流れ者
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灰色の夜明けだった。雲は地平を呑み込み、太陽はまだ世界に背を向けていた。
吹き抜ける風が、旅人市の残り香を引きずり、帳場の旗をはためかせる。
男は街の門の外、ひとり立っていた。身なりは粗末で、だが剣だけは――錆びていなかった。
名をリオネル。かつては騎士だった。
だが今、その魂の名は掠れ、身分も、記録も、法の加護さえ失われている。
「……魂照結界の中には入れねぇか」
苦く笑って、門を背に踵を返す。魂に刻まれた傷が、夜露のように疼いた。
遠く、旅人市の仮設天幕が揺れていた。
そこでは“身分を持たぬ者”たちが記憶を共有し、血の契りを交わしながら生きている。
流れ者。
神にも、国にも、帳簿にも名を持たぬ、魂の亡命者たち。
彼らは依頼を生きる糧とし、矜持とする。
法も義務も持たぬ代わりに、契りと信義によってしか、自らを証明できない。
夜が明けていく。
魂照結界の外、無数の流れ者たちが今日も血を賭けて契約に挑む。
「......契約の請負は、あそこだな」
リオネルは剣の柄を叩いて、足を踏み出す。
こうして、名を持たぬ者たちの物語が始まる。
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「名は」
帳場の帳主が無愛想に問う。帳場天幕の中、周囲には十数名の流れ者たちが立ったまま列を成している。
依頼の掲示板には、“討伐済み未確認”と赤く書き添えられた紙が貼られていた。
「リオネル。身分証は無い。血で示す」
男は袖をまくる。肌の奥に、古い血契の印が赤黒く浮かんでいた。
帳主は眉一つ動かさず、片手をかざす。卓の上に置かれた“記憶映しの灯”が淡く光る。
「……魂照印は反応しないな。身分喪失者だな?」
「そうだ」
「契約の記録は血契写印で行う。拒否するなら他を当たれ」
男は無言で左手の傷を再び見せる。
灯から伸びた光が、その傷の記憶をなぞる。かつて斬り伏せた男の名、剣を抜いた理由、喪失した友の顔――断片が一瞬、幻のように浮かび、消えた。
「……写印、完了。契約成立」
帳主は木札を渡した。裏には赤い蝋封がなされている。
「報酬は討伐後の部位の切り取りと照合後。魂照術非対応国につき現地支払い不可。旅人市に戻った際に受け取れ」
「了解した」
天幕の外に出ると、空にはようやく朝日が顔を覗かせていた。
旅人市のあちこちで露店の準備が進み、仮設の調査所や施療天幕が立ち並んでいる。
ここでは魂照印も身分も通用しない。通じるのは、血の契りと信義――それだけだ。
かつて聖封都市の都市部では、魂照術によってすべてが明示されていた。
名前も、罪も、恩赦も、契約も。
だがこの地にその光は届かない。ここは「照らされぬ魂たち」の市、国家の外縁。
帳場都市。名を持たぬ者、追われた者、名を捨てた者、皆がここに集う。
。
馬車が並ぶ丘へ向かって歩く。次の目的地――セレン峡谷までは、荒野を越えねばならない。
「乗るの? あんたも」
くぐもった声。振り返ると、若い女が座席に荷物を積み込んでいた。
流れ者らしい装い。だがその身の動きには迷いがなかった。
「……セリナ」
「……覚えてたの? ふうん」
彼女は淡く笑ってみせたが、目だけは笑っていなかった。
そして首元の傷跡を、まるで無意識のように隠した。
「ここの依頼、あなたも?」
「化け物退治だ。未確認のままだと、報酬も出ない」
「じゃあ、同じだね。……ついてくる?」
リオネルはうなずいた。セリナが再び目を細める。
「私は“記憶を探してる”だけ。……この首に、あなたの剣の記憶があるはずなのに、思い出せないの。
だから、思い出させて。……あんたの魂が、まだ残ってるうちに」
馬車の車輪が軋み、ゆっくりと荒野へ向けて動き出した。
旅の始まりだった。名を持たぬ者たちによる、記憶と契約と、喪失の旅の。
やがて彼らは知ることになる。
忘れられた名の意味を。
刻みなおすことの重さを。
――そして、絆と矜持だけが、どれほど遠くまで運んでくれるかを。
