奔流が、ケンの体に最後の力を呼び覚ました。
エレナとリンが繋がっている…? この子は…エレナの何かなのか?
「…離れるなよ、リン!」
ケンが咆哮し、視界の乱れを無視して、手元の旧式ハンドガンを、
EMPを放ったドローンの基盤らしき部分に向けて乱射した。
バンバンバン!
一機が煙を上げて墜落。
同時に、ミズキが動いた。彼女はEMPでダウンしたと思わせていたが、
実は義手のコア部分は電磁防護されていた。
彼女のサイバネティック義手が、手術台の脇にあった高圧酸素ボンベのバルブを握り潰す。
ヒュウウウッ!
白い噴流が激しく噴出し、診療所内を濃いガスが充満させる。
視界が一瞬で遮られる。
「くそ! 視界ゼロ! サーモグラフィーもこのガスで妨害される!」
クリーンアップチームの男が罵声を上げる。
「今だ! ケン!」
ミズキの声がガスの中から響く。
ケンは視界が利かない中、リンの腕を必死に掴み、ミズキが開けた縦穴へと飛び込んだ。
冷たい空気と下水の悪臭が鼻を突く。
落ちる直前、ケンは振り返った。
ガスの中、ミズキがクリーンアップチームに向かって、何か細長い器具を投げつけるシルエットが見えた。
ドッガン!
閃光と爆音が地下診療所を揺るがした。
ミズキの捨て身の援護だ。
「ミズキ…!」
ケンの叫び声は、深い闇へと落ちていく二人を包む悪臭と冷気に飲み込まれた。
手の中のリンの腕が、冷たくなっていくのを感じながら。
そして、視界の隅にまだちらつく
「ELENA M.」の文字が、ケンの心臓を締め付ける。
ネオンに蝕まれた街の地下深くで、
一人の男と、謎に包まれた少女の逃亡は続く。
しかし、その逃亡の先には、ケンが決して予想しなかった衝撃の真実——最愛の人エレナの死が、
この少女リンと、そして恐ろしい「ゴーレム・プロジェクト」の核心と深く結びついているという、
あまりにも重い真実が待ち受けていた。
ジェノサイエンスと企業連盟の巨大な闇は、
ケンの過去そのものを飲み込み、歪な形で現在に蘇らせようとしていた。
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