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セレン峡谷。それは聖封都市南縁の火山帯と、森林王国の狭間にある。大きな峡谷だった。その奥深くに獣が倒れている。
倒れていたのは、依頼に記されていた獣の姿に相違なかった。煤けた灰色の毛並み、口腔の奥で赤熱した牙が残滓のように燻っている。
クロマグレ──帳場の通達にあった“灰口の獣”。その異常な速度と炎吐きの習性は流れ者の中でも注意喚起がなされていた。
「……でも、これはおかしいわね」
セリナが死骸の側にしゃがみ込み、指先で焼け焦げた毛皮と抉れた胴体を観察する。
「火による死じゃないな。致命傷は、噛み千切られた背だ」
リオネルは剣を鞘に戻し、周囲の草地に目を向ける。踏み荒らされた地面。火が入った形跡と、しかし明らかにこの獣のものではない巨大な牙の跡。
「これは……何かに食われた、というより“殺された”痕よ。焼けた跡もこの獣のものじゃない。別の火、しかももっと強い」
セリナの表情が硬くなる。
「……別種の魔物か?」
「ええ。たぶん、モルグレット。喉の奥に火を宿す魔獣よ。焼痕も、咬傷も一致する。しかも、こんな森にいるなんて……」
彼女は少し躊躇ってから言った。
「普通、あれはエルガディアの南縁、火山境域の魔物でしょ?」
「なら、なぜここに……」
リオネルが地図を取り出し、指で現在地を確認する。ここはエルガディアからも外れている。
「誰かが連れてきた、あるいは追いやられた。……どちらにせよ、偶然とは思えないわ」
セリナが立ち上がり、クロマグレの亡骸を見下ろす。
風が抜ける。まだ陽が沈みきらない空の下、鳥の声すらしない。
「問題は、モルグレットがまだ近くにいるってことだな」
「ええ。遭遇すれば戦闘は避けられないし、これまでの帳場契約とは別の危険が伴う。……本来なら、このまま報告して終わりでもいいのよ」
「だが、それで依頼が完了したと言えるのか?」
リオネルが問い返すと、セリナは肩を竦めた。
「契約の条文には“対象魔物の確認または脅威の排除”とある。つまり、この獣が対象なら、確認だけでも成立するのよ。魂照術で報告すれば、報酬は受け取れる」
「……だが、実態は違う」
リオネルは視線を森の奥に向けた。
もし、このモルグレットの存在が周囲の国や旅人にとって新たな脅威になるなら、それはもう依頼の枠を越えている。
「報告手段は……どうする?」
セリナが声を落とす。
魂照印は、彼らには通じない。
身分喪失者にとって、契約と報酬の証は血による写印、すなわち──
「血契写印だ」
リオネルは胸元から掌ほどの木札を取り出す。年月に焼けた古木の札には、帳場の印と彼の名──掠れ、読めない文字が刻まれていた。
裏面には、深紅の封蝋が乾いて貼り付いている。
彼はその封蝋に指を当て、静かになぞる。
じわり、と滲むように熱が走った。彼の中に、契約の記憶と言葉が蘇る。
「……契約の記録は残っている。俺がそれを終えられるかは、この手にかかってる」
そう呟きながら、木札を懐に戻した。
リオネルは土に膝をつき、痕跡を確かめる。蹄──だが二股ではない。四股、しかも後肢が深く沈んでいた。
「追い立てるように斜面へ向かってる。獲物が逃げるときのそれじゃない。“狩人”……」
彼の眼が細められる。「やはり、モルグレットの可能性が高い」
セリナは視線を走らせ、燃えた草と焦げた土の残留魔力を探る。指先に魔力の粒子が集まり、うっすらと痕跡が浮かんだ。
「高熱と強圧。間違いない……魔力を喉奥に集中させて燃やす、モルグレットのもの」
彼女の声に緊張が混じる。「でも、これ……エルガディア領に生息する個体よ。どうして、こんな辺境に……?」
「それを調べる時間はない」
リオネルが立ち上がる。「この先はトレヴァだ。被害が出る前に動くしかない」
セリナが唇を噛みしめた。「……やるのね?」
「ああ。依頼の範囲を超えても構わん」
「ふっ……無茶するわね、元騎士様」
彼は笑わなかった。ただ、剣に手をかけ、背を向けて言う。
「俺はもう騎士じゃない。ただ……契約は果たさなければならない」
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追跡は斜面を越え、森の入り口へと至った。
そこは獣道すら消えた密林の暗がり。木々の静けさと焦げた臭いが風に混じり、戦慄を呼び起こす。 リオネルは剣の鍔に手をかけ、セリナは一歩後ろで指先を震わせる。
ギラリ。
茂みから覗いた金属のような瞳。黒ずんだ毛並み、節くれだった四肢、巨躯を支える異形の筋肉——それが、モルグレットだった。
「やはり……クロマグレを喰ったのは、こいつで間違いないみたいだな」
モルグレットの口元には、まだ血と灰がこびりついていた。
片足を引きずり、頭部の左側が大きく裂けている。これはクロマグレとの戦闘で受けた傷か。負傷により、動きに鈍りがあるのが目に見えてわかる。
リオネルは一歩踏み出す。
セリナの背後、木の陰でささやくように魔力が渦巻いた。だがその声は、意味を持たない囁きでしかない。魔法とは、選ばれし者の言葉なのだ。
リオネルには、それが風の唸りにしか聞こえなかった。
——構わない。俺にできるのは剣を振るうことだけだ。
モルグレットが吠えると同時に跳ねた。だが、その動きは緩慢だ。
リオネルは地を蹴り、影のように回り込む。
「ッ——!」
一瞬の接近。
狙うは傷ついた後足の腱。リオネルの剣が軌跡を描き、腱を裂いた。モルグレットが悲鳴を上げて体勢を崩す。
その隙を逃さず、さらに斬撃。首元近くへ切りつけ、重心を完全に崩す。
そして、タイミングを見計らったように——
「……」
セリナがそっと囁いた。音にもならない詠唱が空気を震わせた。
その言葉は、リオネルにも、誰にもわからない。だが、空気が一瞬、揺れる。
モルグレットの頭部に——雷撃のような衝撃が走った。
焼け焦げた臭いとともに、巨体が倒れる。
モルグレットは動かなくなっていた。
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倒れたモルグレットの巨体は、まだ余熱を帯びていた。焼け焦げた皮膚がひび割れ、内側の筋肉が露出している。
リオネルは剣を収め、足元に転がった黒い残骸を見下ろした。
「……終わり、だな」
「いいえ、まだよ」
セリナが近づき、魔術師特有の細長い探知棒を取り出すと、死骸の腹部をそっと刺した。小さな音とともに、何かが砕けるような反応が返る。
「これ、見て」
セリナは血に汚れた指で、肉の奥から引き抜いたものを掲げた。
それは、黒曜石のような質感を持つ、ひび割れた小片だった。見た目はただの黒い石に見えるが、よく見ると表面に刻印のような模様が浮かんでいる。
「……呪詛の欠片か?」
「うん。しかも、かなり粗い細工。これ、誘導を目的とした符みたい」
セリナが指を鳴らすと、欠片の断面が紫に燐光を帯び、熱の残滓が視覚化される。
「この熱の残り方、“仕込まれた”痕跡があるわ。つまり——」
「モルグレットをここに送り込んだやつがいる、ってことか」
ふたりの間に、沈黙が落ちた。
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セリナは木札を取り出し、その裏に封された赤い封蝋に指を這わせる。
リオネルも腰の袋から同じく木札を取り出し、左手の甲を切って、血を少しにじませる。
「……これでよし」
リオネルが木札に血を滴らせる。木札がほのかな熱を帯びる。
「帳場はこれで受理するでしょう。でも」
セリナは、呪詛の欠片を手のひらに載せてリオネルへ差し出した。
「この欠片は報告には含めない方がいいわ。帳場に渡れば、上に売られる」
「だな。依頼主も、何か知ってた可能性がある」
リオネルは肩をすくめた。「……この先はトレヴァだ、魂照術を拒否する国にエルガディアからモルグレットが来た。どうにも匂う」
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ふたりは焚き火のそばに座り、軽い食事をとりながら推論を交わす。
「この谷――セレン峡谷は、エルガディアとトレヴァの狭間にある。“異端の境”ってやつだ」
「帳場への報告をどう解釈されるかはともかく、この森の先に目的があるとするならば、標的はトレヴァの信仰そのものかもしれない。忘れられた神々にすがる民を、恐怖にさらすために」
セリナは目を細めた。「それって……エルガディアの仕業って言いたいわけ?」
「断定はしない。でも、あいつらにとって、信仰は“統治の道具”だ。魂照術と結びついた神政――身分も祈りも魂に刻まれて管理される。その仕組みから外れる者は、神に見捨てられたものとして扱われる」
「トレヴァは名前と記憶が信頼の根拠になる。魂じゃなくて、生き方や言葉で人を見てる。精霊信仰も含めて、違う形での信仰がある」
セリナは目を伏せ、草の茂みに咲く小さな青い花を指で弾いた。
「……だからこそ、エルガディアにとっては邪魔なのよ。記録されない民、祈りが統一されない地、魂照術が信じられない場所なんて、“信仰の穴”としか見てない」
「俺たち流れ者と同じだな」
セリナは目を上げ、リオネルを見つめた。
「魂に傷を持つ者は、魂の名が神々の目に映ることはない。だから、監視対象になる。……言い換えれば、“この国の外”にいる者は、常に危険視されるってわけだ」
「でも、その外にいる者じゃないと、依頼の裏には踏み込めない」
「.....あなた、まさか」
リオネルは答えなかった。沈黙の中、焚き木の音と木々を渡る風がふたりの髪を揺らす。火に照らされた影はまだ、交わることはなかった。
森林王国帳場《ヴァルム出張局》
帳場の建物は石造りだが、旅人の出入りが多いこの出張局は、常に埃と汗の匂いが漂っていた。リオネルとセリナが入ると、番台の奥に控えていた壮年の記録官が手を止め、顔を上げる。
「……来たか。報告書は?」
「ここに。対象討伐、証拠品と現場記録を添えてある」
リオネルは革綴じの報告書を机上に差し出すと、背から外した包みもそっと置いた。焼却処理済みの魔獣骨、その一部には黒ずんだ呪詛痕が残っていた。
記録官はそれらをちらりと確認し、何かを察したように目を細めた。
「……その欠片は?」
「討伐したモルグレットの体内に在ったものだ」
「モルグレット…?」
リオネルは短く頷いた。
「現場到着時にはクロマグレはモルグレットの手によって息絶えていた……そのモルグレットの侵入経路が不自然だ。火山境域を抜けて峡谷へ入り、森に向かってる。偶発的な遭遇じゃない。何者かが意図的に誘導したと見ていい」
記録官は手を止め、静かに息をついた。
「……つまり、これは“事件”と見なすべきだと?」
「判断は帳場がする。ただ、俺たちは“異常”を報告しに来た」
記録官は目を細め、報告書の裏表紙を軽く叩くように閉じた。
「報酬は既定通り、両名に銀貨十二枚ずつ。帳場格付けも上げておく。ただし――」
声の調子が少し落ちた。
「この件について、詳細は他言無用。報告書は本部経由で“精査”されるだろう。……相手が誰であれ、深入りは禁物だ。お前たちは“流れ者”なんだからな」
セリナがわずかに眉を動かす。
「つまり、“見なかったことにしておけ”って言いたいわけ?」
「言葉を選びたまえよ、流れ者」
記録官の声に棘はなかったが、明確な境界があった。
「我々の帳場は、“契約と成果”だけを見ている。……だが相手が仮に、魂照術提供国の関係者だったとすれば、こちらにも影響が出る。お前たちの魂記録はすでに“境”で管理外だ。盾は、ない」
リオネルは静かに礼をし、紙片を一枚受け取った。
「受領証、確かに。……報告は、これで以上です」
「ご苦労だったな。次の依頼も、身辺には気をつけることだ」
そう言われた瞬間、ほんの一瞬だけ、記録官の目が険しくなった。それが忠告なのか警告なのかは、読み取ることができなかった。
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帳場を出て夕暮れの通りに出ると、セリナが苦笑した。
「ずいぶん気を遣われたわね。私たち、“流れ者”なのに」
「気を遣うってのは、つまり“関わるな”って意味だ」
「依頼は果たした。けど……あの“誘導”が、ただのいたずらなはずない。魂照術が効かない地に魔物を誘導して、トレヴァを荒らす……あの国の信仰を潰す気なら、次がある」
「だから追う。次が起こる前に」
リオネルの言葉に、セリナは黙って頷いた。
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